学習院法学部

政治学科

福元健太郎

 私の研究分野は、計量政治学と数理政治学で、どちらも数字を用いて政治を研究する点では似ていますが、内容は大きく異なります。
 計量政治学は、政治現象を数量データとして計測し、その因果関係を統計分析します。また統計と言っても、単に集計したり平均値や割合を出したりするのではなく、因果関係(例えば「初当選が若いほど当選回数を重ねる」などといった仮説)を明らかにする回帰分析という手法を使います。これによって、ある政策が期待通りの成果を挙げているか否かを確かめることができます。
 数理政治学はこれに対して、全く現実のデータを用いずに、ゲーム理論と空間理論を用いて、いくつかの前提から演繹的に命題を導くという手法によって、政治現象が起きるメカニズムを明らかにします。
 現在の政治学の最先端は、両者をつなぐことに力点が置かれています(Empirical Implications of Theoretical Model、略してEITMと呼ばれます)。

政治学V(計量政治学)
 計量政治学を講義します。実際に学生もパソコンとプログラム(Rという無料統計ソフト)を使い、最終的には実際に自分が関心のあるデータを分析できるようにしています。
政治学W(数理政治学)
 数理政治学を講義します。恋人同士の駆け引き、サークルの運営といった身近なところから、政治家と官僚のせめぎ合い、利益団体の圧力活動、市民の体制支持、果ては国際政治に至るまで、いろいろな政治現象を扱います。
政治学演習(計量政治学ワークショップ)
 政治学Vを履修したことを前提に、政治現象を数量データ化し、統計技術を用いて、科学的に分析する手法を実践します。2009年度は極めて高い水準の(共同)研究を行っています。例えば、選挙と予算や議員活動の関係、談合のメカニズム、世襲議員、交通網の発達と過疎の逆説、などを扱っています。学生のエネルギーを無駄にせず、論文発表という形で社会に還元できることを目指しています。理系のラボのようなスタイルに近づけているところです。
基礎演習T・U
 毎週、広く政治に関わる1冊の本を指定して、その半分を教材として読み、それについて私が出した論題を考えてきてもらい、グループ別討論、全体討論を重ねる中で、考える力、発表する力を養ってもらっています。
特別演習(法と政治)
 法学科と政治学科、双方の教員と学生が一堂に会して、複眼的に検討するという、珍しいスタイルの演習です。私自身の勉強にもなっており、例えば、現在談合について関心を持つようになったきっかけは、この授業で経済法の大久保准教授と一緒に談合を扱ったことでした。
統計・データ処理(FTコース)
 統計に関する基礎を講義します。
政治分析方法論(大学院)
 G.キング、R.O.コヘイン、S.ヴァーバ『社会科学のリサーチ・デザイン定性的研究における科学的推論』(勁草書房、2004年)を中心に、一般的な形で比較の方法について論じた書物を講読します。
統計分析T(大学院)
 内容は統計・データ処理(FT)と重なるので割愛します。

 日本の政治学者は、世界の(より狭くは米国の)政治学に対する発信をあまりしていません。端的に言えば、海外で発行されている学術雑誌に英語で論文を掲載していないということです。このような事態は理系ではありえないでしょうし(ある医学部教授には「英語で論文を書かないなら、それは論文を書いていないのと一緒だ」、別の理学部教授からは「日本語で書くのはサービスだ」と言われました)、文系でも、私の印象では経済学や心理学などは英語で書く人も多いようです。逆に、法学、社会学、文学、史学、教育学などは、やはり日本語論文が圧倒的に多いように見受けられます。
 日本語論文で済む学問分野にあっては、知見の輸入はあっても輸出はないわけで、世界の学問潮流で主導的な役割を果たすことはできません。仮にノーベル賞があっても、(翻訳がある文学賞を除けば)受賞は無理でしょう。こうした仕組みが成り立っていた背景には、大学における就職や昇進が英語論文ではなく日本語論文に基づくという、ある種の保護政策がありました。つまり日本人の間でだけ評価がなされてきたわけです。
 外国研究を日本語で書いても現地の人は理解できないという問題がありますが、日本研究の場合、なまじ日本人の(必ずしも学者に限らない)一般読者を獲得できるだけに、あえて国際社会に向けた発信をしなくても、学問分野として成り立ってしまう点が厄介でした。いわば、日本人(著者)による、日本人(読者)のための、日本の(ことに関する)論文です。特に法学部はロースクール向け教材執筆という内需が創出されました。
 さらには、一般読者向け媒体に、学問的根拠に裏づけられていない言説が流布され、それが権威を持ってしまうという倒錯すら起きえます。しかし、これはサイエンス・ライターにノーベル賞を与えるようなものだと思われます。サイエンス・ライターがノーベル賞受賞者より格下だと言うつもりはありませんが、新たな知見を発見することと、それを一般人向けに分かりやすく解説することは、全く別のことでしょう。国際化の欠如が原因のすべてということではありませんが、国際競争の圧力にさらされていれば、こうした事態はありえないのではないかと私は思います。
 今日の学生はよく「国際的な人間になれ」と促されるでしょうが、私はまず教員である自分自身が国際的にならなくてはいけないと考えています。最初の著書を日本語で出してから、海外での英語による学会報告や学術雑誌への投稿を十年弱続けた挙げ句、ようやく最近になって英語論文が出版されるようになりました。例えば2009年は、英語論文1本、日本語論文1本、海外学会報告4回、国内学会報告4回、国内研究集会4回、といった感じです。現在も数本、英語雑誌に投稿する予定のプロジェクトを抱えており、今後もこうしたスタイルを展開していこうと考えています。
 政治学に限っても、近年では優秀な若い日本人が、海外の大学院(あるいは大学)に留学することが珍しくなくなってきました。十数年ほど前に留学から帰ってきた政治学者が、現在では各地で要職を占めるようになり、海外の流儀が随分ともたらされ、私も影響を受けました。ところが最近は、留学したまま外国の大学で教壇に立つ研究者も増えてきました。各個人として見た場合にはそれぞれよいことなのですが、全体を眺め回すと、日本の大学がこのような頭脳流出を漫然と見過ごしてきたことは残念でなりません。高い学費をかけて海外へ行かずとも、母国にいながらにして世界水準の学問を修めうる環境が望まれます。 (最近考えること(2)は法学部広報誌コラムをご覧ください)