【203頁】
どのような人々が無貯蓄,無資産世帯化しているのか?
鈴木 亘*
1.はじめに
金融広報中央委員会が毎年発表している「家計の金融資産に関する世論調査」(旧貯蓄広報中央委員会「貯蓄と消費に関する世論調査」「貯蓄に関する世論調査」)によれば,金融資産を保有していないいわゆる「無貯蓄世帯」は年々増加しており,平成15年には調査世帯の21.8%にも達している(図1)。調査世帯は単身者を除く2人以上の同居者が居る世帯であるから,その5分の1が無貯蓄世帯化しているということは実に驚くべき数字であり,新聞など報道にも大きく採り上げられることになった。
貯蓄は,失業や病気,災害などのリスクに備えるための自己保険あるいはバッファー・ストックとしての機能を持っているが,無貯蓄状態に陥っているということはこうしたリスクに直に晒されているということであり,非常に危険な状態にいる可能性がある。また,その意味では,無貯蓄世帯のうち,実物(持家資産)を持っていない無資産世帯の方がより深刻な状況であるが,同データを使って無資産世帯率1)を計算するとやはり,無貯蓄世帯率とほぼパラレルに増加していることがわかる。このような無貯蓄世帯,無資産世帯の現状,なぜ近年増加しているのかといったことについて分析することは社会保障・社会福祉政策の運営上,極めて重要であると考えられる。しかしながら,現在,わが国で無貯蓄世帯の分析を行っている研究例は,松浦・白石(2004)を除き存在しておらず,その重要性に鑑みて研究蓄積があまりに少ないと言わざるを得ない。
そこで本稿では,まさに,金融広報中央委員会「家計の金融資産に関する世論調査」(平成15年度,11年度,7年度)自体の個票データを直接分析することにより,無貯蓄世帯の状況を明らかにしてゆく。なお,ここで分析している貯蓄や資産はグロスの概念であり,借入金を差し引いたネットの概念ではないことに注意が必要である2)。
【204頁】
以下,本稿の構成は次の通りである。2節では,「家計の金融資産に関する世論調査」データの概要について述べる。3節は,2003年度における21.8%の無貯蓄世帯率がどれほど信頼できるのかという点について精査・検討する。4節は,なぜ無貯蓄世帯になるかという点について仮説を採り上げ,無貯蓄世帯・無資産世帯を,諸属性のクロス表から検証する。5節は,4節のクロス表の分析を深め,ロジットモデルにより諸要因を同時に推計して評価を行う。6節は,無貯蓄,無資産世帯率が近年増加している要因について要因分解を行う。7節は結語である。
2.データ
本稿で用いるデータは,金融広報中央委員会が毎年行っている「家計の金融資産に関する世論調査」であり,平成15年調査の個票データを中心に分析を進める。この調査は,平成13年4月に金融広報中央委員会と名称が変わる以前の旧貯蓄広報中央委員会時代から,「貯蓄と消費に関する世論調査」あるいは「貯蓄に関する世論調査」という名称で,昭和28年以来連続して調査が行われている。平成15年調査は,層化2段階無作為抽出法により全国から400の調査地点を選び,各調査地点から無作為に15の世帯員2名以上の世帯を選ぶことによって6000の調査世帯を標本抽出し行われており,4158世帯からの回答を得ている(有効回答率69.3%)。抽出世帯へは調査員が調査票を持参して調査方法を説明した上で,数日後に再び訪問して調査票を点検・回収するという留置面接回収法を用いている。調査は平成15年6月27日から7月7日までの期間で行われた。このデータの利点は,毎年サンプルの類似性が保たれるように,サンプリング方法や有効回答数,調査の長さや形式などを統御した調査設計を行っている点である。残念ながら,サンプル自体は毎年違うのでパネルデータではないが,こうした調査設計を行っているため,時系列比較が可能なRepeated Cross-Section Dataであるとみなすことができる。
3.無貯蓄世帯率の精査
