MSA協定と日本―戦後型経済システムの形成(2)

 

石井 晋

 

 

295頁】

目次(前号につづく)

4.MSA受け入れ交渉

 (1)吉田内閣とMSA

 (2)交渉の経過

5.MSA協定と労働運動

 (1)批判的見解

 (2)平和経済国民会議

 (3)総評の転換

6.おわりに

 

 

4.MSA受け入れ交渉     目次に戻る

 

(1)吉田内閣とMSA     目次に戻る

吉田内閣は,当時,議会で過半数を確保できたわけではなく,その政権基盤は相当に不安定であった。さらには,吉田茂の個人的な「再軍備」反対観1もあり,国民世論を反映しつつ,アメリカの軍備増強要請に対して2,防衛力漸増路線をとっていた。したがって,MSA受け入れの際には,その軍事的性格を薄めるため,何らかの形で「経済援助」を獲得するべく努力した。基本的には,前述の経団連意見等に見られる,MSA援助受け入れ→日本の経済自立という論理に便乗したのである。外務省は,MSAについての解説書を出版したが,その概要が広く報道された。主要内容は次のようなものである3。「こんどの日本に対するMSA援助の計画は費用としてはほとんど軍事援助に限られている模様であるが,アメリカ政府としては日本に対する経済援助についても大きな関心を抱いていることは,去る四月アメリカ当局が朝鮮休戦成立後も日本にける支出が急激に減少することはなかろう。少なくとも二年間は特需は継続するであろうとの見通しを表明したことにもみられた通りである。こんどのMSA援助計画でも日本に対する間接の経済援助とくに日本の経済自立を促進する線に立つ援助も考慮されている296頁】模様である。日本以外に対するMSA援助を通じて,東南アジアの経済開発に対する日本の協力が推進される可能性が十分考えられる」。「軍事援助に限られている」と断りつつも,「経済援助」への期待が大きなものとなっている。このため,その後の政府の交渉スタンスは,「経済援助」の実現を重視するものとなっていった。

政府のMSA受け入れ態度表明の結果,MSA援助受け入れに対する政府の積極性がクローズ・アップされることとなった。このため,財界と政府が一致して,MSA受け入れに奔走しているとの印象が強められることとなった。前述のように,すでに,防衛力増強計画が進行し,種々の過大な計画案が生まれていた。日本政府は,1953年6月24日に米政府に対してMSAに関して質問書を送り,その回答を得ていたことを,6月26日に公表した。これに対して,国会内野党は,すでに政府はMSA援助受け入れを決めて外交を進めていたにも関わらず,それを隠していたとして強く批判した。「秘密外交」によって,国民を「ゴマかし」ながら「再軍備」を着々と進めているものと認識されたのである4。こうした認識から,後述するように,政府・財界によるMSA受け入れ→軍備拡大→日本経済の負担増大→一般国民の生活水準悪化という解釈が生まれ,国民的な反対運動が沸き上がる。こうした状況において,政府は是が非でも「経済援助」を引き出そうとして,そのために多大な努力を傾注することになる。

以下,本節では,「経済援助」獲得に焦点をあてながら,MSA交渉の経過について検討する5

 

(2)交渉の経過     目次に戻る

1953年5月29日,外務省は,駐米日本大使から次のような情報を得ていた6

  

(史料1)

28日竹内公使,MSAのHayes極東部長と会談した際,先方の語った所左の通り。ご参考迄。

一.日本に対し,MSAの経済援助は,今の所全く考えていない。

二.一般論としては,民主主義国側として大切な国に重大な経済恐慌が起こったような場合には,相互保障関係の立法及び予算が相当融通がきくようになっており,必要な措置は執れるようになっている。

三.或る国に経済援助を与うべきやを決定するに当っては,(イ)その国の外貨保有及び使用状況,(ロ)輸出入銀行,世界銀行等からの金融的援助を充分に利用しているか。(ハ)外国からの私的投資を奨励するため充分の措置を執っているか,等の点が先づ問題となるであろう。

四.対日経済援助を行うべきか否かを決するについては,ドッヂ予算長官とも数次会見,その意見を徴した。ドッヂ氏は予算を引締める方の立場にあることは勿論であるが,日本側でまだまだやるべきこと及びやり得ることがたくさん残っていると云う意見であった。

 

すなわち,外務省が確かな情報として得たのは,日本への「経済援助」の可能性は非常に小さいというものであった7。外務省が公表した前述のMSA解説書のうち,「軍事援助に限られ【297頁】る」という点だけが正しく,「経済援助」への期待は憶測でしかなかったのである。

前述のように,1953年6月24日,外務省は,MSAに関する質問書を駐日米大使館に送った8。主要内容は三点にわたる。第一は,米国の相互安全保障計画によって日本に援助が与えられる場合,日本国政府としてはこの援助により国内の治安と防衛を確保するに至れば,同計画の基本目的を達成したことになるのか否か。第二は,日本への援助が日本の防衛努力の援助である限り日本の防衛能力が考慮されるに際しては日本国政府としてはまず日本の経済が安定し発展することが先決要件を考えるがどうか。第三は,同援助を受けるため,MSA法第511条Aの3に規定されている「軍事的義務」履行の要件は,日本の場合日米安全保障条約で引き受けている義務の履行をもって足りるのか否か。また,同条Aの4に規定されている「自国の防衛力を増進しかつ維持すること」という要件は,日本については国内の一般的経済条件の許容する限度内で,かつ政治的および経済的安定を害することなく実現されれば足りるものなのか否か。

これに対する米国政府からの回答書では,日本政府の上記すべての質問に対し,肯定的に答えるものであり,第二の質問に関しては,「日本が同計画に参加することを決定した場合には,相互安全保障計画のため必要な物資を合衆国が日本において買付ける可能性を増進するものと期待される」としていた。特需の増大が示唆されたのである。

前述のように,この質問と回答を経て,日本政府は,在日の米関係者との間で正式にMSA受け入れ交渉に乗り出す。第1回会合は1953年7月15日に開かれ,さしあたり7月31日まで5回にわたる会合が日本の外務省で行われた9。この間,日米間の見解の相違は,種々の点にわたったが,主要な点は,MSA援助と経済安定との関連性にあった。日本側は,経済安定の優先を協定本文に織り込み,「経済援助」を引き出すことを狙ったのに対して,アメリカ側は軍事援助に限るという立場からこれに反対した点である。MSA交渉は,当初から,暗礁に乗り上げたのである。

