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財源不足下でも待機児童解消と弱者支援が両立可能な保育制度改革〜制度設計とマイクロ・シミュレーション*
鈴木 亘
要旨
本稿では,現在,改革論議が大詰めを迎えている保育制度改革について,経済学の観点から問題点を整理し,財源不足下でも待機児童解消と弱者支援を両立できる改革案を提案した。厚生労働省の社会保障審議会少子化対策特別部会が2009年2月に発表した第1次報告(「社会保障審議会少子化対策特別部会第1次報告−次世代育成支援のための新たな制度体系の設計に向けて−」)は,「保育に欠ける」要件の見直し,直接契約方式導入など,保育制度の歴史的転換点となる仕組みが取り入れられた。しかしながら,保育所の供給増を図る対策に関して具体性に欠け,需給調整の仕組みが欠落するなど,制度設計上,致命的な問題点を抱えている。
これに対して,本稿が示した改革案は,@「新認証保育所」による供給増,A原則価格自由化による需給調整,B利用者への直接補助による弱者対策,応能負担の維持を提案しており,少子化部会・第1次報告を補う現実的な改革案と考えられる。また,100万人の保育所利用者増を骨子とする「新待機児童ゼロ作戦」を達成するための公費財源は,厚生労働省が想定する認可保育所による供給増では,毎年約1兆4千億円の金額が必要と見込まれるが,本改革案では,ほぼその半額の7000億円程度で実行することができる。50万人の保育利用者増であれば,1千億円強の公費財源で達成可能である。本稿は,こうした公費を含めた具体的な改革後の姿を,未就学児童を持つ大規模家庭データを元にした,マイクロ・シミュレーションによって試算した。
今後の数年間のわが国の状況を考えると,人口減少・労働力減少が急速に進む中で,「団塊世代」が大量に年金受給者となるために,社会保障財政が益々逼迫してゆくことになる。また,少子化対策のターゲットであった「団塊ジュニア」と呼ばれる人口層が出産可能年齢を過ぎようとしている。こうした状況下で,急ぎ少子化対策・女性労働力増を進めようとするのであれ 【238 頁】 ば,「財源が無ければ何も改革しない」という従来の方針を改め,財源が少なくても直ぐに実行可能な対策を立案すべきである。
1.はじめに
わが国の少子化・人口減少が止まらない。2008年の出生数は109.2万人と,1970年代の半分のレベルにまで落ち込んでおり,総人口も既に2005年から減少局面に入っている。今後,坂道を転がるように加速する人口減少は,わが国の経済成長率を大幅に低下させるとともに,負担の支え手を失わせることによって,年金,医療保険を初めとした社会保障・社会福祉財政を危機的状況に追いやる。この「今,目の前にある危機」を防ぐ為には,少子化を一刻も早く食い止めると伴に,人口減少の影響を緩和させるべく全員参加社会を実現し,特に女性の労働力率を高めてゆくことが必要である。その対策の中心となるのが,女性が安心して子供を産み,働き続けられるための社会基盤である「保育制度改革」にあることは,言を待たない。
わが国の現行の保育制度は,需要量に対して供給量が圧倒的に不足しているという構造的問題を抱えている。厚生労働省によれば,2009年4月の待機児童数は2万5,384人と急増しているが,これでも,実は氷山のほんの一角に過ぎない。不足する認可保育所に入ることを諦め,認可外保育所に入所している児童数は全国で約18万人(全国保育団体連絡会・保育研究所編(2007)),また,働きたいのに保育所不足から働くこと自体を諦めている潜在的待機者は,首都圏(1都3県)だけでも,24万人(内閣府(2003))から27万人程度(周・大石(2003,2005),Zhou and Oishi(2005))と推計されている。政府試算によれば,全国的には,100万人程度の供給不足が存在するとみられる(「子どもと家族を応援する日本」重点戦略検討会議(2007))。
こうした状況を受けて,政府は2008年2月に「新待機児童ゼロ作戦」を策定し,10年後までに約100万人の保育サービス利用児童を増加させるという目標を打ち出した。また,新時代に対応した保育制度のあり方を検討するために,2008年3月には,厚生労働省の社会保障審議会に少子化対策特別部会(以下,少子化部会)が設けられた。この少子化部会は,「経済財政改革の基本方針2008」が,「保育サービスの規制改革について平成20年内に結論を得る」と期限を区切ったため,短期間に,実に精力的な検討を行うことを余儀なくされた。立場の異なる有識者やほとんどの保育関係団体を巻き込んだ難しい調整の場であったが,ようやく2009年2月になり,「社会保障審議会少子化対策特別部会第1次報告−次世代育成支援のための新たな制度体系の設計に向けて−」(以下,第1次報告)が取りまとめられるに至った。今後,この第1次報告を元に,さらに,詳細な制度設計が詰められていく予定であるが,わが国の旧態依然とした保育制度が大きくその方向性を変えようとしている,まさに歴史的転換点と位置づけられる内容である。ただし,保育サービス市場の制度設計として,致命的な問題点もいくつか抱えている。
本稿は,次節(2節)において,まず,この少子化部会・第1次報告の内容を簡単に説明し,その評価と問題点の指摘を行なう。3節では,第1次報告の問題点を補う改革案として,筆者が提案する現実的な改革案を説明する。その内容は,少子化部会・第1次報告を代替するものというよりも,多分に補完する要素が強く,第1次報告を現実的かつスピーディーにした案といえるだろう。4節,5節は,その本改革案を実現するための財政的・経済的試算とその詳細を説明する。6節は結語である。
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2.少子化特別部会第1次報告とその問題点
(1)現行制度とその問題点
現行制度の特徴とその背景
少子化部会・第1次報告の概要を,現行制度(及び本改革案)と比較したものが表1,表2である。
経済学的な観点からみた現行の保育制度の問題点は,鈴木(2008a)に詳しいが,一言で言えば,人為的に低く固定された保育料と,その副作用として起きる「超過需要」がすべての問題の出発点である。すなわち,現行の認可保育所の保育料は,応能負担として所得に応じて負担額が変わるが,全体として,市場で決まる均衡価格(均衡保育料)に比べて著しく低く設定されている。このため,巨大な超過需要が存在し,それが待機児童や潜在的待機児童となっているのである。これに対して,近年は,2001年に策定された「待機児童ゼロ作戦」など,認可保育所の供給量を増やす方向でその解消を図ろうとする対策が行なわれているが,待機児童数は思うように減少しない1)。この理由は,八代(2000)が指摘したように,待機児童の定義が入所申請を行った人々に限られているからであり,実際にはその何十倍もの入所申請を諦めている人々(潜在的待機児童)が存在しているのである。認可保育所を多少増加させても,潜在的待機児童が待機児童として顕現化するだけであり,待機児童数は呼び水のように減少しない。
