【67頁】
レイテンシー・アービトラージとレイヤリングなどの発注行動〜情報通信のスピードアップがHFTに及ぼす影響などについて〜
辰巳 憲一*
1 はじめに
人類は過去半世紀の間に,情報通信スピードの目覚ましい高速化と大容量化を実現した。現在もそれは進行中である。このような輝かしい情報通信技術の進歩の歴史について,どのようにそれは実現され,人々はどうエンジョイしているか,我々はまず確認する必要があるように思う。
今世紀に入って数ヵ年が経た時期以降,証券などの金融取引はその恩恵を大いに受け,その高速化は急速に進み,その処理速度は数秒単位からミリ秒単位,マイクロ秒単位へと著しく変化した。それに伴い,取引価格,気配や注文残が極めて頻繁に,場合によっては極めて短時間のうちに,変動するようになった。この変化に着目して利益を得ようとするHFT(高頻度取引)が登場したことは広く報道され知られるようになっている。
このような大変貌は,瞬く間に,世界中に及んだことも注目される。東証の株式売買システムも2015年9月24日の更新で,注文応答時間が0.5ミリ秒未満となった。東証における売買注文量の半分以上を占める程HFTが存在感を高めている,ことに誰もが関心を寄せている。
HFTの興隆で,真偽の程は様々な,多数の不満が表明されてきた。そのなかで,長らく解消していない不満はレイテンシー・アービトラージ(latency arbitrage)ではないかと思われる。レイテンシー・アービトラージとは,詳しくは後述することになるが,市場参加者などの認知・決定・行動の時間差から生じる価格差や需給量変化を狙った取引である。情報通信技術の高度化という人類の喜ばしい成果がここ数十年の間に達成されたなか,情報通信の高スピード化をフルに活用できているのは,また金融証券市場において実際に活用してきたのは,現在のところHFTだけではないかと思われる。HFTはこの輝かしい科学技術進歩の成果を汚しているのだろうか。
より速くはオリンピックのモットーの1つである(そのモットーは3つありラテン語で
【68
頁】
Citius, Altius, Fortius,英語ではFaster, Higher, Strongerになる)。われわれは人類の限界に挑戦する人間を賞賛するのにHFTは非難されるとは,一体どういう事なのだろうか。
最良価格で執行することを証券会社に義務付けている米国では,これらの点で話題に事欠かない。例えば,発注情報は複数の取引所を結んだSIPと呼ばれるシステムで集計されることに絡んで,HFTはSIP以上のスピードで動くことが可能であるため,様々な目新しい問題を引き起こしてきた。HFTの高速を規制するべきなのか,適切に規制できるものなのか,規制するにも新しいルールを設ける必要があるのか,なども話題になってきた。また,一般投資家がレイテンシー・アービトラージから被害を受けるのを避けるために当該行為を実質上妨げるスピードバンプ機能を持つ取引所(IEX)の設立が話題になったりしている。
本稿は,情報通信のスピードアップをもたらした技術的要因から説き起こし,レイテンシー・アービトラージを解明し,問題の背景を解き明かす試みを行う。科学技術的要因といっても,専門概念に頼らず,経済的に捉えることができる。主要な関心事は次のとおりである。情報通信技術の進歩はどのような経過をたどってきて達成されたのか,現在の状況はどうなのか。それは現在でもまだまだ発展の余地を残しているのだろうか。高速通信技術が今後どのような方向に進むのか,低コスト化に進むのか。経済に広く行き渡ることになるとすれば,低コスト高速通信技術は,小口の個人投資家まで,恩恵を及ぼすのか,などである。また,高速で進歩する技術を適切に規制に書き込めるのだろうか。
それに続いて説明するテーマは,本稿の2大主題のうちの2つ目である。レイテンシー・アービトラージにはリスクが無いのか,あるいは不正取引に限りなく近いレイヤリング(layering)やクォート・スタッフィング(quote stuffing)に該当しているという意見もあるが,これらは正しい意見なのかどうか,などである。
寡聞にして筆者は,いずれの概念も詳しく適切に展開されたことはないのではないかと思う。本稿で説明したいことを要約すると次のように数行にまとめられる。超高速で進歩する情報通信技術を詳しく展望してみれば,遅れることなく証券規制の条文のなかに技術を明文化するのは不可能である。レイテンシー・アービトラージは,リスクを取る裁定行為であり,レイヤリングやクォート・スタッフィングとも基本的に違う。そもそもレイヤリングやクォート・スタッフィングを不正取引と断定できないケースがあるという点も述べたい。
2 情報通信技術の進歩
2−1 科学技術の進歩とかかる時間のスピードアップ
私たちが体験しているように,過去1世紀に渡る交通手段の発達はヒト・モノの移動・輸送時間を極めて短縮した。生産技術の進歩や新素材の開発は多様な製品やサービスを迅速かつ弾力的に市場へ供給することを可能にした。そして,情報通信技術の発達は遠隔地間であっても情報交換を瞬時に行うことを可能にした。こうした変化は人間の生活や思考・行動様式に大きな影響を及ぼした。例えば,都市(間)の構造,人間の間の関係,などに対してである。
情報通信技術の発達は,交通手段,生産技術や新素材と比べて,眼に見えない部分,肌で感じられない部分があるため,正しく理解されない嫌いがある。情報通信の進歩を一方で享受し,古い世代が予想すらできなかった現代生活をおくりながら,他方でHFTを攻撃する者も現れている。一体整合的な批判なのだろうか。それゆえ,情報通信技術の発達が金融行動と市場へ
【69
頁】
及ぼした影響はどのようなものなのか,比較的詳しく見ていくことにしよう。技術の進歩とかかる時間のスピードアップに注目する。
2−1−1 情報通信の分類と効果
情報の伝送・伝達は,一般に,情報を2進法に転換して,波1)
で送られる。波を使った情報通信手段は,電気通信vs光通信,有線vs無線,遠距離vs近距離,固定vs移動体・モバイル,などを比較基準に分類される。それぞれに,メリットとデメリットがある。実際の情報通信はこれらの組み合わせで行われる。
波には,電気と光のそれが従来使われてきた。光通信の仕組みは,光が光っている時はスイッチONで光が消えている時はスイッチOFFという2進法の情報の伝達方式である。光の速度は,光自体が物体のなかを伝播する速さのことで,真空中においては毎秒約30万キロメートルである。しかし,光通信の速さは,光の速度だけでなく,情報の光への変換方式,情報の送り方などに依存する。
有線通信と無線通信という区分があるが,特に遠距離は有線と無線の組み合わせの通信になる。現在の通信ネットワークは有線と無線を適材適所に組み合わせて構築される。しかしながら,近距離は,移動体・モバイルが係ると必然的に無線になる。通信エリアは数センチからおよそ1メートル程度の極短距離になると非接触通信とも呼ばれる。
2−1−2 光ファイバー通信とその特性
情報通信の主たる伝送手段は,現在,光ファイバーである。光ファイバーを通る情報通信2) 【70 頁】 は,数10cm離れたワークステーション同士の接続,数100m離れた同一敷地内のビル間接続から国内バックボーンや日米間回線など(1,000km以上)まで,距離を問わず様々なデジタル通信に使われている。次のような,幾つか特徴があげられる。
(1)光ファイバーの低損失性
通信用光ファイバーは元来石英(SiO2)を主材料にしたガラス繊維である。それは澄んだ空気と同じくらい透明で,20km先でも光の強さは半分までにしか衰えず,100km程度まで見通せる3)
。それに対して銅から成る電話線を通る電気通信では1km先では電圧が100分の1になってしまう。
光ファイバー通信の光源は半導体レーザーを用いるまでになっている。後述のように,テラビット/秒という超高速の伝送は,光の増幅が行われ,光波を多数用いる,などによって実現している。
(2)光の減衰と光ファイバー増幅器
光ファイバーを伝わる光信号は自ずから減衰する。長距離伝送を可能にするためには,途中で光信号を増幅する必要がある。電気変換をせずに,光信号をファイバー中で直接増幅することが既にかなり昔から可能になっている。さらに増幅は,高出力,低雑音だけでなく,後述の,広帯域,波長多重(WDM)信号の一括振幅や信号形態に依存しない方法が可能になっており,光伝送の中継間隔や伝送容量を拡大していくためのキーデバイスの1つと見られている。
(3)光ファイバーの広帯域性
帯域(たいいき)とはどのくらいの速さまでの信号を送れるかを表した言葉である。信号の速度とは,送信側でスイッチをONとOFFに切り替える速度である。
光ファイバーを使うと,1秒間に1兆回以上の光の点滅でも遠くまで送り届けることができる。1秒間に1回スイッチを入れる信号の速さを毎秒1ビット(1bps)と呼ぶ。毎秒100万回は1Mbps,毎秒10億回は1Gbps,毎秒1兆回は1Tbpsと表す。M(メガ),G(ギガ),T(テラ)という記号はそれぞれ10の6,10の9,10の12,乗という意味である。
帯域が n 倍になれば,原理的に n 倍の高速伝送が可能となる。しかしながら,広帯域化すると,建物などによって反射されてくる信号が次の信号と重なり合い,問題が発生することが限
【71
頁】
界の1つになる。
2−1−3 光ファイバー通信の進歩の源泉
(1)光ファイバー通信の光多重技術〜時分割多重方式と波長分割多重方式
光ファイバーの能力に見合うだけの光源(つまり発信)や受信装置は,当初,存在しなかった。そこで発明されたのが,光源を多数用意して,それらの光を一緒に合わせて一本の光ファイバーで送るという方式で,光多重と言われた。
光多重には,複数の光源からの点滅光を時間的に少しずつずらして重ね合わせる方式と,光の波長の違う光源を使って重ね合わせる方式の2つがある。前者は時分割多重方式(TDM:Time Division Multiplexing)と呼ばれ,1980年代前半頃から世紀末までの技術進歩推進役であった。後者は波長分割多重方式(WDM: Wavelength Division Multiplexing)と呼ばれ,前者を引き継ぎ,世紀の変わり目を超える頃までけん引した。
光多重技術の発明によって光ファイバーの伝送能力は大きく向上したわけである。両者の技術を併用して1秒間にDVDの700枚分(秒速25テラビット,Tbit/s)に相当する量以上の情報が送れるようになったと記録されている。ちなみに,2017年に敷設された海底ケーブルの伝送能力は秒速160テラビット,1秒間でDVD16万枚相当分の通信容量である。
時分割多重方式では,1度に送る情報を限り,時間で区切って送る。区切られた情報は,コンテナーのように理解・説明され,パケットという呼ばれる場合もある。パケットには行先住所が付けられ到着後再構成される。このような分割方式によって,より多くの情報が速く送れるようになる。しかしながら,複数のユーザが同時に情報を発信した場合,情報を運ぶ車線は1車線しかない場合,それぞれの情報(コンテナー)を乗せたトラックが1列に並んで運び,車線が渋滞した時には,送信速度が遅くなることもある。
波長多重方式では,1度に送れる情報量が多く,複数のユーザの情報を波長を変えて同時に送ることができる。複数のユーザが情報を同時に発信しても,例えば車線が沢山あるので渋滞になりにくく,スムーズに荷(ビット数)を送れる,ようである説明される。そして送信速度が安定している。
(2)多値変調技術
定めた時間間隔ごとに波の波形(波の大きさや形)を様々に変えることを変調と言う。情報通信の次の段階の高速化は,光信号の多値変調化,すなわち1つのシンボル(変調信号の単位)内で送る情報を増やすことで実現された。