何としても「経済援助」を盛り込みたい日本側は,MSAに規定された米国の余剰農産物買付に着目した。1953年8月3日,外務省は,在米日本大使館にあてた電文で,MSA資金による「余剰農産物援助に関する事情及び我が国に対する適用可能性等につき調査報告」を依頼している10。これを受けて,8月7日,次のような回答が届いた11

 

(史料2)

.貴電はMSA援助の一環として,米国の農産物の給付を受けることを考えて見たいとの御考慮より出て居るものかと考えられるが然りとせば当地に於て出来得る限り早めに米国側に当って置くこと然るべしと認められる。その理由はMSA法案には議会で大修正を受けて通過した為当局は当初の案を根本的に再検討せざるを得ず,目下予算に基く実施計画考慮中であるので計画の細目徹底までに先方に対し働きかけて置くこ【298頁】と有利であるからである。

.日本に付ては当初より軍事援助のみ考慮されて来たが,同法第550条に依る過剰農産物処理に付ては米国側が積極的に売込に出る立場にあり日本側通常輸入量以上に輸入するということであれば先方がのって来る可能性相当にあると思われる。(以下略―筆者)

 

翌日に到着した電文では12,すでにイギリス向けに農産物給付が決定されているが,最終的な額は決定されていないこと,日本に関して農産物給付が適用される可能性があること,ただし,日本は軍事援助費の中でのみ予定されているので,経済援助予算で農産物給付を受ける可能性は少ないこと等が報告された。

このMSAによる余剰農産物援助とは,アメリカ政府が買い上げた米国内の余剰農産物をMSA協定相手国に対して輸出し,その販売金額を現地通貨で積み立てて,一部は相手国への援助として贈与され,一部は現地米軍が軍事物資の域外調達などに使用するというものであった。日本側のメリットとしては,外貨を使用せずに食糧輸入を増加させることが可能となる点にある。しかし,従来であれば米軍の域外調達によって得られていたドル収入が円貨に替わる可能性があり,ドル収支全体を見れば,贈与分以外にはほとんどメリットがない場合もあり得た13。したがって,余剰農産物輸入を「経済援助」的性格の濃いMSA援助として位置づけるにしても,十分な契約条件が整わなければ,日本経済自立に貢献するものであるとの主張を説得的に行うことは困難であった。

この後,MSAについての日米間の交渉は,8月14日から9月30日まで,さらに7回にわたって行われた。争点となったのは,日本側が提示した,協定の付属書案である。日本側は,「経済的諸要請」として,「(イ)可能な限り日本での域外買付を行う,(ロ)対日援助には兵器生産のための工作機械,原材料などを含む,(ハ)対日援助は軍事援助のみならず自衛のための経済援助を含むものとする,(ニ)アジア諸国における基礎物資の増産計画および経済技術援助計画に対し日本は大きな関心をもっている」などが列挙してあったという14。これに対して,米側は,1954会計年度援助計画の内容では軍事援助に限られているし,将来の援助計画に関しても米議会の承認を得て初めて確定できるものなので,現段階では何もいえないとして,付属書から「経済的諸要請」を削除することを要求した。その後,これに関しては日本側が譲歩したが,日本側が援助の内容を明らかにすることを求めたのに対し,米側は日本が長期防衛計画を確定するのが先決であるとして対立した。

日本の長期防衛計画については,前述の保安庁案が閣議決定にまで至っておらず,また「再軍備」が国会内外で議論の的になっていたことから,未確定であった。防衛力漸増方針の吉田・自由党と再軍備を主張する改進党,さらに再軍備反対を強く唱える左派・社会党の対立が深まる中で,1953年9月27日,吉田―重光会談が行われた15。この結果,国力に応じて防衛299頁】力を漸次増強すること,保安隊を自衛隊に改組して直接侵略に対応できるようにすることが合意された。

この直後,吉田首相の特使として池田勇人が,独自の防衛計画「池田私案」を携えて渡米する。1953年10月,ワシントンで池田(吉田茂首相の個人的代表)―ロバートソン(極東問題担当国務次官補)会談が行われるが,それはMSA受け入れとそれに伴う防衛力増強に関して,日本が,アメリカの譲歩を政治的に取り付けようとする試みであった。アメリカの譲歩を引き出すためにも,日本国内の合意が得られているという前提が必要であり,吉田―重光合意がその役割を果たしたのであった。

この間,余剰農産物輸入に関する駐米日本大使館の調査が続けられていた。9月初めには,アメリカ側は,MSA法550条の農産物処理について,次のような措置を考えていることが判明した16。軍事援助予算51億1200万ドル中から1億ドル,経済援助予算中から7500万ドル,合計1億7500万ドルを農産物処理に充当する予定で計画立案中である。この金額の各国別割当金額,農産物名を9月15日頃までに内示する。日本の割当金額は1000万ドルから2000万ドルの間であり,「東京に於ける双務協定(MSA協定のことだと思われる―筆者)がそれ迄に成立すると否とに拘わらず,日本に対してオファーする予定である」。日本が「農産物を買い付けた結果,見返りに積立た円の使途については国防省が所管し本来のMSA軍事援助目的に使用する。この点に関し軍事援助費より融通した一億ドルの見返りに積立られた外国通貨は軍事援助に,経済援助より融通された七千五百万ドルの見返り分は本来の経済援助目的に使用されることになっており,日本の場合は軍事援助費より融通された分が差当たり充当されるので,見返り円の使途は,積立が軍事援助目的(日本に対する軍事援助のみならず他国に対する軍事援助のための域外買付を含む)に使用する」。したがって,「見返り円は現在の狭義の特需に代替するものではなく又これを電源開発等の経済目的に使用する可能性は少ない」。ただし,日本が前記の割当以上の「割当を受けて農産物を買取る場合日本の希望により他国に対する域外買付より融通されたドル割当を受ける可能性あり,この場合の見返り円はこれ等域外買付受益国向物資の日本に於ける域外買付に使用し得る」ものとされた。すなわち,余剰農産物輸入見返り円は,基本的には直接の軍事援助に使用されるが,農産物輸入額を増やせば日本国内での域外買付量が増加される可能性が示唆されたのである。

これを受けて,外務省は,次の点に関して情報を求めた17(1)MSA法第550条に基く農産物の買付は厳密に平年の輸入量に対し純増でなければならないのか。(2)軍事援助費からの融通に基く積立円が日本に対する軍事援助目的に使用される場合,アメリカは日本における国内調達の他,どのような使用方法を考慮しているのか。(3)調達された装備が日本に供与される場合,MSA法第301条による日本に対する軍事援助の枠外であるのかどうか。(4)対日農産物給付が経済援助費から割当られる可能性はないのかどうかなどである。