この圧倒的な需要量に対して,認可保育所の少ない供給量に割り当てる需給調整の方式として機能したのが,「保育に欠ける」要件2)である。これは,保育所利用を申請するための資格として,保育昼間の就業を常態とする等の条件を定めたもので,第一段階として,この条件に合わない需要を排除する。具体的には,正社員を優遇し,近年増加した非正規労働者や,短時間労働者,不定期労働者,母子家庭などを排除してしまいやすい傾向にある。
保育に欠ける要件を満たす人々の中から,さらに需要量を絞って割当をする場合には,保育に欠ける度合いを市町村の保育審査会が判断し,利用者を決定する仕組みとなっている。こうした割当制度は,利用希望者が直接,認可保育所に入所申請してはコントロール不能になるため,市町村が一括して利用申請の受付を行い,割当を決定する必要がある。また,保育料の徴収も,応能負担としているため,世帯所得という個人情報を知ることが出来ない個別の保育所が,徴収業務を行なうことが出来ない。そのため,市町村が保育料を徴収し,公費補助(保育単価+ 地方単独補助)を加えた運営費を直接,市町村が認可保育所に機関補助するという仕組みとならざるを得ないのである。このように,市町村が過度に介入する保育サービス市場の特徴は,人為的に低く設定された応能負担保育料から,いわば派生したものなのである。
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現行制度の問題点
この市町村が過度に介入した仕組みは旧態依然とした配給制度である「措置」そのものであり,様々な副作用が生じている。第一に,認可保育所と利用者が直接契約や保育料納入で結ばれていないために,公立保育所における特別保育事業(延長保育,休日保育)の実施率の低さや,0歳児定員が少なさといった例からもわかるように,認可保育所は利用者の利便性を高める努力を怠り勝ちである。むしろ,運営費を給付する市町村ばかりを向いた経営を行なうのである。
第二に,保育料は保育所に直接支払うものではないために,利用者は保育料をサービスの対価と認識せず,近年,深刻化しているような保育料未納問題が生じる。
第三に,超過需要があり,市町村が自動的に利用者を運んでくるシステムでは,認可保育所には競争や経営努力の必要が存在せず,公立保育所の人件費の高さからも分かるように,「レント」として高コスト構造が構築されてゆく。また,認可保育所は保育所単位の独立王国であるから,ガバナンスも働きにくい。しかも,高コスト構造であっても,それが負担として保育料に反映される仕組みではないため,利用者も不満を持たず,高コスト構造にさらに拍車がかかる。
第四に,高コスト構造に伴い公費補助が多額に及んでいるために,自治体も限られた財源の中で簡単に供給量を増やすことができない。多種多様な主体が保育分野に参入するための規制緩和がなかなか進まない背景には,認可保育所には多額の公費が掛かり,実質的な参入規制をしておかないと財政的に困るという国や自治体の事情も影響しているのである。
こうした副作用の結果,認可保育所に入所できた人々は,非常に安価な保育料ですみ,その裏側として非常に手厚い補助金が投入される。一方で,たまたま認可保育所に入所できず,認可外保育所に入所した人々は,高価な保育料を支払い,補助金の恩恵にもほとんどあずかれないという著しい格差が生じる。保育所の質も,多額の公費補助を受けている認可保育所が高いのは当然であり,認可外保育所入所者は,「質が低いのに保育料が高い」として不満が高まる。このような認可保育所の保育料ダンピング,官業の民業圧迫があるため,質の高い認可外保育所がなかなか育たない。また,補助金を給付していない認可外保育所には指導・監督の目がなかなか行き届かず,ベビーホテルなどの劣悪な施設が実質的に野放しになるという問題も生じている。
(2)少子化特別部会第1次報告の概要と問題点
需要面の改革
こうした保育制度の現状に対する反省から,少子化部会・第1次報告は,まず,時代の要請に合わなくなった「保育に欠ける」要件を撤廃し,保育を必要とする全ての人々が例外なく保育が受けられる権利を持つことが認められた。また,その権利を明確化するため,保育を必要とする全ての人々には,市町村が発行する「認定証明書」が与えられるという。
また,利用者が希望する保育所を選び,「直接契約」を行なうことが決まった。これにより,保育所と利用者の関係が現状よりも正常な関係に近くなることが期待されるが,残念ながら,保育料支払いも利用者が直接,保育所に行なうことになるかどうかという点は検討中である。実際問題として,第1次報告では,現状と同じ応能負担の保育料を徴収することになっているため,先に述べたように,所得を把握できない保育所が徴収事務をすることは難しいと思われ
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る。この場合,サービスの対価としての保育料支払いを行なうという利用者・保育所間の関係は希薄となり,上で触れた様々な副作用が持ち越されることになる。
また,現行制度の最大の問題であった保育料は,依然,固定価格として公定(統制)される。具体的には,公費補助金と保育料を合計した保育の運営費価格が公定されることになる。そして,この運営費価格に各児童の人数をかけた運営費には,市町村に支払い義務が課されることになった。つまり,保育料徴収をする主体がどこになろうとも,各保育所は,市町村によって確実に運営費収入が保証されるという,まことに都合の良い仕組みが温存されたのである。これにより,保育所の経営努力及び利用者の保育料負担義務に,今以上の強力なモラルハザードが起きることが懸念される。
供給面の改革
一方,供給側の改革については,全く曖昧で,何一つ決定事項が無いといっても過言ではない。供給者の基準は,客観的基準(最低基準)により判断し,指定する(指定制)としているが,客観的基準を今の認可保育所レベルにおくのか,それよりも基準を緩めたレベルにおくのか(例えば,東京都の認証保育所レベルにおくのか)は不明である。供給量が増えるためには,多種多様な経営主体が参入することが不可欠であるが,参入規制や競争条件の整備については,現状から変わる点が今のところ存在し無い。一点だけ,新施設を建設する際の施設整備費(減価償却費)について,全ての法人格で運営費に上乗せをして支払う方式にして,施設整備費が社会福祉法人だけにしか支払われない現行の不公平を解消するということが,「検討」されているだけである。
第1次報告の評価と問題点
さて,今回の少子化部会・第1次報告は,経済学的にみてどのように評価できるだろうか。まず,保育に欠ける要件の撤廃,直接契約方式の導入という需要側の改革は,ようやくではあるが,時代の変化に対応した制度になるといえよう。ただし,保育料を応能負担のまま公定(価格統制)とした点,そのために,直接,利用者が保育所に支払うことが難しくなった点が惜しまれる。実は,利用者負担に応能的な所得再分配要素を入れたとしても,直接保育所に保育料を支払う仕組みは可能なのであるが,この点は3節で詳しく説明する。
