黒木のなんでも掲示板田崎晴明ホームページ

「黒木のなんでも掲示板」における田崎の掲示

「複雑系」と計算器

東北大学数学科の「黒木のなんでも掲示板」に私が投稿した記事を共通のテーマでまとめた抜粋です。 原則として初出のままの形ですが、どうしても必要な他の人の記事の引用や注釈を加えたり、掲示板を離れると意味がわからないような部分を削除し、これだけで筋が通るように配慮しました。 各記事の Id ヘッダー行の # から始まる文字列をクリックすると、もとの黒木掲示板のその記事自身にジャンプしますので、前後の様子などを知りたいときにご利用下さい。 (このページでは、記事は上から下に書いた順番に並んでいますが、元の掲示板に行くと、下にあるものほど古いという逆向きの(掲示板では普通の)順番になるのでご注意下さい。)

Id: #a19990128130106 
Date: Thu Jan 28 13:01:06 1999
Name: 田崎 晴明
Subject: 「科学」の書評について簡単に書く予定が、「複雑系」について中途半端に長く書いてしまった

岩波の「科学」の最新号にイリノイの大野克嗣さんの書かれた金子+池上の『複雑系の進化的シナリオ』の書評が載っています。 一読の価値はありますので、是非ご覧下さい。

この書評が辛口になった原因を作った一人として、ぼくの名前も挙げられていると思いますが、これには異論は全くありません。 ぼく自身は大野さんに書評へのコメントを求められたので、そのときに本を買ってざっと眺めただけなのですが、あまり好意的とは言えない印象を持っています。

「複雑系」という旗印に関わる様々なものへの本質的な批判はおくとしても、 この本を眺めて先ず思ったのは、

といったことです。 でも、まあ、これは趣味の問題というか、「本」の定義の問題かも知れないけれど。

さらに、第一章に提示されているかなり難解で、高尚なヴィジョンと、 実際に後の章で紹介されている計算器実験の結果(とその言葉による解釈)の間のギャップはかなり強烈ではないかと感じます。

平たく言えば、第一章はかっこよすぎる。 金子さんの講演のイントロだって、もっとはるかに平易で、かつ「『やりたいこと』と『できること』のギャップに悩む苦しみ」がちゃんと出ている。 そう。そう。 この本には、その「苦しみ」が出ていないんじゃないの? (通読したわけではないから、断言はしづらいけれど。)

ともかく、第一章の書き方については、好意的に見ても、

と批判すべきだと思うし、悪く見れば、 とさえ言えてしまうと思う。 これもまた趣味の問題だと言われるかも知れないけれど、 でも、もうちょっと大切なことであるような気もします。


ついでですから、一般に「複雑系」について、ぼくが漠然と思っていることを簡単に書いておきます。

あれま、ちょっとだけ箇条書きにする予定が、やたら長くなった。 ごめんなさい。

(いわずもがな:批判する事はた易く真の研究は苦しいことは知っているつもり。 ぼく自身、非力ながら理論物理の研究・教育に携わるものである以上、ぼくが自分で発表した結果、書いたものについても、これと同じように厳しい目でみたいと思うし、他の人にそういう目で評価してもらえればうれしいと思っている。)


Id: #a19990130161603 
Date: Sat Jan 30 16:16:03 1999
In-Reply-To: a0038.html#a19990130002242
Name: 田崎 晴明
Subject: 「『やりたいこと』と『できること』のギャップに悩む苦しみ」

