新京駅






 長春に初めて鉄道駅を作ったのはロシアであった。1899年に清朝との条約により鉄道敷設権を得たロシアは、現在の長春駅の西北にある寛城子の地に停車場を設置し、鉄道付属地内を整備した。しかし、この地は中国人居住地域とはかなり離れており、単なるローカル駅でしかなかった。長春の発展の契機はポーツマス条約であった。日本がロシアから長春−旅順間の鉄道を譲り受けて南満州鉄道株式会社が設立され、旧来の長春城と寛城子のあいだの荒野を買収し、新市街を建設した。
 満鉄は長春を五大停車場の一つとして重視した。長春は最北端の駅であり、日露両勢力が接する場所であった。東清鉄道は満鉄とは異なる軌道を使っていたため、この地で乗客の乗換・貨物の積み替えを行わなければならない。両鉄道の列車は長春駅のプラットホームに並んで停車し、乗客は同じホームで乗り換えた。満鉄から東清鉄道に乗り換える際には時計を26分進める必要があった。東清鉄道の採用した標準時は、満鉄が採用していた西部標準時よりも26分進んでいたからである。これはハルビン標準時と呼ばれ満洲国が標準時を統一するまで用いられ続けた。乗り換え客の便宜のため、長春駅のプラットホームの時計は黒と赤の二色の針があり、一目で双方の時刻がわかるよう配慮されていた。
   この長春駅における微妙な時差には学習院の修学旅行参加者も戸惑ったらしい。

   「はてしない満洲の野に夜は白々と明け離れた。列車はなほも北へ北へと廣野を横切って走ってゐる。おい起きろよ、もうすぐ長春に着くよ。いったい何時だい、六時過ぎだよ。昨晩はよく寝たよ。でも寒かったね。などと云ふ会話がまだ寝むそうにとぎれとぎれ聞こえ始めた。その内に一同の仕度も終り荷物もまとめて七時になると列車は長春驛に着いた。荷物をホームの一箇所にまとめ驛員に頼み、我々は同驛の食堂で簡単な朝食をすました。此處で一時間餘り有るものと思って居たところ東支鉄道の時間は今迄のより三十六分進んで居るので、非常にあわてて大急ぎで二等車内に席を取った。そして間もなく今迄の時間で七時四十五分列車は長春を後にした。」(「満鮮旅行日記」(8月6日/筆者:伊達宗文)『輔仁会雑誌』137 昭和4年11月 268頁)

   36分はおそらく26分の誤りであろう。この記述からは駅構内に食堂があり、乗り換え時間を利用して簡単な食事を済ませることができたこと、乗り換えの際には荷物の積み替えを駅員に任せることができたことなどがわかる。修学旅行生は慌ただしく乗り換えをしているが、30分程度の余裕はあったようだ。なお、1935年に北満鉄道讓渡協定によってソ連が満洲国に鉄道利権を譲渡すると、広軌から標準軌への移行が進められ、大連から特急あじあなどが直通運転するようになる。(*『満洲朝鮮復刻時刻表』)
 





sinkyo_geore_009:新京駅の麗観


 三角形のペディメントを据えた駅舎は市田菊次郎の設計。竣工は1914年。1932年11月1日に長春駅から新京駅に改名される。新京駅は新首都の玄関に相応しい設備を整えるため改修が行われた。この絵葉書には雨除けの庇が見られるが、1932年頃の写真には見られない。貴賓室を設け、待合室を増設した1936年以降の姿である。なお、この駅舎は建て替えのため1992年に取り壊されている。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


sinkyo_geore_044:長春停車場構内大豆貨車積込ノ光景


 駅で貨物列車に大豆を積み込んでいる光景である。満洲では大豆が重要な生産物であり、長春には周辺の農村から大量の大豆が集まった。1920年代末期には満洲が全世界の大豆生産の6割以上を占めるに至る。大豆は単なる食料にはとどまらず、大豆油と搾油後の大豆粕も含めて大きな商品価値を持った。大連に作られた農事試験場では品種改良が進み、中央試験場では大豆の利用方法の研究が行なわれた。生産された大豆は大半が輸出・移出に回され、大連を通じて大豆はドイツをはじめとする欧米へ、大豆粕は有機肥料として日本へ、大豆油は欧米・中国へと輸出されていった。大豆油はマーガリンやせっけんの原料としても重要であった。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)