変調では,波の「振幅」と「周波数」と「位相」を変化させたり,これらを複数組み合わせることにより,波に複数の信号(情報)を載せて送られる。例えば,QPSK(quadrature phase shift keying)という変調方式では,1つのシンボルで4個の信号点を送れる。具体的には,それぞれのシンボルを00,01,10,11と対応させる。
変調方式はデジタル変調方式とアナログ変調方式の2つに大別される。デジタル変調方式は,“1” と“0” の二値の信号を伝送する変調方式である。搬送波の振幅の違いで“1” と“0”を表す振幅偏移変調(ASK: Amplitude Shift Keying),搬送波の周波数の違いで“1” と“0” を表す周波数偏移変調(FSK: Frequency Shift Keying),搬送波の位相の違いで“1” と“0” を表す
【72
頁】
位相偏移変調(PSK: Phase Shift Keying)など4)
がある。
アナログ変調方式は,1と0のデジタルで送るのではなく,波の大きさや形を送信時間に応じて様々に変える変調方式である。
分野によっては技術進歩がまだ続いている。NECは波長が同じ16本の波を少しずつずらす(振幅位相変調方式)等などの複合的な工夫によって,情報通信量の急増に備え,光ケーブルでの速度を3.5倍に高める新技術を開発した,と報道されている(2016年6月11日日経新聞夕刊)。
(3)空間分割多重方式
その後,情報通信の高速化を実現したのは,空間の利用である。無線通信では,建物や地上物などによって信号が反射するため,送信アンテナから送られた信号はさまざまな経路を通って端末に届く。この特徴を利用し,複数の送信アンテナから異なる情報を送り,端末側で識別することで高速化を実現する手法がMIMO(Multiple Input Multiple Output)である。理論上,アンテナの数を n 倍にすることにより n 倍の高速化が実現できる。
2−1−4 情報通信技術進歩の将来と行く末
(1)低コスト化
光通信は光の強度を制御して高速化大容量化する方法に当初はとどまっていたのが,波としての性質を生かし,更に多機能で大容量の高速伝送を実現した,わけである。図表1には,その進歩の過程を示した図表を載せた。縦軸は対数目盛である。
【73 頁】
技術進歩の将来と行く末は次のようになるものと予想できる。ここまで展開してきたのは,技術のフロンティアである。可能な最速の技術を,コストを考慮せずに,示したに過ぎない。
高速通信技術は,この後,低コスト化に(正確には,金に糸目を付けず高速化にまい進するだけでなく,低コスト化にも)進むものとみられる。その結果,低速高コストの旧来の通信技術は,使われなくなり,それらの機器は博物館で展示されるだけになるであろう。低コストであるため,小口の個人投資家の注文を含めた,どのような取引情報も高速でやり取りされるだろう。高速処理と高速伝達は万人が要求するサービスなので,技術者も低コスト化に邁進する,からである。
(2)新業種と新しい職種の誕生
情報通信が経済へ及ぼす影響はミクロ経済とマクロ経済で捉えられる。1980年代半ば以降,まずAOLなどの先駆的企業がインターネット技術を広く拡散し,続いてグーグルやフェイスブックがそれぞれ検索サイトや交流サイトを立ち上げ世界中に普及させ,スナップチャットやインスタグラムが関連アプリ展開の可能性を広げた。これらの背後では,一部は既述の,そして後述の,情報通信技術の著しい進歩が支えてきたわけである。
多くの企業は情報通信をグローバル化の手段として用いてきた。インターネットを介した動画視聴の機会が増大したことに加え,企業間のビッグデータのやりとりが急増したため,2012年に約30億テラビットだった国際間の通信量は2014年には年間約60億テラビットに増加していたと報告されている。
情報通信はその恩恵を相対的に貧困な社会にも授けてきた。マクロ経済の面でも,情報通信基盤というインフラの整備が経済成長あるいは消費生活の豊かさと関係があることは疑えない事実であると考えられてきた。今後,輸送,健康管理,教育,などの業種で大きな構造改革が起こるという予想がなされている。それらだけでなく,これまでのわれわれが経験したことから考えてみると,人間の行動自体を一変させてしまうだろう。
技術進歩の歴史を紐解くと,特に,極めて反復的あるいは人間にとって危険な作業は機械に代えられてきた,ことがわかる。機械が人間に取って代わってしまうことは極めて経済的な理由でもあり,どのような新興技術でも程度の差はあれ同じような運命を人間に負わすことになる。
同様に,高速化によって,現在人間が行っている一部の仕事へのニーズは確実になくなるだろう。しかしながら,メッセンジャーは失職してしまうが,高速化システムの構築,修理やメンテナンスをする人間が新たに必要になってくる。通常ではこれらの作業は,非常に高いスキルやトレーニングが必要だからである。しかも,情報通信の高速化によって多くの業界の成長が刺激される。これまで存在しなかった全く新しい業界や職業が生まれるかもしれない。その例としてシステム・デザイナーやデータアナリストなどがまず考えられる。
(3)新技術〜量子情報通信
次世代情報通信の手段は量子である。量子(quantum)とはすべての物質の構成要素である。光の量子である光子(こうし:photon,フォトン)を用いた通信である量子情報通信(quantum communication)では,光子の量子状態を直接制御することによって,限界を超えた大容量高速通信が可能となり,しかも情報セキュリティの確保が可能となる。昔はノイズに弱いと見られており,研究開発は進まなかったが,最近は飛躍的な進歩を実現している。量子情報通信の原理は理解し易いものではないので本稿ではこれ以上展開しない。一端は 『量子情報通信のた
【74
頁】
めの,単一光子の波長変換に関する新手法を構築〜光ファイバを用いて無損失に光子の波長を操作〜』 2016年3月26日,http://www.ntt.co.jp/news2016/1603/160326a.html,などから知ることができる。
量子情報通信がどれくらい速さを達成できるか,そのスピードは2016年時点では不確かである。量子は暗号分野でも魅力のある手段であることが知られており,それを情報通信に用いればセキュリティが高く,通信高速化をその面からもサポートすることになる。効率的な実用化の観点から,量子伝送にとって最適なケーブルを考案したり用いるのでなく,既存の,それゆえ安価な,光ファイバー・ケーブルを使った量子情報通信も研究されている。
(4)法令・規制の妥当性
高速で進歩する技術を法令・規制に書き込めるものだろうか。法令・規制は技術によって日々陳腐化し,書き換え続けなければならないのが事実であろう。頻繁に変更せざるをえない事柄を細則,運用規則に記すのが法治国家の常套手段である。細則,運用規則に記しても,毎年,場合によって年間に何度か,変更していかねばならず,やはり現実的ではない。
そもそも規制は最小限にすべきである。金融活動とは,投資家にあっては基本的人権に属する極めて私的な取引行為であり,企業にあっては自由な資本主義体制に基づく正当な利益追求活動なのである。その私的な活動を法・規制で規定するのは,体制の発展と維持にとって,極めて危険ですらある。
法令・規則違反を仕組むには根拠薄弱,根拠不明である。そうなると,HFT批判は,社会的な制裁を加えようとするリンチの提案・呼びかけにさえ聞こえる。勘ぐれば,自身もHFTを行うための,時間稼ぎの批判かもしれない。
2−2 高速情報通信技術の経済的側面
(1)情報通信技術進歩のスピード
図表1から読み取れるように,情報通信は2000年を挟んだ前後30年間で10の6乗倍の進歩を達成した。既述のように,特に2000年直前と2010年以降の,それぞれ波長分割多重方式と空間分割多重方式による技術進歩は目覚ましい。
情報通信のスピードアップについて考察する際,記しておかねばならないのは,「通信網の帯域幅は6ヵ月で2倍になる」というギルダーの法則(ジョージ・ギルダー(George Gilder),(葛西 重夫訳) 『テレコズム―ブロードバンド革命のビジョン』 ソフトバンククリエイティブ社,2001年11月。)である。この法則を正しいものとすると,情報通信のスピードアップは1年で4倍のペースとなる。しかしながら,実際は図表1から読み取れるように1985年時点の時分割多重方式による容量1Gから2015年時点の空間分割多重方式による容量1P(ペタ)までの30年間でおよそ10の6乗倍のスピードアップが達成されたに過ぎない。それでも,それは1年で1.6倍のペースのスピードに当たる。
(2)株式市場の実際
このような情報通信技術の飛躍的な進歩に呼応して,株式市場では売買間隔が1000分の1秒である投資家が出現した。最近はそのまた1000倍のスピードになっている。その結果,株式保有期間が多様化し,投資ファンドなどの投資期間3年=9460万秒とHFTの売買期間100万分の1秒が共存する世界が生まれた。株主・投資家の間に観察される差はウサギと亀の差どころではない。
【75 頁】
しかしながら,注意しなければならないのは,3年株主も情報伝播のスピードアップは求めている(ほとんど反対はしない),情報処理のスピードアップも誰もが求めている(ほとんど反対はしない),ことであろう。ただし,負担するコストの著しい上昇がなければという条件付きである。
高頻度世界において,売買執行はもう誰にも見えないスピードである。しかしながら,コンピュータは追っていける。その助けによって人間も事後には追っていける。そして,コンピュータが暴走しないように,人間による事前の管理が重要になった。
(3)情報通信技術進歩のスピードが格差を生む〜デジタル・デバイド
情報通信だけでなく,情報処理などの技術の発展により,情報の収集・蓄積・共有・発信が容易になり,迅速な対応,適切な判断,きめ細かなサービス,関係者との更なる連携が可能になっている。このような高度なコミュニケーションができるようになり,市場と経済の飛躍的な発展をもたらした。
しかしながら,このような変化は,情報通信革命に付随して起こった経済変化に乗れる者と,この動きと無縁な者との間でいわゆるデジタル・デバイドを生み出した。人々の貧富の差が1つの要因として情報利用機会の格差につながり,貧富の差をさらに拡大させる恐れもある。しかも,国と国の間での格差,さらには企業などの組織と組織の間での格差,も問題となることがある。
多額の設備投資と多数の回線接続を必要とする大型メインフレーム機器がなければデジタル世界にアクセスできなかった昔には,多数の者がデジタル世界から締め出されていた。しかし,技術は進化し続け,安価になり,デジタル技術はほとんど誰でもアクセスできるものになった。
もっとも,セキュリティが確保された金融サービスに高速でアクセスできるかどうかという点でデジタル・デバイドがまだ残っている,と見て良いように思う。しかしながら,デジタル・デバイドと呼ばれる現象をもたらす,そもそもの原因は,経済力というより,今や能力である。個人投資家や高齢者層の多くはこの格差の反対側にいる。その結果,情報通信技術進歩が広く認知され,あんな事もこんな事もできるということが知られても,格差は幾分縮まることがあっても,消滅することは無いだろう。蚊帳の外に置かれている,このような人たちを蚊帳の中に入れるために必要なのは,教育,サポート,支援であろう。
(4)情報通信における高速専用回線
過去の通信メディア進歩の過程では,競争よりは公共性が重視される姿の方が多くみられ,新技術を体現した設備導入の後先で見られる激しい不満は表面化していないように思う。未導入の者が既導入の者に不公平となじる現象はみられなかった,のではないか思う。むしろ,未導入の者同士が集まれば,導入コストの低減と便益の向上が得られる(情報の経済学における,いわゆるネットワーク効果)方が注目された。