は、真摯な研究者なら誰しも感じていることだと思います。 無論、悩みや苦しみの内容やレベルは人様々でしょうが。

しかし、(自戒も含めて)大きな目標を掲げることによって生じる現実の研究との「ギャップ」を、研究の質を低下させる言い訳にしてはいけないと思っています。

たとえば、一頃複雑系の人が言っているのを耳にした

『複雑』なものを『複雑』なままに理解したい
といった標語は、ぼくは嫌いです。 こういう問題設定が不真面目だなどとは言っていない。 しかし、こういった形而上と形而下の狭間の脆く危うい地点を目指すかのような姿勢を本当に真面目に貫こうと思ったら、(埴谷雄高の登場人物ではないが)通常の表現方法では何一つ表現できないまま長い長い黙した研究の時を過ごす覚悟、そして、その沈黙の模索から二度と戻って来ない覚悟が必要なんじゃないかと思います。 それだけの重みを持ってこういう標語を受け取れる人などほとんどいないでしょう。 若い人が、お気楽に、わかったつもりになると、どうしようもないことになる。 ろくに頭も使わず勉強もせず計算器実験だけをやって、結果の解釈や説明を求められると、「そういう風に説明をつけようとするのは古い物理だ、我々は『複雑』なものを『複雑』なままに理解したいのだ」などと開き直るという、ほぼ考えられる限り最悪の知的怠惰を生む温床になると思っています。 (実際に、セミナーでそういうやりとりが行われたという話は聞いたことがある。 そういう人種が増えているとは結論したくないが、少なくとも一人は、そういう人がいたというのは事実です。)

P.S. もちろん、現実の研究とのギャップも悩みも生じないような安易な研究テーマを選ぶという知的怠惰もあります。 上の例と正反対のようで、案外そうではないかも。


Id: #a19990201115913 
Date: Mon Feb 01 11:59:13 1999
In-Reply-To: a0038.html#a19990131224003
Name: 田崎 晴明
Subject: 頑迷な「計算器嫌い」の決まり文句ですが・・

科学において計算器が「役に立つ」ことについては全く異論はありません。

しかし、計算器を使って何らかの基礎方程式から何らかの現象を再現することができたからといって、その現象が「理解された」とは考えません。 その基礎方程式からその現象が出てくることが非常に確からしいことが「わかる」だけです。 ではどうやってその現象がでてくるのかという本当の神秘を、何らかの方法で、人間の頭で理解してなくては、現象が「わかった」とは思いません。

摂動計算ならいいかというと、それも場合によります。 確立した方法をあてはめて闇雲に機械的に計算して、その結果をグラフにしてみたら、欲しい現象のグラフに似ていたというだけでは、「わかった」とは思いません。 期待される現象について深く深く考え、その状況で自然な摂動論を適用(ないしは、開発して適用)し、具体的な摂動項の挙動から「何がおきているのか」がよくわかり、かつ、摂動の誤差がなぜ小さく留まるかについての機構もきちんと理解され(できれば、そのアイディアに基づいた厳密な誤差評価も得られてい)れば、摂動計算から現象が「わかった」と言えるでしょう。 (計算器を使っていても、同じような事が行われていれば、「わかった」ことになると思います。しかし、いわゆるシミュレーションでは、そういうことはほとんどないのではないかと勝手に思っています。)

ぼくは、一見したところ基礎方程式からは到底でてきそうにない際だった(そして普遍的な)現象を「面白い」と感じます。 「面白い」現象がなぜ生じるかを、美しい(そして、おそらくは新しい)理論的なアイディアですぱっと切り出して「わかる」ことができれば素晴らしい。

重力多体系は、極めて単純な基礎方程式(Newton 方程式 + 逆二乗の引力)から、素晴らしく多彩な現象(天体の大規模構造)が生じ得ると考えられている分野で、まさに「面白い」現象の宝庫だと思っています。 専用計算機によって、実際にどのような現象が Newton 方程式と万有引力だけから(あるいは、相対論や宇宙膨張の効果を加味した系から)導かれるのかが明確になれば素晴らしいと思う。 しかし、それはゴールではなく、「真の理解」へ向けた一つの中間段階だとぼくは信じたい。 牧野さんのおっしゃる「『わかった』ような気になる」と「わかった」の間にあるギャップを決して見過ごしたくはない。 (もちろん、重力多体系のマクロスケールの構造の問題がすぐに理論的にどうにかなるなんて、これっぽっちも思ってもいません。 人類には手のでないほど難しい問題なのかも知れないという気も時々しますが、あきらめたらおしまいだと思う。)