駐米日本大使館の回答は,次のようなものであった18(1)厳密な純増と解釈するかどうかは不明であること,農務省は緩く解釈したい意向であること。(2)円の使途はアメリカは具体的に何等考えていないので,日本側としては早めに希望を出して交渉することが得策であると300頁】考えられること。(3)MSA法第301条による軍事援助の枠外であること。(4)最初の割当額以上に買えば,増加分だけ経済援助費より割当の可能性があるが,最初の割当額を経済援助費より割当をうける可能性はないこと。さらに,発信者は,「本件に関しては米国政府内の考え方は未だ固まっておらず且つ先例もなき事故,当方の出方如何によっては相当面白い結果を引き出す可能性もあるものと思われる」としている。外務省は,MSA関連の余剰農産物輸入によって,何らかの形で「経済援助」と呼び得るようなものを引き出せるとの手応えを得たのである。

一方,これ以前から,日本国内では,夏の水害で,米麦の減収が見込まれていた。外務省が農林省から得た情報によれば191953年8月15日現在,被害面積は36万6000町歩に及び,米の減収量は154万3000石と見込まれた。さらに悪天候等に基づく減収見込み総計は439万7000石で増加傾向にあるとされていた。そこで1953年度の米の輸入計画は,90万トンから103万7000トンに改訂されることとなった。他方,麦(小麦,大麦,裸麦)の減収量総計は412万7470石と推定されたが,小麦の輸入計画は1953年度157万3000トンで変更なしとされていた。米麦輸入を増加させることに関しては,天候不順による国内の不作という根拠があったわけであるが,小麦輸入に関して農林省が消極的だったことには留意する必要がある。

MSAの「経済援助」を引き出せる可能性があるとの見込みから,外務省は,余剰農産物受け入れ交渉を行うことを提案し,9月16日,吉田首相も外務省の見解を受け入れ,対米交渉の本格化と農林省に対する小麦受け入れ検討を指示した20。これを受けて,外務省は,駐米日本大使館に次のような内容の電文を送っている21。悪天候による不作に対処するため,米と麦の両方を輸入する方針で進み,「差当たり小麦については今会計年度要輸入量一五七万屯の外に二十万屯位を輸入」したいとし,その価格については同品質のアメリカ産小麦と同一とすること,FOB米国港引き渡しとするなどの条件で交渉することを指示する。この小麦20万トン輸入案は,外務省内で考えたさしあたりの戦略であり22,日本のその後の国内食糧事情の検討23,及びアメリカとの買付条件の交渉次第によっては,買付を大幅に増加させる可能性もあった。

以後の交渉は,いかにして「経済援助」という形で余剰農産物輸入を行い,見返り円を軍事のみでなく国内産業の発展に使用できるようにするか,また,いかにして有利な輸入条件を引き出すかをめぐって行われることとなる。

「経済援助」を引き出す努力は,前述の,池田勇人特使一行によって行われた241953年10【301頁】月8日の第二回池田・ロバートソン会談で,米側は「日本は現在多額の外貨を有し,経済援助は必要でないと」考えていると述べた。ただし,域外買付にはできるだけ日本を使いたいとも述べている。これに対して,日本側は,ヨーロッパと平等に扱って日本にも「経済援助」をして欲しいと要請している。米側は,ヨーロッパに対しても経済援助は例外的であり,日本を差別しているわけではないと答えている25

10月15日の第5回会談では,MSAの防衛支持援助を受け入れる際の法律的問題が明らかとなった26。東京で交渉中のMSA協定は,法規的には,Mutual Defense Assistance Act of 1949に基づくMutual Defense Assistance Agreementであって,軍事援助のみを含む。「経済援助」に近い防衛支持援助を受けるには,Economic Cooperation Act of 1948(ECA)に基づく別の協定を結ぶことが絶対に必要であること。そして,ECAが結ばれれば,日本のために防衛支持援助を出すことは,MSA法の「アジア地域の軍事援助費の一割を同地域の防衛支持援助費に移用すること及び欧州地域の防衛支持援助費の一割をアジア地域の防衛支持援助費に移用することができる」という規定によって理論的には可能であることが明らかとされた。また,米国が防衛支持に関する緊急援助を与える場合に考慮する被援助国の経済的,財政的,軍事的事情などについても明らかにされた。余剰農産物についても,「経済援助」関連の予算から受け入れる場合には,ECA系統の協定が必要だったのである。

外務省は,これを受けて27「本年は経済援助を供与する意向なきものと考えてきたのであるが,防衛援助協定交渉の途上においてムリと知りつつ,なんらかの手懸かりをつけるべく経済的諸要請を関連せしめ,或いは明年度における経済援助に言及するなどの努力をしてきたものであるが,米側に経済援助の意思があるならば早急に防衛援助協定と並行してECA協定の締結を進めるべきである」として活動を開始した。池田に同行した宮沢喜一は,この点に関し,「MSAに入っても少しも経済の足しにならぬ,池田ミッションは経済援助の協定は結んで帰れないという定説になっていた。そこでわれわれにも意地があって,何とかMSAでなく,ECAの系統に入る「経済援助協定」を結びたい,たとえその結果目先幾らかの金でなくとも,そういう「入れ物」を付くって置かなければ将来も全く「非軍事的な経済援助」を受け入れる方法がないのであるから,意地でも「入れ物」だけはこの際作って置こうという気持になったのである」と書いている28

一方,この間,天候不順による農産物被害の拡大の情報が入ったため,日本政府は,それまで余剰農産物を1500-2000万ドル買い付ける方針であったが,5000万ドルに増加させることとし,アメリカ側もこれを了承した29。同時にアメリカ側は,この5000万ドル相当の売上金(円)のうち4000万ドルを「日本ないし極東の他の友好諸国の軍隊による使用のため日本において軍事装備及び備品の調達」に使用すること,残り1000万ドルを「日本における充分な産【302頁】業動員の基礎発展のために」供与すること,そのために「防衛支持活動を含む特別の取極に調印することが必要である」等の提案を行った。米側がECA系統の防衛支持援助を行うことが示唆されたのである30

302頁】10月30日に発表された,池田・ロバートソン「共同声明」では,日本が憲法上,経済上の制約を考慮しつつ,自衛力増強を促進するための努力を続けること,軍事援助に関する問題については東京において両国の代表がさらに協議すること,MSA法550条に基づく余剰農産物供給は5000万ドルを目途とすること,この売上代金である円貨は,海外買付及び投資の形により「日本の防衛生産および工業力増強に使用せられるものと」し,「防衛支持援助の諸行為に関する必要な諸取極が結ばれることになろう」ことが表明された31。僅少な額であるとはいえ,「経済援助」的性格の防衛支持援助を引き出すことに,さしあたりは成功したのである。

