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学校法人 学習院
総合企画部 広報課

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歴史

弘化
1847

京都御所日ノ御門前に学問所開講する

学習院の起源は、幕末の京都に設けられた公家の教育機関にある。19世紀の初め、光格天皇は朝廷の権威の復活を強く意識し、平安時代におかれた大学寮以来の教育機関を構想した。続く仁孝天皇の時代に公家のための学問所を作る計画が決まり、孝明天皇に代わった1847(弘化4)年3月、京都御所の東側に学問所の設置が実現し、講義が開始された。

嘉永
1849

「学習院」の勅額が下賜され名称が定まる

1849(嘉永2)年に、孝明天皇より「学習院」の額(=勅額)が下賜されて、学習院の名称が定まる。 当初の学則には、「漢学」とともに「和学」を重視する教育方針が示されていた。

幕末の動乱期には、京都の学習院は一時期、尊王攘夷派の公家と志士たちの集会所として利用されていたが、尊攘派と長州藩の勢力が京都を追われた後は本来の教育機関の姿に戻り、1867(慶応3)年の大政奉還直後まで講義が行われた。

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明治
1868

大学寮代、漢学所、京都大学校への改組と終焉

王政復古を経て明治新政府が発足してまもなく、学習院は大学寮代となる。古代律令制の校名を踏襲した復古的な改称だった。しかし、大学寮代はこの後短い間に漢学所、そして京都大学校と次々と改組。最終的に校内の国学者と漢学者の派閥抗争が収集がつかなくなり、京都学習院の系譜を継ぐ京都大学校は1870(明治3)年に廃止された。

1877

華族学校の創設

天皇が東京に移った1869(明治2)年、版籍奉還が行われ、大名や公家たちは華族と称することになった。1871(明治4)年、明治天皇から華族に向けて、「国民中貴重の地位」にあるのだから一層勤勉に努めよとする勅諭が出される。

華族の団体である華族会館は独自の教育機関の設立を計画し、明治10年(1877)年、華族学校が神田錦町に開設された。当時の生徒数は130人だった。10月17日の開業式では、明治天皇から校名を京都時代から継承して学習院とする旨の勅諭があり、勅額が改めて下賜された。現在の学習院は、この時を創立としている。

開業式で賜った勅諭・令旨
朕惟ルニ汝等能ク旨ヲ奉シ此校ヲ協立シ開業ノ典ヲ行フ 其志シ嘉スヘシ 嘗テ仁考帝京都ニ於テ学習院ヲ建テ諸臣ヲシテ就学セシム 朕今先志ヲ紹述シ本校ヲ名ケテ学習院ト号ス 冀クハ汝等子女ヲシテ黽勉時習セシメ以テ皇祖ノ前烈ヲ恢張セヨ

令旨
昔し嵯峨帝の皇后、嘉祥年間橘氏の為に学館院を設け給ふ 我菲徳といえへとも心に之を慕へり 今日親しく此校に臨み、主上の院号を賜ふを恐み喜ひ思へり 今より後生徒等の昔にもまさりて善く勉め学はん事を望む

初代学習院長をつとめた立花種恭は、元大名で華族学校の設立にあたって中心的な役割を果たしました。草創期の学習院には、のちに帝国大学初代総長となった渡辺洪基や、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎も在職していました。渡辺は学習院の諸規則を立案して教育の骨格を作り、嘉納は教頭をつとめる傍ら、1882(明治15)年に講道館を創設し学習院の学生も入門しました。第2代の谷干城院長の時代には、軍事教育が積極的に行われると共に、政治・行政・司法の各分野でも活躍する人材の養成が教育方針に挙げられました。第3代の大鳥圭介院長は戊辰戦争時に新政府軍と戦った元幕臣で、院長就任前には工部大学校校長をつとめていました。第4代三浦梧楼院長の時期には学科課程をはじめ教育体制が整備され、1890(明治23)年に制定された学習院学則の第一条には、「学習院ハ専ラ天皇陛下ノ聖旨ニ基キ華族ノ男子ニ華族ニ相当セル教育ヲ施ス所トス」と目的が記されました。

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1884

宮内省所管の官立学校となる

1885

華族女学校を開校

1885(明治18)年、華族子女の教育を目的として華族女学校を四谷に開校した。皇后(昭憲皇太后)は近くの赤坂御所にお住まいだったこともあり、頻繁に華族女学校を訪れ授業を参観した。1887(明治20)年には御歌(みうた)「金剛石 水は器」が皇后より下賜された。御歌では友人と切磋琢磨し、勉学に励むことの大切さが説かれ、現在の女子中・高等科生に歌い継がれている。学科課程には小学科と中学科がおかれ、生徒数が増加したため1889(明治22)年に校舎を永田町に移した。1894(明治27)年には華族女学校幼稚園(1944(昭和19)年休止)が開園し、男女の幼児の保育を始めた。

