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日本的経営とエージェンシー・コストの削減

——エージェンシー理論による,日本的経営の再考察の試み——

 

小山 明宏

 

 

1.日本企業におけるプリンシパル・エージェント関係の固有性

2.エージェンシー・コスト削減の有効な手段としての日本的経営

 2.1 エージェンシー・コストは「文化」によっていかに削減されるか

 2.2 有利さの基準としてのエージェンシー・コスト

 2.3 日本的経営によって削減されていたエージェンシー・コスト

3.バブル経済の終焉と現在の社会の変化

 3.1 日本における銀行の役割の変化

 3.2 日本社会における価値観の変化とその影響

4.将来の展望

 4.1 変わらざるを得ない「日本的経営

 4.2 エージェンシー・コスト削減の新しいパターン

 

 

1.日本企業におけるプリンシパル・エージェント関係の固有性

通常の企業の理論において,あるいは,ごく大ざっぱな言い方をすれば,新古典派経済学における企業の理論において,企業内における「常識的」な,エージェンシー関係(あるいは,プリンシパル・エージェント関係,以下ではこちらの呼称を用いることにする)にあたるものは,株主と経営者の間のそれであるといわれてきた。もっともこのような見方は,すでに,現実を見る目としては,「時代錯誤」などの悪口を浴びせられつつあったことは良く知られているところであるが。ひるがえって,わが国の企業について,その現状を観察してみると,やはり,経営者は,実質的には一般株主のエージェントであるとはいいがたいのである。すなわち,法的には最高執行役員(わが国における代表取締役。以下,経営者もしくは経営者陣という呼称で言及することがある)は,株主のではなく,取締役会のエージェントであり,取締役が株主総会によって任免される(旧商法2541項,257条)限り,形式的には取締役会は株主のエージェントにあたるように見える。ただし,エージェントの権限はいついかなるときにおいてもそのプリンシパル(本人)によって停止されうるというのが,元来のエージェンシー理論における前提であるが,取締役会は,通常は何らかの理由がない限り,株主によって解任されることはできない。株主総会にはそのような権限はない。同様にエージェントは,やはり本来のエージェンシー理論の前提では,通常プリンシパルの指揮にしたがわなければならないもの264頁】とされるが,これまた,株主は取締役会の権限内にあることがらに関して拘束的な指令を発する法律的な権限を有してはいない

このように,純粋に商法上の文面規定のみを根拠とすれば,株主と取締役会の関係はプリンシパル・エージェント関係のように見えるのであるが,事実上(faktisch),すなわちその運用上の実際問題としては,両者の関係は厳密なプリンシパル・エージェント関係とはいえないのである(であるから,商法上は取締役会によって選挙される代表取締役と株主の関係は,さらに不明確なものとなる)。すなわち,総論的には,定義上はプリンシパル・エージェント関係のようであり,しかも共通の定義そのものはこれのみであって,すなわち「建て前」のみが存在していて,細目に関する定義はない。それらは,たとえば会社ごとの定款により,必要に応じて詳しく取り決められることになる。すなわち,「定義」あるいは「建て前」より先の問題に関しては,現実の状態をもってそれを考察するしか方策はない,ということになる。したがって,「建て前」としてはプリンシパル・エージェント関係のようではあっても,その事実上の細目としては厳密なプリンシパル・エージェント関係とはいえないということであるから,われわれがこれを検討する際には,せいぜい,「疑似プリンシパル・エージェント関係(Quasi - Principal - Agent - Beziehung)」あるいは,「ゆるやかなプリンシパル・エージェント関係(Sanfte Principal - Agent - Beziehung)」という把握をせざるを得ない。しかも,そこでの発想は,よく考えてみると,「株主が会社を所有する」という基本的思想に根ざした,いまや全く現実には即さない伝統的な概念によるものになっていることに注意しなくてはならない。言い換えれば,「実状として」,会社はもはや株主だけのものではない。それは「株主+従業員」のものであるといわざるをえない。しかし,プリンシパルの範疇に従業員まで含めると,当然のことながらますます,彼らと取締役会との関係は,「契約」という意味では,すでに厳密な意味でのプリンシパル・エージェント関係ではない。しかし,経営者の行動が,常に「株主+従業員」の利害を左右する,という点では,彼らの間の関係は,やはり事実上は,「ゆるやかなプリンシパル・エージェント関係(Sanfte Principal - Agent - Beziehung)」であるといわざるを得ないであろう この意味では経営者(陣)は,「疑似エージェント(Quasi - Agent)」と呼ばれてさしつかえないと思われる

