磯野文庫

解説

法社会学者の磯野誠一氏の寄贈による戦前を主とした蒙古関係資料のコレクション。氏は1944年に張家口(現在の中国・河北省)に開設された西北研究所の所員として調査活動を行った人物。西北研究所には今西錦司所長を初めとして、藤枝晃・石田英一郎・中尾佐助・梅棹忠夫氏と磯野氏の妻・磯野富士子らが所属していた。磯野富士子氏は著名なアメリカの中国研究者・ラティモアと研究したことで有名である。終戦後、西北研究所をはじめ中国大陸で活動した機関の文献を国外に持ち出すことが禁止されていた。明らかに戦前に発行された鉛印本もあり、磯野氏が大陸から帰還する際に持ち帰った資料である可能性が高く、貴重な資料と言える。

コラム: 磯野誠一と西北研究所

磯野誠一〔いそのせいいち〕氏は1910年東京に生まれ、1934年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独逸法専修)卒業後、同大学大学院に入学し、そこで法社会学を専攻した。その後、財団法人中央社会事業協会社会事業研究所所員を経て、江上波夫氏(民族研究所所員)の誘いを受けたこともあり、興亜義塾(フフホト)を経て1943年10月、夫人の富士子氏とともに西北研究所に赴任した。西北研究所とは、1944年に日本の傀儡政府である蒙古自治邦領内の張家口に設立された、調査研究機関である。所長は、今西錦司、副所長は石田英一郎であり、藤枝晃や梅棹忠夫も所属していた。この西北研究所において、磯野氏は研究課題を「蒙古遊牧社会の法律慣習の調査」、すなわち漢人とモンゴル人の間の土地紛争にかかわる土地所有関係の問題とした。1944年6月から9月にかけて磯野氏は江上波夫、神島祐光、ハトンブフ各氏とともに内モンゴル西部一帯の26カ所の寺廟調査を実施する。しかしその成果は戦後の混乱期に失われ、現在、シリンゴル盟東アバハナル旗貝子廟における調査記録のみが残されているにすぎない(江上波夫「内モンゴリアの巨刹貝子廟の実態」『江上波夫著作集10 内陸アジアの自然と文化』平凡社、1985年所収)。その後、磯野氏は研究課題に本格的に取り組むため、1944年12月より、夫人を伴って一番古い遊牧慣行が残るとされる、西ウジュムチン旗への調査に出発する。夫妻は4カ月のあいだ同旗王府周辺に滞在したが、そこでモンゴル語の学習やモンゴルの慣習調査に携わった。当時の生活については富士子氏の『冬のモンゴル』(中公文庫、1986年)に詳しく記されている。

翌1945年春、夫妻はいったん北京へ引き揚げたが、7月に誠一氏は単独で東アバハナル旗へ調査に向かった。ところが8月初めにソ連・モンゴル人民共和国軍が国境線を突破する事態となり、誠一氏は興安嶺の山中(内モンゴル自治区赤峰市経棚県)で終戦を迎え、シャルムレン河に架かる巴林橋にてソ連軍に投降する。その後、ソ連軍の監視の下、烏丹・赤峰へ数百キロを徒歩で縦断し、10月にはモンゴル人民共和国に至り、2年間の抑留を経験する。西北研究所は日本の敗戦とともに閉鎖されたが、成果の一部は戦後発表された。

磯野氏は日本に帰国後、複数の大学で教鞭を執ったが、モンゴルに関する本格的な研究をまとめることはなかった。ただし、氏は、いくつかの小論のなかで旧態依然とした内モンゴルの社会と革命後のモンゴル人民共和国を比較させ、人民共和国の進歩に言及している。そして現在学習院大学東洋文化研究所磯野文庫所蔵の資料を残しており、氏が戦後もモンゴルへの深い関心を持ち続けたことが推察される。

(広川)

(前綏遠墾務機関沿革表・系統表・
成立呈准公文及組織表)