「パキスタン」は実現するか? 自己像を模索する国家

パルヴェーズ・フッドボーイ

1947 年にパキスタンを建国したとき、ジンナー(Muhammad Ali Jinnah) ― ビクトリア朝の礼儀作法と非宗教的な社会観を備えた、申し分のない身なりの、西洋化されたムスリム ― は、亜大陸のムスリムに、ついにその文化と文明の宿命を達成できると約束した。この新国家は、民族浄化と宗派間暴力という大量殺戮のなかで形成され、その根幹の前提は、ヒンドゥー教徒とムスリムは決して共に暮らせないというものであったが、それにもかかわらず、当初は自由でかなり非宗教的な政体への期待をいだかせた。しかし、やがてジンナーのパキスタンは弱体化し、権威主義的になり、急速に神政政治になった。今や世界で第4番目[2]に人口が多くなりそうなこの国は、次のすべてに該当する。

『パキスタンの理念(The Idea of Pakistan)』で、コーヘン(Stephen Philip Cohen)は、この現代史の謎を解明することを試みている。コーヘンはアメリカの南アジア分析の第一人者であり、広い視野と綿密な調査に基づいたこの権威ある研究書が、パキスタンに関する必読文献になるのは確実であろう。本書はまた、アメリカ帝国の中心から見て、ワシントンは南アジアでいかにその国益を最大限に追求できるかについての見方を提示している。コーヘンが挙げる事実には議論の余地がなく、彼の論理は冷静かつ明快で、彼の省略は意味深長である。

パキスタンの混乱が切迫しているという不吉な宣告は、アメリカに充満している。コーヘンは警告を発し、かつその脅威を緩和する、という両方のことを目的としている。彼は、根深い諸問題がパキスタンの理念と現実に災いしていると認めるものの、黙示録的な「破綻国家」のシナリオからは距離をおいている。この核武装した国家が壊滅的に破綻するというのは、確かに一つの可能性である。しかし、結局のところ、パキスタンの命運は、同胞の市民を半世紀以上にわたり苦悩させてきた根本的な問題に対して、指導者が解を見出せるか否かにかかっている。それは、「どうすれば、パキスタンの理念は実現できるか?」という問題である。

国家を備えた軍

パキスタンでよく知られた、かなり辛らつなジョークに「すべての国家は軍を保有しているが、ここでは軍が国家を保有している」というのがある。事実、文民政府が名目的にパキスタンを担っているときですら、そこで誰が真の決定を行っているか疑問の余地はまずなかった。政治権力を掌握していることに加えて、パキスタンの軍は商業と産業に莫大な利権をもち、農村と都市で広大な物件を所有している。コーヘンが述べるように、「何が望ましいかに関わりなく、軍はパキスタンで何が可能なのかを規定し続けるであろう」。

パルヴェーズ・ムシャラフ大将は、現在国家の行政の長であるが、1999 年に無血クーデタで権力を掌握し、それ以来彼の暗殺未遂事件が何度かあった。そのつど、メディアはこの核保有国が統制不能に陥り、その運転席を獲得しようとして過激イスラム主義者が闘うだろうと警告してきた。コーヘンはこうした意見を、心配性として正しく退けている。もし、この大将が殺されたならば、国軍幹部はただちにムシャラフを他の高級将校に替えるであろうし、指導者の危機を防止するために、最近はさまざまな措置 ― シティバンク前重役であったシャウカット・アジズ(Shaukat Aziz)を首相に就任させたことは、もっともよく知られている ― が講じられている。コーヘンはまた、ムシャラフの最強の国際的後援者たちとも一線を画している。彼らはムシャラフを「賢明で近代的な指導者、欧米を支持し、インドと和平を促進することを恐れない非宗教的な人物で、デマゴーグやイスラム急進派の襲撃を抑えこむことのできる人物」と見ている。コーヘンは、「パキスタンの真面目な分析者のなかに、ムシャラフをこうした表現でとらえる者はいない。・・・もし、彼に似たパキスタン人指導者が過去にいるなら、それはヤヒヤ・カーン大将 ― 同様に、アメリカに多大の恩恵を施した好意的な将軍 ― である」と述べている。