無貯蓄世帯率の定義に用いられる質問は,具体的には次のようなものである。
この質問の2に○をつけたものが無貯蓄世帯となる。この質問に先立つ問1には,貯蓄に関して「商・工業や農・林・漁業等事業のための貯蓄や,給与振込み,口座振替など一時的にしか口座にとどまらないような預貯金は含めないでお答えください。以下の質問についても同様です。」という注意書きがあり,厳密に金融資産の口座がゼロであることを要求していない。したがって,定義上,貯蓄動向調査(現在は家計調査)等よりは無貯蓄世帯率が高くなること【205頁】は当然のことである。しかしながら,やはり21.8%という数字は驚くべき値であり,無貯蓄世帯率の信頼性,幅をもう少し精査する必要があると思われる。
まず,調査票の他の質問から,無貯蓄世帯の定義として矛盾する可能性がある回答をしているサンプルを取り除いてゆくことにする。
@ 問7「金融商品の中には,株式や外貨預金のように,株価や為替相場の変動によっては元本割れするものがあります。あなたのご家庭では,こういった商品をお持ちですか。(○は一つ)」という質問に対して,元本割資産を「持っている」とした世帯…23サンプル。ただし,元本われの結果,無貯蓄になっている可能性は存在する。
A 問8「あなたのご家庭では,現在の貯蓄残高は1年前に比べて増えましたか,あるいは減りましたか。(○は一つ)」という質問で,「増えた」と回答した世帯…7サンプル。ただし,貯蓄残高をネットのものと考えていれば,借入金の返済によって現在無貯蓄であっても貯蓄増という可能性は存在する。
B 問1aの「過去1年間に手取り収入(税引き後)から何%(%未満は四捨五入)ぐらいを貯蓄しましたか」という質問に対して,貯蓄をしているとして割合を答えた世帯…125サンプル。因みにこの125サンプルの収入からの貯蓄割合は平均7.2%(最大30%)である。しかしながら,過去1年であるから貯蓄をした後に現在までの間に貯蓄がゼロとなっている可能性もある。
C 問1bの「年間手取り収入のうちボーナスや臨時収入(税引き後)から何%(%未満は四捨五入)ぐらいを貯蓄しましたか」という質問に対して,貯蓄をしているとして割合を答えた世帯…47サンプル。因みに,この47サンプルのボーナス・臨時収入からの貯蓄割合は平均13.8%(最大50%)。これも,過去1年であるから貯蓄をした後に現在までの間に貯蓄がゼロとなっている可能性もある。
D 問35「現在の生活費は,どのような収入源によっていますか(○は3つまで)」という質問に対して,「4.貯蓄取り崩し」によって生活を賄っていると回答した世帯…32サンプル。これも,貯蓄取り崩しの結果,現在貯蓄がゼロになってしまっているということがあり得る。
E 問19「あなたの家計(家族全体)の過去1年間の収入・支出それぞれについて,下表の該当する欄に金額をご記入ください」という質問の過去1年の「年間貯蓄額」を正の値で回答している世帯…94サンプル。因みに94サンプルの平均年間貯蓄額は58.5万円(最大500万円)。これも,過去1年であるから現在は貯蓄がゼロとなっている可能性もある。
F 問19で「年間手取り収入」を答えていない世帯…323サンプル。手取り収入を答えていない世帯は,資産についても回答拒否のつもりで「貯蓄を保有していない」と答えた可能性があると思われる。実際に,表1にみるように,所得について回答していない欠損者のうち,無貯蓄世帯率は31.9%と高くなっている。
この@からFについてサンプルを除いて無貯蓄世帯率を定義したものを基準1とする。
先に触れたように,「商・工業や農・林・漁業等事業のための貯蓄や,給与振込み,口座振替など一時的にしか口座にとどまらないような預貯金は含めないでお答えください。以下の質問についても同様です。」という注意書きがあるので,決済用のために残高が多少ある場合も,無貯蓄世帯の定義と矛盾はしない。ただし,貯蓄動向調査等との比較のために,厳密に口座の残高が0となる場合の定義にすることも可能である。これを基準2とする。具体的には以下の【206頁】質問を用いてサンプルを除いている。