このように需要側の改革が一定の評価が出来るのに対して,供給側については,各保育団体の反対・抵抗により,見るべき改革点が全く存在せず,一番肝心な点であった供給量を増加させるための具体策すら何もない状況である。このため,実は,少子化部会・第1次報告は,保育サービス市場の制度設計として,論理的に破綻しているのである。すなわち,権利を付与された需要者が圧倒的に顕現化するのに対して,供給量が全く追いつかない事態が容易に想像されるからである。しかしながら,これまで割当として機能していた「保育に欠ける」要件を撤廃してしまったために,受給を調整する仕組みが欠落しているのである。これでは,もしこのまま改革が実行されると,保育現場が大混乱に陥ることは必至である。
もっとも,厚生労働省,少子化部会としては,市町村に「公的保育の提供体制確保義務」を課したことで,供給増の問題は各自治体に押し付けたつもりでいるのかもしれない。「公的保育の提供体制確保義務」とは,需要量に見合う供給量を整備しなければならないとする義務であり,このほか,市町村には,指導監督や研修実施の義務や,利用調整や利用者と保育所間の 【244 頁】 契約の支援等の義務が課される。現在の事務量や責任に比べ,格段に市町村の果たす役割・負担が増加する。問題は,市町村が供給量増加やそれに伴う事務を負うための財源や仕組みが全く考慮されていないことである。このため,市町村の現場の混乱も容易に想像される。また,今よりも増して市町村の過度な介入・規制が行なわれることが,保育サービス市場の健全な育成にとって望ましくないことは言うまでもない。
(3)100万人供給増に必要な財源額試算の問題点
厚生労働省試算の問題点
さて,財源について厚生労働省は,新待機児童ゼロ作戦に盛り込まれた100万人の利用者増に必要な追加的公費負担額として,毎年7000億円という金額を見込んでいる(「子どもと家族を応援する日本」重点戦略検討会議(2007),規制改革会議(2008b))。厚生労働省はこれまで,本格的な保育制度改革は,7000億円の財源を確保してから行なうべきもの(逆に,財源が確保されなければ,保育制度改革はできない)としてきたが(鈴木(2008)),この7000億円の試算には多くの問題点があり,大幅な過少推計となっている。
具体的に,厚生労働省の試算(規制改革会議(2008b))では,100万人の利用者増を基本的に認可保育所の増加で図るとされているが,第一の問題点は,その費用として国の補助金算定基準である「保育単価」のみが用いられているということである。この国の保育単価とは,実際には,国基準の最低レベルの運営費を賄う程度の架空の値であり,現実の認可保育所の運営費を賄うことは到底出来ない。実際,現実の認可保育所は,人員配置の充実や,保育単価の想定を超える年齢・勤続年数の保育士の人件費を賄うために,地方単独予算からの運営費充当が行なわれているのが一般的である。そうした地方単独予算分の財源も確保しなければ,実際に,保育所の供給増を図ることは出来ない。
第二の問題点は,現実に新しい認可保育所を作る場合には,毎年の運営費に加えて,用地取得や建設費,改修費といった初期費用がかかり,その分にも公費が用いられることを考慮していない点である。すなわち,公立認可保育所の場合には初期費用を各自治体が全額賄うことになるし,私立認可保育所の場合には,施設整備費への補助金という形で各自治体が多額の公費負担を行なっている。また,両者とも固定資産税や法人税を初めとする税金がほぼ全額免除され,その意味での隠れた公費負担がかかっていることも忘れてはならない。
第三に,このような地方単独負担分を考慮していない大幅に低い「公費負担比率」が,計算に用いられているという問題点があり,さらに試算の公費額を押し下げることになっている。このほか,自治体によっては,低所得者対策のためにやむを得ず,国の保育単価以上に低所得者に配慮した保育料設定を行なっているところもあり,また,現在問題になっている保育料未払いも自治体負担である。このような点も全く考慮されていない。
第四に,約100万人もの供給増を図った場合には,いくら潜在的保育士(保育士資格取得者のうち,保育所に勤務していない人)が多量に存在するとしても,保育士不足から人件費増が引き起こされると考えるのが自然である3)。ただでさえ,現在は,保育士不足問題が深刻化している状況下である。4節の本改革案の試算では,現在よりも約1.5割増しの人件費(運営費は1割増)を予想しているが,厚生労働省試算には,このような点が全く考慮されていない。
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こうした厚生労働省試算は,俗に公共事業で「小さく生んで大きく育てる」と言われるように,まず,当初予算案を通過しやすいように小規模にした上で,予算案通過後に,なし崩し的に公費支出を増やすという官僚の行動原理をほうふつとさせる。もしくは,自治体が支出する公費は,厚生労働省の管轄ではないと考えているセクショナリズムの故なのかもしれないが,いずれにせよ,非常に無責任な試算といわざるを得ない。
大幅な過少推計となっている厚生労働省試算
そこでまず,現実に認可保育所で約100万人の利用者増を図った場合の現実的な追加公費負担額を,再計算することにする。認可保育所の現実の運営費については,驚くべきことに公的統計が存在しておらず,規制改革会議(2008a, b)によれば,厚生労働省自身も実態を把握していないということである。そこで,唯一の先行研究である福田(2000)を元に,2008年の保育単価を反映して調整した運営費を用いることにする(表3の(a))。厚生労働省試算で用いられている就業率上昇,保育利用率の値を用いると,正確には,厚生労働省試算は全年齢で106万人の保育利用者増を見込んでいることになる4)。年齢別の利用者増加数に,表3(a)の年齢別運営費を1割増しにした金額を乗じたところ,追加利用者分の運営費は1兆7507億円,そこから保育料収入を差し引くと,毎年1兆4299億円の公費負担(国+地方)が必要となることがわかった(表4)5)。つまり,毎年7000億円という数字は,極めて過少な金額であり,実際にはその倍額の1兆4千億円程度の公費財源が必要なのである。
現在,民主党政権が進める「こども手当て」に多額の財源を必要とする中,新たに待機児童対策だけに毎年1兆4千億円もの財源を確保できるのだろうか。また,この1兆4千億に加えて,改革当初の数年は多額の初期費用等が掛かることを考えれば,その現実性は極めて乏しいといわざるを得ない。財源が確保できない,あるいは財源が不足する場合には,既に述べたように,少子化部会・第1次報告の改革案では受給調整の仕組みが無いために,大混乱が生じる。また,財源が確保できなければ改革が行なえないとする従来方針では,改革のスピードは極めて遅いものとならざるを得ない。しかしながら,今後10年間で進む少子化,人口減を考えると,果たして改革のスピードを緩める余裕があるのだろうか。財源が多少不足したとしても,スピード感を持って直ぐに着手できる現実的な改革案を考えるべきではないだろうか。
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3.本稿が提案する改革案の制度設計
(1)100万人供給増は「新認証保育所」で実施