青木(1984)によれば,エージェンシー理論における以上のような「欠陥」は,しかしそれの価値を完全に否定してしまうに値するものではない。むしろ視点を変えて,より別の方向から検討が試みられるべきであると思われる。すなわち,現実の問題に対する接近の足がかりとして考えた場合,ここで問題なのは,Quasi - Principalとしての「株主+従業員」は,Quasi - Agentたる経営者(陣)の選好に関して完全な情報を保有してはいない,ということである。実際,エージェンシー理論の発展は,「株主+従業員」の側に,経営者の選好に関する完全な情報が存在しない場合に,経営者を監視し,規律づけるメカニズムにはどのようなものがあるか,という研究に少しずつ向けられてきたと言える。すなわち,いわゆる「非対称的な情報分布」の問題に,その論点が集中している,ということである。ここでは,この問題にこれ以上触れる余裕はないが,いずれにしてもこの問題は,今後大いに「掘り起こされるべき」問題である。

265頁】ところでまた,特に高度成長期,そしてバブル経済の破裂以前は,株式の相互持ち合いを通じて,法人株主の「プリンシパル権」を相殺し,かくして全体としての株主の「プリンシパル権」は実は完全に消失しており,この意味でも株主と経営者の関係は,ますます純粋のプリンシパル・エージェント関係ではないといえる。

一方,経営者と従業員の関係は,日本独特の「相互プリンシパル・エージェント関係」になっている。すなわち,従業員は職務上,企業(=経営者陣)に雇用され,委譲された権限に依拠して,企業の業務を遂行しているから,そこにおいては,経営者陣は典型的なプリンシパル,従業員は典型的なエージェントになっている。すなわち,経営組織の中の上司と部下の関係は,意思決定の委任というプリンシパル・エージェント関係の典型例である。そして,周知のとおり,企業というものは,このようなプリンシパル・エージェント関係が積層化した「融合体(eine Verschmelzung als Schicht)」であり,経営者陣は文字どおり,その頂点に位置している。これは,わが国に限ったことではないが,その一方で,わが国では,独自の「企業一体感」にしたがい,従業員はその運命を経営者陣の意思決定に託している。すなわち,わが国では,「企業」は,株主のものだとは思われておらず,実は,企業にコミットして長期に働いている従業員のものだと,常識的に思われている。社員も含めて一体として一つの「企業体」という観念がある。社員は簡単に辞めて他へ移れるほど労働市場が完全でない。すなわち,経営者や従業員は,企業に「貼忖いている」のである。

このような状態に立ち至った条件として,通常取り上げられるのは,日本的経営の諸構成要素のうちの次の3つである

終身雇用」「年功序列」「企業別労働組合

このうちの「企業別労働組合」は,「終身雇用」と「年功序列」の副産物的意味あいももっている

従業員が長期間同一の企業に所属し続けていることにより,彼の所有する「スキル」は当該企業に特有・固有のものとなり,中堅社員になったときに占める職は,彼のその後の企業内生活の上では自らを守り,盛り立てていく際の,中心的な「武器」となるものである。そして,この「スキル」がほかならぬ「人的資本」としての彼自身が所有する「特殊能力」である。