競争意識が芽生え,設備拡張競争を生むことになったのは,情報通信において高速専用線というサービスが生まれたことが1つの原因になったのではないかと考えられる。
専用線とは,主に通信事業者が提供する特定顧客専用の有線・無線通信回線である。専用といっても,本当の意味での専用の通信線路を敷設したり,専用の電波周波数帯域を用いるとは限らず,他の回線と多重化されているものの方が多い。
長距離光ケーブルについては,特にコストがかかるので,グーグルやKDDI,あるいは米国マイクロソフトや米国フェイスブックなどの超大手グローバル企業でなければ本来の専用線は
【76
頁】
保有できない。米国と欧州を結ぶ総延長6600kmの大西洋縦断大容量光海底ケーブルでさえも,後ろの両社の共同敷設となっている。国際通信の99%が海底ケーブルを経由しているけれども,そのほとんどは厳密な意味では専用でないのである。
日本では,1980年代に高速デジタル専用線サービスが開始されるようになった。2000年代に入り,暗号化・カプセル化などのセキュリティ向上,通信高速化による遅延の減少により,安価な仮想専用線サービスが提供されるようになっている。
2−3 遅延分析の視点
2−3−1 遅延を分類する3つの視点
(1)遅延の2分類
遅延には,人間行動における,あるいは情報の流れとマシーンによる,2つの分類・分析が存在している。
人間行動による分類・分析は,政策論,計量経済学のラグ分析に基づくもので,古くから有る。次の小節で概述する。
情報の流れとマシーンによる分類は,ベンダー,メーカーの機器,ネットワーク業者のサービス,マッチィング・エンジン,などから遅延を捉える分析・分類である。
(2)スピードを分析する5つの視点
前者の観点から,政策論や計量経済学さらにはファイナンスでは,次のような分類がある。
認知: (正しい)情報を早く・速く知る,
分析: 情報を早く・速く(正しく)分析する,
決定: (正しい)決定を早く・速くする,
発注: (正しい)注文を早く・速く出す,
約定: 取引・約定を早く・速くする(早く買って,早く売る)。
これら5つのうち,前の3つに関しては,分野によっては,検知,対応,効果という3つの用語が用いられることがある。時は金なりという掛け声で,それらの高速化が図られる。
(3)証券取引システムの遅延
証券取引システムの遅延を決定する3大要素は,ロジック,ボックス,ライン,の3つに大別される,と取材に基づきルイス[2014]は記している。つまり,
ロジック: ボックス(次に説明する)を動かすコード化された指令文であるプログラミングなどのソフトウェアのことである。投資戦略,トレーディング戦略,マッチング・エンジンを含む。
ボックス: 情報がa点からb点へ到達するまで2点間に通過する,サーバー,増幅器,スイッチ5) などの装置群のことである。
【77 頁】
ライン: 情報をあるボックスから別のボックスに運ぶ光ファイバーのケーブル回線,などのことである。
2−3−2 高速化させるための6つの原理
低遅延技術の技法の一部として,高速化を実現するための原理には次の6つがある(順不同)。それらは,不要情報遮断・メッセージング6)
規制,容量削減等のための重複排除,並列/多重処理あるいは仮想技術・仮想マシーンの採用,通信の効率化,適切なデータ処理,回線の故障最小化・不具合の低頻度化,である。
順に簡単に説明しておこう。ここでは,前節で要約した高速情報伝達手段の採用はリストから省いている。
(1)不要情報遮断・メッセージング規制
不要と(場合によっては容量との比較でなされる)判断した情報は流さないという原理である。ネットワークブリッジあるいは単にブリッジと呼ばれる専門機器は,流れてきたデータの宛先情報を解析し,関係する(宛先がリストに存在する,など)ものであれば中継し,そうでないものは破棄するスイッチ機器である。
無駄な情報が流れるのを防いで性能を向上させることができる。ネットワーク・回線の混雑回避にもなる。
(2)重複排除
身近な例を挙げれば,共通する項目を繰り返し記入する必要をなくし,記入項目を大幅に減らせば,必要な書類を書くためにかかる時間を短縮できる,という原理である。差分で大規模データを保存するという方法も同様な意味を持つ。
(3)並列/ 多重処理あるいは仮想技術・仮想マシーン
これらの概念はいずれも経済学的には理解し易い。多重処理などは通信技術の説明でも既出である。また,仮想も専用回線の説明から,その意味・内容が理解できよう。並列性とは,卑近な言葉では,皆で分け合って一つの仕事をやり抜けば速く仕事が済む,ということである。
(4)通信の効率化
光ファイバーを真っすぐ伸ばし2点間の最短距離を実現する,あるいはケーブルの長さを縮(ちぢ)める(コロケーションのこと),などが卑近な例になる。データを(高速で転送し)近い処に保存する,無駄な往復をさせない等の原理は複数情報の同時処理つまり複合イベント処 【78 頁】 理7) などの概念と連なる。複合イベント処理ではなく,ストリームデータ処理8) と呼ばれる技法もある。
(5)適切なデータ処理
入力データをそのまま保存するのではなく,読み取り易い形式で保存する,転送し易い形で保存する,ということである。データをこのように加工/ 変換すればシステム間のデータ連携に活用できる。非構造化データを処理しやすい構造化データに換えて処理,保存,発信する,という言い方の方が新しいかもしれない。これらの処理のなかに,データ圧縮も含まれる。
さらに広い視点からの管理も重要になる。データがいろいろなシステムにばらばらに存在している,その主管部門もばらばらであるという状況では,いざデータ分析しようという際には収集,使用許可申請に時間がかかってしまう。目的に応じて,これらを事前に行っておくことができれば対応をスピーディにできる。このように整えられていれば,分析・レポーティング
【79
頁】
が容易になり,改良・改善などもスピーディになる。
(6)回線の故障最小化・不具合低頻度化
銅線などでは静電気を避ける(雷対策),個々の機器・システムに独立電源を内蔵する(東日本大震災時の東電のミスを避ける)など,身近な例が多くある。いかなる故障も通信を止めてしまい,高速化にとって,ぜひとも避けなければならない大きな壁になってしまう。サーバー攻撃も同様である。そのセキュリティに関しては拙研究にも見られるように論点が複数あり,膨大な研究分野になっている。1つだけ参考文献を挙げれば辰巳[2011]を参照。
3 レイテンシー・アービトラージ
3−1 レイテンシー・アービトラージ分析の準備
(1)大昔から存在する
アービトラージ(裁定)とは,同じ価値を持っていると思われる商品の間で,偶然,価格差が生まれた時に,割安な方を買い,割高な方を売り,その後価格差が縮小した時に反対の売買をして利益を確定させる戦略である。レイテンシー・アービトラージは,同一商品はどこで取引をしても同じ価格である(正確には同じ価格になる,さらに正確には何時か同じ価格になるかもしれない)という一物一価の法則を根拠になされる裁定であると解説される。このような裁定機会は昔から存在した。
半世紀程前当時の東証と大証の間には同一銘柄に価格差があり,それが売買手数料を超えている時もあった。東京と大阪の間で日帰り出張が不可能で,地域間の通信は一般投資家にとって日常的でない,時代であった。
また,一昔前にはFX取引において業者提示レートが業者間によって違っていた時期もあった。これらの裁定機会は,市場に地域性,ブローカー側のIT技術や売買システムに不十分さが残っていたから持続したものと考えられる。
これらの裁定機会は,一種の統計的裁定取引(statistical arbitrage)に過ぎず,その行動に経済的貢献は無いように言われてきた。
(2)市場間競争と発注戦略
売買しようとする銘柄,その数量などが投資理論を使って既に定まっていても,どこに注文を出すかの選択が投資家には残っている。米国投資家の場合には,その選択肢が極めて多いので,難儀な問題である。図表2には,資金の流れを基に,選択肢は大きく分けて3分類されることを示した。
投資家・トレーダーから見た市場選択の基準を順不同であげてみると,@市場の厚み(市場の流動性,約定し易さ)があるか,A非表示注文が可能か(価格インパクト),B手数料は低いか,C呼び値の刻みはどうか,などである。ちなみに,Aはダミー変数を用いれば,これらの要因の効果を分析できる。
該当市場が低遅延かどうか,も執行市場を決定する大きな要因になる。投資家・トレーダーの多くが関心を持っているDとなる基準である。しかしながら,現時点では学術的な分析は難しい。遅延を考慮した実証分析は存在していないのではないかと思う。
【80 頁】
3−2 レイテンシー・アービトラージの分類
同一市場レイテンシー・アービトラージと市場間レイテンシー・アービトラージの2つに分けることができるので,具体的に説明していこう。
3−2−1 同一市場レイテンシー・アービトラージ
例えば,ある株式銘柄のある瞬間の買い呼び値が1000円だったとする。そこで,次の瞬間に誰かが1001円の買い呼び値を出したとしよう。これらの前提を出発点としよう。複雑になるため,注文数量は説明から除外する。遅延は起こる場所によって3つのケ−スに分けられる。
(1)取引所に遅延がある場合
その次の瞬間に,板を見ていた投資家 a が成り行き売り注文を出すと仮定しよう。ところが a が使っている取引所プラットフォームのコンピュータは速度が遅いとすると,1001円の買い注文の処理が遅れ,それと対当できないため,最良の価格ではない1000円で売られてしまう,という事態が起こりえる。
そのまた次の瞬間,1000円で a から買った投資家 b が出ていた買い注文をその指値1001円で売って1株当たり1円の利益を得る,ということが起こりえる。a が選んだ取引所のシステムのコンピュータがもっと高速であれば,a が1001円で売れたはずなので,a は1円をこの買い手b に盗られた(?)ことになる,という人がいるがこの主張は一体正しいのかどうか。
この事態を考察してみる。a にとって,状況の推移は,取引所の板上に1001円の買い注文があるのを知って発注したが,それが突然消えたように思われ,自身の注文は1000円で約定することになる。
a は善人,取引相手 b は悪人,という考えはまったく一人勝手である。このような取引所へは発注するべきではない,ということが教訓である。
(2)投資家 a の受信に遅延がある場合
投資家 a は,自身の情報通信ネットワークが質的に劣り,1001円の買い注文が出ている事実を知るのに遅れてしまうという場合を次に考えてみよう。もし a が成り行き売り注文を出すと 【81 頁】 偶然1001円で売れる。しかしながら,a は1001円の買い注文が出た時,それを知らないので,成り行き売り注文を出さないかもしれない。この場合,売却機会を逸したことになる。
(3)投資家 a の発信に遅延がある場合
投資家 a は,1001円の買い注文が出ている事実を知り,成り行き売り注文を出す決定を行うが自身の都合で決定を下すのに時間がかかってしまう,あるいは遅い通信回線を使用しているため発信が遅れてしまうケースはどうであろうか。その結果,1001円の買い注文に対しては別の投資家 c が売ることになり,a はそれと対当できず,最良の価格ではない1000円で売ることになってしまう,という事態が起こりえる。c がいなければ,a が1001円で売れた。a は投資家 c に横取りされた(?)という主張は一体正しいのかどうか。
