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岩崎 浩 教授
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| ■研究領域 専門領域は一応、M.プルーストを中心とした20世紀小説、ということになります。プルーストとはもう長い付き合いで、フランスの文学史上最長の一人称小説のひとつと言える『失われた時を求めて』の語り手が、名前も、肉体も持たない、純粋な眼差し、というよりも純粋な声にすぎない、というこの奇妙な逆説に興味をひかれ、当時流行していた物語の構造分析や、精神分析などを援用して、『『失われた時を求めて』における「私」の諸問題』という論文を、現在は存在すらしない某大学に提出したのは、四半世紀以上前のことになります。実を言うと、私が『失われた時を求めて』に興味を持った最初の理由は、私の不眠症でした。プルーストの読者の多くを悩ませた、あの冒頭の長い不眠の夜の描写を読んだ時、自分と同じ経験をこの作家もしていたのだ、そしてなによりも、この作家は不眠の体験を、その作品の素材とするのみならず、作品創造の原理にまで高めたのだ、ということに気付き、ある種の共感と感動をおぼえたのです。それ以来、我々凡人も、近寄りがたく思われる偉大な天才たちの持つ属性の、少なくともあるものは知らぬうちに共有しており、したがって我々はこうした偉大な天才たちの一部をなしてすらいるのだ、という考えに、勇気づけられるようになりました。たとえば、私はプルーストのように不眠症であるばかりか、バルザックのように借金づけでもあり、ヴァーグナーのように人妻にしか恋せず、しかしアポリネールのようにまったく女性にもてず、フロイトのように神経症で、またひところはボルヘスのように、白内障で目が見えませんでした。偉大な作品に接する、ということは、こうした不断の自己発見の過程にほかなりません。 |
| ■私の授業 ゼミではここ20年近く、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいます。もう何度読んだのだ、と言われそうですが、実は今年になってやっと『花咲く乙女たちのかげに』の第一部に入ったところです。つまり、主人公たる「私」は、まだ十いくつかの子供で、バルベックに行ってもいないし、アルベルティーヌに恋してもいません。この分では、主人公はいつまでたっても大人にならないではないか、あの「アナロジーの奇跡」の謎も、解き明かされずに終わってしまうではないか、と心配されそうですが、そこがプルーストの有難さ、この書物と言うタイム・マシーンに乗って、主人公とともに、時には主人公に先回りしつつ、ということはかなり無節操なやり方で、様々な時空の旅を続けています。 |
| ■主要論文 Les Problèmes du Je dans la Recherche du Temps perdu de Marcel Proust, パリ第Ⅷ大学 第三課程博士論文、1977年 « Quelques réflexions à propos de Venise dans la Recherche du Temps perdu de Marcel Proust », Etudes de langue et littérature françaises, No 34 「失われた時の情景」、『学習院大学文学部研究年報』、第29、32号 「大理石の女」、『学習院大学文学部研究年報』、第38、40、41、42号 |
| ■主要翻訳 M. バルバリ『彫像の男』(哲学書房、1988年) |
佐伯 隆幸 教授
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| ■略歴 1941年生まれ。駒沢大学外国語部を経て、1988(昭和63)年、教授として、学習院大学文学部フランス文学科に赴任、現在にいたっている。 |