なぜ軍部が文民統制に収まらないのかという問題は、パキスタンの国家形成にさかのぼる。尊敬されたパキスタン人の学者イクバール・アハマッドが力説したように、文民の権力制度が、公正で適正または権威あるものだと、パキスタン市民から見なされたことは一度もなかったのだ。しかも、ジンナーの宣言にもかかわらず、パキスタンの理念は、当初から不明瞭であった。正統性や方向性のための明確な基礎が欠如していたため、国家は強力な地主層と即ちに結託した。軍指導層と経済エリートが合併して、定義も結合性もない国家における権威を主張する勢力になったのである。それ以後の歳月に、政府は社会の封建的構造を維持し、パキスタンの貧しい東部(短期間だが流血を伴う戦争を経て、1971年にバングラデシュとなった)と露骨に搾取的な関係になった。今もなお、従属的労働は普通であり、多くの農民は奴隷制に近い状況で生活している。政治家は、移り気なデマゴ-グのブット(Zulfiqar Ali Bhutto)を除けば、エリートの機嫌取りと手っ取り早い金銭的利得を追求して、大衆の心と気持ちを無視してきた。

その結果がイデオロギーの混乱と文民の無力であり、かつ小暴動がきわめて発生しやすい環境となった。事実、公選されてその任期を満了した政権は、57年間のパキスタンの歴史でひとつもない。パキスタンの将校は、文民の命令を軽視し、「軍にとって良いことは、パキスタンにとって良いことだ」という不動の信念をもち、パキスタン社会は完全に軍事化された。バンパーには「最も優れた男はパキスタン軍に入隊する」というステッカーが貼られ、頭上ではジェット機が金属音をたて、イスラマバードの通りを戦車がパレードする。廃棄された海軍の銃器、大砲の部類および戦闘機が、公共の広場に飾られている。「パキスタン国軍を批判し、彼らに不満を抱かせること」は、犯罪的行為ですらある。

軍はパキスタンを運営する広義の「既得権益層」の一つの(ただし、もっとも重要な)要素である。コーヘンはこの既得権益層を、「穏健な寡頭政治」と呼び、それを「軍の高級将校、官僚、法曹界の有力者および他のエリートが結託する非公式な政治制度」と定義している。この寡頭政治のメンバーは、コーヘンによれば、次のような共通の信条に対する忠誠が必要とされる。

これらの「核心的原則」の根底には、付け加えると、何としても権力に奉仕するという意思がある。

逆噴射

パキスタンは1998年5月の核実験後アメリカの制裁下にあり、今はイスラム過激派の思想に起因する核拡散国家として、頻繁に言及されている。しかし、コーヘンが指摘するように、パキスタンの核への夢は40年前におそらく始まっていた。それは、中央条約機構(CENTO)の指揮下でアメリカ軍が、イラン、トルコおよびパキスタンの将校に武器、大砲その他の技術供与を通して大規模訓練を開始した頃である。1955年から58年の間に、数百人のパキスタン人将校がアメリカの学校で学んだ。「クエッタの幕僚大学校をアメリカ人の核専門家が定期的に訪問することで、アメリカは重要な貢献をした」と、コーヘンは記している。この幕僚大学校を訪問中に、彼は同校の正史に「1957年のアメリカ核戦争班の来校は、『最も有益であり、旧式のシラバスに変更と改訂』がなされ、同班が供与した『最新のデータ』に則したものになった」と記されていることを見出した。コーヘンは、「今日のパキスタンの核武装計画と軍事ドクトリンは、この西側陣営の初期核戦略から直結しており、先制使用を容認し、通常兵器の突進に反撃するため核兵器による戦術的使用を容認している点で、1950年代半ばのアメリカの戦略思考に酷似している」と考えている。

コーヘンは、この新しく実に驚くべき見解を、アメリカ・パキスタンの核の歴史に提示しているが、こうした重大な問題については、わずかの手短なコメントではなく、より綿密な考察をするのが望ましかっただろう。実際に、それは彼の別の本のテーマに価する。