すなわち,わが国では従業員は「将来の富」(いいかえれば「人的資本」)の出資者であり,しかもそれらの「資本」あるいは「資産」は,自らの手ではリスク分散しえず,事実上は経営者陣がそれらを取りまとめて「投資」しているのである。従業員は,自らの「生涯賃金(当然退職金も含む)」という資産ポートフォリオを自力では分散化できない。これは,退職金の運用方法,保存の制度が日本は固定的なことによる。つまり,事実上従業員は,自らの「人的資本」およびその裏付けたる「将来の富」の投資先として自らの所属企業に委託し,その結果,当該企業の価値がすなわち同時に彼らの「資産ポートフォリオ」の価値になっている。このため,企業がかわりにリスクを分散する行動をとることになる。経営者陣は,であるから,従業員から権限を委譲されて,資産の分散化に努めているのである。この見地から見ると,従業員は,否応なしに自らの生涯賃金としての将来の富の管理運営という活動を,企業(=経営者陣)に委託し(この意味で意思決定権限の委譲を行い),その意味ではプリンシパル的立場にある。ただし,従業員自身はこの場合,エージェントたる経営者陣へ能動的に働きかける立場にはない。せいぜい自らの所属する企業の業績に目を光らせ,あるいは,たかだか労働組合を通じた,ごく一般的なモニタリングをする程度である。しかし,一方の経営者陣は,こうして「委託」266頁】された資本の運用の全責任を負わされているのであるから,エ—ジェントとしての意識は強いと思われる。自らの意思決定が及ぼす影響が,従業員全体の富を左右することと,重要なことは,自分自身もそれら従業員から経営者になったものだ,ということである。彼は,いわば従業員代表という立場にもあり,日本的な意味での従業員のエージェントにあたるものになっているといえる。こうして,わが国の企業内における経営者と従業員の関係は,いわゆる日本的経営,すなわち日本独自の雇用慣行・制度のゆえに,大変ユニークな「相互プリンシパル・エージェント関係(eine wechselseitige Principa1 - Agent - Beziehung)」になっている

 

2.エージェンシー・コスト削減の有効な手段としての日本的経営

ここでのキーワードは「文化」である。すなわち,日本ではエージェンシー・コストの削減のために文化がとりわけ重要な役割を果たしてきていることに注目すべきである。

 

2.1 エージェンシー・コストは「文化」によっていかに削減されるか

「文化」という言葉は多様な意味を持つ。時として,「言語」は「文化」そのものであると言われる。この意味で,ドイツのことを知るにはドイツ語の本を読むことが望ましいし,同じように,外国人研究者が日本的経営や日本企業を詳しく,そして正しく分析するには,日本語の本や論文を読めることが大いに助けになるだろう。こうして考えると,ドイツでは,日本的経営や日本の企業間関係などを日本人がドイツ語で説明できれば望ましいであろうが,それはやはり大変なことである。もちろん外国人研究者は,日本的経営や日本の企業間関係を英語文献で研究することもできるが,その際に翻訳文献には誤訳や予期せぬ内容の改変の生じる可能性がある。以前わが国の有名な経済新聞に,「ドイツの株式会社における執行役会議長は,同時に監督役会メンバーでもあり,株主側の監督役の選任プロセスで大きな影響力を持つだろう」と書いた研究者があった。これなどは典型的な例であり,アメリカ滞在経験の長い,この研究者は,ドイツ企業にも興味を持ち,資料にもあたったようであるが,ドイツ語資料にあたらなかった,あるいは,あたっても解らなかった,残念な例である。ドイツ企業の研究をドイツ語で行えば,この兼任がドイツ株式法第105条で厳しく禁じられていることは,ほとんど「イロハ」として知られていることだからである

この他にも,中根千枝「タテ社会の人間関係」のドイツ語版(Edition: Suhrkamp, Taschenbuch)では,日本語版と比較してみると,なんと,章がひとつ欠落していることがわかる。よく読むと,一度英訳されたものを参考に,さらにドイツ語訳されたもので,このような一種の「孫引き」版の危険さを如実に表したものと考えられる。

このように,経済学的対象の実態を理解するにあたっては,文化の影響を正しく判断し,言語の壁を克服しなくてはならない

我々がさらに考慮に入れなくてはならないのは,文化というものが高いレベルで信頼を作り出し,協力を促進するということである。共同の文化に所属することが,信頼の程度を高めうる。こうして,制度的な関係・結びつきの形成には信頼が,必要であることから,文化という267頁】ものが企業組織の内から外から重要な構成要素となるのである。大きな信頼というものが,人間の間の関係を変えうる。市場における契約関係や,階層的組織におけるプリンシパル・エージェント関係をわざわざ正式に形成する必要性というものが,信頼というものによって減少させられうると思われる。このような傾向は,日本では従来特に強く存在していて,ここでこうして削減されるコストが典型的なエージェンシー・コストである。

 