| ■研究領域 研究分野・関心領域、または専攻領域は、大雑把にいえば、近代以降のフランス演劇史、および、実舞台への思考、とりわけ、「演出」(論)を軸としたフランス、ならびに、日本の「現代演劇」の諸動向ということになろう。 著書として、六〇年代後期以降にはじまるこの国の現代演劇、いわゆる「アングラ演劇」を論じた『異化する時間』(刊行は晶文杜)、「六八年五月(革命)以後の演劇」と呼ばれる西欧現代演劇の問題性(プロブレマティック)とその後の系譜にふれた『「20世紀演劇」の精神史一収容所のチェーホフ』(同、晶文杜)、演劇史と現代演劇の接合の基層を語る『最終演劇への誘惑』(勁草書房)、そして、現代演劇のおおもとになる演劇の「記憶」とはどこにあるか、どこに探るべきかをやや反省的に論じた『現代演劇の起源』(れんが書房新杜)や、日録集『記憶の劇場、劇場の記憶』(同)があるから、あまり贅言は要しない、それらを読まれると、中心的に勉強している内容も、関心をもってアプローチしている場も、問題意識の方向も直ちに明瞭になるはずである。 それだけではいかにも不親切だから、若干噛み砕いて説明しよう。といっても、これがいささか複雑である。学問としてに限るまい、演劇を考えることは、なかなか厄介なのである。まして、演劇を構成する主部分がいわゆる「テクスト」から「舞台」へと転位していった歴史ののちに成立している「現代演劇」なるものを考究するのはなおさらのことだろう。端的にいって、「現代演劇」とその位相はとうに、「近代演劇」のようには「テクスト」(昔なら、戯曲文学と呼ばれたものだが)によっては、それを中心軸としては語れないところにあるのであり、ひとまず研究と名のつくものの一環を開陳する大学での講義その他にしろ、大学以外の場所での批評的営み(フランス演劇が専攻ではあっても、演劇が対象になると、どうしたって、この地の演劇も視界に入れざるをえないわけである)にしろ、わたしの視座というか、ポジションは一貫して実際の舞台という生の現象がどう「読める」か、その現象そのものと、それをめぐるさまざまな理論、歴史、記憶、または、演劇が否応なく内包している全領域(精神史、イデオロギー、社会学、劇場論、俳優の場所、身体論的境域、エトセトラ)との関係性、多くの場合、分節化しにくい、言語化しがたい空間の掘り起こしとの相互作業に力点がある。演劇はいつもあらゆる雑多なものを含むと同時に、実際には眼の前のある舞台にしかその同時代はないという、いわばその隘路で「演劇」なるプロブレマティックを立てること。わたし自身は演出家でも、セノグラフでも、まして、俳優でもないから、最終的には一定の「言説」化に向かうわけだが、そこでは、考えることも、言説化することも、演出や演ずることやセノグラフィの意味するものを存分に組み入れつつ、それらを「読み」ながら、そうすることで、舞台という芸術に寄与する実践の学、ないし、批評的な行為である。そうでないような演劇「学」にはわたしはあまり興味がない(むろん、フランス文学が枠組である以上、フランス語のテクストが読めなければどうしようもないし、テクスト解読がまずは関門になるわけで、わたし自身、書斎で静かにだれかのテクスト原文をひも解いたり、味読するのは嫌いではないが、その孤独な営為だけでは「現代の演劇」考察にならない。演劇は、さっきもいったが、この点が厄介といえば厄介。観ることも、読むこともみな、集団を想定した、それ自体が集団的な営みなのであり、その回路をもたねばならない)。 そして、その仮想の集団性のなかでは、書かれるべき言説は、それが依って立つ根拠、ないし、コンテクストがたえず問われる。それをも呼びこんで、言説化はなされなければならないということになるのである。ひるがえっていうと、芝居を観、または、演劇をめぐって考える、書く・語るとは、いまや「演劇」なるものの根拠を問い、それを生成することにほかならない。自分だったら、いかなる「舞台」をつくるかという仮構の行為の言説化である。大学で研究と仮に呼ばれるものはそのための材料の蓄積過程のひとつ、トバロのようなものである。テクストのみならず、現にある舞台をどう複合的に面白く(面白くとはもちろん、芸能的なギャグのように、瞬時に消費されるような、ただ笑えるということではない)「読む」か、それを「読む」レフェランスをどう多元的に発見するか、そこでどのような「演劇」の像をつくるかの材料の蓄積である。