蔵本氏と宮下氏の著書への具体的な批判: 物理学会誌における書評への補遺

8/20/2003, 最終更新日 8/29/2003

書評の本文では述べられなかった具体的な批判を、この場に簡単にまとめておく。 また宮下氏が送ってくださった回答もそのまま掲載する。

なお、これは網羅的な批判を目指したものではない。 それぞれの本について、書評でも述べたもっとも顕著な問題点を正確に指摘することだけを目指した。

なお、本からの引用で、数式を TeX 形式で記述している。 いささかお見苦しいことをお詫びする。


蔵本氏の著書におけるエルゴード性に関連する不正確な記述

本文 p 32 -- 33 からの引用
(3.9) から

 ここに Liouiville equation が入る  (3.10)

が得られる。これをリウヴィル方程式とよぶ。力学変数の運動 (3.3) と比較すると右辺の符号が逆になっていることに注意しよう。 しかし、もし $\rho$ がハミルトニアンを通じてのみ $({\bf q}, {\bf p})$ に依存しているならば、$\alpha$ がそうであったのと同様に、それは定常となる。 とくに $\rho$ があるマクロな孤立系の統計的母集団を表すなら、集団を構成するすべての系の力学的エネルギーは同一の値 $E$ をもたなければならないから、このような密度分布は等エネルギー面 $\Sigma$ 上の一様分布 $\rho_0(E)$ を表すことになる。 そしてそれが定常であるということは、孤立系の熱平衡状態を表す統計的母集団は等エネルギー面上の一様分布であるということを強く示唆している。 これを等確率の原理と呼ぶ。 この原理の妥当性を数学的に証明するためには、$\Sigma$ 上での任意の分布から出発したリウヴィル方程式の解が $t\to\infty$ で同面上の一様分布になることを示さなければならない。 これはとてつもなく困難な問題であり、誰ひとりとしてこれを示しえた人はいない。 しかし、熱・統計力学はこの原理を仮説として承認することで成り立っているのである。 このような単純な分布が定常分布になることはハミルトン力学系のおどろくべき性質であり、この特別の性質のおかげでミクロの世界とマクロの世界がきわめて一般的な法則のもとに関連づけられるのである。


以下、上の文章への具体的な批判
p33 にある
そしてそれが定常であるということは、 孤立系の熱平衡状態を表す統計的母集 団は等エネルギー面上の一様分布であるということを強く示唆している。
という文章は、ほとんど意味をなさないと思う。

p33 のこれより上で見たことは、

  1. \rho が H のみを通して q, p によるのならば、\rho は定常である
  2. 1のような \rho が、さらに、確定した E をもつなら、それは等エネルギー面上の一様分布である
ということである。 これは、ハミルトン系ならば必ず成立する自明の事実である。 (\rho が H のみに依存するという仮定はきわめて強い。)

これによって、孤立系の熱平衡状態について何かがわかるということは、ない。


p33 のその先の
この原理の妥当性を数学的に証明するためには、$\Sigma$ 上での任意の分布から出 発したリウヴィル方程式の解が $t\to\infty$ で同面上の一様分布になることを示さ なければならない。これはとてつもなく困難な問題であり、誰ひとりとしてこれを示 しえた人はいない。
は混乱した文章である。

「任意の系で、任意の初期分布から出発した解が一様分布に 収束する」ということを言いたいなら、それにはたくさんの反例(たとえば調和振動子やカオス的な挙動を示す系での特異的な定常分布)がある。 これは、成り立たない命題である。

「任意の分布」というところをゆるめて、「一様分布と絶対連続な任意の分布」と読むことにすれば、たとえばビリアード系のエルゴード性についてシナイの結果などがある。 これらの結果と統計力学の基礎付けの関連は、デリケートな問題である。


上の引用全体として、単に Liouville の定理の帰結として成り立つ事実と、マクロ系で特別に期待される性質が混同されているように思う。

宮下氏の著書における3次元スピン系の相転移についての不正確な記述

本文 p 54 からの引用、括弧は引用者が付記した
(二次元の)ハイゼンベルク模型では、スピンが空間的にどの方向も向けるので、XY 模型の場合にトポロジカルに安定であった XY 面内での渦を作っても、渦状態のスピンを連続的に z 方向に向ければ、連続的にエネルギー障壁なしに欠陥を取り除くことができる。 そのため、ハイゼンベルク模型は2次元ではトポロジカルな欠陥をもたない。 トポロジカルな欠陥を持たないということは、秩序相が無秩序相と本質的に区別がつかないとみることもでき、実際、2次元ハイゼンベルク模型は有限温度で相転移を示さない。