パキスタンの核計画は、インドが1974年に「平和的な核装置」の実験をした後、本格的に開始された。ワシントンは、パキスタンに再処理施設を売却しないようフランスを説得して、パキスタンの核化の野望を挫くことに、当初は成功した。しかし、カーン(Abdul Qadeer Khan)博士 ― 彼は核兵器のためのウランを濃縮する欧州の企業体に勤務していた冶金学者であったがーは突き進み、極秘の情報と物質を密かに獲得して、ブット政権に差し出した。リバース・エンジニアリング[4]により、パキスタンはウラン濃縮施設を建設し、稼動することに成功した。ブットが倒され、後任のジアウル・ハック大将によって絞首刑になった頃までには、核化計画が全速力で進んでいた。

アメリカの対応は、長期的な戦略思考というより、むしろ大部分は目前の政治的必要から決定されたものであり、ブレの連続であった。ジミー・カーター大統領はイスラマバードに制裁を課したが、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、それを解除した。アフガンにおけるパキスタンの反ソ蓮活動への報償として、大統領による一連の権利放棄が行われたことで、アメリカの経済的、軍事的支援が1990年までパキスタンに流入し続けることが可能になった。パキスタンが1984年に核兵器のためのウラン濃縮が可能だと暴露し、87年には核装備の組み立てが可能だと明らかにしたにもかかわらず、である。アメリカ大統領が議会で、パキスタンは核兵器の製造を求めていないと、厳粛に報告した時ですら、イスラマバードやラワルピンディの誰でも、タクシーを呼んで、「爆弾工場」と当時呼ばれていた(そして今も呼ばれている)所へ行ってくれと言うことができた。アフガンからソ連が撤退したあと、ワシントンはパキスタンの核計画に対して厳しくなり、1998年の核実験以後(それはインドの同様の実験への対応であったが)、厳しい制裁を課した。しかし、2001年9月11日の直後から、イスラマバードは冷戦の終焉で失っていたその戦略的重要性を回復して、ワシントンはあらゆる核関連の制裁を解除した。それはある意味で、アメリカ主導の反タリバーン連合に加担するというムシャラフの決定に対する報償でもあった。

この期間を通して、パキスタンが列をなすイスラム過激派の受入国であり、今も引き続きその受け入れ国であることは、周知のことである。こうした不健全な社会的、宗教的部隊には、多様な目的があった。帝国であるアメリカを標的にしたものもあれば、カシミールの「解放」や宗派上の敵対勢力の抹殺といった、対象をより絞ったものもある。しかし、いずれもその起源はアメリカが支援したアフガン聖戦にさかのぼり、その十年に及ぶ聖戦によって、パキスタンの社会、文化および政治は深刻な影響を受け、すべてにおいて悲惨な帰結をもたらした。「第一次アフガン戦争の間、(統合情報部〔ISI〕の)戦略は強硬派イスラム勢力を支援することであり、アメリカに同調して、ISIは侵略者ソビエトに対する戦争を、無神論の共産主義に対する宗教的戦闘であると性格付けた」とコーヘンは記している。「再びアメリカの激励を得て、若いムスリムがアラブやイスラム世界から“大義”のために招集され、うかつにもやがてアルカイーダとなる一団を育成した」。

コーヘンは「同調」と「激励」という言葉を用いているが、それらの表現は不充分である。この取極めのなかで、誰がシニア・パートナーだったかは明白である。ジュニア・パートナーとして、パキスタンはワシントンから総括的支援を供与されたのであり、それに含まれていたのは、組織と兵站補給、軍事技術、およびアフガン抗戦を持続させ激励するためのイデオロギー的支援であった。このうち、最後の項目がはるかに重要であり、実際にそうなったとおり、それはアラブ世界から人員と軍用物資を、アフガンでの聖戦に惹きつけることに役だった。

CIAの資金が、鍛えられイデオロギーに献身的な男たちをアフガニスタンでの戦闘に招集するための宣伝に使われた。また、国際開発庁(USAID)からの5000万ドルの贈与は、オマハにあるネブラスカ大学の管理のもとで、教科書の購入に充てられたが、それらの教科書はアフガンの子供たちに、「敵の眼を突き刺し、彼らの足を切断せよ」と煽っていた。これらは、タリバーンによりマドラサ(イスラム学校)で使用が認められていたし、今なお、アフガニスタンとパキスタン双方で、広く使用されている。

イスラム過激派は、その協力者である超大国アメリカがムジャヒディーン[5]への支援に力を入れるにつれて、歯止めがきかなくなった。ロナルド・レーガンはホワイトハウスの中庭で聖戦指導者たちに饗宴を開き、アメリカの新聞は彼らを名士扱いした。ソ連軍がアメリカ・パキスタン・サウジアラビア・エジプト同盟軍を前に、1988年にアフガニスタンから撤退したとき、歴史の一章は完結したかに見えた。しかし、この勝利の代償は、その後十年間の展開で自ずと露呈した。90年代半ばまでに、この勝利した同盟から彼らの統制できない動態が生じたことは明白になった。

パキスタンはどこへ?