そこで,少子化部会・第1次報告の欠点を補い,現実的な財源規模でも実現可能な改革案として,本稿では下記の改革案を提案したい。その骨子は,@100万人の供給増を「新認証保育所」で行なう,A保育料を一定の上限をつけた上で自由化して,価格による需給調整を行う,A弱者対策は別途,直接補助方式で手厚く行なうという3点である。
まず,新認証保育所とは,東京都で現在実施されている「認証保育所」をモデルとした保育所で,国が認証して公費補助を出し,全国に展開するものとする。モデルとなっている東京都の認証保育所とは,待機児童が深刻化する中で,高コスト構造の認可保育所を財政的に増やせ 【247 頁】 なかった東京都が,独自の基準を定め,地方単独補助金を出して展開している認可外保育所である。2001年にはじめて実施され,2009年7月現在で456もの施設が運営されている。質の面では,国が定めた認可保育所の設置基準(施設の広さ,保育士等の職員数,給食設備,防災管理,衛生管理等)と比べてもほとんど遜色がない6)。経営主体がNPO や株式会社,有限会社といった多種多様な経営主体で競争的に行なわれているために,運営が効率的であり,認可保育所よりも2割程度運営費が低く経営されている(表3)。また,東京都における展開をみても,需要増に即座に対応して供給増が図れる機敏さをもっている。こうした認証制度を,国が実施して,新規に増えた認証保育所に国からの補助金が投じられる改革を実施する。現行の東京都の認証保育所は当然,国の認証を得られるはずであるし,他の自治体が独自に設置する認可外の保育室などでも,国の補助金が得られるよう,質の底上げや努力を行って,国の認証を得ることであろう。また,ベビーホテル等,質が基準にはるかに満たない認可外保育所については,認証を得られないのであれば,新認証保育所に利用者を奪われることになるため,自然に劣悪な保育所の淘汰が進むと考えられる。
ところで,昨今問題になっているように,現行の東京都認証制度は,経営を安定させるための制度が乏しいために,親会社あるいは運営法人の別事業の影響を受けやすく,倒産・撤退が安易に行われるという問題がある。この問題を防ぐために,本改革案では,各保育所の会計を独立させた上で,各保育所に自己資本比率規制を課すことを提案する。親会社が倒産しても,あるいは運営法人の経営が不調となっても,少なくとも年度末までの運営を持続できる経営の安定性を確保することが狙いである。また,万が一の倒産・撤退が行われた時のために,近隣の保育所同士が利用者を引き受け合う緊急的ネットワークを,市町村が構築することも必要である。
(2)価格の原則自由化と価格による需給調整
一方,需要側の改革は,規制改革会議が以前から主張し,少子化部会・第1次報告にも盛り込まれた「保育に欠ける要件」の見直し,利用者と保育所の直接契約方式導入が,改革の基本となる。ただし,少子化部会・第1次報告において需給調整の方法が欠落している点を補い,市場経済下の通常の経済取引と同様,保育料価格による需給調整の仕組みを導入する。すなわち,保育料価格は,現行の東京都認証保育所と同様,一定の上限を設けた上で自由化する。この保育料は応益負担であるが,所得ごとの軽減措置(応能負担)は,後述のように利用者への直接補助方式を通じて行なうため,低所得者等への所得再分配機能は現行の認可保育所制度とほぼ遜色がないものとなる。保育料価格を原則自由化する利点・必要性は次の4つである。
第一に,利用者が保育所に対して保育料を直接支払うことができる点である。応益負担の保育料は応能負担とは異なり,保育所が利用者の所得という個人情報に触れることなく,保育料を徴収できる。このため,サービス受け,それに対する対価として保育料を支払うという保育所と利用者の本来の関係が明確化でき,この関係が希薄であったために起きていた前述の様々な問題を解決できる。
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第二に,保育に欠ける要件なき後の需給調整の仕組みが確保できる。通常の市場メカニズムと同様,保育所不足の地域があれば,まず,保育料価格が上昇して,需給が調整される。市場メカニズムが優れているのは,価格が上昇した場合,それは利益が生まれるシグナルであるために,参入が促進されて,結局,元の水準に戻ることである。行政による割当とは異なり,需給調整によって,自然に供給量が増加するメカニズムが組み込まれているのである。この供給増が図られるというのが,価格自由化の第三の利点である。
第四に,価格が自由化されることで,各保育所同士の競争原理が働き,サービスの質の切磋琢磨・創意工夫が行われる。少子化部会・第1次報告が提案している「公定価格」では,いくらサービスの質を改善しようとも収入が変わらないために,そのような経営努力を行なうインセンティブがない。少子化部会では,固定価格の場合でも,直接契約で利用者の選択が行われればサービスの質の競争が起きるという議論があったようであるが,これは非現実的である。なぜならば,この保育サービス市場の特質は圧倒的な需要超過にあり,利用者の選択の余地は小さいことから,利用者の取り合いという状況は生まれにくく,したがって,サービスの質の競争は起きにくいのである。競争原理が働くためには価格の自由度を増して,供給増を促す必要がある。
第五に,質の競争とともに,価格競争も起きるために,運営費の効率化が期待できる。自由価格に対する批判として,「悪かろう安かろう」として質を低めた非常に低い保育料になるとか,あるいは逆に,異常に高い保育料がつけられるといった批判があるが,これも非現実的な主張である。実際,東京都認証保育所の料金設定をみると(図1),0歳児で最低の月3万円から最高でも7.2万円までの価格に設定されており,そのほとんどが4〜6万円台に集中している(鈴木(2009))。質の最低水準や価格上限の規制もある上に,市場による競争メカニズムが働く状況下である。当たり前のことであるが,異常な価格,サービス水準設定を行う保育所
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は,生き残ることができないのである。
(3)公費補助の方法について
利用者補助の代理受領方式
ただし,利用者から徴収する保育料だけでは,認可,新認証ともに保育所の運営費を賄うことが出来ないことから,別途,公費補助が必要である。具体的な仕組みは,これまでの保育単価とほぼ同様である。児童年齢別の「標準公費補助価格」を設定し,各保育所の年齢別の利用者人数に乗じて,各保育所の公費補助金額が算定される。標準公費補助価格は,新認証保育所の平均的な運営費と保育料収入データを元に,2年に1度程度,マクロ的に決定・改定されるものとする。各保育所は,実際に掛かった運営費からこの補助金を除いた金額を,利用者からの保育料として徴収することになる。サービスの質を伴わないにもかかわらず運営費の高いような非効率な保育所は,保育料を高く設定せざるを得ず,次第に市場から淘汰されることになる。
