今年のノーベル物理学賞のどこがすごいのか?

「無数の単純な要素が生み出す物語」を読み解く理論

本稿は2016年12月2日に朝日新聞のwebメディア「WEBRONZA」に掲載された(オリジナルはこちら)。

pdf 版はこちら

田崎晴明

今年のノーベル物理学賞は、デビッド・サウレス (David Thouless)、ジョン・コスタリッツ (John Kosterlitz)、ダンカン・ハルデーン (F. Duncan M. Haldane) に与えられる。受賞対象を一言でまとめれば「単純な要素が無数に集まったときに生まれる驚くべき現象」の研究と言える。少し説明が必要だろう。

水を冷やしていくとちょうど 0 度で氷になる。物質の性質が急激に変化する「相転移」の代表例であり、「単純な要素が無数に集まったときに生まれる驚くべき現象」の最もわかりやすい例だ。

どこが「驚くべき」なのだろう? 水は無数の水分子が集まったもので、一つ一つの水分子は周辺の分子たちと影響を及ぼし合いながら単純な法則に従って運動している。水分子には温度を測る仕掛けなどなく、周りが 0 度になったことも知らない。水分子たちの中に「司令塔」がいて「温度が 0 度になったから凍れ!」とみんなに指示を出しているわけでもない。それでも、0 度になると水はみごとに氷に変化する。単純な水分子が数多く集まった結果、全体としてまったく新しい性質が自然に生まれてくるのだ。水が凍るという見慣れた現象も、こう考えれば「驚き」ではないだろうか?

今年のノーベル賞の対象となったのは、このような身近な相転移とは少し毛色がちがうが、その後の物理学の流れを変えることになった先駆的な研究である。以下、三つの受賞対象を概観しよう。

コスタリッツ=サウレス転移(KT 転移)

【図の説明】スピン(小さな磁石)が平面的に並んでいる。高温ではスピンが互いにバラバラの方向を向く。 [spins]

磁石を作っている一つ一つの原子はそれ自身がごく小さな磁石としての性質をもっている。各々の原子が方位磁石のようなものだと思えばいい。この小さな磁石のことを「スピン」と呼ぶ。ここでは、ちょうど方位磁石のように、360 度どちらの方向でも向けるスピン(専門用語で XY 型のスピンという)だけを考えよう。スピンが無数に集まると色々と面白い現象が生じる。

スピンが規則的にずらりと並んで、となりあうスピンが同じ向きにそろいたがっている状況を考える。スピンが物質中に立体的(3 次元的)に並んでいるときには、高温ではバラバラだったスピンたちが低温で同じ向きにそろう相転移がおきる。水の相転移と並ぶ有名な相転移現象だ。

スピンが平面的(2 次元的)に並んでいるときにはスピンがそろう相転移は生じないことが知られていた。ベレジンスキー、コスタリッツ、サウレスはこの場合にも相転移(KT 転移)が生じることを発見した。高温ではバラバラだったスピンたちが、低温では(言葉での説明は難しいが)「そろいそうで、ぎりぎりそろわない」奇妙なふるまいを見せるのだ。誰も予期しなかった新しいタイプの相転移だった。さらに、この相転移を生み出す主役は多くのスピンたちが描き出す渦状のパターンであることも明らかにされた。

2 次元の世界で新しい現象が発見されたことは相転移の研究に大きなインパクトを与えた。KT転移の発見を契機に、おもちゃ箱をひっくり返したように、様々な「エキゾチックな相転移」が発見されたのである。

ハルデーン現象

ハルデーンの受賞理由となったのも無数のスピンが生み出す新しい現象の発見だ。今度は、スピンがずらりと一列に並び、となりあうスピンがなるべく逆を向こうとしている状況を考える。スピンが量子力学に従うことをふまえて、基底状態、つまり、絶対零度で実現される状態を知りたい。

ハルデーンによると基底状態の性質は「スピンの大きさ」によって大きく異なっている。スピンの大きさが 1/2, 3/2, 5/2 など「奇数割る 2」のとき、基底状態のスピンたちは互いに「そろいそうで、ぎりぎりそろわない」。一方、スピンの大きさが 1, 2, 3 と整数のときは、基底状態はまるで高温の物質のように「激しく乱れている」というのだ。

