教員紹介

家永教授

家永 遵嗣 教授
IENAGA, Junji
日本中世史

■略歴

 1957 年 千葉県に生まれる
 1976 年 岡山県立岡山朝日高等学校卒業
 1982 年 東京大学文学部国史学科卒業
 1982 年 共同石油株式会社仕入部勤務(〜1983年)
 1988 年 東京大学大学院人文科学研究科国史学専攻修士課程
                修了(文学修士)
 1993 年 東京大学大学院人文科学研究科国史学専攻博士課程
                単位取得退学
                東京大学助手(文学部)
 1995 年 成城大学短期大学部助教授(教養科)
 1999 年 学習院大学文学部助教授
 2006 年 学習院大学文学部教授

■研究テーマ・分野

 室町幕府の歴史を中心として、中世後期の政治史を研究しています。重点を置いている課題は、室町将軍の親裁とそれを支える機構、将軍固有の政治的権能およびその影響です。研究の方向性はふたつあります。ひとつは、寺社・本所などの広義の公家勢力と、地頭・荘官などの地方武士、言い換えれば広義の武士勢力との対立を将軍・守護の担っている紛争調停権力との関係から捉えることです。いまひとつは、列島諸地域の統合、とりわけ京都幕府と鎌倉府との対立・協調の枠組みから室町幕府・室町将軍をとらえることです。
 室町幕府が御成敗式目などの鎌倉幕府法を継承・発展させた権力であることはよく知られています。もっとも、執権・連署・評定衆・引付衆など鎌倉時代に裁判制度の中核をなした合議機関に替わって、室町時代には将軍自身〔鎌倉府では鎌倉公方〕が裁判の実権を掌握するようになります。このように、合議に替わってある種の独裁が幅をきかせるようになるという現象は、幕府の支配について社会全体から同意を得るという点では矛盾をはらんでいます。このようなありかたは、むしろ政治体制を全体として不安定にしたのではないか、それが室町時代の政治史を全体として不安定にした原因ではないかという疑念が古くからもたれてきました。
 もっとも、最近は問題を捉える感覚に変化が生じています。裁判制度が社会に占める位置がはっきりしてきた鎌倉後期以来、いったん下された判決が必ずしも実現・定着しないという現実の方が社会的に問題とされるようになっており、このために被告側の言い分を尊重することはひとまずさしおいて、原告側の権利を保護することに社会的な関心が移っていたと考えるようになっているのが研究の現状です。室町将軍権力とは、このような潮流に棹さして、所領支配を脅かされる原告〔多くの場合は寺社本所などの荘園領主〕の権利を、多くの場合は守護を介しておこなわれる「使節遵行」によって庇護する権力として形成されたと考えるのが私の立場です。
 もちろん、諸国の武士が多く守護の被官になってゆく傾向があるので、守護が将軍の命令を実現しようとしても従者である地方武士たちによって結果的にその実現が阻まれることは少なくありません。このことは、むしろ、諸国の武士が守護に被官化する傾向の意味を考え直す必要を示していると考えています。武士たちが守護の被官となる現象は、将軍と守護との命令関係という制度設定、これを介して自分たちに押しつけられる寺社本所の利害ということに対抗する動き、守護権力の内部に食い込んで自らの利害を守る動きとみるのが妥当だろうと考えています。
 この時代の支配層は、将軍権力の庇護を受ける寺社本所と守護権力に結集する諸国武士という二大勢力に整理されてゆくわけですが、将軍と寺社本所勢力との結合に関わる仕組みは、これまであまり明らかになってはいませんでした。将軍の側近に侍して訴えの取り次ぎにあたる武士は「申次」という機構に組織されていました。朝廷と幕府との交渉には「武家執奏」と呼ばれた公家の西園寺氏や一般に「伝奏」と呼ばれている公家衆があたっていました。これらの機構に関わって、公武関係〔本所・国司と地頭荘官との交渉を基底としてそれぞれの上位に立つ権力同士の交渉全般を含む関係〕や朝幕関係〔公武関係のうち朝廷と幕府との交渉局面〕という全体構造が存在します。これらが室町将軍権力の位置づけを考える際の第一の問題群と考えています。
 もうひとつ、室町幕府体制の定義に関わる大きな問題として、それがいつ終わったのかという問題が存在しています。応仁の乱を「幕府体制の崩壊」と見る立場と、織田信長による足利義昭の追放を「室町幕府の終焉」と見る立場のふたつです。言うまでもなく、これは室町幕府「体制」の定義次第で変化する問題なのですが、まだ充分に考え抜かれてはいないことなのです。
 見逃されている問題として、「室町幕府」のなかに鎌倉府を含めて考えるのか、鎌倉府を守護と同じ位相に置いて将軍権力の外部に従属して存在すると位置づけるのかという問題があります。鎌倉時代、関東の武家権力と京都の公家権力との対抗関係は列島全域の政治状況を規定する決定的な問題でした。しかしながら、室町時代においては関東の政治権力にそれほど大きな意味づけが認められてきたとは言えません。とはいえ、14世紀半ば以降、鎌倉府の支配圏が一種の独立国のような様相を呈するようになっていったことはよく知られています。鎌倉府が自立化の指向を強めていった結果、南朝勢力の衰退後、京都幕府と鎌倉府との対抗関係は列島全域を束ねる志向を有する権力にとって、純軍事的観点という限られた側面からだけ見ても、最大の課題として存在し続けてゆくことになります。これを「都鄙関係」と呼んでいますが、この「都鄙関係」をどのようにつくるのかという問題は、京都幕府・鎌倉府のいずれの場合でも、首長である公方の意思と深い関係を持つ、政治的意思決定の中でも最高水準の課題であり続けました。
 観応擾乱後に足利尊氏が子息義詮・基氏を京都と鎌倉に配置したあと、義詮流京都公方と基氏流鎌倉公方との関係は代を重ねるに随って次第に疎隔してゆきます。両者の対立が深刻化するのは足利義持の時代からですが、このなかで京都幕府は鎌倉公方の地位から基氏流足利氏を排除して「都鄙関係」を再設定しようとする動きを示すようになります。足利義持は基氏流の庶子である篠川公方足利満直の鎌倉公方への起用を考えますが、足利義教以降は、基氏流をまったく排除して義教の子の一人を京都から鎌倉に送り込み鎌倉府を再設定しようとする戦略が指向されます。応仁の乱の影響もあってこの戦略が崩壊すると、京都の公方も鎌倉〔実際は古河〕の公方も、「都鄙関係」を列島全域の統治体系の軸として再設定することを放棄することになります。
 このようにみると、「都鄙関係」を「幕府体制」内部の問題と考えるのか、「幕府体制」外部の問題と考えるのかということは、精密に吟味する価値のある問題だということになります。将軍足利義尚の「申次」であった北条早雲〔伊勢盛時〕が堀越公方府の勢力圏を出発点として戦国大名化する事実も、この延長線上に位置付く問題です。これが第二の問題群だと考えています。