このような事態が起きる原因をまず考えてみよう。a が,最新情報通信技術を導入しているか,コロケーションを利用できるか,どうかで時差が生じるのである。前小節と同様に考察してみると,a は善人,c は悪人,という考えは一人勝手である。a はもう少し速く決断するべきであった。あるいは,このような通信回線とは契約するべきではない,ということである。
3−2−2 市場間レイテンシー・アービトラージ
(1)先回りによる取引機会の獲得
情報通信のスピードが速ければ,板情報から注文の回送を予測して「先回り」することが可能になる。先回りによって取引機会を獲得するケースを図表3に基づいて考えてみよう。
ある投資家 a の注文が取引所 A にたどりついた瞬間に,取引所 A では売買反対側のデプスと比較することによって捌ききれない注文であるとHFTが見れば,HFTは当該注文全部あるいはそのうち未消化の注文がその他の取引所 B へ回送されると判断する。そして,回送には(余分な)時間がかかるが,HFTの方がかかる時間は短時間で済むので先回りできる。
その他多くの市場参加者がこの状況をまだ捉えていない中,比較的有利な注文位置を確保できるので,HFTは取引所 B にHFT自身の注文を出す。その結果,取引所 B の板に投資家 a の注文が乗ったと同時に当該銘柄の取引が成立し,HFTが先回りした成果が実現する。何も知らない投資家 a は迅速な約定を喜ぶことになる。
【82 頁】
日本でも,注文回送はあるので,この分析は非現実な設定ではない。例えば2011年6月27日よりSBI証券でSOR注文サービスが開始されている。個人顧客投資家の利用を狙ったサービスである。SOR(スマート・オーダー・ルーティング)サービスとは複数市場から最良の市場を選択して注文を執行する形態の注文である。SBI証券では,取引所市場とジャパンネクストPTSで提示されている気配価格等を監視し,原則,最良価格を提示する市場へ自動的に注文を執行する。
取引所 A がHFTに対して,投資家 a の注文が取引所 A の板上に乗る前から,その情報を漏らしていたとしたら,犯罪である。HFTが利益をあげられるかどうかは,ここでは問うていない。損を出しても犯罪は犯罪である。
(2)先回りによる利益機会の獲得
一部の取引所・ベニューの提示する価格は,データ処理に時間がかかるなどの問題により0.x秒の遅延がある。その結果,遅延していない取引所・ベニューの最新の情報を参照し,遅延のある取引所・ベニューに対して売買注文をすれば差益が得られる可能性が生まれる。
遅延のある市場において大きな買い(売り)注文があることをもし事前に察知できたら,同じ銘柄の他の市場における売り(買い)注文を,有利な価格が付いているうちに,先回りして買っ(売っ,空売りし)てしまう,という戦略が採れる。実際に大口の買い(売り)手が買い(売り)始めれば,安い(高い)うちに買(売)っておいたものを彼らに高く売れ(彼らから安く買え)ばよい,
このようなことが可能になる原因は,最新情報通信技術を導入しているか,コロケーションを利用できるか,の2点だけでなく,コロケーション間ネット(後述)が利用できるか,どうかで時差が生じるからである。
考察してみれば,先回りされた人は善人で,遅延していることを知らせなかった取引所・べニューは悪い,という考えは安易過ぎる。
このような戦略を成功させるために,HFTは様々な市場でごく小さな注文をばらまいて(撒き餌をして)大口トレーダーを探していると言われる。あたかも,トロール船のようにである。しかしながら,注文の大きさを正しく察知できなければ,不要な在庫を抱えてしまうというリスクがある。そもそも大口トレーダーがいない時の撒き餌は無駄な投資になる可能性がある。
3−3 米国のレイテンシー・アービトラージ事例
背後の事情については後に詳しく説明するが,米国では2007年に完全導入されたレギュレーションNMS(National Market System)によって,ブローカーは投資家から受けた注文をすべての取引所に出ている気配のうち最良の気配(NBBO: National Best Bid and Offer)から順に約定させていくことが義務付けられた。例えば,ある銘柄の10000株の買い注文を成り行きで受けたブローカーは,もっとも安い売り気配が出ている取引所でその数量分1000株だけ約定させた後,残った9000株の成り行き買い注文を次に安い売り注文を出している市場へと回送する。このようにして,次々と約定させて行かねばならない。
このために,取引情報は全米を駆け巡ることになってしまうことも起こる。様々なポイント間での情報伝達スピードが重要になってくる。
【83 頁】
3−3−1 市場間競争が起こる2大環境
(1)スピード
どことどこを結ぶ区間の情報通信スピードであるか,どこでの情報処理であるかに関して米国の場合3つに分けられる。
A 市場参加者が発するメッセージがそのコンピュータと個々の取引所の取引システムの間を行き交う(コミュニケーションの)スピード。
B 全米取引システム(the trading system)のスピード: あるメッセージが取引所あるいは自動化された取引システムに入り(全米システムを構成する1つの取引所等に入るのが最初の切っ掛け),そのなかを行き交い,最終的に発注者に成約等を確認するまでに掛かるスピード。これは更に次のように幾つかに分かれる。
これは更に次のように幾つかに分かれる。
b −1 個々の取引所のマッチィング・エンジンが対当に掛かるスピード,
b −2 個々の市場が全米データ管理センター(正確には後述のSIP)へデータを送るスピード(これにはすべてのメンバーはもっとも遅いメンバーの提供する情報の到着を待つ必要がある),
b −3 市場伝播スピード(market feed): 個々の取引所・市場参加者が全米市場(SIP)のデータを取り込むスピード(これには遅いメンバーを待つ必要はない),
b −4 注文回送に掛かるスピード,
C 情報処理スピード: 市場参加者が取引所あるいは自動化された取引システムから受け入れたデータに対応するスピード(これには遅いメンバーを待つ必要はない),
(2)手数料体系
取引所あるいは自動化された取引システムの間で手数料体系が異なる事実はスピードと同様に市場参加者にとって重要である。メーカー・テイカー手数料などと呼ばれる概念があるが,大墳[2014]に詳しく解説されているのでここでは省略する。
3−3−2 遅延は分布する
実際に遅延時間を測った事例の1つが図表4である。RTTつまり取引システムへ入り込んだ時刻から返答が来るまで,の時間である。どのようにサンプリングしたか,詳細は不明である。
米国の特殊事情である,注文回送の程度とそのためにかかる時間が大きく影響しているものと思われる。しかし,起こっていることは自然現象のように見える。なぜ自然現象の確率分布に近いか。主たる理由・原因には,経済要因だけでなく,混雑(取引所内と通信ネットワーク上)が考えられる。
混雑問題は異なる2面を見せるので,事柄は単純ではない。混雑問題の第一面とは,1本の光ファーバー・ケーブルに通信が集中すれば通信に要する時間は長くなる,ことである。それは,あたかも医師一人の医院に多数の患者が詰めかければ受診の待ち時間が長くなる,如くである。このようなケースでは,待ち行列の長さ(混雑の指標)ではなく,(手抜きしない優秀な医師であることを前提に)待ち時間の短さがシステムの質は高いことを示す。
しかしながら,混雑が利点を生むという第二の問題が存在する。混雑する市場(いちば)や交換所では売り買いや交換に要する待ち時間は短くなるように,多数多様な注文が入る取引所などでは一般に約定し易くなり,約定に要する時間は短くなるのである。このようなケースで
【84 頁】
は,待ち行列の長さ(つまり混雑の程度,正確には売買反対側のデプスである)と,約定時間の短さは共にシステムの質が高くなること,質が高いことを示すことになる。ただし,売買同じ側の待ち行列は上のパラグラフの混雑問題そのものである。また注文が多数入れられても多くがキャンセルされるのでは意味はない。
3−3−3 SIP
(1)SIPとそのメリット
NBBOを意味あるものにするために,すべての市場に出ている全注文の情報を集約した上で,すべての市場に伝達するシステムがSIP(Securities Information Processor,証券情報プロセッサー)である。SIPはプラン・プロセサー(PP)という仕組みによって運営されている。
それぞれの取引所はまず最初にSIPに気配情報を伝えるよう規則で求められている(図表5)。SIPという仕組みのおかげでブローカーや投資家たちは現在約50もある取引所などのすべての板を個別に見て回ることなく,全米の最良買気配と最良売り気配を見ることができるようになったわけである。
(2)SIPの欠点〜画竜点睛
既述のように,SIPにまず注文情報を伝えなければいけないという規則はある。個々の取引所などは,SIPに情報を提供するタイミングよりも,契約した顧客に情報を配信する(ダイレクト・フィードと呼ばれる)タイミングの方が早くなってはならないとされている(レギュレーションNMSのRule 603(a)によって)規制である。
しかしながら,そのスピードについては,既述のように賢明な判断ではあるが,特に規定されていない。しかも,SIPを利用している取引所などには気配情報を収集・伝達するスピードを高めようとするインセンティブは特に強くない。また,SIPが発信する(SIPフィードと呼ばれる)情報は全米最良気配(全米ベースで見た場合の最良気配情報)だけであり,これらの点を改善しようとする試みは遅々として進まないようである。SIPフィード,ダイレクト・
【85 頁】
フィードについては大墳[2016]も参照。
米国ではクロスコネクトと呼ばれる,各取引所コロケーション・サーバー間を結ぶ高速の回線が存在する。その結果,HFTは,SIPを経由することなく,各取引所に直接アクセスして最新の回線とコネクション(場合によってルーター)によって情報を集める。つまり独自に専用のSIPを作ってしまっている(図表6参照)。そして,そうする行為を禁止する条項は存在していないようである。
そのため,一般の投資家はHFTよりも古い最良気配(NBBO)を見ており,x 秒前の売買気配を見て取引している状態に置かれている。
SIPにおいては,通信のスピードアップだけでなく,投資家・トレーダー向け改善・改革を適時行う,適切な運営のための責任が明確化されてこなかった。その機能を改善する試みや提案は2014年前後からあったにも係らず,利害調整に係るところが多々あるため実現に至らず難航してきた点を川本[2015]はそれらの背景から要約展望している。
直近およそ0.5秒であったSIPの遅延は,2016年末までにその10分の1,1年以内に20分の1にする計画であると報じられている(Tabb, L., Latency Arbitrage and the Problem With the SIP, 19 July 2016.)。もしこの低遅延化が実現すれば,そしてより重要なことだが,もしその他の環境にまったく変化がなければ,レイテンシー・アービトラージの機会は減るだろう。しかしながら,情報通信の遅延化は依然として途上にあり,実際上,レイテンシー・アービトラージが無くなるわけではない。
【86 頁】
筆者の考える,改善が必要な点とは次のとおりである。@米国に存在するすべての取引所と取引仲介会社の参加がないと,SIP本来の機能,さらにはNMSがうまく働かない。A全米最良気配しかSIPから知ることができなくては,投資戦略や発注戦略にとって全く不十分で使えないと感じる投資家も多数いる筈である。
一般投資家の立場から具体的に見てみることにしよう。彼らにとって,取引所から直接情報(ダイレクト・フィード)を購入すれば統合した全米の板を構築することができるが,自前で処理しなければならずコストや時間がかかるという欠点がある。他方,SIPはそれと比較すれば速い対応ができるものの,全米最良気配しか見ることができない。