華族女学校には、草創期の女子教育に重要な役割を果たした教員が在職していました。学校運営の中心をになった下田歌子は、実践女学校(現実践女子学園)を創設し中国からの留学生を受け入れるなど、幅広い女子教育に携わりました。津田梅子は、1871(明治4)年に女子留学生として7歳でアメリカに渡り、18歳で帰国したのち華族女学校で英語を教授しました。 梅子は女子英学塾(現津田塾大学)を創設し、女子高等教育の道を切り開いていきます。

神田錦町の学習院の校舎は1886(明治19)年に火災で焼失したため、一時期虎の門の元工部大学校に移転した後、1890(明治23)年に四谷に新たな校舎を建設しました。しかし四谷校舎の本館は1894(明治27)年の地震で使用できなくなり、1896(明治29)年に北豊島郡高田村(目白)へ三度目の移転が決まります。資金の問題や日露戦争の影響などで校舎の建設が遅れ、1908(明治41)年にようやく中等学科・高等学科の移転が行われました。目白移転時に建築された図書館(北別館)・厩舎・寄宿舎総寮部(乃木館)などの木造建築は、2009(平成21)年に登録文化財に指定されています。また初等学科(現初等科)は、四谷に残り現在に至っています。

1887(明治20)年、華族女学校は生徒に洋服の着用を定めました。「鹿鳴館時代」と呼ばれ、上流階級の間に西洋の生活習慣が取り入れられていた時期のことです。しかし当時の生徒は日常生活の大半を和服で過ごしていたため、洋装は何かと不自由で定着しませんでした。そのため和服でかつ動きやすい服装として、下田歌子の考案といわれる袴が導入されました。袴にブーツというスタイルは、やがて全国の高等女学校に普及していきました。また華族女学校は、当初から体操教育を積極的に取り入れ、運動会が華やかなイベントとして行われるようになって現在に続いています。

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1906

華族女学校と学習院の合併

華族女学校は、1906(明治39)年に学習院と合併して学習院女学部となった。合併といっても男女それぞれの学校が並存し、女学部は学習院とは別の学校として扱われた。1912(明治45)年、永田町の学習院女学部が火災で焼失し、1918(大正7)年、女学部は青山(旧青山練兵場跡地、現秩父宮ラグビー場)の新校舎に移転するとともに、再び学習院から独立して女子学習院となった。

1907(明治40)年、陸軍大将乃木希典が第10代学習院長に就任しました。乃木は厳格な教育を通して学生に「質実剛健」を求め、中等学科・高等学科は目白移転後に全寮制をとり、乃木みずから院長官舎を使用せずに学生寮の一角に寝泊まりしました。
質実剛健の気風が学習院に持ち込まれた一方で、1910年(明治43)年には文芸雑誌『白樺』が創刊されました。『白樺』には卒業生の志賀直哉や武者小路実篤・有島武郎・有島生馬、下級生で在学中の里見弴・柳宗悦といったグループが参加しました。彼らは創作とともにヨーロッパの文学と美術の研究に力を入れ、トルストイやセザンヌ・ゴッホ・ロダンを積極的に紹介し、以降の文学や美術・思想に大きな影響を与えたことはいうまでもありません。また明治後期には、西田幾多郎や鈴木大拙・白鳥庫吉・河上肇といった教授陣も在職していました。

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昭和
1941

戦時下の学習院

昭和10年代に入ると、両学習院の教育や学生生徒の生活にも戦時体制の影響が色濃くなり、中等科以上の男子学生には軍事教練や勤労動員が課された。女子学習院でも勤労作業が行われ、薙刀の授業が始められた。1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦以降は、勤労動員が常態化し、1943(昭和18)年には学徒出陣が始まり、学習院高等科も徴兵年齢に達した在校生や、高等科を卒業して大学に進学した卒業生が召集された。

1944(昭和19)年に入ると、初等科や女子学習院の生徒は集団疎開を開始し、幼稚園は東京都の指示で保育を中止しました。1945(昭和20)年には東京が空襲に見舞われ、4月13日に目白校地の木造校舎の大部分が焼失し、5月25日には青山の女子学習院がほぼ全焼した。