■主要業績

【著書】
1995 年 『東京大学日本史学研究叢書1 室町幕府将軍権力の研究』東京大学大学院人文科学研究科国史学研究室
 
【主な執筆分担】
1996 年 『角川新版日本史辞典』分担執筆、角川書店
1997 年 『静岡県史 通史編2中世』分担執筆、静岡県
2006 年 『戦国人名辞典』分担執筆、吉川弘文館
 
【主要論文】
1992 年 「足利義詮における将軍親裁の基盤−「賦」の担い手を中心に−」 石井進編『中世の法と政治』吉川弘文館
1994 年 「堀越公方府滅亡の再検討」『戦国史研究』第27号
1995 年 「足利義満と伝奏との関係の再検討」『古文書研究』第41・42合併号
1996 年 「明応二年の政変と北条早雲の人脈」『成城大学短期大学部紀要』第27号(『日本史学年次別論文集 中世1 1996年』学術文献刊行会、1999に再録)
1997年 「将軍権力と大名との関係を見る視点」『歴史評論』第572号
1998 年 「伊勢宗瑞(北条早雲)の出自について」『成城大学短期大学部紀要』第29号 (黒田基樹編『シリーズ中世関東武士の研究 伊勢宗瑞』戎光祥出版、2013に再録)
1999 年

「北条早雲の伊豆征服」『伊豆の郷土研究』第24集(『日本史学年次別論文集 中世1 1999年』学術文献刊行会、2002に再録)(黒田基樹編『シリーズ中世関東武士の研究 伊勢宗瑞』戎光祥出版、2013に再録)