さらに,遅延するSIPから発信された(SIPフィード)情報を見て一般投資家が注文を出すとしても,実際には特定の値段は既に最良気配ではなくなっており,約定できない結果に終わる,あるいは不利な価格で執行されてしまう可能性がある。
実際には既に約定済で存在しないものの,遅いSIPフィードではまだ消されておらず板に(見える状態に)残ってしまっている気配のことをファントム・クォート(phantom quote)あるいはステール・クォート(stale quote)と呼ぶ。反対に,板に確かに存在している気配はファーム・クォート(firm quote)と呼ばれるなど,これらの名称の存在自体がこのような事態の深刻さを表している。
どのような理由があっても最良気配から約定していかなければいけない,という投資家にとって好ましい,規制と遅いSIPが,HFTのフロント・ランニングを可能にしている,ことになる。一般の投資家にとって最適な取引システムを構築するために施行されたレギュレー
【87
頁】
ションNMSが,スピードで躓き,HFTを利する欠点があることになっているわけである。
画竜点睛とは物事を完成させるための最後の仕上げのことである。ちなみに,画竜は竜の絵を描くこと,睛は瞳のことで点睛は瞳の点を入れるということ。レギュレーションNMSは,ほとんど完成していたが重要なところが抜け落ちていた訳で,画竜点睛を欠いていたことになる。瞳の点を入れることは,本稿前半で展開しているように,極めて困難である。
3−3−4 レイテンシー・アービトラージ〜米国ダークプールでの出来事
ルイス[2014]の116ページには,あるトレーダーが試しに行った発注経験の具体的な事例が記述されている。ある銘柄の売買気配が100.00-100.10ドルで出ているときに,このトレーダーはある投資銀行のダークプールに100.05ドルの買い注文を出した。その直後,気配が公開されている取引所に対して100.01ドルの売り注文を入れた。先にダークプールに出している100.05ドルの自分の買い注文と対当して約定するかと思ったら,別の誰かが100.01ドルで買って100.05ドルで売り抜けた。
先に出したはずの高い気配の買い注文よりも別の誰かが後から出した安い気配の買い注文が先に約定したことになる。ダークプールによっては,他市場の気配収集スピードが遅いため,このような事態が発生するのである。
4 規制と時間やスピード〜米国を1つの事例として分析
高速で進歩する技術を規制に書き込めるのだろうか。規制は技術によって陳腐化し,書き換え続けなければならないのだろうか。米国の規制には,時間やスピードを書き込んでいる事例が多い,ので分析するには大変良い1つの例になる。
4−1 米国のレギュレーションNMS
4−1−1 米国での発注戦略と市場ルール
(1)トレード・スルーとその禁止
競争原理を確保しつつも,各市場をリンクすることで証券市場全体の効率性と公平性(投資家保護)を図る狙いがある米国のレギュレーションNMS(Regulation NMS)をまず展望しておかなければならない。大墳[2014]などが参考になる。
米国株式市場では,同一の銘柄の取引を扱う複数の市場の存在を認め,促進してきた。市場間で競争することが経済全体にとって望ましいことと捉えられている。達成することを狙っているのは市場全体の効率性である。そして,市場間の競争を促すことによって,全体としての流動性の拡大を目指してきた。そのために,NMS(National Market System,全米市場システム)を構築した上で,その効率性,公平性を保つための各種の規制ならびに規則の免除が導入されてきた。特に,大口取引と個人投資家に関わる様々な取引には特別の配慮があるように見受けられる。
米国での発注戦略を理解するには,トレード・スルー(Trade-Through)の禁止とロックト・マーケットの禁止について,周知であることが前提になる。
トレード・スルーとは,他の取引市場に,より良い価格で約定できる機会(より良い気配)があるにもかかわらず,その市場に注文を回送することをせず,それよりも劣った値段で自市
【88
頁】
場で執行することである。このトレード・スルーを禁止するルールは,より良い気配を付ける市場に注文を回送する義務を株式ブローカーに負わせるもので,現在既に廃止されているITSプラン(Intermarket Trading System Plan)の一環として導入された1978年以降,また2007年10月に完全導入されたレギュレーションNMSの施行以降も,継続されてきた。
レギュレーションNMSは,競争原理を確保しつつも,各市場をリンクすることで効率性と公平性(つまり,特定の投資家保護)を図る,狙いがある。しかしながら,例外も幾つか定められており,フリッカリング・クォートに関する免除とISO注文に関する免除,などの規定が注目される。
(2)フリッカリング・クォートとその免除
テクノロジーの進展等に伴い,高流動性銘柄等ではかなりの高頻度で気配が更新されるようになった。こうした気配がフリッカリング・クォートと呼ばれる。
フリッカリング・クォートに関する免除とは,他の市場よりも劣る価格で自市場に発注された注文を自市場で執行してしまったとしても,他の市場が過去1秒の間に提示していた最良気配の上下限の範囲内であれば,トレード・スルーには当たらないとするものである。
フリッカリング・クォートに関する免除規定は,トレード・スルー禁止だけでなく,厳密な意味での価格優先の原則を崩すものと言える。
(3)ISO注文とその免除
ISO注文(Intermarket Sweep Orders)とは,複数市場に同時に発注され,同時並行での処理が可能な注文である。発注されたそれぞれの市場内だけで,他の市場へ注文回送を行わずに,処理される。それゆえ,最良気配状況を気にすることなく,迅速に処理される即時性を重視した注文である。
一般に,機関投資家の大口注文は,最良価格を狙ってその時点時点での最良気配を追っていくこととなるが,一方で約定までに相当の時間がかかり,執行の即時性は失われる。また,市場間での注文回送が次々と行われていく過程で,大口注文の存在と注文内容が露見し,他の投資家による先回り取引等が行われることも予想される。こうした弊害を回避し,取引を効率化するためにISO注文が導入された。
付随して「ISO注文に関する免除」が整備された。ISO注文を受けた取引市場では,他の市場の最良気配状況を気にすることなく,それぞれの市場内だけで(他の市場へ注文回送を行わずに)処理を完結できる。それぞれの市場の中だけで,複数レベルの気配を一気に消化できる,すなわち,指値の範囲まで買い上がれる・売り下がれる。通常の注文であれば,1つのレベルの気配を消化した時点で,他の市場の最良気配状況を確認し,オーダー・プロテクション・ルールに従って処理されることとなるが,それが不要になるのである。
ただし,最良価格での執行を確保するというオーダー・プロテクション・ルールの理念を毀損しないよう,買いのISO注文の発注時点においては,各市場にある,ISO注文の指値価格以下の売り気配は,必ず全て消化しなければならないという制限が課されている。売りのISO注文の場合はこの逆となる。
(4)ロックト・マーケットとその禁止
ロックト・マーケット(Locked Market)の禁止とは,ある状態が成り立っていればロックされることになり入れない(換言すれば,注文が出せない)というルールである。ある状態とは,複数の市場で同一価格の最良売り気配と最良買い気配が同時に存在する状態である。それ
【89
頁】
ゆえ,このルールは米国における市場の間では同一価格の最良売り気配と最良買い気配が同時に存在してはならないという,ルールである。レギュレーションNMSのアクセス・ルール(Rule 610)で定められている。本来であれば約定しているはずの注文が複数の市場に残ってしまっている状況を(少なくとも言えるのは,約定までに時間がかかり過ぎる市場システムであり)非効率な取引として約定まで待避させる狙いがある。ちなみに,ロックト・マーケット禁止の対象となるのは,即座にアクセス可能な表示された自動気配だけである(自動気配の反意語は手動気配である。)。非表示注文は無視してよいが,それが表示される時点では引っかかる。
市場を見渡せば,非効率な現象は数多い。それらは,アノマリーと呼ばれている現象とほとんどオーバーラップしている。非効率性は無数にあるのに,なぜ米国当局がロックト・マーケットには衷心するのか,不可解である。
ロックト・マーケットは,本来であれば約定しているはずの注文が複数の市場に残ってしまっている状況であり,時間を待てば約定するが,それに時間がかかり過ぎている市場があるということである。板を見つめる人間の眼にロックド・マーケットが映ることは稀かもしれないが,(コンピュータに眼がなくても)コンピュータは頻繁に認識することであろう。1つの取引市場でも存在するのに,複数の市場で板を統合すればさらに高い頻度でロックト・マーケットが観察されるものと考えられる。
その際強引に発注を止めるのではなく,自由な発注を許したまま,ロックト・マーケットを放置するのに,何か問題が生じるのであろうか,という疑問は多くの人が持っているのではないだろうか。
投機的なトレーダーは,もしこのような規制が一切なければ,ロックト・マーケットに対してどのような裁定機会を見出すのか,ロックト・マーケットを解消する動きをみせるのかどうか,現時点では不明なところがある。
しかしながら,同一価格での最良気配が売買両側で抱える両取引市場がもし約定を急げば,非効率な取引を放置する場合より,取引量を増やせるメリットがある。注文を出しているトレーダーも,約定することによって,利益をえる。誰もが約定を待っている状況にあるにも係わらず,取引が進んでいないのである。発注を止める以外に,このような状況自体を打破する方法がある筈である。その方法が米国において十分検討されたのであろうか,筆者は残念に思える。
4−1−2 市場間注文回送リスク
他市場に注文を回送するには,当然,時間がかかる。情報通信と情報処理技術の進歩によって時間は短縮化してきたのは事実である。しかしながら,他の市場参加者と比べた競争力という点においては,回送しない注文より劣ることになるのも事実である。
市場間注文回送には幾つかリスクがある。まず第一に,市場間で注文を回送している時間間隔の間に,より良い売買の機会を失うリスクが挙げられる。どのような注文が何時やってくるか予測できないなかで,自分の注文が転送されていることを不安に思うトレーダーは存在するのではないだろうか。もちろん,どれだけ有利な注文であっても何時来るかわからない注文よりも,目先の最良気配を選ぶトレーダーもいるだろう。
第二に,市場間で注文が回送されている間に(全体でなくても,その一部でも)注文内容が
【90
頁】
漏れてしまうリスクがある。PC,ルーター,通信ケーブルからハッキングされる,あるいは情報を保護するための行動規範に違反する人物が現れるという極端な事態までに至らなくても,情報漏洩の原因は様々に考えられる。板に(一時的にでも)乗ることになれば,白日に晒される。犯罪にもならない軽度の内部不正でも一部が漏れれば,影響が大きくなる場合があろう。
市場間注文回送リスクは,規制当局によって認識されてきたのも事実である。特に,大口注文の情報漏洩リスクに対しては既述のようにいくつかの例外ルールが許可されてきた。回送時間の存在とその影響を認識しているからこそ,米国の当局はロックト・マーケットの概念を導入した,とも推測できる。
4−2 米国株式流通市場システムとそれへの疑問
(1)例外規定が多すぎるレギュレーションNMS