この「予言」は特にスピンの物理に詳しい研究者に衝撃を与えた。スピンの大きさを 1/2, 1, 3/2, 2 と増やしていくと基底状態の性質が交互に劇的に変わるというのは実に不可思議だし、絶対零度でまるで高温の物質のような状態が出現するというのも前代未聞。信じない研究者も多かった。

その後、様々な実験や理論が現れ、ハルデーンの結論が正しかったことが確かめられた。スピンの大きさが 1/2 の場合は1930 年代に高名なハンス・ベーテが研究していたのだが、その古典的な研究のすぐ近くに予想外の豊かな世界が広がっていることを見抜いたハルデーンの理論的洞察力は圧巻である。ちなみに、ハルデーンの主張が認められ広い物理との関わりが明らかになっていく過程で「アフレック・ケネディ・リープ・田崎によるAKLT理論」が大事な役割を果たしたのだが、その話はまた別の機会に。

量子ホール効果と TKNN 理論

今回のノーベル賞のもっとも重要な授賞対象は 2 次元電子系でのサウレス・甲元・ナイチンゲール・デンニイス (TKNN) 理論だろう。物性物理学に本格的な「トポロジーの視点」を導入した革命的な理論である。

1985 年のノーベル賞の対象となった整数量子ホール効果という現象がある。半導体の界面に磁場をかけると電気抵抗(正しくはホール抵抗)がきわめて高い精度で h/(e2 × 整数) という値をとる(h はプランク定数、e は素電荷で、どちらも物理学の基本定数)。無数の電子が集まって生じる驚くべき現象だ。今では電気抵抗の国際標準として利用されている。「この研究は役に立つのか?」という定番の質問があるが、量子ホール効果は電気抵抗の標準を定めることでハイテク産業に大いに役立っているのだ。

TKNN 理論は量子ホール効果をトポロジーという数学の分野の言葉で理解する道を開いた。ホール抵抗に現れる「整数」が「波動関数の位相の(ほどけない)ねじれ具合」を表す「チャーン数」と解釈できることを示したのである。「ねじれ具合」は必ず整数なので電気抵抗が「とびとび」になる謎が自然に理解される。

TKNN 理論は、量子ホール効果の(一つの)説明という以上に、物性物理学の研究に新しい視点をもちこんだという点で重要な意義をもっている。科学が新しい世界に進むための扉を開けた理論なのだ。これを契機に多くの物理学者や数学者が新しい視点にもとづいた研究を推し進めた。特に、近年になって爆発的に研究が進んでいる「トポロジカル絶縁体」は、まさに開いた扉の先に(ハルデーンの別の重要な業績を介して)みつかった新しいタイプの物質なのである。 [Mahito and Hal]

TKNNのKさん

TKNN の二人目のKは東大物性研を約 2 年前に定年退職した甲元眞人(こうもとまひと)さんだ。私にとっては、敬愛する先輩の理論物理学者であり、年来の友人でもある。

甲元さんは TKNN 論文の第二著者だが、ご本人の話を聞くと、単にサウレスの共同研究者という以上の貢献をされたようだ。さらに、TKNN 理論に登場する整数がトポロジーにおけるチャーン数であることを初めて明確に指摘したのは少し後の甲元さんの単著論文なのだ。TKNN 理論の現代的な位置づけにとってこの論文の意義は大きい。

ノーベル賞受賞者が 3 人出そろうと「ここに入り損なった 4 人目は誰か?」ということがよく話題になる。今回、私の答えは決まっている。受賞理由に最も近い「4 人目」は迷うことなく甲元眞人さんである。

上に載せたのは、1988 年の夏に米国ソルトレークシティーの甲元さんのご自宅で撮った甲元さん(とお嬢さん)と私の懐かしい写真だ。このすぐ後に二人とも帰国した。研究の場を日本に移してからも、甲元さんも私も幸運と優れた共同研究者に恵まれ「単純な要素が無数に集まって生み出す」いくつかの新しい物語に出会うことができた。実り多く魅力的な研究の道を拓いた先達である今回の受賞者たちにあらためて感謝し、また彼らの受賞を祝いたい。