ある場合には、それは演劇史の解釈になるだろうし、別の場合には、精神史そのものの再構成になるだろう。しかも、そのレフェランスは先人によってつくられ、一定程度既成、もしくは、可視的ではあるだろうが、演劇の像が大きく揺れた(それは別に演劇に限らない、知の領域総体だったことはいうまでもないが、演劇はなかんずく大きく変貌した)二〇世紀後半以降においてはただその既知事項に依拠し、鵜呑みにすれぱよいというわけにはいかない、そこから、真実レフェランスになりうるものを自分で組み立てることもしばしば必要とするのである。 つまり、その探査の旅、加えて、演劇を語ることの脈絡そのものの組成がわたしの専攻する領域の核心ということになろうか。たとえば演劇史なら、通史を丁寧に迫りつつ、それがいまどう機能しうるか、どのように成立可能か、その書き替えは可能かといったこと、いってみれば歴史(演劇史〕の「読み」直しを試みること。講義等で日頃語っている演劇を通した精神史についての言述も、現代演劇の位相や歴史のなかの舞台への眼もそうした関心のなかで出てくる事象なのである。ところで、だとすると、「演劇」なるものが内包し、かつまた、それが周辺に抱えるいっさい一その未成の文脈までも一に関心をふり向けざるをえないわけだから、わかりやすく演劇史とか現代演劇とかと一応区分けはするものの、実際には、仮にそれをわたしの研究領域と呼ぶとすれば、それはかなりとめどない仮説づくりの過程なのであり、簡単に区分けして、提示できるものではないことも、ついでにいっておかねばならない。 むしろ、いや、だからこそというべきなのか、演劇なるジャンルの総体、それがもちうるさまざまな貌を極力「快楽的に」語りながら(事実、これはきわめて面白いことなのである)、舞台とそれをめぐる言説をたえず「危機」のうちに置いてみようとするところに現代演劇研究者の眼や思考の根底はあるのであり、その二重の操作を通した語り=言説化の作業をわたしは自分なりに持続しているわけである。研究が批評で、批評がもうひとつの研究となり、それらが複合して歴史(演劇史)の「記憶」を召喚し、新らたなる舞台のレフェランスとなりうる、そうした交錯の地平にしか現代の舞台とその「読み」、「演劇」なるものの地平はないのである。なにやら難しげないい方になったが、要は、わたしが講義などでやっているのは、こうした問題の地平へと、フランス演劇をさしあたりの経路にしながら、道案内をするということである。 |
中条 省平 教授
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| ■略歴 1954年生まれ。 1981年、学習院大学フランス文学科卒業。 1984-88年、フランス政府給費留学生としてパリに滞在。 1987年、パリ第十大学第三期文学博士号取得。 1988年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得修了。 1988年、学習院大学文学部フランス文学科専任講師となる。 現在、学習院大学文学部フランス語圏文化学科教授。 |
| ■研究領域 私の研究分野は19世紀のフランス小説です。3年半ほど留学したパリ大学では、バルベーという残酷とエロスで有名な(!)カトリックの小説家を取りあげて博士論文を書きました。その成果は下に挙げた本①にまとめました。また、この人の代表作で、歴史に残る「ファム・ファタル(魔性の女)」ものの傑作といわれる短篇集も翻訳しました②。 フランス文化は、BD(マンガ)やフレンチ・ポップスに至るまで興味があります。とくに映画は(フランスものに限らず)大好きです。下にあげた新書③は、フランス映画の入門書として若い読者を想定して書きおろしたものです。2010年に、この映画史を補う実践的ガイドブック④が出ました。 色々なことに興味があり、種々雑多な分野に関する本や翻訳を出しています。日本のマンガについて⑤、ジャズについて⑥⑦、日本文学について⑧、等々です。 ①『最後のロマン主義者―バルベー・ドールヴィイの小説宇宙』(中央公論社) ②バルベー・ドールヴィイ『悪魔のような女たち』(ちくま文庫) ③『フランス映画史の誘惑』(集英社新書) ④『決定版!フランス映画200選』(清流出版) ⑤『読んでから死ね!―現代必読マンガ101』(文藝春秋) ⑥『ただしいジャズ入門』(春風社) ⑦ローラン・キュニー『ギル・エヴァンス音楽的生涯』(径書房) ⑧『反=近代文学史』(文藝春秋) |