G 問18「あなたのご家庭では,買い物代金,旅行代金,公共料金等家計支出の資金決済手段としてどのようなものを主に利用していますか。この1年間についてお答えください。(○は2つまで)」という質問に対して,クレジットカードを使っていると答えた世帯…155サンプル。クレジットカードを使うためには口座の厳密に残高が0にはなっていないはずである。
H 同様に,問18の公共料金等資金決済手段を尋ねる質問で,口座振替を使っていると答えた世帯…507サンプル。これも厳密には口座の残高が0にはなりえない。
さて,現状,基準1(@からFを反映),基準2(基準1のほか,GHを反映)3つの基準に対する無貯蓄世帯率を示したものが表2の通りである。基準1の定義を用いても14.2%であり,やはり驚くべき高さである点は変わらないが,現状の定義の21.8%という数字は幅を持ってみるべきものであることがわかる。ちなみに,14.2%という数字は,松浦・白石(2004)が,2002年の郵政研究所(現在,日本郵政公社・郵政総合政策研究所)「家計と貯蓄に関する調査」を精査して得た14.90%という数字に非常に近い。基準2の4.5%は,金融広報中央委員会の定義には矛盾したものではないが,ここまで厳密に口座が0と定義しても,なお5%近い人々が残る。
4.無貯蓄・無資産世帯化の原因についての仮説
本節ではなぜこれほど多くの人々が金融資産を保有していない状況にあるのかについて,分析に先立っていくつかの可能性(仮説)を考え,検討してゆくことにする。
まず,現実の制度的な要因や不確実性による偶発的な要因を考えずに,自然な状態として合理的に無貯蓄状態を選ぶ可能性はあるだろうか。一つの可能性は,金利が非常に安く株式市場が低迷していること等によって,金融資産の魅力が薄れ,現金を保有しているというものである(現金化仮説)。また,将来の大幅な所得増が確実に期待できる場合に,所得の目いっぱいまで消費を行っているということも考えられる(将来の保証所得増仮説)3)。これは,日本的雇用慣行を保持して高い傾斜の賃金プロファイルを持続している大企業の従業員について特に当てはまる可能性がある。つまり,こうした人々は人的資本が多く将来的には多くの収入がほぼ確実に見込めるにもかかわらず,現状の賃金は低いためにそれが制約となって所得制約のぎりぎりまで消費や投資を行っているのである4)。それ以外には,もちろん,タイムプリファレンスの非常に高い効用関数,マイオピズムやハイパーボリックな効用関数などを想定することもできるし,リスク回避度についてもいろいろな想定がし得るが,ここでは検証の方法がないので深く触れない。
次に,現実の諸制度や制約を考えた場合の説明を考えよう。まず,第一に挙げられるのは生活保護,あるいは今後生活保護になるためのモラルハザードである。これは,アメリカにおい【207頁】ても過少貯蓄の説明として議論されたことがあり,たとえば,Hubbard, Skinner and Zeldes
(1995) が最適消費のDPシミュレーションによって明らかにしたとおりである。ただし,これまでの先行研究から,日本の生活保護の補足率5)は最大限に見積もっても1割程度であることが知られているから(たとえば,駒村(2003)),モラルハザードを起こす余地もアメリカほど大きいとは想像できない。いずれにせよ,生活保護世帯自体は,定義上,無貯蓄世帯になる(生活保護仮説,生活保護モラルハザード仮説)。
また,年金受給者については毎年の年金給付水準がほぼ確定しているので,その中で死ぬまでの生活がまかなえる場合には,金融資産を使い切ってしまうこともあり得る(年金依存仮説)。