2.2 有利さの基準としてのエージェンシー・コスト

現代の理論においては,エージェンシー・コストは次の3つに分類される。

@エージェントのシグナリング・コスト

Aプリンシパルのコントロール・コスト

Bなお残存する富の損失

エージェントのシグナリング・コストについては,彼とプリンシパルとの間の情報的非対称を軽減するために彼が企てるすべての努力が含まれる。この例として,求人に応募する人が提出する勤務証明書,売り手が出す保証書,あるいは,クレジットを受ける者が提供する担保などが挙げられる。

プリンシパルのコントロール・コストは,エージェントに対して彼が持つ情報的なハンディキャップを減少させるために彼が行うすべての努力を包含する。この例として,国家が企業に対して行う環境負担の施行にあたり,継続的に行われる,汚染や有害物質の測定,求職者の選抜のためのアセスメント・センター,銀行による,融資の許可にあたっての与信価値の検査などが挙げられる。

シグナリングやコントロールに関する努力にもかかわらず,通常は最適な分業や専門化には至らない。知識の不完全さのおかげで,生産性が最高になる構造を発見できなかったり(調整の問題),所有する知識がプリンシパルとエージェントの間で不均等であるために,オポチュニズムが生じうる(モチベーションの問題)。こうして,富の損失,すなわち,そこで考えられる完全情報の状態からの現実の状態の乖離が,なお残るのである。これが,なお残存する富の損失にあたるものである。

エージェンシー・コストのこれら3つの構成要素間には,トレード・オフ関係がある。たとえば,残存する富の損失は,非常に高いコントロール・コストを我慢するならば,相当度低下されうるし,シグナリングを強化することによってコントロールの必要性や富の損失の残存も少なくなる。

エージェンシー・コストの程度は,制度の選択ならびに一連の制約に依存する。エージェンシー理論による制度設計の目的というのは,最適解に最も近い次善の解(セカンド・ベスト)をみつけることにより,エージェンシー・コストを状況に応じて最小化することである。国ごとの企業制度,経営文化などに応じて,企業経営に伴うエージェンシー・コストも変わりうる。それは,国ごとに固有の経営制度が,とりわけエージェンシー・コスト発生させていたり,逆に削減させていたりすることがありうることを意味している。

このような分類に従い,日本的経営を考慮に入れたエージェンシー・コストの構造を,表にして示すことができる。エージェンシー・コストの分類については,非常に多数の試みがある268頁】が,Elschen91による分類は,ごく典型的で標準のように思われる。彼の分類に従い従来からの便宜的な定義を統合すると,次のようになる

ア)いわゆる「ボンディング・コスト」は,エージェントのシグナリング・コストにあたる

イ)いわゆる「モニタリング・コスト」及び「ストラクチャリング・コスト」は,プリンシパルのコントロール・コストにあたる

ウ)いわゆる「残余損失」は,なお残存する富の損失にあたる

 

2.3 日本的経営によって削減されていたエージェンシー・コスト

日本的経営の様々な特徴については,過去数多くの研究者によって,エージェンシー理論の助けを借りて,系統づけられて来た。その中で,ここでは,企業系列の構造,およびとりわけ企業系列におけるメインバンクの役割にふれることとする。中谷(1987),池尾(1992),Koyama1996),Dolles1997),Koyama/Dolles1997などの議論では,日本的経営の特徴による企業系列内で

 

 

のエージェンシー・コストの削減について様々な議論がなされている。私見では次のようなタイプの分類が可能である。(表1参照)