一方,農産物の購入条件をめぐる交渉は難航した。すでに10月初め,MSA農産物買付の問題について次のように報道されている32。米側は,この農産物買付が,米国及び友好国の通常貿易を減少させる結果とならないこと,価格は国際市場価格の最高水準に一致させること,これによって積み立てられた現地通貨は,MSAの目的に従って軍事援助等に支出することなどを条件としていた。価格・品質の点に関して,日本の農林省は次のような批判的な見解を有していた。日本側が希望している「国内売渡しにあたり輸入補給金をつけないで済む程度」であれば86ドル/トン(CIF)となる。他方,当時輸入小麦の大部分を占めていた国際小麦協定の価格は83ドル,カナダからの協定外小麦の輸入も同じく83ドルであったので,MSA小麦はこれより割高となる。もし,アメリカが同国内の支持価格89ドルを主張するならば割高傾向がさらに強まる。また,「アメリカ小麦の大部分は軟質小麦だが日本が欲しいのはパン用に適用する硬質小麦」であり,さらにアメリカの小麦は膨大なストックを抱え,一部は野積みされていたこともあるので,品質の点でも懸念されていた。10月下旬には,大蔵省による包括的な問題点の指摘が報道された33。一つは積立円の使用に関してであり,第一にドルによる域外買付が円に切り換えられドル収入が少なくなる可能性がある,第二に積立円で日本の物資を無計画に買い付けた場合,インフレ要因となる点である。また,買付価格に関して,アメリカ内の市場価格の最高額とするならば,日本の食糧価格差補給金の膨張によって財政が圧迫されるという点。さらに,小麦輸送に関して,5割以上の量をアメリカ船で運ぶことになっているが,日本の外貨獲得という立場から日本船の使用を進めるべきであるという点である。

外務省では,通産省,食糧庁,大蔵省から問題点,要望事項を調査した上で,その後の交渉に臨んだ34。詳細な経過の説明は省くが,価格については,他の援助受け入れ国からも批判が寄せられたこともあって,米側が譲歩した3512月10日,米国の市場価格よりも約2割安い国際小麦協定価格によることで妥協が成立した36。これによって小麦50万トン,大麦10万ト【303頁】ン等をMSA余剰農産物として受け入れることとなった。一方,小麦輸送に関して,5割以上をアメリカ船で運ぶことに関しては,米側がその立場を堅持した。農産物売却の積立円に関しては,その使用方法に関して,日米両国の協議によって,日本の経済状態に十分に配慮するものとされた。これと関連して,日本側はこれを「経済援助」的性格の強いものと位置づけ,将来の経済援助の呼び水としようとしたが,アメリカ側によって拒否された37。アメリカ側は,今後,経済援助をうち切ることを強く主張したため,協定は,1954年米会計年度の農産物購入に関する一回限りのものとされたのである。

一方,軍事援助についての交渉も進展し,「日米相互防衛援助協定」,「農産物購入協定」,「経済的措置に関する協定」,「投資保証に関する協定」の4協定が1954年3月8日に調印された38。このうち農産物購入協定は,前述のように5000万ドルの米余剰農産物を買い付ける協定であった。経済的措置に関する協定では,農産物売却代金の積立により,その80%を米軍事計画実施のため日本での物資,サービスの調達にあて,残り20%を日本に贈与し,「日本国の工業の援助のため,および日本国の経済力の増強に資する他の目的のため,相互間で合意する条件に従って」使用するものとされた。この贈与分が前述の防衛支持援助にあたるものであった39

『エコノミスト』誌によれば,「「経済援助」の採否には全交渉期間の四分の三を費やす論議が重ねられた」ため,MSA交渉は予想より大幅に長引いた40MSA交渉については,自衛隊創設の直接の契機となり,憲法第9条の形骸化をさらに一歩押し進めたという評価もある。他方,交渉の過程で吉田政権がアメリカの再軍備要請を押しとどめ「吉田ドクトリン」を確立させることに成功したと評価される場合もある。重要な点は,当時の一般国民の関心からすれば,MSA協定が再軍備につながることへの懸念であり,吉田政権は世論対策という観点から,「経済援助」を引き出すことによって,MSA協定の軍備拡充的性格を払拭することに最大の努力を振り向けたということである。ただし,その努力はほとんど報われなかった。経済政策面においては,将来的にアメリカの援助と特需に期待することができないことは決定的となり,輸出振興あるいは輸入代替による国際収支均衡化への努力が政策の主流となるのである。1953年秋頃からの金融引き締めと財政緊縮への努力41は,MSA交渉の過程で将来的に援助や特需が先細りとなることが決定的となったことも影響した。前節で取り上げた,日米経済協力を通した需要と資源の確保という産業界の期待と構想もまた,その非現実性のゆえに挫折したのである。

 

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5.MSA協定と労働運動     目次に戻る

  

(1)批判的見解     目次に戻る

政府が経済的メリットを強調しながらMSA交渉を進めたことは,その非現実性の故に,むしろ鋭い批判を浴びることとなった。ここではまず,いくつかの知識人の批判を取り上げよう。都留重人(一橋大学経済研究所所長)は,「MSA援助はまず直接的には,日本の保安隊にアメリカの古い武器を提供することからはじまるだろう。かりにいわゆる「域外買付」によって二億ドルや三億ドルのハネ返りがあったとしても,それは日本の雇用を増やすことになっても,日本経済自立のための基盤をつくりはしない」と述べている42。有澤広巳(東京大学経済学部教授)は,木村禮八郎(参議院議員)との対談において43,前述の外務省のMSA宣伝のパンフレットに関して次のように発言している。「MSA援助の功罪を,そういうふうにわが国の国際収支に及ぼす経済的効果の問題に置きかえることが問題ですね。MSA援助は軍事援助が中心で日本における「自衛力増強」=再軍備の問題こそが第一の眼目で,そういった経済的効果の点だけに限って,MSAを謳うのはどうかと思います。次に経済的な効果だけについて考えてみますと,そのパンフレットでは,たいへんに域外買付を強調していますね。ところが,MSA援助の根幹になっているのは,軍事援助と防衛支持援助(デフェンス・サポート)で,純然たる経済援助と称すべきものはないではありませんが,それは金額からいっても比重ははなはだ小さい」44。さらに同対談では,軍事費の膨張の可能性,それに伴う軍事インフレの危険性が指摘され,MSA協定が日本にとって経済的メリットであるどころか経済的負担となる点が強調されたのである。さらに,宇佐見誠次郎(法政大学教授)は,こうして生ずるインフレを抑制するために,財政均衡,金融引き締めが図られて,「ドッジ安定化計画」のような国民に対する「耐乏生活の強行」が行われる可能性を指摘した45。実際,10月の池田―ロバートソン会談で,池田は,日本国内のインフレを抑制するように要請されている。しかも,それとほぼ同時に金融引き締め政策が実施され,さらに「一兆円予算」による財政緊縮(ただし,防衛関係費は26%増加)への動きが始まっている。したがって,宇佐見のような見解は,説得力を持ち得たのである46。前述の『エコノミスト』でもまた,軍事負担の増大,アメリカの要請による均衡財政,引き締めによる国民生活への打撃が強調され,MSAは,「けっきょく「勘定に合わない」のであって「援助」とは,まことに皮肉な表現である」と結論づけた47