さらに,不確実性がある中では失業や資産デフレといったアクシデントの結果,あるいはそれを補う各種保険が十分に機能しなかった結果,無貯蓄世帯に陥ったという可能性がある。そのような十分に予期しえぬ偶発的要因として,@失業や予期せぬ所得減,予期せぬ低所得(失業,所得減,低所得仮説),Aパラサイトシングル,要介護の両親同居といった予期せぬ扶養者増(扶養者増仮説),B住宅デフレと所得減によるローン返済圧力からの無貯蓄世帯化(住宅ローン返済圧力仮説),等が考えられる。最後に,統計上の問題として,松浦・白石(2004)が指摘する高所得世帯の回答拒否による見かけ上の無貯蓄世帯化という可能性も指摘できる(高所得者回答拒否仮説)。
以上の仮説を区別することは社会保障・福祉政策を考える上では,きわめて重要である。もし,高所得者回答拒否仮説,教育投資仮説,生活保護仮説,生活保護モラルハザード仮説,年金依存仮説,将来の保証所得増仮説,現金化仮説のようなものが支配的であれば,それは個人の合理的選択の結果であるから無貯蓄世帯であっても特に問題とはいえない。しかしながら,失業・所得減仮説,扶養者増仮説,住宅ローン返済圧力仮説といった偶発的なショックによってこのような無貯蓄状態になっているのであれば,あるいは何らかの政策的な対応が必要となるのかもしれない6)。また,無資産世帯の要因についても,住宅ローン返済圧力仮説を除けば,無貯蓄世帯化の要因とほぼ同じ可能性が考えられる。
4.1
失業・所得減・低所得仮説,扶養者増仮説
まず,第1の仮説として,失業,賃金減少などのショックによる貯蓄取崩しで無貯蓄世帯化している可能性が挙げられる。表3は,問8「あなたのご家庭では,現在の貯蓄残高は1年前と比べて増えましたか,あるいは減りましたか(○は一つ)」という質問の昨年の貯蓄残高からの変化について,無貯蓄世帯,保有世帯別のクロス表をとったものであるが,無貯蓄世帯において「減った」とした世帯が59.4%,「変わらない」とした世帯39.8%となっており,両者とも保有世帯よりも多い。変わらないとした世帯が保有世帯の比率よりも多いことから,無貯蓄世帯の持続性が伺われる。さて,問9は問8の回答を受けて貯蓄残高減少者に対して減った理由を尋ねている(複数回答)が,その理由として,無貯蓄世帯と保有世帯の違いが有意に説明できるものは「定期収入の減少」である。また,「扶養家族増」についても有意ではないものの無貯蓄世帯の方が回答率が多い。
【208頁】
次に,職業別の無貯蓄世帯率をみたものが,表5である。これをみると,保有世帯と無貯蓄世帯で有意に割合に差があるものは,労務系職員,自営・商工・サービス業であり,これらの職内の無貯蓄世帯率も高い7)。また,世帯無業率8)を無貯蓄世帯と保有世帯で比較したものが,表6(世帯主60歳以上),7(世帯主60歳未満)である。これをみると,無業・有業と無貯蓄世帯率の関係はそれほど顕著ではない。
4.2
高所得者回答拒否仮説
松浦・白石(2004)は,日本郵政公社・郵政総合政策研究所の「家計の金融資産の選択に関する調査」の個票を用いて,無貯蓄世帯の増加と資産格差拡大について分析をしているが,その中で,高所得者が金融資産の回答を拒否し,無貯蓄世帯が増加している可能性を指摘している。つまり,事実上の回答拒否として金融資産が無いと答えているというものである。そこで,表8は,所得階層別に保有・無貯蓄世帯を比較したものであるが,無貯蓄世帯の多い所得階層は圧倒的に低所得者の所得階層であり,高所得者で無貯蓄帯率が上昇するという傾向は伺えない。もっとも,ここでみているサンプルは所得を回答しているサンプルの中での比較であり,所得の無回答サンプルの中に高所得者が多くいる可能性もある。
4.3
生活保護仮説,生活保護モラルハザード仮説