さて,この公費補助の支払い方法としては,規制改革会議等の主張するバウチャー(方式)等による利用者直接補助がもっとも合理的である。しかしながら,関係者の様々な思惑から,政治的に,バウチャーへの保育関係者・保育利用者の理解がなかなか進まないという現状がある。改革移行による利用者の無用の混乱を避ける意味でも,バウチャー方式導入は将来の課題にとどめ,これまでと同様,市町村が公費補助として,認可,新認証保育所に直接支払う仕組みとする方が現実的であると思われる。ただし,考え方としては,少子化部会が途中まで検討していたように,「利用者補助分の代理受領」という形を取る。
認可保育所に対する経過措置
ところで,現行の認可保育所は,表3にみたように,新認証保育所に比べて平均的に2割程度高い運営費となっている。特に,公立認可保育所については,保育士の年齢が高く,地方公務員の行政職に準じた急カーブの賃金曲線となっているため,やむなく高い運営費となっている事情がある(Noguchi et al.(2008))。もっとも,この問題は,2000年から始まったより緩い傾斜の賃金カーブを持つ福祉職の保育士たちが広まってゆくなかで,徐々に解消されてゆく問題でもある。そこで,当面は,認可保育所の運営が困らないように(現行の認可保育所の「質」を下げないためにも),個別認可保育所の運営費から,同様の規模・条件の認可保育所の標準運営費を引いた差額を,「差額運営費機関補助金」として機関補助することにする。ただし,これは経過的な措置であり,今後5年ほどの移行期間をもって徐々に解消してゆく。賃金コストの高い公立保育所の中高年保育士については徐々に早期退職や賃下げの圧力がかかることになると思われるが,そうした場合,ベテラン保育士の経験を生かして,新認証保育所の指導・監査やコンサルティングを行なう市職員として活用することも一案である。また,認可保育所が新認証保育所よりも質が高いのであれば,その分のプレミアムを保育料引き上げで徴収するという方法も選ぶことが出来る。
(4)弱者対策,応能負担の方法
低所得者対策・応能負担
弱者対策については,少子化部会・第1次報告よりもむしろ踏み込んだ,手厚いものを考え 【250 頁】 ている。まず,世帯年収500万円以下の世帯については,その負担が,現行の認可保育所の応能負担保育料と同じになるように,所得別の直接補助を行なう。つまり,「新認証保育所の応益負担保育料−直接補助=現行の認可保育所の応能負担保育料」となるように,直接補助の金額を所得別に設定する7)。世帯年収500万円以下の世帯にとっては,今よりも保育所に支払う保 育料は増すが,その分,直接補助という形で還付を受けるので,実質的な保育料負担額は変わらない。この直接補助の単価改定も2年に1度ぐらい頻度で行なう。一方,世帯年収500万円以上の世帯は,所得水準が高くなるにしたがって,直接補助金額が少なくなるように調整する。ただし,過度な負担増は政治的に難しいため,現行の認可保育所の保育料よりも,5千円から1万円ほど高い金額となることを考えている。もちろん,保育所が設定している均衡保育料を超えて徴収されることはない。
0歳児対策
また,後述のように,0歳児は定員が極端に少ないために,自由価格にすると受給が均衡する保育料が極端に高くなる可能性がある。このため,所得にかかわらず,0歳児の親には,保育料の半額を直接補助金として配分する対策も講じることにした8)。
障害児対策
一方,障害児対策は,少子化部会・第1次報告と同様,新認証であろうと認可保育所であろうと,全保育所に,応諾義務や優先受入義務を課すことにする。ただし,少子化部会・第1次報告と異なるのは,各保育所が喜んで障害児を受け入れるために,補助金を明示的に投入することである。具体的には,利用者への直接補助ではなく,障害児加算という形で,障害児にかかる追加人件費などを,直接,保育所に機関補助として支払うことにする9)。
(5)市町村による公的関与のあり方
保育サービス市場を健全に育成するために,市町村による公的関与は必要最低限のものにすべきである。ただし,各保育所の質を担保するための指導・監査は従来よりも手厚いものとする。ベビーホテルなどの一部劣悪な施設への立ち入り検査・指導も今よりも強化する。改革により,市町村の事務負担が大幅に軽減されることになることから,こうした指導・監査拡充の余力が増すものと思われる。また,児童虐待,DV,母子,障害児などの優先されるべき児童を措置,優先することは,少子化部会・第1次報告で提案されている通り,これまで以上に進めるべきと考える。
また,健全な市場を育成するためには,サービスの質や個別保育所の情報が十分に行き渡っ 【251 頁】 ていることが不可欠である。さらに,利用者の利便性を増すためにも,保育所の空き情報は日々刻々と情報が更新され公表されていることが望ましい。こうした情報は一種の公共財であり,個別の保育所の自発的供給(公表)に任せるのは無理がある。そこで,市町村が情報を集約して,利用者に分かりやすい形で公表するように,国が予算をつけて,市町村に義務付けを行なう。また,現在任意となっているサービスの質の第三者評価も強制義務とする。項目を大幅に見直した第三者評価,もしくは,それに代わる評価を,全保育所に1年に1度義務付け,これも市町村に情報を集約して,公表を義務付けることにする。こうした情報集約・公表の面は,むしろ,改革によって市町村の関与が強化されるべき領域である。
4.本改革案の経済・財政効果の試算の方法
前節のようなスキームで改革を行なった場合,運営費や保育料収入はどうなり,最終的にどの程度の公費負担増となるか,シミュレーション分析により具体的な試算を行うことにしよう。具体的なシミュレーション分析は,@需要面,A供給面,B財政面の3つの側面がある。
(1)需要面の分析(マイクロ・シミュレーション)
需要面については,本改革案によって,未就学児童を抱える家庭がどのように行動を変えるのか,マイクロ・シミュレーションによる分析を行う。そのために必要なデータセットは,実際の未就学児童を持つ家庭データである。内閣府では,2008年9月に,未就学児童のいる家庭に対して大規模インターネットアンケート調査(「保育や子育てに関するインターネット調査」(内閣府(2009))10)を実施した。サンプル数は,配偶女性の就業世帯3,394,非就業世帯3,184である。このデータを,まず,子供単位に分割をしてデータセットを作成する。サンプルが就業世帯,非就業世帯をほぼ同数であるのはそのように調査を設計したためであるが,現実の未就学児童がいる家庭は圧倒的に非就業世帯が多い。そこで,2005年国勢調査を用いて,非就業者,就業者の比率や,年齢比率について,実際のデータに近似するようリサンプリングをして調整した。調整後のサンプル総数は,23,660である。
この調査では,就業世帯・非就業世帯ともに新認証保育所に対する需要がわかる設計となっている。需要は,価格対比の概念なので,保育料がいくらであった場合に保育所利用を希望するかという質問の仕方をすることが重要である11)。これを環境経済学,医療経済学等の分野で用いられる「仮想市場法((CVM: Contingent Valuation Method))」という手法により,質問設計・分析し,新認証保育所への需要曲線を推計する。推計された年齢別の需要曲線は,図2の通りである12)。低年齢児ほど需要が大きく,必要度が高いことがうかがえる。