 

(2)平和経済国民会議     目次に戻る

援助・特需による経済自立という政策方針を正面から批判して積極的に運動を展開したの305頁】が,高野実の主導する総評をはじめとする労働者の組織であった。以下では,労働運動がMSA反対を目標として政治化を強め,十分な成果をあげられずに経済闘争中心へと転換する過程を検討する。

1953年3月30日の周恩来声明などによって,朝鮮戦争休戦が次第に現実化する中で,企業経営者はそれに伴う景気後退に備えて合理化に乗り出し始めていた。こうした動きに対して,総評は,根本的には日本が「軍事経済」化したことが問題なのであって,先行き不安となった経済を回復するためには「平和経済」を確立しなければならない主張した。そこで,1953年4月8日,「平和国民の側の経済政策樹立のための打合せ会」で,平和経済国民会議の運動を起こすことを決定した484月11日には,経済学者,国民経済研究所・日中貿易促進協会・政治経済研究所などの経済専門家,総評,合化労連・炭労・鉄鋼労連・電産・国鉄・全繊同盟・私鉄総連・全造船など各労組代表ら約100名が出席して「平和経済プラン樹立のための経済専門家会議」が開催された。討論の内容は,「当面する政治不安,経済恐慌は戦争政策の矛盾から起った」と認識し,これに対処するために「労働組合が先頭にたって,国民各層に積極的に平和と独立を宣伝する運動を起」し,「平和経済の構想」を緊急に樹立しなければならないというものであった。

1953年5月6日と5月14-16日に二回にわたって平和経済国民会議予備会議が開催された49。会議では次のような内容の議論がなされた。まず,日本はアメリカの戦争政策に従属させられていると規定され,たとえばMSAに関しては,「日本ははっきりアメリカの戦争体制の中にくみいれられ,軍事的にレイ属化されると同時にアメリカの過剰物資を高く買わされ(綿花,砂糖などによくあらわれている)しかも自由貿易という名目で,関税をかけて,その輸入をふせぐ権利はうばいとられており,植民地化されつつある」と批判している。目指すべき「平和経済」のあり方において強調されたのは,次の二点である。一つは,「つねに国民の利益と要求を満たしてゆき民需品の市場を基礎とする経済体制である。すなわち国民大衆のための家を建て,学校を完備し,日常生活消費物資を豊かにし,国民に幸福な生活をあたえうる平和建設をやる経済体制である」。もう一つは,日中貿易促進であった。つまり,持続可能な経済循環システムの骨格として,消費水準の向上による内需拡大,さらに日中貿易促進と国内市場の保護という方向が打ち出されたのであった。

総評の構想は,政府の,特需・援助への依存(短期的対策)と合理化による輸出振興(長期的対策)という方針とは対照的であった。「平和」という理念が極端に強調され,平和経済の姿として,消費を中心とした内需拡大と日中貿易を通したマクロ経済の安定が構想されていた。しかし,構想実現のための道筋は不明瞭であり,労働者を目標達成にために動員するための誘因プログラムは用意されていなかった。当初の運動方針は,「戦争体制そのものの批判のうえに立って農民,中小企業者,失業者をふくめた統一闘争に向って結集しなくてはならない」と抽象的であり,イデオロギー的理念に基づいた義務感のみが一方的に強調されており,闘争のターゲットも茫漠としたものであった。

平和経済国民会議は,予備会議開催後,地方での平和経済会議,中央での最低賃金部会,電力部会,技術部会,貿易部会,総合開発部会,鉄鋼機械部会,賃金合理化部会,農業肥料部会,306頁】社会保障部会などが開催されたが,「これらの運動は総評の意図に反して,会議開催だけに終り,会議の成果を闘争の場に移すまでには至らなかった」50。「平和経済」構想と職場レベルでの日常闘争との間には大きなギャップがあったからである。平和経済国民会議推進のために設けられた総合小委員会の会合で,1953年8月17日,そうしたギャップが指摘され,「今まで単に「平和経済」として取上げていたものをMSAに対置させるように内容を方向づける」との方針が立てられた。茫漠としていたターゲットが,MSA反対という一点に明確化され始めたのである。さらに9月11日の総評幹事会において,高野実事務局長は,「労働者だけが闘うのではなく全国民と共に闘うのである。MSAによって肥る人々に対してMSAの被害を蒙る階層の団結によって闘ってゆくべきである。自分たちの一番身近な家族を含め大きな共闘のかたまりを以て闘おうとする最近の闘いによく現れている」と延べ,「MSA下の労働運動」及び国民各層の幅広い統一戦線の強化という路線を打ち出した51。この路線に基づいて,差し当たり共闘のための産業防衛共闘会議が開催された(9月28-29日)。同会議の「宣言」では,MSAを受け入れることで「独占資本」のみが潤い,合理化攻勢によって労働者は圧迫されようとしていると捉え,労働者大衆が中心となって,「同じ苦しみをもつ家族とも,農民とも,市民とも力をあわせて,MSAに調印し,日本国民をアメリカの軍事目的に従属させようとする吉田ファッショ政府を打倒し,MSAを引裂くところまで闘いぬくであろう」と述べている。これを受けて,労働者の運動をより広く一般国民を巻き込む形で展開するために,総評の主導で,12月14-15日,第一回平和経済国民会議が開催された52。この会議には,多数の学者,日本農民組合,全国農民組合,全商工団連,水害復興国民会議,日中貿易促進会議,日ソ貿易促進会議など広範な階層の人々が結集した。高野の目標は,「総評の抵抗」によって,「MSAの実施を不可能ならしめる」ことであった。「民族解放の闘い」などの理念が掲げられているが,主要な目標は,MSA協定阻止,平和的な経済システムを目標とする政策の実現という点にあった53