ところで,表8において低所得者に無貯蓄世帯が多いという点は生活保護・生活保護モラルハザード仮説を想像させる。わが国の生活保護制度は,補足性の原則があるために,生活保護を受けるにあたって資産を保有していることはできない。また,貯蓄に関しても,生活保護受給者は所得の0.5ケ月分以上の貯蓄を保有することはできない。こうした生活保護世帯が無貯蓄世帯であるならば,無貯蓄世帯化になんら不思議は無いことになる。しかしながら,同じく生活保護受給に当たって認められない実物資産である持家の有無とのクロス表をとると,無貯蓄世帯の実に58.4%が持家を持っており,生活保護を受けているあるいはこれから受けようとしてモラルハザードを起こしている人々が大勢であるとは考えにくい(表9)。ちなみに,この調査では生活保護世帯かどうかはわからないが,保護世帯の特徴を捉える指標を用いて,保護世帯数を推定してみよう。まず,世帯主が60歳以上の家庭については,問35「現在の生活費は,どのような収入源によっていますか」という質問があり,「8.国や市町村などからの公的援助」という項目がある。これに○をつけた世帯は生活保護である可能性が高いと思われる。60歳未満については,このような明確な問は無いため,@持家無し,A金融資産無しか20万円以下9),B年収からの貯蓄額も20万円以下,C年間所得200万円以下10),という基準を全て満たすサンプルを保護世帯の可能性が高いものとした。こうして,60歳以上のサンプルを加【209頁】えた37サンプルを推定保護世帯とする。これは,全体の1.1%,無貯蓄世帯の7%程度にしかならない。全体の1.1%という数字は補足率に関する先行研究とも整合的である。無貯蓄世帯での持家率が56.4%もあること,わが国における生活保護認定の難しさを考えると,生活保護を狙ってのモラルハザード行動という点もにわかには想像しがたい。
4.4 公的年金依存仮説,将来の保証所得増仮説
寛大な年金受給を期待して,高齢者が貯蓄を取り崩しきったことにより,無貯蓄世帯化した可能性はあるだろうか。表11は年齢階層別の無貯蓄・保有世帯を比較したものであるが,割合において無貯蓄世帯が有意に高いのは20代,30代であり,60歳代はむしろ低く,70歳代も有意な差が無い。したがって,年金受給者において特に無貯蓄世帯が多いというわけではなく,公的年金依存仮説も当てはまらないと考えられる。さて,割合において無貯蓄世帯が有意に高いのは20代,30代が高いということは,将来の保証所得増仮説と整合的である。そこで,もう少し細かくみるために,20代の30代サンプルを取り出し,所得階層と無貯蓄・保有世帯のクロス表を作ったものが,表12である。保証所得増仮説と整合的であるためには,比較的既に所得が高い層か中間層である必要があると思われるが,圧倒的に無貯蓄世帯が多いのは年収150万以下の所得階層や150万から250万の所得階層であり,仮説とは乖離がある。
4.5
現金化仮説
次に,金利が低いために,現金化して資産を持っている可能性についてはどうであろうか。表13は手元現金額を無貯蓄世帯・保有世帯で比較したものである。無貯蓄世帯は平均17.8万円,保有世帯は33.7万円と開きがあり,仮説と整合的ではない。もっとも無貯蓄世帯の中には手元現金を最大900万円も持っている世帯もあることから,この仮説が完全に否定されるわけではない。また,金利が低いために,実物資産化しているという可能性も理論的には考えられるが,現実の実物資産デフレを考えると現状では想像しにくい。11)
4.6
住宅ローン返済圧力仮説
最後に,バブル期の前後に高い金利,高い賃金成長の想定の下に住宅ローンを組んだものの,その後の所得減少や住宅資産のデフレによって住宅ローンの返済に窮し,金融資産を取り崩してしまっているという可能性を検討しよう。まず,表14は住宅ローンだけではなく,全体的な借入金の状況を比較してものである。借入金総額は,無貯蓄世帯394万円,保有世帯465万円と,無貯蓄世帯の方が低い。ただ,その内訳は,保有世帯と有意な差があるものは,公的金融機関,貸金業者,販売会社・クレジット会社,知人・親戚となっており,より困難な状況に直面していることがわかる。