| ■私の授業 私は自分の研究の専門分野をゼミの学生におしつけるつもりはありません。もちろん、専門の19世紀フランス小説は自分がよく知っている分野ですから、学生にきめ細かな知識を伝授することができます。これまでも自分が研究しているバルベー・ドールヴィイの小説をゼミの題材にとりあげたことがあり、幸いにも好評を博しました。 しかし、極端なことをいえば、題材は何でもかまわないのです。学生が興味をもてるフランス語のテクストでありさえすれば、雑誌の記事でも、映画のシナリオでも、マンガのせりふでも、教材になります。ゼミの重要な目的は、フランス語を使うためのテクニックを磨くことにあるからです。 言葉は知識や教養ではありません。知識や教養を得るための道具です。今ふうにいうならば、自分に必要な情報を獲得するための最も強力なツールなのです。ツールは使えなければ意味がありません。ですから、私のゼミでは、フランス語のテクストを教材にしながら、テクストの内容だけでなく、外国語を情報獲得のツールとして使いこなす方法を学んでいきます。 その後、フランス語という言葉を駆使して、ほかの人とは違った価値ある情報を手にできるかどうかは、あなたがたの意欲にかかっています。意欲とは、自分のやりたいことが分かっているということです。自分が何をやりたいかを発見することは、ほかの誰にも手伝うことはできないのです。 |
| ■主要著作 Pulsions du roman : le cas Barbey d'Aurevilly(学習院大学、1988年) 『最後のロマン主義者――バルベー・ドールヴィイの小説宇宙』(中央公論社、1992年) 『映画作家論――リヴェットからホークスまで』(平凡社、1994年) 『小説家になる!』(メタローグ、1995年。『小説の解剖学』と改題、ちくま文庫、2002年) 『小説家になる!2』(メタローグ、2001年。『小説家になる!』と改題、ちくま文庫、2006年) 『文章読本――文豪に学ぶテクニック講座』(朝日新聞社、2000年。中公文庫、2003年) 『クリント・イーストウッド――アメリカ映画史を再生する男』(朝日新聞社、2001年。ちくま文 庫、2007年) 『反=近代文学史』(文藝春秋、2002年。中公文庫、2007年) 『フランス映画史の誘惑』(集英社新書、2003年) 『中条省平の秘かな愉しみ』(清流出版、2003年) 『読んでから死ね!――現代必読マンガ101 』(文藝春秋、2003年) 『名刀中条スパパパパン!!!』(春風社、2003年) 『中条省平は二度死ぬ!』(清流出版、2004年) 『三島由紀夫が死んだ日』(編著、実業之日本社、2005年) 『続・三島由紀夫が死んだ日』(編著、実業之日本社、2005年) 『ただしいジャズ入門』(春風社、2005年) 『天才バカボン家族論 「パパの品格」なんていらないのだ! 』(講談社、2008年) 『決定版!フランス映画200選』(清流出版、2010年) |
| ■主要翻訳 ペナック『人喰い鬼のお愉しみ』(白水社、1995年。白水uブックス、2000年) ボバン『いと低きもの』(平凡社、1995年) オフマルシェ『ドゥマゴ物語』(Bunkamura,1995年) マンディアルグ『すべては消えゆく』(白水社、1996年。白水uブックス、2002年) キュニー『ギル・エヴァンス音楽的生涯』(径書房、1996年) マンシェット『眠りなき狙撃者』(学研、1997年) グルニエ『フィッツジェラルドの午前三時』(白水社、1999年) バルベー・ドールヴィイ『悪魔のような女たち』(ちくま文庫、2005年) ブランケ『幸福の花束』(パロル舎、2005年) バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』(光文社古典新訳文庫、2006年) プルースト/ウエ『失われた時を求めて フランスコミック版第1巻 コンブレー』(白夜書 房、 2007 年) ラディゲ『肉体の悪魔』(光文社古典新訳文庫、 2008 年) プルースト/ウエ『失われた時を求めて フランスコミック版第2巻 花咲く乙女たちのかげ に・1 海辺への旅』(白夜書房、 2008 年) マンシェット『愚者が出てくる、城寨が見える』 (光文社古典新訳文庫、2009年) |
