新羅村落文書 (写真複製)

資料情報

新羅村落文書 / 請求番号221.03/27/1~2 / 2枚 / 縦32.0cm×横76.0cm / 写真複製版

解説

統一新羅時代の村落の概況を記録した文書。新羅帳籍などとも呼ばれる。昭和8年(1933)に正倉院中倉収納の「華厳経論帙」の破損を修理したさい、偶然発見された。文書は「華厳経論帙」の布心に貼付されていたもので、修理後元に戻されたため、今では現物を見ることができない。しかし調査時に撮影された写真が残されており、それによって文書の内容を窺い知ることができる。本資料はその写真の複製である。

文書は3年ごとに実施された村落に関する調査記録の断片であり、2枚にわたって合計4村分の調査内容が記されている。4村のうち1村は「西原京」(現、韓国忠清北道清州)の管轄下に、また2村は冒頭に「当県」とあるように県の管轄下にあった。調査は西原京や県など複数の行政区画で広範囲に実施されたと思われる。おそらく帙の布心に貼付するために、反古となった調査記録の一部が切り取られ、2枚の断片として今に伝わったのであろう。

文書には作成年が明記されていないが、「乙未年」に戸口の調査をしたことが記されていることから、文書もこの「乙未年」に作成されたと考えられている。ただし乙未年の比定をめぐっては諸説あり、現在では815年説と695年説が有力である。

文書の記載内容は、村名と村周(村落の周囲の距離)に始まり、以下、戸口数・牛馬数・耕地面積・樹木数と続く。戸口以下の項目には調査時の現在数とともに過去3年間の増減も記されているが、耕地についてはなぜかそれが見えない。各項目のうち戸口が最も詳細であり、九等戸制(上々戸~下々戸)による戸の区分と年齢による口の区分が実施されていた。

文書に記録された4村はいずれも10戸・100名前後の小さな自然村落であった。新羅はこうした自然村落を単位に国家的収取を行っていたのであり、本文書作成の目的もそこにあったと思われるが、収取の具体的方法や文書の性格については諸説あり、見解の一致を見ていない。

本文書が当研究所の資料として登録されたのは、昭和50年(1975)6月17日のことである。同年3月、当研究所の主事も務めた末松保和が学習院大学を退職したため、彼が個人的に収蔵していたものが移管されたと考えられる。

(木村・吉田)

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