タイプT:(メイン)バンクと企業の間の,あるいは諸企業相互間の長期継続的な事業関係によるリスクの分担

タイプU:債権者であると同時に株主でもある(メイン)バンクによる,情報的非対称性の減少

タイプV:モニターをする者としての機能を(メイン)バンクが委譲されていること

タイプW:深く,強くそして相互的な信頼

このうち,タイプTの削減方法については,中谷(1987)で詳細に説明されている。彼の実証研究では,1972年から1982年について,系列(所属)企業の有効借入金利の標準偏差は,非系列企業のそれより有意に低いことが発見されている。すなわち,系列企業の借入金利の時系列的な変動は,系列への所属のおかげで,非系列企業よりも小さかったのである。これは次のように説明される。すなわち,系列企業はメインバンクからの借入にあたり,資金需要が少なく市場金利が低下している場合は,より高い金利で調達し,一方金融市場が遍迫し,市場金269頁】利が高くなっている場合は逆に,より低い金利で資金供給を受けていた,ということが慣例だった,ということである。このような系列企業と系列メインバンクとの間の相互的補完行動は,リスク分担として機能することは明らかである。こうして,系列企業の借入利率の変動が,長期的に抑えられ,全体としての収益の損失が長期的に埋め合わされ,調整されていたのであった。エージェンシー理論の観点からは,系列内での長期継続的なビジネス関係によって,いわゆる「残余損失(Typ c)」が削減されていたということができる。タイプUについては,日本における銀行と企業の間の特殊な関係が基礎をなしている。この形態のコスト削減は,情報的非対称と,メインバンクが2つの役割を同時に果たすことによるその軽減に関連する。メインバンクは系列企業の発行済株式の5%を上限として,その株式を保有できるが,同時に系列企業へは有利な条件で貸付を行っている。こうして,メインバンクは最大の債権者であり,同時にまた有力株主でもあることになる。メインバンクがこのような二重の役割を果たすことのメリットとして,銀行が,特に最大の債権者として,当該企業の内部情報を取得しうる,ということがある。それによって銀行と企業との間の情報的非対称は小さくなりえて,そこではエージェントのシグナリング・コスト(Typ aおよびプリンシパルのコントロール・コスト(Typ b)は明白に低下する。かりに,銀行がこの情報を利用して,当該企業の与信価値を正しく算出し,正当(相応)な金利で貸付を行うとすれば,富の損失(Typ c)も部分的に避けられるかもしれない。タイプVの削減方法は,金融経済の分野では知られたものである(たとえば池尾(1992)を見よ)。すでに述べたように,メインバンクは株主の役割のみならず,債権者の役割も果たす。今日の株式会社においては,通例,株主の数は莫大で,大半の株主はマネジメントに対するモニタリングにあたって,いわゆるフリーライドを行う。一方,株主でありまた同時に最大の与信者であるメインバンクには,それが許されないであろう。こうしてメインバンクは,当該企業に対し,与信者として常に注意深くモニタリングしなくてはならない。こうしてメインバンクは株主というよりも与信者たる面が強く表れることになる。メインバンクのこのような立場は,他の株主にとって非常に有用であり,こうして他の株主はモニタリング実行者としての役割を,メインバンクに喜んで委任することになる。この意味でメインバンクは「株主の代表者」ともいうべき役割を果たすことになる(そこではメインバンクは,池尾(1992)の言う情報の生産者という役割を果たすことになる)。こうして,エージェンシー・コスト,すなわちプリンシパルのコントロール・コスト(Typ b),とりわけいわゆる「モニタリング・コスト」が削減される。そして同時にそれは,エージェントたる企業のマネジメントにとっても恩恵的となる。すなわち,それにより企業にとっては,プリンシパルに対して発するシグナリング・コスト(Typ a)を有意に節約することができると考えられるからである。このことは,株主である銀行が同時に最大の債権者でもあることに負っている。そして銀行が系列企業に対して行う審査にあたって企業が提供する信用情報を,銀行が所有していることは,他の株主にとっては,代理(代表)モニタリングの資格を銀行に与える決定的な要因となるとされる。

日本的経営のいくつかの特徴,とくに人間関係,とりわけ上役と部下の関係にまつわる特徴は,タイプWの削減方法に貢献している。そこでは筆者が別の機会(小山[1992])に言及した,マネジメントにおけるいわゆる「相互的プリンシパル・エージェント関係」が重要となる。このように強固な相互的信頼関係のおかげで,双方の側からのエージェンシー・コストは相互に相殺されることになる。このような現象の根源は,日本人が持つ強力な集団志向性にある。企270頁】業内の総エージェンシー・コストは,これによって相互に埋め合わされうる

以上のような洞察によって,前述の表は,次のように埋められる;

 

 

3.バブル経済の終焉と現在の社会の変化

バブル経済の終焉以来,企業内および企業間で,この時点まで支配的だったプリンシパル・エージェント関係は大きく変わった。終身雇用制はゆらぎ,基幹労働者がリストラで解雇され,それは企業内のプリンシパル・エージェント関係に影響を与えている。バブル経済の終焉以来ずっと続いている不況に鑑み,日本企業は自らの対外関係の合理化・最適化をめざしている。そこでは系列内部のプリンシパル・エージェント関係が重要な役割を果たす。しかしその間に,戦後初の大銀行の倒産が発生し,それによって従来安定していた系列内関係にも影響が出ている。これらすべての意味するところは,このような新しい現実を顧慮・対応するためには,日本的経営が経済的見地から変貌しなくてはならないということである。