  「三魔−足利義政初期における将軍近臣の動向−」『日本歴史』第616号
2000 年 「北条早雲研究の最前線」 北条早雲史跡活用研究会刊『奔る雲のごとく 今よみがえる北条早雲』
  「伊勢盛時(宗瑞)の父盛定について」『学習院史学』第38号
  「足利義材の北陸滞在の影響」『加能史料 会報』第12号(加能史料編纂会編『加賀・能登 歴史の扉』石川史書刊行会、2007に再録 )
2001 年 「軍記『応仁記』と応仁の乱」 学習院大学文学部史学科編『歴史遊学』山川出版社
2004 年 「北陸地方における戦国状況の形成」 石川県地域史研究振興会『加能史料研究』第16号
2008 年 「室町幕府の成立」『学習院大学研究年報』第53号
2009年 「足利義満・義持と崇賢門院」『歴史学研究』第852号
  「足利政知と伊豆金山」『戦国史研究』第58号
2010年 「建武政権と室町幕府との連続と不連続」『九州史学』第154号
  「今川氏親の名乗りと足利政知」『戦国史研究』第59号
  「細川政元の生母桂昌了久」『日本歴史』第742号
  「一五世紀の室町幕府と日本列島の『辺境』」 鐘江宏之・鶴間和幸編『東アジア海をめぐる交流の歴史的展開』東方書店
2011年 「応仁2年の『都鄙御合躰』について」『日本史研究』第581号
  「再論・軍記『応仁記』と応仁の乱」 学習院大学文学部史学科編『〔増補〕歴史遊学』山川出版社
2013年 「室町幕府と『武家伝奏』・禁裏小番」『近世の天皇・朝廷研究』第5号
  「甲斐・信濃における『戦国』状況の起点」『武田氏研究』第48号

■私のゼミ(学部)で学ぼうとする皆さんへ

 卒業論文執筆に必要な基礎的な学力のうち、史料の読解能力と関連史料・研究文献の検索や比較考量の能力を養うことを目標として実施しています。中世史の卒業論文では、史料に即してどんな小さな事柄でも良いから、これまでに指摘されていないことがらを指摘するということを目標として課しています。このため、史料を精確に解釈すること、関連する史料を自力で検索して問題としている史料の記述に照合すること〔専門的には「史料操作」と呼びます〕のふたつを基本的な能力として要求しています。
 中世史研究では、「関連する史料がどこにあるのか分からない」という実情がつねに存在します。このため、研究文献や史料の探索要領を身につけるのが重要な課題のひとつです。演習では発表者グループが教員と事前に話し合い、『吾妻鏡』の担当箇条のうちで調査に値する問題、史料や参考文献をどこから検索するのかを論議・解明し、そのうえで各自課題を分担して調査にあたり、必要に応じて教員と協議するという要領を採っています。捜査会議を開いて捜査方針を決定し、この方針に基づいて捜査員が各自聞き込みにあたり、演習では調査結果を報告するというイメージです。特に二年生の段階では、教員が調査グループの指揮をとる捜査課長役に当たる要領です。演習の参加者は問題の箇条についてそれぞれ解釈を考えた上で、捜査員の調査報告について質問・論評することになります。
 三年生はそれぞれの卒業論文のテーマを考えなければならないので、捜査課長役と捜査員役の両方をこなせるようになるのが目標です。二年生は教員の指揮の下で調査している関係ですが、三年生は自分で調査方針を練るよう求められるということです。特に卒論については、独自に調査する対象と調査方針を考え、これを演習で発表します。また、『吾妻鏡』を卒論の素材とする学生ばかりではありませんから、『吾妻鏡』講読の演習とは別個にサブゼミを設けて、各自の調査するテーマに関わる史料を持ち寄り、他の学生たちと読解をぶつけあって読解要領を身につけてゆきます。史料の読解についてのサブゼミは私自身が参加して指導しますが、院生の有志が音頭をとって、学部学生とともに研究論文や日記〔古記録〕などを読み合わせるサブゼミも開催してくれています。
 四年生演習も、1学期までは調査方針の練り込みを軸に進めます。関連する先行研究をリストアップして内容を消化するとともに、調査しなければならない史料を明確にします。夏休みからは各自分散して、対象となる史料群を自分の力で読み込むことに努めます。夏休みの後半からは、おおまかに俯瞰した史料のなかで特に調査・検討を深めなければならないものをふるい分け、それに関連する問題の見直しに方向を転換することになります。史料を持ち寄って読解を討論するサブゼミは第1学期までで終了し、夏以降はどこまで独力でやれるか突き詰めることになります。解釈について先輩や教員に質問するとしても、それは自分の解釈に説得力があるかどうか、調査によって補強しなければならない点を指摘してもらうためだということになります。
 史料を見ているなかで気づいたことの意味が何か、大きく視野が広がってくるのはかなり遅い段階になります。多くの場合、執筆に着手してからその意味がはっきり掴めるようになるので、できるだけ早く執筆を開始するように促しています。
 注意して頂きたいこととして、中世史の研究が全体としてどのように進んでいるのか、どのような興味深い研究が行われているのか、といったことは各自が自主的にみつけなければならないということがあります。まじめに授業を受けていれば合格するという学び方では、最初に指摘した「どんな小さな事柄でも良いから、これまでに指摘されていないことがらを指摘する」という要求を満たすことは出来ません。「これまでに何が指摘されているのか」を知る努力は入学したときから卒業する日〔あるいは、この世とお別れする日〕まで、常に学ぶ者それぞれに対して求められているのです。
 特に、自分の研究テーマは自分で決めなければならない、ということをよく考えてください。はじめは概説書で結構ですが、専門書も含めて「面白いテーマ」を見つけ出すということは各自に委ねられています。自分がどのようなテーマに触発されるのか、どのような問題に触れると自分のスイッチが入って馬力が発揮できるのかということは、「自分自身の上手な活かし方」という大切な問題に関わっています。
 「これまでに指摘されていないことがらを指摘する」人とはどこにでもいる人ではありません。いつでも取り替えのきく部品のような人生を送るために大学に入ったわけではないはずです。他人から与えられたプロセスでは「他の人とは違う特別な人」になることはできません。自分を活かすための自分独自の要領というものを学ぶ責任は皆さん自身にあるのです。自分自身のスイッチが入るのは、何者かに触れたときです。これを実感するために、多くの歴史書に触れてください。本当の力は「もっと知りたい、見極めたい」という「対象に引き込まれる力」として実感されるはずなのです。