「パキスタンは、強国 ― とくにアメリカ、さらにはサウジアラビアや中国 ― に自らを“賃貸し”することで、変化する戦略環境に適応してきた」とコーヘンは見ている。彼は、9・11という思わぬ授かりものとアルカイーダというカードは、ある時点を過ぎれば、現金と支援を保障しなくなるだろうと警告している。また、経済成長は現在堅調であるが、パキスタンの経済は、海外労働者からの送金に多大に依存しており、根本的に脆弱である。低技術の繊維輸出がその工業生産の頼みの綱であり、その労働力は近代経済の要件を満たしていない。一方、軍は国家破綻を防ぐには十分に強力であるが、主要な改革を遂行するには想像力が十分でない。長い目で見れば、乏しい経済機会、急上昇する出生率、過密する都市化、教育制度の失敗、および敵対的な地域環境のゆえに、多数の若くて教育水準の低い人々が、経済的成功への展望がほとんど持てずに、過激派の政治的動員に惹かれていくことになるだろう。

コーヘンは、パキスタンの軌道に関して、それを異なる方向に導く諸勢力に焦点をあて、説得力があり穏当な推測をすることに挑戦している。彼は現在の体制は持続しそうだと考えているが、一定の動向(イスラム過激派の台頭、復活した民族的・地域的分離主義)と、考えうる断絶(アメリカや中国からの支援の喪失、インドとの大規模戦争、連続的な暗殺)があれば、それは変容しうると考えている。

イスラム革命はありそうにないが、イスラム諸政党が次第に強大化すれば、確実に政府の構成に影響を及ぼし始めるだろう。ひとつの考えうるシナリオは、ジアウル・ハック政権のような、イスラム教義への名目的忠誠で結ばれた軍と文民の連合政権への回帰である。もちろん、パキスタンの歴史には、根本的に誤った選択をして大失敗を招いた指導者の例が沢山あるため、これよりさらに極端な、内戦、イスラム過激派の勝利、露骨な権威主義体制の復活といったシナリオも決して排除できない。

最悪の場合、パキスタンは簡単に分裂してしまい、核技術とテロリストをあらゆる方向に吐き出すだろう。そうした破滅的な結末を防ぐために、何ができるだろうか? どうすれば、パキスタンの理念を持続させることができるだろうか? その鍵となる多くの改革 ― いくつかはコーヘンに指摘されているが、深く検討されてはいないーが必要である。

第一に、ムシャラフには、彼の「啓蒙された中庸」の構想に真剣に取り組むように仕向けねばならない。リベラルなパキスタン人は安堵したのであるが、彼はインドとの和解を模索し、カシミール紛争に対する態度を軟化させ、国内のイスラム系テロを厳重に取り締まり、冒涜罪や女性差別に関する法改正の協議に着手している。しかし、影響力のあるラホールの週刊誌編集長であるナジャム・セティが言うように、「変革の動きは遅すぎて、ぶざまであり、批判的で後戻りしない大衆を構成できるのか不確実である」。セティは、ムシャラフがさらに行動せねばならない特に重大な分野として、次の2点を強調している: 聖戦論者を一掃すること、それは彼らがカシミール問題の解決策ではないと認めることを意味する、および自由選挙で中道穏健政党の台頭を促進させることにより、イスラム諸政党の影響力を軽減すること。