 

(3)総評の転換      目次に戻る

総評は,MSA反対を明確なターゲットと定めることにより,平和経済国民会議に幅広い層の人々の関心を集めることには成功した。前節で述べたように,MSA交渉において,政府の宣伝した経済的メリットを得られる見通しが全く立たなくなってきたからであり,また,「再軍備」が政治的な争点となっていたからでもあった。総評や労組の幹部においては,政府や経済界の経済的メリットの宣伝は,「再軍備」を推進するための「ゴマかし」にすぎないと認識されていたし,また,1953年秋以降の引き締め政策とそれに伴うデフレ,「賃金ストップ」(後述)は,一方の防衛費の増大と相俟って,「再軍備」の負担を労働者に押しつける政策と考えられるに至ったのである。

デフレ政策下において,1954年初頭,日経連は,いわゆる賃金三原則を主張した。これは,物価引き上げ要因となる賃上げは認めない,企業経理の枠を越えた賃上げは認めない,労働生【307頁】産性向上の伴わない賃上げは認めないとしたもので,労働者側から「賃金ストップ」政策と呼ばれた54。さらに,日経連は,2月24日に「当面の賃金要求に対する経営者の心構えについて」を発表した。その焦点は,「過去数年に亘る年中行事的ベースアップ」に対する批判であった。「無制限なベースアップを許容するときは,業種別規模及び労働の組織未組織の別による勤労所得の格差をさらに拡大し,また物価引下げの国家的要請に相反する。従って大規模産業乃至基礎産業の賃金決定に当っては国民経済的見地に立って一層厳正に対処しなければならない」とされたのである。その後さらに,労働者の昇給は,ベースアップを行わずに,個々の労働者の賃金の査定替えを定期的に行うにとどめる定期昇給方式に限るべきだとの主張が現れてきた55

総評は,日経連の攻勢を受けて,1954年5月24日,「賃金ストップ政策を打ち破る当面の賃金闘争方針」を決定した56。そこでは,「賃金闘争」が,MSA協定に基づく政策,体制をほりくずし,「平和的生産の拡大を求め,恒久的な繁栄に導く新しい政策のための闘争に発展する性格をもっているばかりか,これらの体制と対決する生活権防衛のための,国民総団結の中軸的任務をもっている」ものとされた。さらに,労働者は「国内的には経済の平和的建設,市場の拡大のために,他の社会層とテイケイして,自分の手で,国内建設をやり,国外的には国民間の平和と貿易の拡大を要求して,諸国民間の平和的連帯を深めるための運動を一歩一歩すすめるべき段階にきている」と述べられている。

前述の平和経済国民会議における,内需拡大・国内市場保護による再生産構造の再構築という基本方針を実現する一つの手段として位置づけられたのが,このデフレ下での賃上げ要求だったのである。そして,デフレ下の解雇,「賃金ストップ」に対抗する戦略として高野が提唱したのが「ぐるみ」闘争であった。「ぐるみ」闘争とは,職場レベルの闘争を基本に,産業別闘争,さらには家族,地域住民を巻き込む形での共闘として構想された57

「ぐるみ」闘争の実践の場は,1954年8月末に始まる三鉱連の解雇反対闘争,尼崎製鋼所の賃下げ反対闘争,日本製鋼所の人員整理反対闘争などであった58。三鉱連の闘争は,組合側が勝利を収め,解雇拒否者の解雇撤回が認められた。闘争の主体となったのは,「全職場にオルグを配置した職場闘争組織であり,同時に地域的な共闘と主婦会との完全連携」のもとに行われた。一方,尼崎製鋼においては,賃下げが人員整理問題へと発展するに至って労使対立が激化した。闘争の過程で,労組に対して地域の商店も協力し,「労商提携」による闘争が行われたが,最終的に会社は倒産し,全員解雇によって組合が解散するという結末を迎えるに至った。日本製鋼室蘭の争議では,より強力な地域共闘が組織されて大きな影響力を与えた。「室蘭労組内部の動きは複雑を極め,再建派の新組織結成の動きが目立つ反面,北三連,炭婦協の指導を得て社宅主婦の意気は上り,青年行動隊とともに零の闘争を主張し,組合会合,デモ等に積極的に参加するようになり,組合の意思決定の際に無視できない地位を占めるに至った」とい308頁】う。その後,第二組合が結成され,両組合員の間で暴力事件が頻発するなどの経過をたどり,最終的には中労委の斡旋によって希望退職者の募集が行われた。

以上のように,実際の「ぐるみ闘争」は,地域に根付いた企業の再建整備(合理化,解雇等)に反対する闘争として行われたものである。こうした闘争は,地元住民の雇用確保に関わるものであったから,地域内において同一の利害を結集しやすく,「地域ぐるみ」になりやすい。総評は,そうした運動を強く支援したが必ずしも成果をあげなかったのである。しかも,上記の「地域ぐるみ」闘争は,雇用確保という利害に基づいたものであったため,高野が想定したような賃上げ→平和経済の建設という運動の全国的な展開に必ずしも結びついていくものではなかった。

合化労連第13回中央委員会(1954年6月8日-10日)における批判によれば59,「産防会議,平和経済国民会議等々,矢継ぎばやに総評指導部によって打ち出されたカンパは,資本のはげしい合理化政策によって,生活と組織の防衛に大童であった下部大衆にその関連が十分納得されるに至らず,このため,上すべりの闘争となり,この使命を果たすことができなかった」。高野の平和経済建設のための「ぐるみ闘争」,その中核の一つに賃上げ→消費市場の拡大を置くという方針は,理念以上の現実性(地域における利害の一致に基づく労働者と住民の共闘)を持ち得なかったものといえる60。しかも,MSA協定を阻止し,平和経済建設を目指すという闘争は,その性質上,政治的にならざるを得なかった。吉田内閣を倒し,「再軍備」に明確に反対する社会党左派政権の成立を経ないでは最終的には実現できない目標だったからである。賃上げは,大きな政治的目標に従属させられていた。MSA反対という明確なターゲットは定められたが,政治的理念のみでは労働者を動員するための誘因として不十分だったのである。総評の政治志向は,傘下の労働組合等からの批判を招く61