また,使途についても,教育ローンやフリーローンが保有世帯よりも多く,生活費等に使われていることが想像される。しかしながら,借入金が多いというのは,無貯蓄の原因なのか,結果なのかは定かではない。両者とも苦しい生活費といった共通の要因があるだけなのかもしれないからである。もっとも,住宅ローンについては,少なくともそれを組んだ時点は過去のことであるから,先決内生変数として,ある程度原因か結果かわか【210頁】らないという問題は回避できていると思われる。したがって,住宅ローンの状況を次に詳しく見てみよう。表15は,住宅ローンの返済額を持家保有世帯のみについて比較したものである。これをみると,無貯蓄世帯の方が平均37.8万円と年間返済額は小さいものの,所得が低いために,住宅ローンが年間所得に占める割合は10.7%と,保有世帯の8.5%に対してやや低くなっている。しかし,有意に差ではない。
5.無貯蓄・無資産選択関数の推定
5.1
推定モデル
前節では,仮説のひとつずつを主に記述統計やクロス表を用いて検討したが,それぞれの要因は独立しているわけではなく,記述統計やクロス表では真の要因を分析することが難しい。そこで,本節では様々な仮説を同時にコントロールした推計を行うことにする。ただ,本稿は厳密に仮説の検証を行うというよりも事実発掘的な論文であり,結果の解釈として仮説を用いるので,厳密に全ての仮説を反映する変数があるわけではない。具体的には,無貯蓄世帯を1,保有世帯を0とする離散的被説明変数を用いて,ロジットモデルにより諸仮説の検証を同時に行うことにする。検証に用いる主な説明変数は,表16の記述統計の通りである。すなわち,所得階級ダミー,世帯無業ダミー(世帯主60歳未満と60歳以上では年金受給者が含まれるかどうかで異なるため,60歳未満と60歳以上の年齢階級との交差項),年齢階級ダミー,職業ダミー,持ち家の有無,世帯人数,都市規模ダミー,地域ダミー,推定保護世帯,住宅ローン返済額/所得比率である。所得階級ダミーは,「高所得者回答拒否仮説」と「失業・所得減仮説」,無業ダミーは「失業・所得減仮説」,年齢階級ダミーは,「年金依存仮説」,「将来の保証所得増仮説」,世帯人数は「扶養者増仮説」,推定保護世帯は「生活保護仮説」,高所得者回答拒否仮説,教育投資仮説,生活保護仮説,生活保護モラルハザード仮説,住宅ローン返済額/所得比率は「住宅ローン返済圧力仮説」等に対応しており,これらの係数から解釈を行うことにする。
5.2
推定結果
推定結果は,表17の通りである。各係数はexponentialをとってオッズ比を表示している。まず推定式1をみると,無業ダミーは60歳以上との交差項が正で有意であり,高齢者世帯の無業が無貯蓄になりやすいことがわかる。また,推定式2では60歳未満との交差項も正で有意であり,無業と無貯蓄の関係が伺える。高齢者の無業者は年金受給者とも考えられることから,年金依存仮説との関係もあるのかもしれない12)。所得階級別では800万円以上と所得不明者をベンチマークとして,中高所得者が有意にオッズ比が低くなっている。一方,150万円以下,150万円から250万円の層はベンチマークとは有意な差が無いが,中高所得者と比較してオッズ比が高いことから,やはり低所得層が無貯蓄のリスクが高いことがわかる。また,「高所得者回答拒否仮説」は当てはまらないようである。
年齢階層では70歳以上をベンチマークとして,20,30,40代が有意にオッズ比が高く,若年層がリスクが高いことがわかる。職業では,管理職をベンチマークとして,自営業・商工・【211頁】サービス業,労務系職員,自由業,その他職業などが有意であり,これらの職業で無貯蓄化しやすいことが伺える。また,持家は負に有意であり,持家があると無貯蓄化しにくいことが伺える。さらに,世帯人数(扶養人数)が多いと有意に無貯蓄化しやすいことから,被扶養者増仮説と整合的であるが,そのオッズ比は1.07と小さい13)。もちろん,推定保護世帯ダミーはもちろん無貯蓄世帯率を有意に上げている(推定式2)。