Id: #a19990209111430 
Date: Tue Feb 09 11:14:30 1999
Name: 田崎 晴明
Subject: 研究会の宣伝

宿題をかかえたままの田崎です。 (大切な話なので、じっくりやりたいと思います。)

今日は、研究会を一つ宣伝させて下さい。

東京複雑系

です。 ギャグではありません。 もちろん、ぼくが世話人などをしているわけではありませんが、 おもしろそうだなと思ったので出席するつもりでいます。 どうでもいいことですが、ぼくは学会や研究会にはほとんど出席しない人なので(まあ、出不精で、しかも、お声がかからないというだけのことですが)、今年は、これが最初で最後の研究会出席になるかなとか思っています。

内容や主旨については、説明する立場でもないし、そもそもよくわかっていないので何も書きません。 ただ、昔から学生さんが主導でやるわけのわからない(とぼくが勝手におもっているだけですが)研究会みたいなものが無性に好きなので、魅力を感じています。

面白いかなと思われたみなさんは、上の web page を覗いて見て下さい。 昔見たときは黒いバックでアングラページか「がんこラーメン」かと思いましたが、今はすっきりと健全なデザインになっています。 付属掲示板もありますが、お手柔らかに・・


Id: #b19990311134432 
Date: Thu Mar 11 13:44:32 1999
In-Reply-To: b0009.html#b19990308151438
Name: 田崎 晴明
Subject: 「東京複雑系」に行ってきました

牧野さん、

田崎さん(多分) が佐々さんと議論していたり、

なあんだ、声をかけてくれればよかったのに。 名札もちゃんと付けてたし。

その後、九日の夕方には、世話人有志が自ら「叩かれ台」となって生物の研究のいくつかの方向性みたいなお話をしてくれて、 それを叩きながら、複雑系一般についての議論もしました。 ぼくは「複雑系の敵」としての役割を期待されて誘ってもらったという自覚があったので、徹底的に言いたい放題を言ってきました。 複雑系擁護派の方は、金子さんが病欠(八日にちょっと話したけれど、本当に不調みたいでした)だったので、池上さん一人が孤軍奮闘の感がありましたが。 (言っておくと、佐々さんは全く複雑系ではないのですが、世間ではそう思っている人も多いみたいですね。) いずれにせよ、研究の方向や分野のあり方について、かつて見たことがないほど、大胆にかつ活発に議論が行われたのは楽しかった。 牧野さんがいらっしゃって、ぼくの計算器叩きに応酬されてたりすると、なおさら面白かっただろうな。

複雑系についての更なる感想などについては、できれば第一掲示板に (この前の続きという感じで)書きたいと思っています。


Id: #a19990316164549 
Date: Tue Mar 16 16:45:49 1999
Name: 田崎 晴明
Subject: 「東京複雑系」に参加して

小学生の作文の題のようなタイトルになってしまいましたが、こちらに書き込んだように、「東京複雑系 99」という研究会に出席して、複雑系に批判的な立場から、色々と発言してきました。

「複雑系」についての感想は、既にこの掲示板に多少書き込みました。 (ぼくの立場を非常に簡略化していうと、 <究極的には「我々にとって『意味』のあるもの」を理解する科学というものを目指そうという意志を持つことは素晴らしいと思う。だが、現実的に内容のある科学を作っていくのは猛烈に困難なことであって、当分の間は非常に苦しく実りの少ない試行錯誤をする覚悟がいるのではないか。コンピュータさえ使えれば研究ができる安易な流行の分野などという認識は、全く誤っている>という感じでしょうか。 「物理、生物、社会学、経済学などを包摂する新しい『複雑系』研究の方法論が作られ、薔薇色の時代が来た」などというのが、全く根拠のない戯言だということは、言うまでもないとして。 (これを書いている時点では、未完成ですが、この掲示板での「複雑系」や計算器に関連したぼくの発言を自分でまとめたものを作りつつあります。))