NMS(全米市場システム)においては,最良気配などを統合して提供するCQS(Consolidated Quotation System,統合気配表示システム)により,あらゆる投資家が様々な市場に表示される気配情報を統合して参照できる。また,各市場の間には,ITS(Intermarket Trading System,市場間取引システム)というネットワークが張り巡らされており,より良い気配を提示する市場への回送が行われる。これらのシステムが存在することにより,市場情報に対するアクセスの上で,投資家の間で「不公平なく」取引ができるようにしている。
NMSにおける取引全般を規定しているのは,2005年から段階的に導入され2007年に完了したレギュレーションNMSである。レギュレーションNMSは,各市場に対してCQS 上への気配情報の公開を義務付けるRule 602や,公表される気配に対してのアクセスを規定するRule 610,トレード・スルーを禁じ,執行における時間優先・価格優先を規定するRule 611などから構成されている。
(2)トレード・スルー禁止ルールの妥当性
トレード・スルーは市場システムとして確かに望ましいものではない。特に,個人投資家を保護する観点からはトレード・スルーを避けるべきである。
しかしながら,トレード・スルーを引き起こす取引市場に全面的に責任を負わすルールを採る必然性があるのか,筆者は問いたい。トレード・スルーを禁止するルールを取引市場だけに課すのが正しい施策であるのだろうか。第三者がトレード・スルー禁止を無力化する行動を行わないという保証は一切ないのではないだろうか。
もし設立された全米の統合板情報システムが,それが民間であっても公的であっても,どの取引市場が最良の気配を出しているか,即座に公表され,市場参加者は知ることができて,しかも直接(超高スピードで)発注できれば,ほとんど誰もが最良な市場に自身で注文を出す筈である。あたかも消費者が価格.comのスクリーンを参照することによって最安値商店を選び,それをクリックしただけで(高速で)購入できるようにすれば,市場間の競争は達成される。ただし消費者は当然事前に登録して購入の意思を明示しておかなければならない。このようなシステムを価格.com+アルファと呼ぶことにしたい。
このような高度なシステムはインターネットが発明される前の1980年代にはなかった。しかしながら,2000年を超える時代からは可能であり,トレード・スルー禁止ルールを廃止し,価
【91
頁】
格.com+アルファの証券版9)
を整備するように舵を切ることは可能であった筈である。
もう一つ別の論点もある。取引市場がトレード・スルーをしてしまう原因はほとんどが経済要因によるものと想像される。トレード・スルーを禁止するルールよりは,注文から得られる手数料を適切に分配する仕組みができれば,トレード・スルーを起す誘因を持たなくなる可能性がある。この仕組みは,あるいは,発注市場が転送先の執行市場からリバートを得られる仕組みと表現してもよいかもしれない。転送先取引市場と発注元受け市場の間で手数料を分配する仕組みが適切であれば,トレード・スルーをせずに他市場へ転送する方が利益があがる可能性がある。顧客トレーダーは最良価格で約定でき,転送先取引市場と発注元受け市場が手数料を分け合えば,三者すべてに利益が生まれるのではなかろうか。
トレード・スルーを禁止するルールを設ける前に,このような価格.com+アルファの証券版的な案や手数料分配システムの構築という2つの代案は米国で検討されたのであろうか。
(3)フリッカリング・クォート免除の妥当性
他の市場が提示していた最良気配の上下限の範囲内であれば,最良執行義務に違反していないという決まりは正しいかもしれない。しかしながら,過去1秒の間に提示していた最良気配という特定の時間間隔の設定にはどれだけ根拠があるのであろうか。問題はそれだけでなく,この時間間隔は,本稿の前半で見たように,時代と共に妥当しなくなる。この規則に固執するならば,頻繁に書き換えていかなければならない。
5 レイテンシー・アービトラージの分析
5−1 戦略の成功度
先に紹介したように,先回り戦略を成功させるために,HFTは様々な市場で100株などという極く小さな注文をばらまいている(撒き餌をしている),と言われる。100株が実際に売れてみて,大口注文をする傾向がある機関投資家 a にはこの後大きな買い注文が控えている兆しを割り出すと,次の瞬間にはHFTは当該銘柄を買いまくり,その行動自体が株価を押し上げ,当該銘柄を高い株価で(場合によって a に対して)売り抜ける,というのが戦略である。
しかしながら,この行動が成功するかどうかはわからない。大きな注文を正しく察知できなければ,不要な在庫を抱えてしまうというリスクがある。攻撃しようとする相手も防御する。
どのような裁定も,程度の差あれ,リスクをとっているのである。しかも,小額の裁定利益では,手数料と税金に消える。それでは成功と言えないだろう。
(1)早とちり
このスピードに依存する裁定に失敗があるとすれば,
価格差が広がる
ケースになる。つまり,均衡化の途上ではなく,価格乖離が始まる直後の時点で裁定に入り短時間のうちに反対売買したというケースになる。早とちりは超高速取引ゆえに,ありえるのである。
【92 頁】
板を四六時中見ていても,一瞬の後に,もっと有利な発注がなされることがありうる。この有利な注文も逃さないというケースだけでなく,逃してしまうというケースもあろう。このような早とちりは超高速取引ゆえに,そうでない場合より多くなってしまうのではないだろうか。
捕食生物においても,早とちりがある。しかし,早とちりを防止するために,2回目の機会に注目している生物もある。1回限りでは偶然かもしれないからである。例えば20秒の間に2回トリガーが起こると獲物が罠にかかったと考えるが,10秒に1回ではそう判断しないのである。
(2)スピード・ダウン
スピードによって手に入れられるものは,スピード・ダウンでそれを失ってしまう。スピード・ダウンで投資機会はまったく消えてしまう。
情報を送信中,あるいはメッセージ回送中,取引システムがダウンしたり,混雑が生じてしまったり,回線が故障してしまう,とすれば,この裁定はうまく行かなくなる。システム・ダウンはすべての市場参加者に影響するが,遅延は一般の投資家への影響は軽微であるがHFTにとっては致命的である。
5−2 拙速行動の分析〜行動経済学を借りて分析
(1)拙速な行動をなぜ起こしてしまう
人間の意思決定には2つのルートがあると言われている。まず,熟考の末に合理的な最適解を得ようとするルートがある。ノーベル賞受賞学者ダニエル・カーネマンは,このモードをスローな思考(slow choice)と呼んだ。このルートを取るのは,心理的に安定しており冷静な場合,さらに時間に余裕のある場合である。ちなみに,人によって熟考に要する時間は違ってこよう。
逆に,心理的興奮状態にあったり,時間に余裕のない場合には,ファストな思考(fast choice)と呼ばれる意思決定を行う状態になる。つまり,合理的,理性的ではなく,直観的,感情的な意思決定をしがちになるのである。どんな人も,これにかかる時間はスローな思考より短くなる。巻末の付録にはオリジナル出典の文章から,以上の点を要約している。
他人を意図的にファストな思考のモードに陥らせ,現金を出させたり,物を買わせる手法は,オレオレ詐欺などでみられる。なぜ人々は拙速な意思決定をしてしまうのだろうか。キーワードは切迫と精神高揚である。
オレオレ詐欺は,現金,手形,重要書類を紛失し,速く返却しなければ,出世に係る,犯罪になってしまう,というように切迫を演出する。子供や孫にそう言われれば,老人は誰も信じざるをえない。また,街角や公園で健康に関心のある老人を集め,インチキ健康器具を販売する場合などでも興奮を作り出す手法はよく使われる。無料贈呈を速い者勝ちにしたり(無料で景品を手に入れなかった人には「まだまだ贈呈しますから次は急ぎましょうね」と声掛けする),言葉巧みに精神高揚状態を生み出して,我も我もと先を争うような心理に誘導し,それらの商品を売りさばく。これらの手法は,ファストな思考のモードに他人を誘い入れてお金を巻き上げる詐欺的犯罪である。
(2)HFTを分析のなかに入れてみる
表現は適切でないかもしれないが,機械は例えファストな思考をしても,冷静である。そも
【93
頁】
そも,機械はファストな思考をしない。機械はスローな思考をファストに行う。つまり,冷徹,合理的な思考を敏速に行う,のである。
むしろ,HFT行動の結果を見て,一般の投資家がファストな思考に陥った,のではないかと思われる局面がある。その場合,HFTは騙す意図を持ってはいないとしても,損害を与えてしまっているのは事実かもしれない。本稿巻末付録では,この仮説を示すために行動経済学は必須というわけではない,ことを説明する。
5−3 レイヤリング注文などの発注戦略
レイヤリング注文という取引形態がある。レイヤリング(layering)とは層化あるいは多層化するという意味であり,その内容は複雑である。これらは,以下で詳しく展開するが,まず簡単に紹介しておくと,板上の特定の注文,例えば買い注文を執行させるという目的を達成するために,異なる指値の複数の注文を出す。あるいは板上の最良気配(売り最良気配)をわずかに更新する複数の注文を出し続ける。他方で,本来の取引目的を達成するために少量の売り注文を出して取引を成立させ,取引が成立すると直ぐに(相場操縦に利用した)目的外の売り注文を取り消す,手法である。例えば,ESMA[2011a],ESMA[2011b]43頁参照。レイヤリング注文が特に注目されるようになったのは,これらの報告書とFINRA[2010]が切っ掛けであるように思われる。
5−3−1 付随する戦略
レイヤリング注文は,モメンタム・イグニションやスプーフィングなどと同時に行われるので,まず,それらの解説から始めよう。
(1)モメンタム・イグニション
モメンタム・イグニション(momentum ignition)とは,既にトレンドが存在することが広く認知・認識されているなかで,特定の方向のトレンドを加速させることを目的に大量の注文を出し,そのトレンドに追随する他の市場参加者が出す注文の力を利用して価格を急速に変動させ,事前にとっていたポジションで,利益を得る戦略のことである。なお,イグニション(ignition)とは,着火と訳すのが適切であるように思える。
トレンドだけでなく,時間経過はもっと短くなるが,株価がファンダメンタル・均衡に回帰するタイミングを捉えて,同様な取引戦略を行うことも考えられる。社会的に望ましい価格変化を起こすという意味でモメンタム・イグニションが効率性改善に寄与する場面が明瞭に存在する点には注目するべきであろう。
しかしながら,下方のトレンドを持続したり,加速させたりして,追随者にポジションの手仕舞いを強いることになってしまうことも起こってしまう。その結果,さらに株価が下落することとなり,攻撃的な注文になってしまうことも起こる。
(2)スプーフィング
スプーフィング(spoofing)注文は,従来,見せ玉注文とも言われ,自身と他人の注文を利用して相場操縦を行うものである。取引をする意図は実際にはないにもかかわらず,板に表示される注文を出し,広く知らしめることで他人の注文を誘引する。自分の戦略にとって有利な方向に価格を操作し,投資家や競合他社を欺くことである。2010年に成立した米国金融規制改革法(ドッド・フランク法)の下では違法となった。
【94 頁】
この目的のために非表示注文を利用するのでは,その効果は大きくない。わざわざ表示注文を出すことが相場操縦に繋がるのである。そして,目的を達成したら直ぐ,主たる目的ではない表示注文はそれらが執行される前にキャンセルを行う。