この後者の目的は、軍を寄せつけずに責任ある文民指導制度を構築するために、パキスタンには広範な政治改革が必要であることを意味している。コーヘンは、パキスタン軍に対するアメリカの影響力の低下を、とりわけ憂慮しており、そのことを彼は、同軍のあらゆる階層に急進主義が増長した理由として挙げている。しかし、軍内部の反米感情がアメリカのカウンターパートとの不十分な交流ゆえに生じると考えるのは、誤りである。反米主義はアメリカとイスラム世界との全般的緊張の反映であり、交流を増やしても、さほど効果はないだろう。その証拠に、アフガニスタンから帰還後にムシャラフにより強制的に退役させられた高級将校のなかには、アメリカで期間を延期して訓練を受けてきた軍人もいた。アメリカ軍との交流によって、歴史的にパキスタン軍の自由と民主主義の信念が育成されたと考えることもまた、間違いである。

政治改革は、パキスタンから「政治の災害」を除去したジアウル・ハックの遺産を逆転することから始めねばならない。彼とその後任者たちは、パキスタンの大衆から、自己表現と集団行動のための手段を剥奪し、かつて盛んだった労組、学生組織、農民の協同組合が消えるに伴い、国政レベルでの大衆政治は消滅した。30年前、大学生たちはイデオロギーの立場をめぐって喧喧諤諤の議論をして、学生選挙での得票を競っていた。現在、選挙はなく、正統性ある学生自治会もなく、イスラムの宗派運動と民族別に定義された団体があるだけで、彼らは互いに喧嘩している。イスラム主義が政治関与への唯一のはけ口であれば、こうした学生たちは、急進派組織のメンバーになる筆頭の候補者である。政治団体の組織化が、地方でも全国でも再び許可され、かつ情報機関が国政の批判者につきまとうのを止めない限り、この「非政治化」はパキスタンを、さらなる不安定の道に追いやることになるだろう。

パキスタンの将来にとって最大の脅威は、その底無しにひどい教育制度かもしれない。パキスタンの学校は、マドラサだけに限らず、聖戦や殉教者への情熱をかきたて、燃えるような熱情を創り出している。改革への障害は大変なものである。たとえば、最近あったイスラム主義者による路上の狼藉で、ムシャラフの前教育相であったジャラル(Zubaida Jalal)は、彼女自身が原理主義者であると宣言して、聖戦を記したコーランの節を載せない学校教科書は認められないと非難することを余儀なくされた。

アメリカはイギリスや欧州連合と共同で、最近パキスタンの教育制度に数億ドルを供与したが、効果は微々たるものである。パキスタン在勤のUSAIDの役人は、学校教科書から聖戦や戦闘主義を削除する問題について、政府と協議する意向も希望も見せていない。現に、聖戦ドクトリンを信奉し続けるムシャラフ政権に電話をかけるどころか、ホワイトハウスは、無知ゆえか妥協のゆえか、ジャラル前教育相の「改革」を賞賛すらした。ジャラルの後任、カジ(Javed Ashraf Qazi)大将は、そのむごい戦術で知られた前情報部長である。それゆえに、ムシャラフの教育カリキュラムは変わらないだろうと思われる。

もちろん、この困難はパキスタン政府の根底にある諸問題を反映している。その薄弱な正当性を意識し、強力な宗教勢力と対峙することを恐れて、歴代のどの政権も、カリキュラムや教育の改革に真剣な努力をしなかった。それは、将来の知性が狂信主義者によって型作られることを、暗黙のうちに許してしまった。しかし、そうした重大な改革をしなければ、パキスタンの長期的な展望には何の励みもない。

[訳:首藤もと子]

【謝辞】この翻訳に際して田崎晴明氏から的確なコメントをいただきました。記して感謝します。ただし、文責は訳者にあります。


[1] Pervez Hoodbhoy, "Can Pakistan Work? A Country in Search of Itself", Foreign Affairs, Nov/Dec. 2004, vol. 83, no. 6, pp. 122-129. (これは次の本の書評論文である。The Idea of Pakistan. by Stephen Philip Cohen. Washington: Brookings Institution Press, 2004, 367 pp.)
原文の pdf ファイルはこちら。原文は次からも入手できる。 http://www.foreignaffairs.org/2004/6.html)

[2] 原文のママ。

[3] 英領インドからの印パ分離による独立。

[4] 完成品を分解して、製造法を推測する技術の総称。

[5] Mujahideen, 「イスラム聖戦士」を意味する。


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