今回、研究会に参加してみて、特に大きな印象の変化はなかったのですが、 やはり「空気」に接してみて気になることがあるので、二つほど書きます。


一つ目は、自然言語の比重が大きすぎるということ。


もちろん、普通の物理学をやっていても、自然言語は多用します。 人間どうしがしゃべるときは、ほとんど、これしかないし、もっとも能率的だからでしょう。 量子スピン系などという自然言語では到底記述できないものについて議論していても、「スピンがそろった」、「量子効果でスピンが『まるく』なった」などという訳のわかるようなわからないような表現が飛び交います。 しかし、これらの言葉には数学的にも、実験的にも明確な意味があり (数学的な意味は SU(2) の表現の次元に関連しています)、 これらの自然言語的表現は完全な比喩として使われています。 これらの意味を本当には理解していない人は本当の意味で議論に参加することはできません。 また、原則としては、議論から自然言語の部分を全て削除してしまっても、科学としての本質、もっとも大切で難しくて、我々が苦労した部分は残ります。

数学の場合には、こういう事情はより顕著だと思います。 (逆に面白いのは、純粋な抽象数学の場合でも、数学者同士は「自然言語もどき」で議論をすることができるし、それが数学の研究に有効らしいということです。)

現代数学や量子物理でなくても、自然言語に還元できない部分は非常に重要で、やはり本質を担っているのはそちらの方だといってしまってもいいと思います。 (形式的に考えると、理論の実態と解釈の区別が明確にできるかといった問題はありますが。)

たとえば、 ニュートン力学では、太陽からの万有引力に引っ張られた惑星が、太陽の回りの楕円軌道を回ることが示されます。 この程度の現象なら、前提も結論も自然言語で表現できそうだし、肝心の中身についても、「引っ張られて常に落ちようとするのだけれど、落ちる先がないので回り続けるんだね」 みたいな自然言語の説明でなんとなく納得できそうな気もします。 しかし、本当に数理化されたニュートン力学の持つ説得力と定量的精密さというのは、もちろん、そんなへろへろした言葉で表現できるものではない。 運動の法則と逆二乗の引力だけで、本当に惑星の公転が導かれることは、疑問の余地なく導けます。 それだけでなく、逆二乗の引力がはたらく場合には、軌道は完全に閉じて、(数学の意味での)楕円になることも示されます。 これは、自然言語の直観的な議論の範囲では絶対にでてこないことです。


こういうことが念頭にあって、現段階での「複雑系」の研究に接していると「あ、何かが違うぞ」と感じます。 たとえば、生物学についてのそれなりに面白く非凡な考察に示唆された目標があって、まずそれが自然言語で表明されます。 その次に、それらしい数理モデルを抽象的に導入して、計算器の中で走らせます。 すると、まあ、それらしいグラフが色々と出せるので、それをつらつらと眺めて、(それ自身典型的な「複雑系」である研究者が介在して)解釈をしていくことで、再び自然言語で、結論が語られます。

それはそれで面白いし、実験の示唆などもできれば、立派な理論じゃないかということになりそうですが、しかし、圧倒的な食い足りなさが残る。 果たして、間に挟まっている数理モデルの計算器実験の役割は何だったのだろう? 計算器実験を抜きにしても、十分に面白いストーリーはあるだろうし、実験への示唆もできる。 それで、面白い実験結果や、予期せぬ実験結果が出てくれば、それで、理想的なのではないだろうか? 計算器実験が全くなくても、(「理論」の論文が成立しないといったくだらない事は差し置いて)何か本当に困ることがあるのだろうか? 逆に言えば、計算器実験によって、本当に積極的な意味で、ストーリーの説得力が増すということはあるのだろうか?