この需要曲線に対して,供給量を増やした場合の交点を計算し,均衡保育料を算出する。均衡保育料の算出結果は,表5の通りである13)。例えば,(a)の106万人増のベースでは,(c)の
【252頁】
現状の応能負担の保育料に比べて,1.2倍から2.0倍程度,均衡保育料が上がることがわかる。これが,いわば,市場で決まる適正な価格(応益負担の保育料)なのである。現状の認可保育所の応能負担保育料は低すぎるのであり,それが大量の待機児童・潜在的待機児童が生まれる背景になっていることが,ここでも確認できる。これまでの認可保育所の利用者も,新認証保育所に入所する利用者も,この新しい保育料価格に直面することになる14)。
ただし,既に述べたように,0歳児や所得に応じた利用者直接補助があるために,利用者が実際に負担する金額は,この均衡保育料よりもはるかに低いものとなる。また,世帯年収500万円未満の場合には,現行の認可保育所の応能負担保育料と同額,世帯年収500万円以上の場合は,現在の負担よりも5千円から1万円程度の負担増に止まるように調整した。0歳児は,均衡保育料の半分を直接補助とする。改革前後の利用者の実際の負担額は,図3に見る通りである。この「現状のケース」は,未就学児童家庭アンケートのサンプルから実際に計算した世帯所得別の負担額である。「改革案のケース」は,均衡保育料から利用者直接補助を差し引いた実質負担額である。高所得者でも均衡保育料を超えることはない。
この改革後の保育料負担額に対して,それよりも高い支払意思額(WTP: Willingness to pay)
【253頁】
を持っているサンプルが利用者として選ばれ,WTP が低いものが非利用者となるように,サンプルを入れ替える計算を行い,マイクロ・シミュレーションとした。ただし,低所得者については,シミュレーション前に表明されているWTP そのものではなく,利用者直接補助があることを想定した上でのWTP となるように,再計算を組み込んでシミュレーションを行なっている15)。
(2)供給面の分析
本分析では,供給面は供給曲線を想定して量と価格の均衡を求めるのではなく,新待機児童ゼロ作戦を達成する供給量のところで,供給量が一定として均衡を求めている。その意味で,供給曲線を導出する必要はない。しかしながら,新認証保育所の運営費は,後述の公費負担を求めるために必要であるため,供給面の調査を実施した。
具体的には,新認証保育所のモデルとなる東京都・認証保育所の現在の運営費や人件費を求めるために,2008年10月に,東京都の認証保育所にアンケート調査を実施した(詳細は補論1,鈴木(2009)を参照)。この調査を集計し,児童年齢別の運営費にしたものが,既出の表3である。
一方,人件費については,同アンケート調査で各保育士の賃金を直接尋ねているので,それを集計した。認証保育所には保育士以外の従事者もいるが,有資格の保育士の分のみを常勤と非常勤にわけて計算している。その結果が,表6,7の上段(a)であるが,認証保育所保育士(常勤)の平均年収は366.6万円,非常勤保育士の平均時給は966円となっている。
問題は,供給量を106万人も増加させた際に,この人件費や運営費がどのように変わるかである。現在,ただでさえ,保育士不足が叫ばれる状況下であり,人件費単価上昇は避けられな
【254頁】
【255頁】
いものと思われる。それを探るために,NPO ポピンズ,株式会社パソナの協力により,潜在的保育士の状況に関するアンケート調査を実施して分析した(詳細は,補論3,4を参照)。両調査とも調査票はほぼ同一であり,仮想市場法により,新認証保育所で働く場合の希望賃金が算出されるように調査を設計した。その結果が,表6,7の下段(b)であるが,現在の認証保育所保育士の賃金と,潜在的保育士の希望賃金を比較すると,潜在的保育士は,常勤については潜在的保育士の方が3.5%,非常勤については17%,平均的に割増賃金を要求していることがわかる。そこで,供給増により増加する人件費として,アンケートからわかる最大限の数字として非常勤の場合の17%を採用し,その分人件費が高まることを想定する。これは,運営費の約1割増に当たるため,供給増により,全ての保育所の運営費が1割増となると想定することにした。
【256頁】
(3)公費負担の計算
こうして分析した需要面,供給面の試算値を,調査のサンプル数から実際の利用者数に倍率をかけて調整し,現実の保育料収入総額や運営費総額とした。実際の人数は,厚生労働省(2008)や2005年の国勢調査の数字を用いている。
障害児対策費は,保育所における障害児数の統計が存在しないため,学童保育における障害児数から想定することにした。厚生労働省「放課後児童健全育成事業(放課後児童クラブ)の実施状況」によれば,2009年5月1日現在で,学童保育を受けている児童794,922人に対して,障害児数は7,477人である。比率にすると0.94%であるから,保育所の障害児もほぼ同程度の1%と想定し,運営費の1% が障害児対策費になるとした。運営費総額から保育料収入総額を引いたものが公費である。
公費負担を考える際には,保育所供給増によって,就業率が増加し,その分だけ所得税や住民税が増加するという点も重要である。この「保育や子育てに関するインターネット調査」のアンケートでは,非就業者については,保育所を利用できた場合の期待収入を尋ねているので,非就業者が就業した場合の収入増を計算し,そこから税収額を計算することができる。一方で,シミュレーションでは,これまで認可保育所に入所していた一部の就業者が,高まった保育料に直面して非就業になるケースもあり,両者の差し引きで効果を考える必要がある。
具体的には,労働収入に応じて,所得税率(所得段階別の累進税率)と住民税率を勘案した税収を計算した。ただし,所得把握や控除を考慮しなければならないので,実際の「直接税収(平成20年度予算ベース)/ 家計賃金所得(平成19年度SNA)」比率に見合うように,上で求めた税収の5割が実際の税収となると想定した。また,サンプルを作るに当たって,複数児童のいる世帯があるが,それらを名寄せして計算している16)。
5.経済・財政効果の試算結果
表8が,改革による経済・財政効果の試算結果をまとめたものである。上段が実金額で,(a)が現状,(b)が厚生労働省案の認可保育所で106万人の供給増を図ったケース,(c)が本改革案の新認証保育所で106万人の供給増を図ったケースである。なお,(d)として,(c)案の半分の53万人の供給増のケース(参考案)も試算した。
一方,下段は差額であり,@が本改革案と厚生労働省案の比較,Aが厚生労働省案と現状の比較,Bが本改革案と現状の比較,Cが参考案と現状の比較である。
まず,(b)厚生労働省案と(a)現状を比較してみよう(下段Aも参照)。厚生労働省案では,認可保育所を中心に供給増を図るため,運営費17)は現状の2兆4800億円から1兆7500億円(下段A)も高まり,4兆2300億円にも達してしまう。保育料収入は,現行の応能負担が維持されることから,需要の高い人々に必ずしも利用が割当てられず,3200億円程度しか増加しない(下段A)。そのため,労働供給増によって2200億円程度税収が増える分を勘案しても,実公費負担は1兆2100億円も増加する(下段A)。繰り返しになるが,この財政負担をどう捻出できる 【257 頁】 かが,この厚生労働省案あるいは少子化部会・第1次報告の非現実的な点である。