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1945

廃墟からの再起

学校の機能を回復させるための最初の課題は、学習院・女子学習院ともに校舎の確保だった。中等科は1946(昭和21)年から小金井に移り、皇太子明仁親王(現上皇陛下)も小金井で中等科生活を送った。女子学習院は一時期目白の徳川義親邸や音羽の護国寺を仮校舎として使用したのち、46年3月に戸山の近衞騎兵連隊跡地に校地を確保した。

敗戦後の日本では、占領軍総司令部(GHQ/SCAP)によって日本の民主化・非軍事化が進められた。華族制度の廃止にともない、華族の教育を目的とした両学習院も廃止される恐れがあったため、1945(昭和20)年12月に両学習院は学制を改正し、「華族の学校」という存立の根拠を捨てて学校としての生き残りをはかる。

存続のために、両学習院を宮内省から独立させて財団法人化、つまり私立学校とする方針が固まりましたが、学習院が独立するには、これまで使用してきた校地校舎や運営資金といった皇室財産を、宮内省から譲り受けなければなりません。しかしGHQは、皇室財産は国有財産であって、学習院を私立学校とするために特別扱いすることはできないとして、財産の下賜を否認しました。学習院は存続の危機に立たされました。
そこで学習院は山梨勝之進院長が中心となってGHQと交渉を重ね、その結果GHQは両学習院への資金及び目白・四谷ほか校地校舎の下賜を認めました。学習院はひとまず危機から逃れ、私立学校として存続できる目処がたったのです。ところが下賜された資金は希望の半額にも満たず、敗戦後の経済混乱も重なって学習院は財政面において苦難を味わうことになります。

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1947

私立学習院の出発

1947(昭和22)年4月、学習院と女子学習院は合併して財団法人学習院となり、私立学校として再出発を果たす。このときの学習院学則は、「本院は総ての社会的地位、身分に拘らず、広く男女学生を教育することを本旨とし、人文教育の理念に基き、これ等男女に初等教育より高等教育に至る一貫した教養を与へ高潔なる人格、確乎たる識見並びに近代人たるにふさはしき健全にして豊かなる思想感情を培ひ、以て人類と祖国とに奉仕する人材に育成することを目的とする」ことをうたった。多少の文言の変更はあるものの、これは現在の学則総記にも受け継がれている。

新学習院の経営の舵取りを担う院長には、前文部大臣の安倍能成が就任しました。安倍は学生生徒に親しく接して「正直であること」の大切さを説くとともに、学校経営の再建に取り組みました。
私立として発足した当初、学習院は財政難に苦しみ、安倍院長みずからが寄付金募集に奔走しました。バザーをはじめ、学内の樹木を伐採して薪や炭を作って教職員にボーナス代わりに配るなど、少しでも収益を教育事業に回そうとの苦心が続きます。そうした中でも学生生徒は伸びやかに学校生活を送り、戦時中に途絶えていた輔仁会活動も復活を果たしました。 1947年に学習院高等科に入学した作家の吉村昭は、「中等科から進学してきた、いわゆる旧華族の子弟たちはのびやかな性格の者が多く、いたずら好きの学生もいた。教師たちは厳しい授業をする反面、そのような学生の気風を許容する鷹揚さがあり、自由を重んじる姿勢が感じられた、私は安堵をおぼえ、かれらの間にとけこんでいった」と回想しています。

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1947

初等科・中等科・女子中等科を開設

1948

高等科・女子高等科を開設

1949

新制大学を開設

1949(昭和24)年に新制学習院大学が開学し、文政学部と理学部が開設された。初代学長を兼ねた安倍院長は、「学習院大学設立趣意書」の中で、大学の特色に「国際的知識の養成、外国語の練熟と共に世界と国内との生きた現実の理解、更に進んでは文化国家としての日本の遠大な理想たる東西文化の融合」を挙げ、「本院大学の創設が敗戦日本の再建の一礎石とならんことを祈りつゝ、多大な困難を前途に予想しつゝ勇んで新たな船出につかうとするのである」と結んだ。安倍は優れた教員を招聘し、志願者獲得のために幾度も講演旅行を行うなど、大学の発展のために尽力した。

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1950

大学短期大学部(1953年に学習院女子短期大学に改称)を開設

1951

学校法人学習院となる

1963

幼稚園を開園

1977

学習院創立100周年

平成
1998

女子短期大学を改組し学習院女子大学を開設する

令和
2027

学習院創立150周年

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