1954年冬,総評内で高野と対立する合化労連・太田薫の主導で,新たな運動が開始された。前述の合化労連の批判に基づいて,MSA反対闘争を運動の主眼とするのではなく,賃上げを目標にMSA体制反対を正当化の論理として利用する運動であった。まず,炭労,私鉄,合化,紙パ,国労の五単産共闘会議が発足し,1955年春闘に向けての運動が組織された。12月27日に発表された方針において,強調されたのは,「今日の低賃金政策はその根が深くMSA再軍備に連なるものであるため,労働者の要求は極めて多岐広範に亘るが闘争の集約化という立場から,この共闘は当面賃上を中心要求と」するという点である62。さらに,1月の総決起大会では,MSA体制の下において,「低賃金を軸として再軍備,高利潤のために国内の再編成を行う」政策に反対し,「再軍備と高利潤政策のため呻吟しつつある全勤労者大衆の望んでやまない「平和と繁栄」の要求につながる闘い」を行うことが宣言された63

309頁】これ以前の1954年8-9月,総評は,電産中央本部の作成した,賃金闘争のための労働者組織化方針をその機関誌の中で一つのモデルとして掲載している64。そこで重視されたのは,デフレ下において,「賃上げ斗争は行うべきでないと思いこんでいる人」,「中小企業が倒壊し,失業が増大しているとき,近代産業労働者だけが楽になるような賃金闘争は,いけないと考える人」もいる現状で,多くの労働者をどのように賃上げに向けて組織していくかということであった。強調されたのが,「戦争経済政策のシワ寄せ」のために労働者が低賃金にあえいでいるという論理であった。

以上のように,MSA体制下の不当な低賃金が許容できないとの論理は,デフレ下における自粛論に対抗する賃上げ正当化の論理として利用されたのである。しかし,職場レベルの組織化の際には,単にMSAを持ち出すだけでは不十分であった。1955年2月8日,総評は,第一回賃金闘争討論集会を開催した65。この集会で,電産からの参加者は,「日常闘争をおろそかにしてきた。本当の斗争をしらないうちに要求され斗われてきた。要求を自分のものにする,賃金の本質を徹底的に宣伝,啓蒙するようにしてきた。組織の内部的な欠陥をいかに克服するか,産業別一本にした斗いをしなければならないということから,幹部斗争を配慮し,職場や組合大衆をつうじての戦線統一,下部にはそういう斗争をつうじてこれからの斗争は,生かされている」と述べている。こうした労組幹部のオルグ方針に対して,同集会で各労組の代表から明らかにされたのは,労働者の不満や要望は多様であり,必ずしも賃上げには限られず,「職場の悩み」があることが指摘された。私鉄総連からの参加者は,「賃金斗争は職場のなまの声を基礎にしてやることが必要でなかったか。それを気づいたことは大事な前進だったと思う。また,サークル活動の非常に良い芽を全体的にひろげることが大事である。地方の職場では,MSAや搾取等の話しが話しにおわり,そこからは行動は行われないのだ。いろいろなことをいうまえにまず,人間として,労働者としての感情,感覚をもつことが大切だ」と述べている。紙パ労連からの参加者は,「いままで賃金要求一本であったのが,賃金のまわりに沢山の要求をつけて出すようにしている。たとえば賃金斗争に,老年の要求である定年制の要求と,若い人の結婚資金の要求を結合してやるとか,やっている」と発言している。その他,企業内に閉じこもらずに,地域などとの共闘すべきであるなどのさまざまな意見が出されたが,強調された点は,それまでの「反MSA闘争」が幹部だけのかけ声に終わり,一般組合員にMSAによる低賃金の押しつけという理解が十分に浸透しなかったこと,また,一般組合員の「悩み」を必ずしも汲み上げてこなかったことが認識された点である。つまり,高野の「MSA下の労働運動」路線=「ぐるみ」闘争は,MSAによって多くの人々が苦しんでいるはずなので地域ぐるみなどの共闘が容易に成立すると考え,労働者を動員するための誘因を十分に考慮しなかったために有効でなかったということになろう。

1955年春闘の実際の闘争過程で,その中心勢力となった合化労連では,次のような闘争方針が立てられた66。要求内容は,最低賃金の確保(18歳独身税込み8000円),一律プラスα【310頁】の賃上げ要求。賃金配分方式として,中だるみを調整するため,「シワヨセの激しい」高小卒旧工員の中堅層30歳前後の「人達の要求を重視すると同時に,組合の戦闘力の中心となってもらう」。「賃金ストップの壁の中で実質賃金の向上を図るため,退職金,結婚資金,諸手当の増額,臨時工の待遇改善,厚生施設の拡充,給食の実施,遺族補償などの諸要求の中から,日常の搾取をバクロして次第に闘争をもり上げ,賃上げを軸にして集約する形で闘争を進め」ることなどである。合化労連の,一般組合員の要求をできるだけ汲み上げるという方針は,1954年の春季賃上げ闘争67以来のものであり,より具体化されたものであった。

紙・パ労連では,1954年度においては各労組の内部不統一が甚だしかった68ことへの反省から,1955年春闘では,組合員の多様な「不平,不満の掘起し」を重視している69。さらに,「単に米,日独占資本,MSA軍事体制と言ってもわからない。不当な競争,無計画な増設,原材料の仕入,生産過程,管理,販売面を団交や調査の中から,明に追求してゆけば,資本家の経営の下手さ,横流し,銀行の搾取,原材料や販売面の搾取などが浮び上ってくる」として,具体的な問題に焦点を合わせて啓蒙していくべきことが強調された。各労組の組織力強化をもとに,労組間の共闘も比較的順調に結成され,他の単産とともに共闘が行われた。この結果,前年には国策,山陽,日本パルプが賃上げを獲得できないままに闘争を中止し,三菱,東北,本州の三労組を除いてスト権を確立できないなど低調に終わったのに対し,1955年には多くの組合でスト権を確立し,一定の賃上げを獲得することができたのである。

この1955年春闘は,結局,炭労,私鉄,合化,電産,電機労連,紙パなど8単産の産業別共闘によって行われた。ベースアップ要求額に比して妥結額がそれほど高くはなかった70とはいえ,デフレ下の経営者側の「賃金ストップ」政策下において賃上げを獲得したこと,産業別統一行動が強固な組織力を発揮したことなど,参加労組においてはそれなりに評価できる成果であった。「自己批判書」では次のように書かれている。「政府,資本家が間断なく「賃上げ要求の非常識」を宣伝しつづけていたあの情勢下に於て,中労委自体が公然と賃上げを認め(私鉄,炭労),更に合化,電機労連,紙パ,化学,金属と次々に賃上げの事実を作り上げた事によって,新しく「闘えば獲れる」と云う自信を各産業労働者の間に拡大してきたのは事実であり,この前進の基点となったものが八単産七十万の共闘にあったことは否定できない点だと信ずる」71