| ■共訳 ラングラード『D・G・ロセッティ』(山崎庸一郎と共訳、みすず書房、1990年) コスタンティーニ『フェリーニ・オン・フェリーニ』(中条志穂と共訳、キネマ旬報社、1997年) ロンドー『アレクサンドリア』(中条志穂と共訳、Bunkamura,1999年) フィエロ『パリ歴史事典』(中条志穂ほかと共訳、白水社、2000年) フロマン『ロベルト・スッコ』(中条志穂と共訳、太田出版、2002年) コクトー『恐るべき子供たち』(中条志穂と共訳、光文社古典新訳文庫、2007年) |
野村 正人 教授
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| ■研究領域 わたしが現在とくに力を入れて研究しているのは、19世紀の文学と視覚メディアの関係です。19世紀になると、産業社会に突入したフランスでは、技術の発達、教育への関心、余暇の増大などによって、ブルジョワを中心とする一般の人々を対象としたさまざまな視覚文化が発展しました。挿絵本、諷刺画、現代のバーチャルリアリティに似たパノラマ館、幻灯、写真、そして世紀末に生まれた映画と、現代に通じるメディアが続々と姿を現したのです。中でも、新聞や書物などの印刷物が、版画などの視覚的なメディアを重視するようになって、広く一般の人々にも親しみやすいものになりました。 わたしはこれらのメディアのうちで特に、挿絵本と、政治・社会風俗を描いた諷刺版画に関心を持ち、それを研究しています。挿絵本には、文学など作品のテクストとイラストのイメージが共存しているわけですが、そのふたつの緊張関係がどのような新たな効果や意味を文学の場に生み出したかを明らかにしたいと考えています。また諷刺画では、そこに描かれたものの要素を、政治、社会風俗の歴史を参照しながら解読しています。19世紀に注目されるようになったテクストとイメージの動的な相互関係は、現代の文化を読み解くための鍵でもあるのです。 |
| ■私の授業 わたしの授業は大きく二種類に分かれます。ひとつはフランス文学科の学生にフランス語の基礎を教えること。もうひとつは専門分野の授業です。現在教えている2年生向けの「基礎演習」(週に2回)では、1年ですでに学んだ基礎的な文法を確かなものにして、3,4年次の研究に使う文学的なテクストなどを読めるようにするのが目的です。比較的やさしい作品を読みながら、平行して、そこに出てくる重要な文法事項を復習したり、関連する例文を使って、文法や表現をしっかり身につけます。また、重要な表現を使ったフレーズをMP3プレイヤーなどを入れて利用し、読み、書き、聴く能力を高める実験的授業もしています。 もうひとつの専門の授業では、3,4年ゼミでイラストレーションの歴史をフランス語で読んで、18世紀以来の文学とイラストレーションとの関係を教えています。また卒業演習という4年生向けの授業では、19世紀の文学・芸術とサーカス、道化といったサブ・カルチャーがどのような関係にあったのかを講義しています。ただ単にフランス語の文章を日本語に訳して終わりなのではなく、そこを出発点として、フランスの社会や文化のありさまに関心を広げていくことが授業の大きな目的となります。 |
原田 佳彦 教授
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| ■研究領域 フランス古典主義の形成期からその完成へといたる17世紀のフランス文学・哲学に関心をもっています。主としてデカルトとパスカルを,デカルト的近代とパスカル的現代という視点で読み解いてみたいと考えています。なおまた、二つの世界大戦後の、現代フランス思想(いわゆる構造主義、ポスト構造主義の思想家たち)に同時代の人間として多大な影響を受けました。 |