一方,(c)本改革案と(a)現状を比較してみよう(下段Bも参照)。この場合には,運営費は認可保育所で供給増を図るほどには増加せず,1兆4600億円程度の増加に止まる。また,保育料実収入は,低所得者対策・応能負担対策や0歳児への考慮を行なったとしても大幅に高まり,7400億円の収入増が見込まれる。
これは,市場で決まる保育料が適正な水準となり,世帯年収500万以上の人々が若干の追加保育料負担を行なうようになるからである18)。また,保育利用者自体も,これまで需要が高いにもかかわらず待機児として保育所を利用できなかった人々が,保育所を利用できるようにな
【258頁】
り,保育料収入に貢献するという効果もある。このため,本改革案では公費負担は大幅に小さくとどめることが出来る。下段Bにみるように,税収を差し引いた実公費負担は5800億円であり,厚生労働省案の半分以下の金額である。
また,(d)参考案の53万人供給増のケースでは,下段Cにみるように,税収を引いた実公費負担は1300億円と,わずかな支出にとどまる。106万人の供給増を一時に図れる財源が確保できない場合には,まず,1300億円の公費負担をなんとか捻出して,53万人の供給増からスタートしてはどうだろうか。
最後に,下段@により,本改革案と厚生労働省案の比較をすると,公費負担にしてなんと7100億円もの節約が本改革案で達成されることがわかる。その内訳は,運営費19)で2900億円,保育料実収入で4200億円である。ただし,本改革案の方が,厚生労働省案より低所得者等への弱者対策が手厚く行なわれているために,低所得者の保育所利用がより進み,税収増は厚生労働省案よりもむしろ800億円程度も少なくなる。このため,実公費負担ベースでは節約額がやや小さくなり,6300億円の節約額となる。
6.結語
本稿では,現在,改革論議が大詰めを迎えている保育制度改革について,経済学の観点から,問題点を整理し,現実的な制度設計について考察した。厚生労働省の社会保障審議会少子化対策特別部会が2009年2月に発表した第1次報告(「社会保障審議会少子化対策特別部会第1次報告−次世代育成支援のための新たな制度体系の設計に向けて−」)は,「保育に欠ける」要件の見直し,直接契約方式導入など,保育制度の歴史的転換点となる仕組みが取り入れられたが,保育所の供給増に関して具体策に欠け,需給調整の仕組みが欠落するなど,制度設計上の致命 【259 頁】 的問題点を抱えている。これに対して,本稿が示した改革案は,@「新認証保育所」による供給増,A原則価格自由化による需給調整,B利用者への直接補助による弱者対策,応能負担の維持を提案しており,少子化部会・第1次報告を補う現実的な改革案である。また,100万人の保育利用者増を骨子とする新待機児童ゼロ作戦を達成するための公費財源は,厚生労働省が想定する認可保育所による供給増では,毎年約1兆4千億円の金額が必要と見込まれるが,本改革案ではほぼその半額の7000億円程度で実行することができる。50万人の保育利用者増であれば,1千億円強の公費財源で達成可能である。
今後の数年間のわが国の状況を考えると,人口減少・労働力減少が急速に進む中で,「団塊世代」が大量に年金受給者となるために,社会保障財政が益々逼迫してゆくことになる。また,少子化対策のターゲットであった「団塊ジュニア」と呼ばれる人口層が出産可能年齢を過ぎようとしている。こうした状況下で,急ぎ少子化対策・女性労働力増を進めようとするのであれば,財源が無ければ何も改革しないという現行の方針を改め,財源が少なくても実行可能な対策を立案すべきである。
<参考文献>
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規制改革会議(2008b)「平成20年度第2回福祉・保育・介護TF(平成20年10月28日開催)資料2」
(http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/minutes/wg/2008/1028/item_081028_02.pdf)
栗山浩一(1997)『公共事業と環境の価値─ CVM ガイドブック─』築地書館
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「子どもと家族を応援する日本」重点戦略検討会議(2007)「子どもと家族を応援する日本重点戦略について(とりまとめ)」
(http://www8.cao.go.jp/shoushi/kaigi/ouen/index.html)
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鈴木亘(2008c)「潜在的保育士アンケートの調査結果(株式会社パソナ調査分)」 (http://www.geocities.jp/kqsmr859/teigen/pasona.pdf)
鈴木亘(2009)『認証保育所の運営状況に関する調査の結果報告書』 (http://www.geocities.jp/kqsmr859/teigen/hoiku2009-6.2.pdf)
全国保育団体連絡会・保育研究所編(2007)『保育白書2007』ひとなる書房
寺脇拓(2002)『農業の環境評価分析』勁草書房
【260頁】
内閣府(2003)『保育サービス市場の現状と課題─「保育サービス価格に関する研究会」報告書』 (http://www5.cao.go.jp/seikatsu/price/hoiku/)
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八代尚宏(2000)「福祉の規制改革」八代尚宏編『社会的規制の経済分析』日本経済新聞社
八代尚宏・鈴木亘・白石小百合(2006)「保育所の規制改革と育児保険〜少子化対策の視点から〜」『日本経済研究』第53巻,pp.194-220
Noguchi, H, S, Shimizutani and W. Suzuki(2008) “Nonprofit Wage Premium in the Japanese Child Care Market: Evidence from Employer-Employee Matched Data” Applied Economics Letters, Vol.15, No.14, pp.1089-1092
Zhou, Y and A. Oishi (2005) "Underlying Demand for Licensed Childcare Services in Urban Japan", Asian Economic Journal, vol.19(1), 103-119
補論1 東京都・認証保育所調査(2008年)について
(1)調査実施時期・・・2008年10月
(2)調査対象・・・東京都及び東京都認証保育所協会,日本こども育成協議会の協力のもと,両協会のどちらかに加盟する東京都・認証保育所。