住宅ローンの返済圧力は,持家世帯のみに関係しているため,推定式3は持家世帯に限り,住宅ローン返済額/所得額比率を説明変数に加えて推計してみたものであるが,有意な結果とはなっていない。これは,全体のサンプルで行っても同様である。推定保護世帯ダミーは持家サンプルなので除いている。
無資産選択関数の推定結果である推定式4,5についてもほぼ無貯蓄と同じ傾向である。
6.近年の増加要因の分析
6.1
属性別推移
さて次に,無貯蓄・無資産世帯率における近年の増加傾向の要因について探ることにする。具体的には1995,1999,2003年の個票データを比較して分析を行ってゆく。1995年を選択したのは図1でみたように無貯蓄世帯率および無資産世帯率が近年もっとも低くなっている年であるからである。1999年は2003年と1995年のちょうど間の年であるために選択している。まず,貯蓄保有世帯について金融資産の分布をみたものが図2であるが,特に近年になって分布の左側が厚くなってゆくということでもなく,あまり分布が変化していないことが興味深い。つまり,貯蓄が少ない世帯が無貯蓄世帯に次々に陥ってゆくというのが一般的に想像される姿であるが,データから見る限り,そのような傾向はうかがえない。
次に,表18から20は年齢階層,所得階層,職業別に無貯蓄世帯率の推移をみたものである。95年対比,99年対比はそれぞれの年の無貯蓄率を1とした場合の比率であるが,驚くべきことに年齢階層間内,所得階層間内,職業間内でそれほど大きな差異が生じていない。つまり,低所得者同様に高所得者も増加しているし,若年者同様に中高所得者においても増加しているのである。95年から99年の変化と,99年から2003年の変化を見比べると,後者において特に年齢階層間内,所得階層間内,職業間内ばらつきが小さい。これは,年齢階層間,所得階層間,職業間で共通する要素が原因として無貯蓄世帯率・無資産世帯率が近年増加していると想像できる。また,無資産世帯について同様の分析をした表22から24についても同様のことが当てはまる。ただし,無資産世帯については,無貯蓄世帯よりも年齢階層間,所得階層間,職業間で共通する要素がやや小さい。
6.2
推計による要因分解
次に,前節のロジット推計をもとにした無貯蓄,無資産世帯率の変化の要因分解を行う。要因分解は,男女間賃金格差の分析に用いられるBlinder-Oaxacaの分解手法を模したものである。Blinder-Oaxacaの分解手法は,(1)式のように被説明変数を推計された係数を用いて分解するものであり,第一項を要素価格要因,第二項を要素量要因と解釈する。本稿の場合は,第一項は属性内で無貯蓄・無資産に陥るリスクの変化要因,第二項を要素量要因と解釈をすることに【212頁】する。
さて,logitの場合,@非線形なので各係数の限界効果を算出し,それを平均値周りで評価しなければならない点,A係数が誤差の分散と独立していないIdentificationの問題があることがネックとなり,単純にBlinder-Oaxacaの方法を適用することはできないため,以下の工夫を行うことにした。
まず,Aの要因については,各年おなじスペックで推計をするので,各年の分散を一定と仮定しても大きな問題はないこととし,各年度のデータをプールして同時に推計を行う14)。@非線形性の問題については,logitの場合,確かに限界効果を計算すると説明変数に依存してしまうが,exponentialをとってオッズ比にすると説明変数に依存しない効果が得られる。そこで,(2)式のように,まずロジットをexponentialをとって2つの年の比をとることにする。右辺のexponentialの中は差となるので,Blinder-Oaxaca と同様の分解を行う。最後に(3)式のように全体をlogをとると,右辺は線形に分解される。この左辺は,各年の無貯蓄世帯率のオッズの変化率(対数オッズの差)と解釈できる。本来,各年の無貯蓄世帯率の年次間変化を分析するのが基本ではあるが,そのオッズの年次間変化を分析することにすれば,このように簡単な分解が可能である。