| ■主要翻訳 エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限』(朝日出版社、1985年) エマニュエル・レヴィナス『時間と他者』(法政大学出版局、1986年) ジル・ドゥルーズ『原子と分身』(共訳・哲学書房、1986年) モーリス・デュピュイ『ドイツ哲学史』(白水社、1987年) アンリ・グイエ『人間デカルト』(共訳・白水社、1988年) ジャン=フランソワ・リオタール『知識人の終焉』(共訳・法政大学出版局、1988年) シモーヌ・ヴェーユ『カイエ』1(共訳・みすず書房、1992年) エドゥアール・サンス『ショーペンハウワー』(白水社、1994年) ルネ・ザバタ『ロシア・ソヴィエト哲学史』(白水社、1997年) |
| ■近年の主要講義・演習 3・4年ゼミナール アルベール・カミュ研究 3・4年ゼミナール シモーヌ・ヴェイユ研究 3・4年ゼミナール パスカル『パンセ』講読 3・4年ゼミナール デカルト『方法序説』講読 |
| ■授業の方針 フランス語の発音と文法を正確に学んだうえで、フランス語のテクストをできる限り厳密に読むこと。つまり、フランス語の文章を音読し、辞書を引き、文章構造を調べる、といった地道な作業を重ねたのちに、さらに当該テクストの理解・解釈へ進みたい、と願っています。 |
ティエリ・マレ 教授
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| ■略歴 多くの生きているものと同じように、私も生まれてはみましたが、すべての人がアミアンで生まれたというわけではなく、アミアンで生まれたすべての人が1957年の10月3日に生まれたというわけでもありません。 私は初等教育と中等教育の大体はリヨンで修了し、1975年に大学入学資格を得ました。リヨンのリセ・ド・パルクでの高等師範学校準備学級一年次と二年次を修了した後、ユルム街の高等師範学校に入学し(1977年度入学生)、1981年まで学生でした。1987年には古典文学の学士号を取得、1980年には古典文学の修士号を取得(ロベール・モジーの指導のもと、「ポール・クローデルの戯曲作品におけるト書き」について)しました。1980年には高等教育教授資格の試験に合格しましたが、フランス文学においてです。1981年にはベルナール・ドルトの指導で博士課程専門研究課程の論文を作成しました。この論文は、「20世紀フランス演劇における日本演劇の影響」についての博士論文の第一歩というわけでしたが、博士論文は完成しませんでした。 次いで私はダブリンのトリニティー・カレッジのフランス語講師をしました。セーヌ・マリティーム県の高校でも一年間フランス文学の教師を勤めました。 1987年に学習院大学フランス文学科の招聘で来日し、そこで現在教授であり年老いつつある、または年老いました。私の人生の要約はここまでで充分と言っておきましょう。 |
| ■研究業績 論文 1979年 Théâtre/Public、 21、パリ:「彼らはパティオに座っていた」 1986年 朝日出版、『白井健三郎記念論文集』、東京:「演劇的反復」 1987年 『学習院大学文学部研究年報』33、東京:「Icareのvolについて」 1988年 Seuil 社、Poétique、76 号、パリ:「漫画においてどのように時間が流れているか」 1989年 岩波書店、『文学』57 、東京:「言葉の劇」(後平 隆訳) 1989年 りんせん書房、Equinoxe、4号、京都:「善人、悪人」 1995年 青土社、『ユリイカ』7、東京:「言葉遊び、同時代ゲーム」(原田 佳彦訳) 1995年 『学習院大学文学部研究年報』42、東京:「Art」という間に 1996年 『現代詩手帳』7、東京:「メショニックにおける価値と体系」(堀内 ゆかり訳) 1998年 『学習院大学文学部研究年報』45、東京:「ダヴィデとフランソワ―クレマン・マロ による『三十詩編』の献辞について」 2000年 みすず書房、『友情の微笑み 山崎庸一郎古希記念』、東京:「ペトラルカを訳す マロ」 