(3)調査方法・・・郵送によるアンケート調査。送付総数410施設のうち,215の施設から回答を得た。調査票は保育所の運営状況に関する事柄のほか,保育所内の全保育士に関する賃金等の情報を尋ねた。保育士の回答サンプル数は,215施設で2034人である。
(4)調査概要・・・鈴木(2009)
補論2 仮想市場法による新認証保育所への需要曲線の推計について
仮想市場法による保育需要の導出
ここでは,本文図2の需要曲線の導出及び推計結果について報告する。仮想市場法の一種であるWTP(Willingness to pay,支払意思額)では,対象者に対して具体的に「対象物に対して最小でいくら支払っても良いか」の金額を表明させる手法である。保育の分野におけるWTPの活用は,Zhou and Oishi(2005),周・大石(2003),周・大石(2005)によって始めて導入され,その後,内閣府(2003),八代・鈴木・白石(2006)などでも用いられている。WTP における初期の論文では,直接その金額を対象者に提示させるというOpen End 法や,いくつかの金額の中から選らばせる支払いカード方式やClose End 法と呼ばれるものが用いられていたが,最近でははじめに金額を提示して,それを受諾するか受諾しないかを対象者に選ばせる選 【261 頁】 択法がもっとも信頼度が高い方式として普及している。受諾確率は金額の関数として,生存時間分析としてモデル化され,需要曲線が求められる。
具体的なアンケート調査票は,以下に示した通りである。質問を,系統樹の形で表示すると以下(補論2図1)のようになる。リサンプリングにより,本文に述べた調整を行なった後のデータに対して,推計を行う。
【262頁】
【261頁】
WTP の推計では回答者の間接効用関数から推定モデルを導出するのが一般的である(栗山(1997),寺脇([2002])。回答者の間接効用関数V が以下のように観察可能な部分W と観察不可能な部分に分かれると仮定し,次のように設定する。
s=0は認証保育所のサービスs0 を受けていない場合,s=1は認証保育所のサービスを受けている場合である。yi は回答者i の所得,xi は回答者i の属性ベクトル,
はガンベル分布(第一種二重指数分布)をとる互いに独立で同一の分布に従う誤差項を表している。そこで,回答者にsi からs1 に増加する状況を想定し,認証保育所のサービスに対して,提示Bi を支払ってもよいのかどうかをたずねたとする。回答者i は次式で表される効用の大小関係
が成立すれば,YES と答えることとなる。
回答者がYES と答える確率は,
ガンベル分布の分布関数を用いて展開すると,
となる20)。NO と答える確率。ただし
は観測可能な効用関数の差,
F はYES と答えた人の分布関数である。ここでF が標準ロジスティック分布に従うと仮定す
ると,(2)式は次式の通りになる。
は次のように設定される。
ここで,所得yi は属性ベクトルxi の中に含められている。a は定数項,b はの係数,c はxi の係数を表している。提示額B(WTP)は正であるとし,対数が取られている。この定式化により,WTP は対数ロジスティック分布をすることが仮定されている。(4)式から係数を条件付けた各回答者の尤度が得られるので,それらを掛け合わせたものを対数変換して対数尤度関数を作り,最尤法によって係数の推定を行う。θ=(a, b, c)とすると,対数尤度関数L(θ)は次のように表せる。
Y はYES の時,N はNO の時を示している。最尤推定量θはの解となっている。dYY は,4万円の提示に対してYES,6万円の提示に対してYES と答えた者のダミー変
【264
頁】
数,PYY はその時の確率である。dYNY は,4万円の提示に対してYES,6万円の提示に対してNO,5万円の提示に対してYES と答えた者のダミー変数であり,以下同様である。ここで,平均値は(4)式を別途記入式で回答された最低額(5千円以下の場合の回答額)から最高額(6万円以上の場合の回答額)まで積分することによって計算される。中央値はロジスティック分布を仮定しているので,exp(a/b)で計算される。
推計結果
推定結果は,各児童年齢別の推定結果が,補論2図2に示されている通りである。各パラメータ(A0,B0)は,(4)式のa, b に対応している。
【265頁】
【266頁】
補論3 潜在的保育士アンケートの調査結果概要(株式会社パソナ調査分)について
(1)調査実施日……平成20年9月18日〜9月30日
(2) 調査対象……株式会社パソナに登録する派遣労働者で,保育士資格を持っていながら,保育所に勤務していない人々。
(3) 調査方法……対象者に対して,電子メールを配信し,アンケートサイト(クローズド)上のアンケート調査票への回答を依頼した。配信数1056に対して,回答323サンプルを得た。分析は,そのうち,保育士資格及び資格要件を持つ319サンプルに対して行なった。就労する場合の条件については,仮想市場法(CVM: Contingent Valuation Method)による調査を行なった。
(4)調査概要……鈴木(2008c)
(5)調査票……仮想市場法部分について(非常勤の場合)
問1 今,ご自宅から30分以内にある保育所(東京都の認証保育所程度の基準を満たした保育所)で非正職員の保育士(臨時保育士やパートタイム保育士など,正職員ではない保育士)の募集があったとします。時給1000円が提示された場合,あなたはこの保育所に応募しますか。当てはまる番号に○をつけて,指示のある問をお答えください。
【267頁】
1.働く⇒問2へ 2.働かない⇒問4へ
3.時給がいくらであっても,臨時保育士やパートタイム保育士は希望しない⇒問6へ
問2 それでは,時給800円ならば働きますか
1.働く⇒それでは最低いくら以上ならば働きますか?(時給 円)⇒記入後問6へ
2.働かない⇒問3へ
問3 それでは,時給900円ならば働きますか
1.働く⇒問6へ 2.働かない⇒問6へ
問4 それでは,時給1200円ならば働きますか
1.働く⇒問5へ
2.働かない⇒最低いくら以上ならば働きますか?(時給 円)⇒記入後問6へ
問5 それでは,時給1100円ならば働きますか
1.働く⇒問6へ
2.働かない⇒問6へ
補論4 潜在的保育士アンケートの調査結果概要(NPO ポピンズ調査分)について
(1)調査実施日……第1回:平成20年6月7,8日,第2回:平成20年7月8日,第3回:平成20年8月3日
(2)調査対象……NPO 法人ポピンズが主催した潜在的保育士を対象にした研修会に参加した人々。
(3)調査方法……第1回から3回までの研修会において,対象者に対して,アンケート回答を依頼,BOX を設置して,研修終了後に回収した。回収数及び配布数(研修参加者数)は,第1回:回収80通(配布84通),第2回40通(43通),第3回34通(36通)で,合計154通(163通)。分析は,そのうち,保育士資格及び資格要件を持つ135サンプルに対して行なった。就労する場合の条件については,仮想市場法(CVM: Contingent Valuation Method)による調査を行なった。
(4)調査概要……鈴木(2008b)
(5)調査票……補論4と同様。