3次元では、3次元ハイゼンベルク模型におけるトポロジカルな欠陥が現れ、それは、1点から放射的にわき出すようなスピン配置で与えられる。 そのため、有限温度で相転移がある。


以下、この部分への批判。
ここには、3次元の強磁性スピン系の相転移についての根本的な誤解がある。

3次元の強磁性スピン系の低温での長距離秩序の存在は、きわめて普遍的な現象である。 スピンの種類にはほとんど依存せず、低温では長距離秩序が存在する。 これは、物理的には、強磁性状態のまわりのスピン波ゆらぎの安定性の帰結であるし、数理物理のレベルでも、きわめて一般的な長距離秩序の存在証明が得られている(Froelich-Simon-Spencer)。

これに対し、2次元では連続対称性をもつスピン系では、長距離秩序は不安定になる。 そのため、奇妙なことがたくさんおこるわけで、KT 転移のように、「トポロジカルな欠陥」が凝縮したと解釈できる相転移も生じる。 しかし、これは、強磁性相転移という普遍的な現象と比べれば、いささか「オタク的な」トピックであることを忘れてはいけないだろう。

上に引用した文章の第二パラグラフにある

有限温度で相転移がある。
という記述は厳密に正しい。 しかし、そこに至る議論は、物理的にはまったく誤りである。

3次元ハイゼンベルク模型での強磁性相転移は、スピン波が凝縮するという(もっとも)標準的な描像でもっともよく理解される。 実際、この描像に基づく相転移点の評価はかなりよい値を与える。 他方、トポロジカルな欠陥の凝縮という描像に基づいて相転移点を評価すると、実際よりも、はるかに低い温度がでてしまう。 つまり、トポロジカルな欠陥が凝縮するよりも前にスピン波が凝縮してしまうので、トポロジカルな相転移は観測できない、というのが通常の理解なのである。

さらに悪いことに、宮下氏の議論を信じれば、安定したトポロジカルな欠陥を持たない系は相転移をおこさないという結論が出てしまう。 たとえば、(現実的ではないが)4成分をもったスピン(長さは1とする)の系では、3次元ではトポロジカルな欠陥はない。 よって「秩序相が無秩序相と本質的に区別がつかない」ので相転移はないという結論が出てしまう。 しかし、もちろん、この場合にも相転移はある(証明されている)。

宮下氏の記述の困った点は、2次元でのトポロジカルな相転移という、かなり特殊で「オタク的」な話題にあまりにピントがあいすぎているために、より普遍的で物理的に重要なはずの3次元での強磁性の転移について、まったく誤った描像を提出しているという点である。 スピン系研究が奇異な現象を追いかけすぎたことの弊害の一つと見ることもできようが、いずれにせよ、スピン系の専門家による解説書にこのような誤りがみられることは容認できない。

p 58 の臨界現象のユニバーサリティークラスの議論にもホモトピー群へのあまり適切ではない言及がある。

トポロジーを応用した議論と聞くと響きもよく必要以上の魅力を感じてしまうものなのかもしれない。 が、それが度を超して、基本的な物理を見誤ることがあってはならないだろう。


批判に対する宮下氏からの回答

秩序変数の対称性(トポロジー)が相転移の様子を決めるというのはわかりやすいので、ついあのように書いてしまいましたが。 三次元では調和振動の範囲でも相転移が起こるので、大域的な構造がどうかというのは関係ないかもしれないと昔えたことがあったのを思い出しました。 確かに、4成分スピンの例は3次元では相転移するように思います。 ハイセンベルグスピンが三次元で相転移するのはむしろそれと同じ範疇かもしれずで、記述は不適当と思います。 秩序変数の構造と相転移の性質は何か関係ありそうでおもしろいのですが、少なくとも、今の記述は不適当なので今度改訂するとき、3行削除します。 また、トポロジーの話にはエネルギー的な考察がなされていないので、二次元でも三角格子反強磁性ハイセンベルグモデルでのZ2渦に関する相転移では議論がありました。(結論不明)

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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