2001年 東京日仏会館、『恵比寿』特別号25、東京:「文字通り詩法」 対談 1995年『ユリイカ』12号、ドゥニ・ロッシュと対談(水野 雅司訳)『『テルケル』・文学・写真』 1996年『ユリイカ』7号、ジャック・ルボーと対談(堀内ゆかり訳)『存在しないと言わなけ ればならないものがある』 1997年『ユリイカ』8号、フロランス・ドゥレーと対談(堀内ゆかり訳) 2001年『ユリイカ』1号、ピエール・アルフェリ、アニエス・ディッソンと対談(大野麻奈子 訳)『世界の物体は言葉である』 フィクション 小説:「聖なる時間」ガリマール 1991年 短編小説:「愛の汚いおてて」ガリマール、NRF、1991年2月 小説:「地獄での出会い」ガリマール 1992年 小説:「愛、遥かなる」ガリマール 1994年 短編:「お釈迦さんのご善行」文学誌ケー・ヴォルテール12号、1994年秋 短編:「私国趣味について」高等師範卒業生時報、2001年9月 翻訳 1991年 フィリップ・ピキエ社 大岡昇平「武蔵野夫人」 1996年 日本ペン・クラブ「今日の日本文学」第21号、清原康正「1995年の日本文学展 望ー逃避の文学」 1996年 日本ペン・クラブ「今日の日本文学」第21号 川村湊『稲葉真弓の「声の娼婦」』 1996年 日本ペン・クラブ「今日の日本文学」第21号 吉原幸子「愛の後の季節」 1997年 日本ペン・クラブ「今日の日本文学」第22号 菅野昭正「1996年の日本文学展 望(第一部)」 1997年 日本ペン・クラブ「今日の日本文学」第22号 佐江衆一「一会の雪」 1997年 日本ペン・クラブ「今日の日本文学」第22号 伊藤和彦「海号の歌」 1998年 日本ペン・クラブ「今日の日本文学」第23号 山田詠美 「4U」 教育 1989年 『フランス座の秘密』白水社(水野綾子と共著) 1993年4月―1994年3月 白水社『ふらんす』掲載 「右往左往のフランス語」 (梅平昌司、梅平節子と共同) 共著 2001年 『フランス成句の宝庫―成句に見るフランス文明』総合法令出版 (篠沢秀夫と共著) |
吉田 加南子 教授
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| ■研究領域 詩を中心としたフランス現代文学を専攻しています。詩だけではなくデュラスなどの小説にも関心があるので、こういう言い方をしているのですが… 第二次世界大戦後に活動を始めた詩人たちは、まだ少年だった戦争中の経験を人間の存在の深いところで受けとめ、詩を、絶望を希望に、苦しみを愛へと転化する場として生き、大きな世界をひらきました。なかでも抜きん出た存在であるデュブーシェ、またデュパンなどの世代の詩が、私の関心・研究の中心です。そしてフランス(語)の詩が、この大きな成果に至るまでの詩の中でも、彼らに影響を与えている19世紀のランボーなどの詩人に、そしてまたデュブーシェの世代以降の詩の展開へと、関心が広がっています。 著作に『詩のトポス』、『言葉の向こうから』、『幸福論』、翻訳に『デュブーシェ詩集』、デュラス『アガタ』、サガン『サラ・ベルナール』、『フランス詩大系』(共訳)など。詩集に『定本 闇』(高見順賞)、『吉田加南子詩集』など。 |
| ■私の授業 上記デュブーシェ、デュパン、ランボーなどの他に、年度によって、ヴィニー、ルヴェルディ、シュペルヴィエル、シャールなど、19世紀、20世紀の重要な詩人の作品を読み、並行して、フランスの詩史の流れ、またそうした詩人たちの日本の近代現代文学との関わりをその媒介である翻訳という仕事も含めて勉強しています。 |
大野 麻奈子 准教授