1955年7月の総評第6回定期大会で,高野が退陣し,いわゆる「太田・岩井ライン」が成【311頁】立し,同年春に一定の成果をあげた春闘路線が推進されることとなった。「太田・岩井ライン」においても,平和運動は重視されていたし,平和経済建設の方針も継続していた。したがって,総評運動の目標一覧は継続していた。しかし,高野が「ぐるみ闘争」を重視して,大衆闘争によって平和経済の建設を目指し,その中の一戦術として賃上げ闘争を位置づけたのに対し,「太田・岩井ライン」は,産業別統一賃上げ共闘という戦術を採用して賃上げを目指し,MSA反対は正当化の論理であったという点で異なっていた。労働者動員のための誘因はより強化され,政治闘争は経済闘争に従属させられたのである。

1955年以後,「太田・岩井ライン」の春闘路線が総評の戦術として定着した。労働者が「闘えば獲れる」との自信を得たこともあって,その後,春闘は拡大・発展した。総評は,春闘において賃上げを正当化する一つの理由として,「賃金値上げは国内市場を拡大する」と主張した。「再軍備を意味する重工業製品の需要は増大しなくても生活必需品の需要が全面的に増大する。平和生産が拡大する。中小企業がうるおって来る。かくて平和産業のための重工業に好影響を与える」との平和経済建設が想定されていた72。その後,「平和」という理念は希薄化し,日本の賃金が欧米に比して低水準であることなどを根拠に,賃金引き上げは,「労働者の利益だけではなく,国民消費の増大を通じて国内市場を拡大し,不況の影響をくいとめることによって国民全体の利益を高める」として正当化される73

1950年代後半以降の春闘で重視されたのは,職場レベルでの組合員の要望を吸い上げて組織化しつつ,産業別統一賃上げ闘争に向けて動員することであった。春闘の戦術は,その後,トップ・バッターによってできるだけ高い相場を作りだしていくというように,より合理化されていくが,そうした戦術は毎年のベースアップを産業・企業横断的に浸透させる効果を持った74。もう一つ重視されたのは経営者側に主導された「生産性向上」への反対運動―特に能率給の導入による生活給的賃金体系の「改悪」―であった75。しかし,総評中央部での「生産性向上反対」表明とは裏腹に,企業内では具体的な反対運動がほとんど実効的になされなかったことが指摘されている76。総評の実質的な活動目標の中心は,長期雇用保障の確保と平均的な賃上げの産業横断的な波及となった。そうした経済闘争重視の姿勢は,一般労働者の間にまで広く受容される活動方針であった。企業別組合を前提としながらも,各労働組合間のゆるやかな協力行動によって,長期雇用,定期的な賃金上昇という制度は,大きな広がりをもつとともに,持続性を強めた。労働者側が,闘争の可能性を担保に経済的な成果を獲得し続けるための一種の慣行を作り上げた点において,それ以前に比して協調的な労使関係の形成を支えたものと理解することができる。

 

312頁】

6.おわりに     目次に戻る

 

MSAに基づいた特需・援助・軍需依存路線は,その非現実性が明らかになり,また高野らの主導による総評等の激しい反対を受け77,否定された。政策的には輸出振興を目標とした産業政策による国際収支の安定化が重視されるに至る。アメリカとの協調的な関係をもとにした,西側諸国からの資源輸入に依存した臨海工業地帯の開発という戦後に本格化した重化学工業化路線はその延長線上にある。

総評によるMSA反対闘争は,悲惨な戦争を経て,戦後改革で労働者に大きな権利が確保されたことを背景とした大衆心理的な動きを動因としていたものと考えることができる。政府・財界の一部で軍需工業化が提唱されたことで大衆心理の感情的な昂揚が助長され,労働運動は極端に政治化した結果,戦術が非現実的なものとなった。このため,高野路線への支持が失われ,「太田・岩井ライン」の経済闘争重視へと転換する。

占領後期以来の企業の組織力を強化し,組織間関係を洗練させる政策とドッジ・ライン前後からの企業の精力的な再建努力,53/54年頃に本格化する輸出振興政策によって,55年から海運・造船・鉄鋼・機械へと波及する形で内需拡大が実現し,高度経済成長が始まる78。労働運動の転換は,協調的な労使関係と継続的なベースアップに伴う消費拡大を帰結し,成長を側面から支えた。

1920年代後半から1930年代半ばの日本で発展した戦間期の経済システムは,企業や企業間関係,政府・企業間関係等の組織力強化を促進するものであったと考えられる79が,一方で組織内部の人々と組織化困難な人々との格差を深刻化したという点で社会的・政治的な限界に達した。また,組織力強化の過程で国内均衡が重視され,天然資源確保の重要性も高まった結果,国際的な対立が助長された。戦時統制と政府介入による企業組織再編は,そうした限界を乗り越え,国民全体の包括的な動員を目指した試みであった。この試みは軍需生産で一定の成果をあげたものと思われるが,旧来の組織の解体,戦争被害による物的・人的被害を通じて旧来の経済システムを大きく損傷した。戦後改革では,社会的・政治的な論理が強調され,占領初期には戦間期の経済システムの解体が試みられた。この間,資産の破壊,国際的な投資・通商システムの崩壊,冷戦の影響によって,日本のマクロ経済は国際収支面で自立困難な状況に陥った。同時に,敗戦と戦後改革によって労使など諸利害集団間の対立が強まり,政治的・社会的統合を再生する必要に迫られた。戦後型の日本の経済システムは,大きく損傷した戦間期313頁】の経済システムをもとに,戦時・戦後改革でのさまざまな実験的試みと失敗の経験を経て,不安定なマクロ経済・政治社会環境をもとに形成された。1950年代前半まで不安定なマクロ経済・労使関係のもとで,新たなシステムはしばしば動揺したが,MSA受け入れを契機とした経済・社会・政治的変動を経て,50年代半ばに安定した。この戦後型の経済システムは,戦間期のシステムに比してさまざまな特徴をもつ。一つには,弱体化した企業及び企業間関係等の組織力強化への対応や敗戦と冷戦の制約を受けたために資源確保とその効率的な活用をめぐり政府の関与度合が高まった点が目立つ。もう一つの特徴は,戦時期の組織化の拡大,財閥解体・労働改革など戦後改革を経た企業組織・企業間関係・労使関係の再編,産業政策による企業支援などにより,内部に柔軟性と利害対立を秘めながら,戦間期よりも大きな広がりをもって,人々が組織化されたと見られる点である。経済成長への期待が,広く共有されたということもできよう。