たとえば、(現実の歴史はそうななっていないが)、「果たして引力相互作用だけをしている非常に多くの数の粒子が集まった系で、液体・気体の相転移はあるのだろうか?」というようなぎりぎりまで抽象化された問いが問われ、それに対して数理モデルの大規模数値計算が「相転移はある」という答えを出すということがあれば、それは(問題の理解には直結はしないが)大きな意味のある計算器実験の結果である。 しかし、問題設定そのものが、解釈の余地の多分に残る自然言語的な色彩の強いものであればあるほど、数理モデルの恣意性、結果の解釈の任意性は増し、計算器実験の持つ客観的重要さは低くなっていくのではないだろうか?

要するに、「複雑系」研究は、

という風にみえてしまうということです。 これでは、「腹にこたえる」本当の意味でおもしろい科学にはならないと思います。 (以上、具体的な話としては、去年聞いた金子さんの細胞分化の話(とても面白かった)が念頭にあります。)


二つ目は、今の話とも実は深く関わるのですが、頭で思いついた程度のことを重要視しすぎではということです。


人間個人が、直観や自然言語などを使って頭で思いつける事なんて、しょせん大したものではありません。 科学者が集団を作って、様々な実験的、理論的手段を駆使して世界を見ているのは、そのためです。 集団作業の結果、個人の想像力など到底及びもつかない壮大で驚くべき世界が広がってくるからこそ、我々は感動して自然科学に魅せられていくのです。 (数学でも同じ事。 普通の天才くらいの人では、個人だけでは、体系的な数学の世界を歩くことはできない。 みんなで協力して、数学の世界の見取り図を作って、そして、個人で歩くのだと思っています。)

単なる印象かも知れませんが、 どうも「複雑系」の人たちには、「本当の世界のあり方に(実験を通じてでも、数理的な方法を通じてでも)接して、驚く」といったことへの期待が極端に希薄なような気がします。

「・・・という切り口で生物を見たい」 というような口当たりのよい口上があって、後はそれで押し切って行けばよいみたいな空気。 あるものの見方で世界を見ることができるかどうかは、見る側の問題ではなく、世界のあり方の問題だという自覚がかなり希薄なように感じました。

なんでもそこに持って行くなと言われそうですが、 こういう「頭で思いついた程度のことの重視」は(悪い意味での)ポストモダンの傾向を思わせるものがあります。 伝統的な物理の研究対象を離れることによって、問題の設定や現象の把握に幅ができて解釈の余地が大きくなってくるからといって、「ものの見方に応じて、問題設定も答えも無限に変わる」(などとは「複雑系」の人でも公言していないと思いますが)というような相対主義的な空気ができてしまうことを強く恐れます。

「『複雑系』は科学のポストモダン」などというと、「現・思・」とかが喜びそうですが、もし本当にそうなってしまったら、もはや「複雑系」は科学ではあり得ないということはみんなが共通認識として持っていてくれないと非常に厳しいと思います。 (持っていても、もちろん道は厳しい。逆に持っていなければ、ぼくから見れば絶望ですが、やっている本人には厳しくない。何でもありの楽な世界が広がるはず。(そういう人も(「東京複雑系」の仲間ではないですが)いるみたいですね・・・)


このページは、「黒木のなんでも掲示板」の検索と記事のダンプの機能を利用して作成しました。 ページのデザインも元の掲示板のものを踏襲しています。 こういうページを公開することを快諾して下さった、 そして、私がこういうものを書く場を提供して下さった黒木玄さんに感謝します。 また、ここに抜粋した一連の記事は、掲示板に書き込まれたたくさんの方たちの記事との受け答えの中で発展していったものです。 色々考えた末に、自分の書いた部分だけを集めましたが、楽しく議論して色々教えて下さったみなさんに感謝します。 (田崎晴明ホームページへ)