高麗原州興法寺真空大師塔碑 請求番号221/47

資料情報

高麗原州興法寺真空大師塔碑 / 1枚 / 朝鮮原州興法寺眞空大師塔碑 /
請求番号221/48 / 登録番号157312 / 縦175.3cm×横110.5cm / 朝鮮原州興法寺眞空大師塔碑 / 碑陽

解説

『高麗原州興法寺真空大師塔碑』は、朝鮮半島中東部、江原道原州市の地正面安昌里にあった興法寺跡に、螭首・亀趺を備えて立っていたが、碑身は倒壊し、上部と下部のみを残す。本研究所所蔵の拓本は碑陽のみで、碑身の上部と下部とをそれぞれ別の紙で採拓した後、その2枚の紙を上下に貼り繋いだものである。大正2年(1913)、碑身の断石4片は京城(現在のソウル)の総督府へ移され、その後、景福宮勤政殿の廡廊に陳列された。現在は国立中央博物館に保管されている。

真空大師は、新羅末高麗初の高僧で、法名は忠湛である。新羅景文王9年(869)に生まれ、幼い頃に父母を亡くして出家し、21歳のときに具足戒を受け、唐へ遊学した後、孝恭王期(897-912)に帰還した。帰国すると、新羅神徳王・高麗太祖の王師として深い尊敬を受けた。太祖23年(940)に73歳で入寂。太祖は訃報に接して慟哭し、真空大師と諡して、塔碑碑陽の撰文にも太祖自らが当たった。文字は、崔光胤に命じて唐の太宗の文字を選び抜いて刻ませた。王羲之(東晋の書家)体の行書である。碑陰には、大師から太祖への奏表を欧陽詢(初唐の書家)体の楷書で刻み、末尾に在家弟子の姓名を彫る。

(吉田)