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| ■研究領域 現在私が研究している作家サミュエル・ベケットの戯曲作家『ゴドーを待ちながら』は、舞台上で「何も起こらない」ということで初演当時にスキャンダルを巻き起こしました。実はこの作家の小説についてもやはり、「何も起こらない」と言えます。でも、どちらの場合においても「何も」というのは、伝統的な西洋演劇あるいは小説において期待されていることが「何も」起こらない、ということなのです。それでは、期待されてはいないけれどそこで実際に起こって、人の心を揺さぶっているものは何なのか。私の興味はそこにあります。具体的には、戯曲作品における「小説」性、小説作品における演劇性、ということを中心に研究しています。 以前は、日本では『レ・ミゼラブル』の作者として知られているヴィクトル・ユゴーを研究していました。ユゴーからベケットへ、という変化は大きな転換に見えると思いますが、たとえば戯曲に関しては、従来の枠組みから脱け出すような作品を創ろうとしていた点において共通しています。また、作品のタイプも量もまったく異なりますが、二人とも詩・小説・戯曲と多岐にわたったジャンルで活躍し、上演可能と不可能のぎりぎりの境界線上にあるような作品を創ったのです。こうしてみると、私が惹かれるのは、従来の思い込みを揺るがすような芸術作品とそのダイナミズム、とまとめることができるかもしれません。いずれにしても、テクストを読む楽しさだけでなく、実際の舞台を見に行くという楽しさも皆さんと分かち合いたいと思っています。 |
| ■主な業績 ・2001年12月 共著:Victor Hugo et la Bible(「新・新約聖書としての『レ・ミゼラブル』 」) Maisonneuve et Laroseより平成13年12月出版。 pp.29-70の« Les Misérables, un nouveau Nouveau Testament » が、パリ第8大学に1997年に提出したDEA論文を短く編集したもの。同書の前半は、指導教授Henri Meschonnic による論文。小さいながらも本という形にDEA論文をすることができたことができて嬉しかったのですが、いまだに不思議な感じです。 ・2004年 « Voir ou ne pas voir » (「見るべきか、見ざるべきか」)in Fortunes de Victor Hugo, Maisonneuve et Larose. 2002年 11月 2日に東京日仏会館で開催された国際シンポジウムFortunes de Victor Hugo 「ヴィクトル・ユゴーの運命」にて発表した論文。 ・2006年
« Le roman du théâtre : La dernière bande et le "reste" didascalique » in Samuel Beckett Today / Aujourd'hui, Présence de Samuel Beckett. Presence of Samuel Beckett. Colloque de Cerisy, Rodopi, Amsterdam- New York, 2006, p.351-363. ・2008年
« Actes sans paroles, paroles sans scène » in Samuel Beckett Today / Aujourd'hui, Borderless Beckett. Beckett sans frontières. Tokyo 2006, Rodopi, Amsterdam- New York, 2008, p.403-412. |
| ■最近の活動 2006年はサミュエル・ベケットの生誕100年目だったので、早稲田大学21世紀COE 主催による国際シンポジウムBorderless Beckett (http://beckettjapan.org/borderless-j.htm)(9月29,30、10月1日)に、実行委員のメンバーとして参加しました。大規模なシンポジウムだったので、1年以上前から準備に参加したことは私にとって貴重な体験でした。シンポジウムそのものでは発表のほかに司会もしたのですが、自分の発表も含めて、 まだまだスタミナ不足だと実感しました。 |
高橋 晃 助教
| ■研究領域 フランス・ロマン主義時代の詩人、アルフレッド・ド・ヴィニーの詩と宗教的思想について考えています。またフランスの風土であるキリスト教的精神が文学および芸術にどのように表れるのか、この点に強い関心を持っています。 |