 

3.1 日本における銀行の役割の変化

バブル経済の渦の中で銀行も不動産や株式に投資した。同時に彼らは系列企業へ更なる投資のための資金を提供した。これらの貸付資金は,ひょっとしたら,あるいは全く返済されないかもしれないものであったことから,銀行の立場は難しいものであったと言える。そしてついにこのバブル経済は破綻したのだった。こうして,系列企業が事業資金の不足に苦しむこととなっても,メインバンクはそれを見捨てる,ということも起こった。以前は企業系列におけるメインバンクだった銀行も,従来のように系列企業の暗黙のモニタリング役,そして危急の場合の救援者の役割(それらは,これまで海外でも日本のメインバンクの典型的な役割として知られていた)を果たすことは,もはやできない状態であった。

このような新しい状況が生じたひとつの原因は,日本の財務省が大きな銀行の破綻(倒産)を座視することを,決意したことにある。北海道拓殖銀行の倒産は,このような政策の結果である。

この倒産で,日本における銀行の新しい役割が明らかになった。すなわち,暗黙の,そして相互的な信頼だけでは系列企業を規律づけることは,もはやできないことから,「暗黙のモニタリング役」であってはならない,ということである。銀行は今や,資金供給している企業に対して,常により厳しく検査を行い,モニタリングして,場合によってはより厳しく規律づけなくてはならないのである。彼らはこの役割にあたり,もはや暗黙のではなく,公然たるモニタリング役でなくてはならなくなっている。ただし,(旧メインバンクたる)銀行のこのよう271頁】な機能については,もはや従来のような強い働きができるほど,求心力を持つものでは,すでになくなっていることから,マネジメントを規律づける役割を果たすものが,別に必要となっていた。

こうして出現したのが委員会設置会社という企業形態であり,マネジメントに対するモニタリング機能を果たすものとして,大いに注目された。一方で従来型企業においても,監査役の機能が段階的に強化され,現今では,従来メインバンクが果たしていた役割の代替的な機能を担うものこそ監査役であるとさえ言われるに至っている。

 

3.2 日本社会における価値観の変化とその影響

日本の社会における価値観の変化と,企業及びマネジメントへのその影響は,やはり大きなものがある。それに伴う変化は,日本的経営にとって本質的な部分を形成していた,企業におけるプリンシパル・エージェント関係に影響を与えている。日本の高校や大学の最近の卒業者は,もはや日本の労働生活の拘束に無条件に従おうとは思わなくなりつつあり,そしてそれは当然プリンシパル・エージェント関係及びエージェンシー・コストに影響を与え,場合によっては新しいマネジメント方法を要求することになる。あえて述べれば,日本的経営の「相互的プリンシパル・エージェント関係」の終焉さえもありうるわけで,その原因が価値観の変化ということである。マネジメントおよび企業経営への,価値観の変化の具体的な影響,とくに若い世代でのそれは,日本だけではなく,世界中で大きな問題として取り上げられている。価値観の変化の現れとしては様々なものがあり,たとえばアルバッハは,1994年に次の12の傾向を指摘している

1.物質的な価値だけでなく,知性的な価値・満足の重視

2.産業社会からポスト産業社会への転換

3.労働による満足から自由時間による満足への転換

4.生活の中心としての「家族」ではなく期間が無制限とは限らない「パートナーシップ」としての「家族

5.子供を持ちたいという希望ではなく,制約されない,自分を中心とした,幸福の探求

6.節約・投資志向から,消費志向への転換

7.従属した「結婚女性(妻)」から「解放された女性」への転換

8.豊かさを増加させる社会から,使い捨て社会への転換

9.広く受容されるたったひとつの価値体系を持つ社会から,高度に多様化し,多数のサブカルチャーを持った社会への転換

10年長世代への尊敬という姿勢から,年長世代が受け入れていたすべてのものからの急進的な「離反」への転換

272頁】11法と秩序の状態から,議会外での反対運動,急進的な市民運動,さらにはテロリズムへの転換

12技術的進歩に対する肯定的な態度から,すべてのテクノロジカルな発展や生活形態の拒絶への転換

 