なお,どのような注文がスプーフィングになるか,判断基準が明らかになっていないので,判断できないことも少なくないと思われる。
(3)クォート・スタッフィング
クォート・スタッフィング(quote stuffing)は,短時間の間に非常に大量の注文を取引所に一斉に出してから同時にキャンセルする行為を連続的に行い,その間に自分は有利に取引しようとする戦略である。それによって,市場には特定の気配値(クォート)に新たな指値注文が大量に詰め込まれる(スタッフィング)ため,他の市場参加者に対して実勢と異なった板情報を見せ付けることとなり,彼・彼女ら取引判断を特定の方向に誘導したり,混乱させたりすることができる。同時に自身の戦略をカモフラージュすることができる。
また,短時間での大量の注文や取引は市場のシステムに対して大きな負荷をかけることになるため,場合によっては取引所システムの注文処理速度の低下や障害を引き起こす可能性がある。これも他の参加者の取引判断を遅らせる,あるいは取引を思い留ませる要因になり得る。さらには,他の競合する投資家・トレーダーが売買注文を変更したりキャンセルすることが出来なくなってしまうだけでなく,他の投資家への気配情報配信や情報処理を遅らせるという,意図するか意図しないかは別にして,攻撃的な結果になってしまう事態も起こりえる。しかしながら,システム・ダウンまで起こしてしまえば自身も痛手を負う可能性が生まれる。
クォート・スタッフィングが起こればボラティリティやスプレッドが上昇・拡大し,取引活動が阻害される,のである。
(4)スタブ・クォートまがい
スタブ・クォート(stub quote)まがいとは,一般的に,市場価格と多少かけ離れた気配の指値注文を出すことである,と定義する。
マーケット・メーカーは,典型的には指値注文により即時性を供給する。在庫リスクをとってビッド・アスク・スプレッドを収入とする。大量の売り注文が入ってくると,マーケット・メーカーは買い応じることによって在庫が増える。それを処分するために,買ってもらうため,場合によって損切りして,安売りする。これによって,ビッド・アスク・スプレッドが広がる。このことをもって,マーケット・メーカーは情報の非対称性(逆選択)に対処するためにビッド・アスク・スプレッドを広げる,と言われる。
マーケット・メーカーには継続的な買い気配と売り気配を維持する義務が課せられる。しかしながら,流動性が枯渇している等の状況において,執行を意図せずに,市場価格とかけ離れた気配を提示することがある。狭義には,スタブ・クォートはこの意味で使われる。
スタブ・クォートは,2010年5月6日米国で起こった株式市場の短時間暴落であるフラッシュ・クラッシュで一躍問題視され,さっそく同年12月には禁止された経緯がある。そのため無闇にスタブ・クォートという言葉は使うべきでないかもしれないが,この節では敢えて上記冒頭の意味で「まがい」という言葉を付けて使い,見出しとした。
5−3−2 レイヤリング戦略
レイヤリング注文戦略は,例えば,注文板における片側(例えば,買い)に多数の注文を出
【95
頁】
すことによって板における売買のバランスが崩れている印象を与えた上で,突然,これらの注文をキャンセルして,反対(例えば,売り)の側に発注して,取引を成立させる方法であると,普通,定義される。
レイヤリング注文は,指値や数量が異なる複数の買い注文・売り注文を出すが,その後90%以上をキャンセルしている。また,執行がなされない場合には発注からキャンセルまでの時間は非常に短く,1秒以内である,事実が見出されている。そして,高頻度取引の技術的優位性により,従来よりも大規模な市場濫用行為が可能となる余地が生まれた,と指摘されている(以上の記述はIOSCO[2011]30頁を参照)。
(1)キャンセルとレイヤリング注文〜買いたい場合
ある銘柄を有利な価格で買付けることを目的とするレイヤリング注文の事例をFINRA[2010]に基づいて紹介してみよう。
まず,本来の目的である,ある銘柄の買い指値注文を出す。次に,@売り最良気配を下回る指値で,大量の売り注文を出す。最良気配を下回る売り指値注文を出す狙いは,第一に,売り注文が未執行のままであるという板を作り出すところにある。それによって,A他の投資家がより低い指値での売り注文を出すように誘引する。自身が最良気配を下回る価格を売り指値としているため,この売り指値注文が執行されてしまうリスクは極めて大きいが,狙いの第二は,誘引が成功すれば,このリスクを減らせることにもなる。そして,当該売り指値注文がなかった場合と比較して,より安い価格で当初の買い指値注文が執行される。さらに,Bそれの執行が済んだ後速やかに,@で残っている売り指値注文をキャンセルする。
この戦略が成功するかどうかは,@ができるかどうか,Aのように他人を動かすことは可能か,に依存する。さらにBのキャンセルが高コストになれば採算性に問題が生じる。この点は以下の事例でも同様である。なお,この戦略はFINRA(Financial Industry Regulatory Authority)の自主規制に違反している。
(2)キャンセルとレイヤリング注文〜売りたい場合
例えば,次のような戦略もある。売り注文の約定を望むトレーダーがいるとしよう。彼・彼女は,まず約定させる意志がない大量の買い注文を出し,買い板が厚いように見せる。@市場には,ぜひとも約定させたいと願っている参加者が他に存在して,Aそれを見た,とする。この偽装によって,B彼ら・彼女らに(競らせて)より高い気配の買い指値注文を引き出させるように誘導する。C自身がその反対側に事前に出しておいた本命の売り注文を,こうして引き出された高い価格で約定させ,D最初に出した買い注文はキャンセルする,というような戦略である。
この戦略が成功するかどうかは,@ABが妥当するかどうかに依存する。最初に出す買い注文は(時間)優先順位が低くでもよい。約定して欲しくないから,むしろ,優先順位は低い方がよい。ところが,例えば,好景気で株式市場が好調な時期には投資家は多く参入するが,不況期には@のような投資家は少なくなる。自身が売りたい(売り急いでいる)のは不況のためかもしれず,そんな時期は他人も売りたいものであるから,売り方同士の競争は特に厳しくなる。また,他人の認識と行動であるから自身の判断や予測とは違って当然であり,AとBには不確かな要素が残される。その結果,成功の可能性は高くないように思われる。
(3)非表示注文とキャンセルを利用したレイヤリング注文〜買いたい場合
レイヤリング注文には,非表示注文が可能な環境で,本命の注文は隠しながら行う次のよう
【96
頁】
な利用法がある。売り方を欺くケースと買い方を欺くケースがある。非表示注文の文献には辰巳[2015]がある。
買い注文の約定を,最良気配で,あるいは最良気配より低いがより近い価格で(それゆえ,一般に,優先順位は低くなる),望んでいるトレーダーがいるとしよう。彼・彼女は,まず,約定させたい気配の買い注文を非表示にし,買い板が薄いように見せる。同時に,売り注文を出し,@他の市場参加者がAそれを見てB低い気配の売り指値注文を出す(そうしなければ売れないと思い)ように誘導し,C自身はその反対に出しておいた本命の非表示買い注文を約定させ(その結果,この時点で非表示注文は表示される),その後D偽装で出した売り注文はキャンセルする。
この戦略が成功するかどうかも,上と同様に,@ABが妥当するかに依存する。偽装で出す売り注文は(時間)優先順位が低くでもよい。流動性を需要する善意の,他の市場参加者を欺いて,より不利な条件での約定を強いることとなる。
(4)非表示注文とキャンセルを利用したレイヤリング注文〜売りたい場合
次のような事例もある(Foresight[2012]参照)。売り注文の約定を望むトレーダーがいるとしよう。彼・彼女は,まず,売り非表示注文を出す。そして,その意図とは逆に,@最良気配を超える一連の買い指値注文を出して,執行価格を更新する。これによって,A多数の買い手が存在するために価格が上昇していると他の市場参加者を信じ込ませる。そして,B買い注文を誘引する。そして,他の買い注文が適当な数量出てくればC表示させている残りの買い注文をキャンセルする。その結果,D隠されている売り注文を自己に有利な価格で約定させる,
ことができる。
この戦略が成功するかどうかも,上と同様に,@ABが妥当するかに依存する。@の一連の買い指値注文が執行価格を更新できるかどうかは,事前には不明であり,しかも自身の買い注文で約定してしまえば得られた利益を消し去ってしまうような大きな犠牲を伴うかもしれない。
5−4 リスク負担,レイヤリングやクォート・スタッフィング
(1)レイヤリングの考察
レイアリング注文戦略はポートフォリオ投資とどう違うのだろうか。レイアリング注文戦略は,ポートフォリオ投資理論では注目されることがなかった,指値や市場の分断化などが加わった,より広い概念であるのは確かである。モラルを失った投資,自己規制を犯す投資という意味が必ず付随するものかどうか,寡聞にして筆者は知らない。そして,分散投資の背後にポートフォリオ理論やCAPMがあるが,レイアリング注文戦略の背後にはまだ体系的な理論はどうも存在していないようである。しかしながら,次に展開するように,いくつか重要な論点も存在する。
発注戦略は,確実性と有利性の2つの観点から,捉えることができる。発注予定数量の何%かは確実に約定するように優先順位が低くても最良気配に買い指値注文を入れておくことが必要かもしれない。同時に,安く買えるよう,それより低い指値で全体の何%かの買い指値注文を入れておくことも重要かもしれない。このような戦略はリスク管理の一環として極めて重要である。
それゆえ,複数の指値注文を出しておく行動自体はまったく合理的なのである。売り買いの
【97
頁】
両側に同時に指値注文することも理由がある。作ってしまった既存のポジションが好ましいものでなければ,高く買ってしまった数量を売りに出し,同時に同じ銘柄に関して安い指値で買いを入れるという行為(これこそポジション管理である)もまったく合理的なのである。多数多様な注文を出す戦略をポートフォリオ型注文戦略と呼ぼう。
しかしながら,ポートフォリオ型注文戦略のような,多数の証券を同時に取引する行動は,流動性の低下を複数銘柄に伝播させる可能性を生む,と従来から指摘されてきた。レイアリング注文戦略は,さらに,価格の不安定性を引き起こす恐れがあるように思われる。特に,それが注文キャンセルや注文非表示と同時になされると顕著になるように思われる。
それゆえ,規制当局の行動指針に使えるように,レイアリング注文戦略とポートフォリオ型注文戦略の境界線を明瞭にすることが研究者に残された重要な仕事のように思われる。
(2)要約
レイテンシー・アービトラージは,リスクを取らない,あるいは不正取引に限りなく近いレイヤリングやクォート・スタッフィングに該当している,という意見もあるが,本稿ではこれらの妄信を前者については本節の5−1で,後者については5−2で打破できたものと思う。レイテンシー・アービトラージは,リスクを取る裁定行為であり,レイヤリングやクォート・スタッフィングとも違う,ことを説明した。そもそもレイヤリングやクォート・スタッフィングを不正取引と一刀両断に断定できないという点も重ねて述べたい。
6 まとめ
HFTはスピード違反していると言われた場合もあった。技術進歩の実践者をストップさせて経済全体に一体何のメリットがあるのか,最後に考えてみよう。スピード違反と言われるから,自動車走行規制を具体例に取り上げよう。