(1)
(2)
(3)
さて,分解に用いる推定結果は表24の通りである。各年ともに有意となる変数については,無貯蓄世帯,無資産世帯ともそれほど代わらないことがわかる。2003年については,表17と同様となっている。さて,分解の結果は無貯蓄世帯率が表25,無資産世帯率が表26の通りである。まず,表25をみると,無貯蓄世帯率のオッズの1999-2003年の変化(74.1%)は,定数項で説明されるベンチマーク要因(128.8%)が非常に大きいことがわかる。定数項は各ダミー変数のベンチマークであるから,これは各属性間における共通変動要因が大きいことを意味している。一方,1995-99年の変化(55.6%)についてはベンチマーク要因は-37.0とむしろマイナスに寄与しており,その多くは所得階層のリスク変化要因(9.8%),年齢階層のリスク変化要因(32.4%),職業階層のリスク変化要因(22.6%),地域階層のリスク変化要因(33.1%)が説明している。これは,各属性間で共通する要因ではなく,ベンチマークに対する属性間の係数の差異が,オッズを大きくする方向で寄与しているということになる。なお,要素量はたかだか4年の変化なので両年ともそれほど寄与はしていない。1995-99の変化と,1999-2003年の変化は本質的に異なる要因でもたらされているという特徴が興味深い。また,無資産世帯率のオッズの分解である表26についても,無貯蓄世帯とほぼ同様の傾向が読み取【213頁】れる。
7.結語
本稿は金融広報中央委員会(2003)「家計の金融資産に関する世論調査」の個票を利用し,近年急増しつづけ,平成15年には調査世帯の21.8%にも達した「無貯蓄世帯」の分析を行った。これらの世帯は,リスクに備えるための金融資産を持たないいわば「丸裸」の状況にあるため,社会保障・福祉政策の観点から見て憂慮されるべき可能性がある。また,その意味で,より深刻である「無資産世帯」の分析をあわせて行った。
まずはじめに,21.8%という非常に高い無貯蓄世帯率について,他の質問項目からその信頼性を精査した結果,矛盾する可能性がある質問からサンプルを落としていった場合に14.2%,預金口座を持たないという最も厳密な定義を用いた場合に4.5%と,幅があることがわかった。次に,無貯蓄(資産)状態に陥る理由として,合理的な要因,制度的な要因,偶発的な要因等を整理したうえで,クロス表およびlogit推計によって要因を探った。その結果,無貯蓄や無資産の選択には,失業や低所得,低年齢などが深く影響し,また職業についても無貯蓄・無資産に陥りやすい職業があることがわかった。最後に,近年無貯蓄・無資産世帯率が増加している要因について,男女間賃金格差の分解に用いられているBlinder-Oaxacaの方法を拡張した分析を行った結果,1995-1999年の変化には各属性内におけるリスク変化要因が寄与している一方,1999-2003年の変化では全属性に共通するような変動が大きく影響していることがわかった。
参考文献
金融広報中央委員会(2003)「家計の金融資産に関する世論調査」(平成15年)調査結果の概要
駒村康平(2003)「低所得世帯の推計と生活保護制度」『三田商学研究』46巻3号
社会保障審議会福祉部会・生活保護制度の在り方に関する専門委員会(2004)「生活保護制度の在り方についての中間取りまとめ」
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Aizcorbe A., A.Kennickel
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