日本的経営については,このうち3.,9.そして10.に注目すべきである。今日,日本の若い世代は,労働による満足から自由時間をすごすことの満足への転換という明確な傾向がある。日本の労働者は,以前は,定年までの長期にわたる労働生活を,節約と勤勉によって耐え忍び,最終的には労働生活に満足してそれを終える,ということをすすんで行っていた。しかしながら,価値観の変化の結果,若者たちは,従来支配的だった労働生活による拘束には,もはや無条件には従属せず,それによって,今まで支配的であった相互的プリンシパル・エージェント原則は揺らぎ始めた。ここで考慮すべきは,前述の終身雇用と日本人の労働へのエートスであり,若い世代にとっては労働は,もはや人生の目的ではなく,彼らが持つ価値体系は,年長世代のそれよりもはるかに多様なものである。民族,あるいは時代の多元的な思想の所産が次第に受け入れられ,若い世代に広がっていて,それは前述の9つめの変化と関係がある

前述の10番目の価値観の変化からは,企業内部でのヒエラルキー関係の変化が生じている。年長世代への尊敬からの離反,そしてそれを年長世代が受け入れていることにより,日本の社会では今日,もはや古い年功主義はゆきわたってはいない。古い伝統的な年功主義は「腐敗した年功主義」とさえ名付けられ,時代遅れで,廃れたものと看做されている。その結果,日本企業内での相互的プリンシパル・エージェント関係は,近い将来なくなる可能性もあると思われる。

 

4.将来の展望

4.1 変わらざるを得ない「日本的経営」

伝統的な日本的経営には,そのままでは,明らかに将来はない。それは今日,変わらなくてはならない,不可避な圧力に直面している。銀行が過去の重要な役割の大半を失ったことは,バブル経済期における自らの誤った政策によるものである。

日本的経営の健全な発展のために必要な3つの望ましい,しかし困難な条件がある。若年世代が更に勤勉に働くためには,年長世代の価値観の変化が必要である。そのための不可欠の前提として,年長世代が年功主義のおかげで保証されていた権利(既得権)を放棄することが要される。過渡的な時期には,それによりコンフリクトが生じるであろう。日本がこのコンフリクトをどのように克服できるかが,第1の問題である

2つめに重要なのは,日本の経営学者が日本企業の意思決定プロセスや企業行動を偏りなく分析することである。日本に顕著にあった傾向として,経営学者が無条件に企業および経営者側だけの立場に立ち,彼らの視点だけを支持・助長していたことである。「人本主義」などという言葉も典型的な,そのような新語であり,日本企業における階層的支配構造を弁護・正当化するためのものに他ならない。この言葉は,より正確には「人本主義」ではなく,「経営者のための人本主義」と呼ばなくてはならない。すなわち,人本主義というのは,当時のマネジメントにとってのみ利益をもたらすものだったのである。もちろん,日本の経営学者のすべてが企業側だけ,マネジメント側だけの立場にあるわけではないが,彼ら(そして我々)が海外273頁】で日本の企業のサクセス・ストーリーばかり吹聴してまわるのは,明らかに誤りである。これからは,日本の企業およびマネジメントの発展に関しては,成功例だけではなく,失敗例も明らかにしなくてはならない。それによって初めて,企業内のさまざまな関係についての正確な考察へ到達しうるであろう。

3つめとして,従来,日本的経営の必要な変化というものは,大半が自ら行われたものではなく,外圧がどれくらい強かったかに本質的に依存していたことに注目すべきである。日本的経営が,外部からの競争圧力により,向上することが期待される。ここでも自立した,より若い世代が活発に関与できるところがある。

 

4.2 エージェンシー・コスト削減の新しいパターン

このように,伝統的なメインバンク制度は崩れ,企業系列も,従来のような形態は姿を消している。そして,それに伴って,バブル経済の破裂以前に機能していた日本的経営の独自性に起因する,日本企業のマネジメントに関わるエージェンシー・コストの削減ルートにも,変化が生じている。それは,「エージェンシー・コスト削減の新しいパターン」と名付けることができる。