規制の種類には,スピード規制以外に,信号設置などによる一時停止規制,追越禁止,駐車禁止,などがある。指定速度が時速30キロのところを時速53キロで進行した道交法違反(速度超過)の疑い,信号無視,遮断機が下りた踏切への立ち入り,などが違反行為である。罰則として,自動車運転処罰法違反(過失致傷,無免許),道交法違反(ひき逃げ,無免許運転,速度超過,酒気帯び運転),道路交通法安全運転義務違反(飲食しながらの運転,携帯電話を使いながらの運転,など)などによって,規制の実効性を高めている。
規制の根拠は,突き詰めてみれば,危険(速くても遅くても)であるということしかない。しかしながら,危険性は運転する人だけでなく,道路状況,天候,自動車の性能(ブレーキやその他の性能の進歩は著しい)にも依存する,ので根拠は極めて曖昧である。しかも,危険を重んじるなら,遅い人も規制しなければ統一性がとれない。
HFTのスピード違反に話を戻す。既述のように,HFTが使っているのは高速専用線である。言わば,高速の私道である。私道に交通法規が及ぶのかどうか,門外漢の筆者にはわからないが,そもそも私道を走る車の速度を捉えるのには困難がある。例え,速度を捉えることができても,スピード違反で追いかけるにはパトカーはそれを超えるスピードを出さなければならないので現行犯逮捕は不可能になる。
本稿の主要な結論は次のとおりである。情報通信技術の進歩は長らく途上であった。それは
【98
頁】
現在でもまだまだ発展の余地を残している。そのため,高速で進歩する技術をどの国も証券規制に書き込めないし,書き込むべきではないだろう10)
。
高速通信技術は,今後,低コスト化に進むものとみられる。低コスト高速通信技術は経済に広く行き渡るだろう。低コストであるため,小口の個人投資家の注文を含めた,どのような取引情報も高速でやり取りされる。
レイテンシー・アービトラージは,リスクを取らない,あるいは不正取引に限りなく近いレイヤリングやクォート・スタッフィングに該当している,という論拠不明の意見もあるが,本稿ではこれらの妄信を打破しようと試みた。レイテンシー・アービトラージは,リスクを取る裁定行為であり,レイヤリングやクォート・スタッフィングとも基本的に違う。そもそもレイヤリングやクォート・スタッフィングを不正取引と断定できる場合だけでないという点も述べた。
参考文献
淡路祥成[2013] 「光通信インフラの革新を目指して−空間/ モード分割多重光ファイバ通信時代の幕開け−」 http://www.nict.go.jp/publication/NICT-News/1306/02.html
ESMA[2011a], Consultation Paper: Guidelines on systems and controls in an automated trading environment for trading platforms, investment firms and competent authorities, 20 July 2011 | ESMA/2011/224.
ESMA [2011b], Final Report: Guidelines on systems and controls in an automated trading environment for trading platforms, investment firms and competent authorities, 21 December 2011 | ESMA/2011/456.
FINRA[2010], Trillium Brokerage Services, LLC, No. 200700767782-01, FINRA Letter of Acceptance, Waiver and Consent, at 5(Aug. 5, 2010). http://www.finra.org/web/groups/industry/@ip/@enf/@ad/documents/industry/p122044.pdf.
Foresight(Government Office for Science) [2012], Economic impact assessments on MiFID II policy measures related to computer trading in financial markets (Working paper) 25(2012).
IOSCO(Technical Committee of the International Organization of Securities Commissions)[2011], Regulatory Issues Raised by the Impact of Technological Changes on Market Integrity and Efficiency, Consultation Report, CR02/11(July 2011).
ダニエル・カーネマン,(村井章子訳) [2014] 『ファスト& スロー あなたの意思はどのように決まるか?』 ハヤカワ・ノンフィクション文庫,2014年6月。
川本隆雄[2015] 「米国における株式市場構造改革議論とその行方」 『月刊資本市場』 2015年11月(No.363),pp.36-43.
清嶋直樹[2009] 「CEP(Complex Event Processing)」 『日経情報ストラテジー』 2009年3月号,P.25。
【99 頁】
Kirilenko, A., [2014], High Frequency Trading, Winner Takes All and Stochastic Latency, November, Swiss.
マイケル・ルイス著(渡会圭子・東江一紀訳)[2014] 『フラッシュ・ボーイズ:10億分の1秒の男たち(Flash Boys: A Wall Street Revolt)』 文藝春秋社,2014年10月10日。
大墳剛士[2014] 『米国市場の複雑性とHFTを巡る議論』 JPXワーキングペーパー特別レポート,2014年7月。
大墳剛士 [2016] 『諸外国における市場構造とHFTを巡る規制動向』 金融庁金融研究センターDP2016-4。
辰巳憲一 [2011] 「金融・経済活動における情報などの分割,バックアップと情報セキュリティ〜金融セキュリティの経済学入門(I)〜」 『学習院大学経済論集』,2011年1月,pp.301-321。
辰巳憲一 [2015] 「非公開注文とは何か〜非表示注文とHFT解明に向けての考察〜」 『月刊資本市場』,2015年10月,pp.24-34。
付録 行動経済学と伝統的経済学から更に詳しく
T−1 行動経済学における高速取引
(1)ファストな思考とスローな思考〜カーネマン[2014] の研究
人間の思考をファストな直感的思考とスローな論理的思考に分け,それぞれの機能・役割と相互作用を考察したカーネマンは著書[2014] で読みやすい解説をしている。
伝統的経済学が重視してきたのは後者である。スローな思考を行うためには,意識的,論理的であるべきで,熟考,努力,秩序を必要とする。また注意力を集中しないとうまく機能しない。
引用に基づくと,次のようになる。「ファストな思考は・・・(中略)・・・,自動的(直感的)に複数の事象の因果関係を突き止める。実際には因果関係がなくても,原因と結果(の道筋)を仕立てあげるのも得意技である。(上P.194。カッコ内文章は筆者の追加。上は上下巻の上巻を意味する)」。
「ファストな思考はそのとき活性化された情報を材料にして,可能な限り最高のストーリーを築き上げることには長けているけれども,手元にない情報を考慮することはしない(できない)(上P.156)」。それゆえ,「ファストな思考はごくわずかな情報から結論に飛躍し,しかも飛躍の幅がどの程度かわからないようにできている。(上P.366)」。
その特性は更に詳しく次のように記されている。「見たものがすべてなので,手元にある情報しか問題にしない。それに基づく結論の辻褄があってさえいれば,自信が生まれる。(上P.366)」。自信はさらに確信になり,自信過剰(手持ちの情報の量や質とは無関係に自信を持つ)に陥る。
「ファストな思考は騙されやすく,信じたがるバイアスを備えている。疑ってかかり,信じないと判断するのは(最終的には)スローな思考の仕事だが,しかし,スローな思考は時に忙しく,だいたいは怠けている。実際,疲れている時やうんざりしている時,人間は根拠のない説得的なメッセージに影響されやすくなる。(上P.148)」。
(2)2つの思考の役割分担と相互作用
スローな思考は,ファストな思考では対処できない問題を解決し,ファストな思考の働きを調整したり,その衝動を抑える。
【100 頁】
さらに引用に基づくと,次のようになる。ファストな思考による働きでスローな思考が的を絞れなくなるというメンタル・ショットガンという現象もカーネマン [2014] は指摘する。これが影響して,スローな思考は追随型になる。つまり,「(前半略)ファストな思考の印象をそっくり反映した直感的判断の大半にスローな思考がゴーサインを出す(後半略)。(上P.157)」。
「ファストな思考は自動的に働き,スローな思考は通常は努力を低レベルに抑えた快適モードで作動している。ファストな思考が困難に遭遇すると,スローな思考が応援に駆り出され問題解決に役立つ緻密で的確な処理を行う。(上P.49)」。
T−2 伝統的経済学から捉えてみる
カーネマンの記述は説得的に聞こえてしまうが,体系的でなく,2つの思考の役割分担について学術研究は進んでいないと考えるべきであろう。視野をさらに広げれば,知性・理性に基づく行動とそうでない行動の区別だけでなく,創造性,実行力,協調性,積極性,神経質,情緒的,攻撃的,挑発的などの人間行動の特徴を決めている要素は極めて多数あり,時に,特定の要素あるいはその群が主役になり人間行動を圧倒的に支配するようになるのは,事実であろう。
しかも,一つひとつの要素が占める効果は通常非常に小さい。また,何時どのような条件が重なれば要素転換つまり主役変化が起こるのか,まだまだわからない点は多いと言わざるをえない。
(1)多目的行動
行動経済学を使って議論するまでもない。多目的行動をとる組織や人間については,1つの目的の達成を優先すれば,その目的はスピーディに達成されるが,他の目的の達成は遅れることになる。
身近な事例から捉えてみることができる。もし(定まった時刻に)遅刻しそうになったら,誰しも,スピードを上げて歩いたり,車を運転する。その際身なりの崩れなど余り気にしなくなってしまう。このような事態が,該当している。
もしこれによって,スピード違反を起こしたり,事故を起こしたら,速度指定や時刻設定が間違っている,と言うのは自己中心過ぎるだろう。
(2)コーポレートガバナンスの欠如〜リスク管理とコンプライアンス
リスク管理を行うか,コンプライアンスを遂行するか,で意思決定にかかる時間が違ってくる。制約条件の少ない最適問題は解くのに時間がかからない(回り道せずに,敏速に行動できる)のと同じように,リスクに対して寛容あるいは非感応的で,コンプライアンスが緩い組織は敏速な行動を採ることができるという特徴を示すことになる。
すべてのステークホールダーを考慮しない企業経営も同様な特徴がある。近隣住民,広く環境などへの考慮である。
リスク管理,コンプライアンスさらにはステークホールダー対応ができない企業は,自己統制が無いと言われる。コーポレートガバナンスが確立していないとも言われる。
人間に当てはめてみると,さらに極端なケースでは,命知らずの無法者と言われる人たちが該当する。これらの者は,行動は速いが衝動的,短略的と言える。興奮すると,自己に及ぶ影響の大きさを測ることができなくなってしまう。激昂すると,他の人や周りに及ぼす影響を懸念することが少なく,無責任な行動にも頓着しなくなってしまう傾向がある。 以上。