■私のゼミ(大学院)で学ぼうとする皆さんへ

 修士論文ではより深く研究する価値のある問題をいくつか発見すること、それを研究する価値や研究で得られる広がりをつかみ、その実在性を論証できたかどうかが合否判定の基準になります。博士論文では、ある時代・問題について体系を持ったひとつの世界を〔すべてではなくとも〕示すということが求められます。このために、個々の史料からいくつかの矛盾する世界を描き出せること、矛盾する世界像のいずれが正しいのか、調査によって判定するためのポイントを予測する能力を獲得することを大学院生に対する読解訓練の要点として考えています。
 ひとつの史料からいくつかの矛盾する世界が描けるとしても、それが史料の語義・語法などの内部構造という点で堅固に裏付けられていないと、議論は宙をさまよってしまいます。厳密な読解を考えると従来の解釈では駄目だという結論になることもあります。その史料を如何に堅固に解釈してもいくつかの矛盾する世界が描けてしまう場合もあります。いずれにせよ、いくつか存在する「描き出しうる世界」の姿は他の史料と結びつけることで拡張されることになります。このなかで、「描き出しうる世界」のなかのどれかと結びついている通説的なイメージは否定される可能性があるものになってきます。
 その当否を決定する素材を外部に求めようとするならば、どのような論理・仮説によって、どのような史料を捉えれば当否を決定できるのかという点に推察が働くことが必要になります。これは問題としている史料の解釈をふくらませて仮説化する作業ということになります。これは、単に「その問題について詳しい」ということとは関係がなく、どのような素材・対象に出会った場合であっても常に働く必要のある感性・感覚の問題であると考えて指導しています。
 このようなわけで、大学院演習の講読では、記録の一箇条一箇条について、別解の可能性・余地を論議することに終始する授業を行っています。発表担当者は、たたき台になる解釈とその根拠史料を提示する役目を担っているので、自分でも別解の可能性について吟味していちおうの結論を得ておく必要があります。もちろん、史料の語義・語法などの内部構造についても予め検討しておく必要があります。参加者は、論議の対象になっている該当箇条について、いくつかの解釈のいずれかに荷担して、他の解釈を斥ける形で論議に参加することを促されます。論議の過程で、仮説に即した追加調査が必要になってくることもしばしばあります。論議や調査を通じて、「最初の考えが浅かった・甘かった」という結論になれば、成果があがったと言えるのです。
 素材としている『広橋兼宣公記』は足利義満の側近公家衆が残した記録で、従来問題になっている足利義満の「皇位窺覦」論と深く関わる史料です。最近は、「室町幕府による公家政権からの権限奪取」という問題設定について見直しの必要性が指摘されています。この観点から通説に対して再検討を加えるアプローチで読解に取り組んでいます。参加者は必ずしも室町期公武関係を研究課題とする者ばかりではありませんが、足利義満の「皇位窺覦」論そのものは中世史研究の中で比較的よく知られた問題です。この問題について、最先端の切り羽をみせることで、通説というものの脆弱さを実感してもらうことが狙いであると申せましょう。
Key words:Muromach Shogunate,Kamakurafu, Ashikaga Yoshiakira, Ashikaga Yoshimitsu, Ashikaga Yoshimasa ,Hino Tomiko, Ounin Bunmei no Ran, Horigoe Kubou, Hojo Souun, Meiou Seihen,


close