前述の表のフレームワークに従って,その後,現在までの変化を,現時点で記すと,次のようになるであろう。

 

 

すなわち,タイプTでいう企業間での長期継続的な事業関係については,バブル経済が破裂した後も,その取引が中断したわけではないので,Typ cのエージェンシー・コスト削減ルートは,存続していると思われる。また,バブル経済の破裂以前における,企業をとりまくわが国のシステムを「旧システム」とよぶことにすれば,旧システムでのメインバンクと系列企業との結合は,バブル経済の破裂以降,飛躍的に衰退はしたものの,銀行側は系列企業の持ち株の放出には消極的であるとされ,その結果,銀行と系列企業との相互依存関係を表す矢印について,銀行側からの矢印,働きかけが以前よりも相対的に強くなっているとしても,Typ cのエージェンシー・コスト削減のルートは,消滅していないと思われる

これに対し,タイプVのエージェンシー・コスト削減ルートには,大きな変化が起こったと考えられる。すなわち,前述の通り,系列企業のモニタリングとコントロールという役割を果たしていた(はずの)銀行自らが,バブルの渦に飛び込んでしまった結果,銀行自体が危機に瀕して,その結果,系列企業のモニタリング,コントロールどころではなくなっていたこと,そして,系列企業の側にはメインバンク離れの姿勢が見られるとされており,もはやタイプV274頁】のエージェンシー・コスト削減ルートは,旧システムの時代のように機能しているとは考えられない。ただし,それが完全に消滅したとする証左もなく,○印が△印に変わったと考えられることを記しておく。

順番が前後するが,次にタイプUのエージェンシー・コスト削減ルートは,タイプVに関して述べたとおり,いわゆるメインバンクによる,株主と債権者の間の情報的非対称の緩和という意味でも,情報の生産・流通にあたって銀行が果たす役割の重要性は,今や旧システムにおけるそれと比較して,格段に低下していると思われ,○印は△印へと変わっていると思われる。

タイプWのエージェンシー・コスト削減ルートについては,第5章で述べたように,「人本主義」が崩壊し,企業内における「相互的フリンシパル・エージェント関係」に大きな亀裂が生じてしまった現在,もはや機能してはいないものと思われる。かりにそれが完全に消え去ったものではないとしても,旧システムにおける日本的経営システムの最大の「武器」のひとつであった頃のような,有効かつドラスティックなエージェンシー・コスト削減ルートとしての役割を果たすことは,もはやむずかしいであろう。こうして,これについては,○印は×印によって置きかえざるをえないであろう。

そして,今や新しいタイプのエージェンシー・コスト削減ルートを考えることができる。タイプXと命名される,このルートは,次のようなものである。

タイプX:ドラスティックな産業内再編成によって,大企業同士の経営統合が連続しており,極端な場合,将来,一つの産業内に一つの企業という状態になりうること

 

 

わが国の産業内再編成の動きは,今や,否応なしに進んでおり,こうして多くの産業で,高いマーケットシェアを持つ企業同士の経営統合が頻繁に見られることは,昨今とりわけ知られるところである。極端な場合,将来,一つの産業内に一つの企業という状態になりうることさえ考えられる。当然,その第一の目的はシナジー効果であろうが,ここで見落としてならないのは,それによってTyp cのエージェンシー・コストがまさにドラスティックに削減されうることである。すなわち,タイプTのエージェンシー・コスト削減ルートに似て,従来別々に動いていたビジネス単位が,統一的コントロールに従うことにより,機会損失,残余損失の意味での,Typ cのエージェンシー・コストは削減されうるであろう

このようなタイプでの経営統合が,とりわけわが国に頻発する大きな理由のひとつとして,未だにわが国,日本人の心の底に脈々と流れる「集団帰属意識」,あるいは「『グループ志向』の利用による利益追求意識」が挙げられている。このような主張のひとつのよりどころとなっているのが,これもおそらくわが国で永久に続くであろう「談合」の存在である。教科書的な完全競争,すなわち「マーケット・メカニズム」による自然淘汰を避け,弱肉強食による共倒れなどを回避するために,インフォーマルな「修正競争ルール」を設定して,共存を図るとい275頁】うのは,紛れもなく,「日本的経営手法」の重要なコンポーネントと言えるであろう

 

 

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