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「企業家ネットワーク」を日本経営史研究に位置づけるための試論

 

鈴木 恒夫

 

 

はじめに

 

本稿は,これまで分析してきた「企業家ネットワーク」の研究1)を,経営史研究の中に位置づけ,その特徴と意義を明らかにすることを目的としている。明治期から昭和戦前期に至る時期を取り上げた「企業家ネットワーク」を,そこから見いだされた事実を提示するだけではなく,経営史研究全般の中に位置づけるには,どのような手続きが必要なのであろうか。これを考察した上で,本研究のまとめとしたい。
 必要な手続きは,大きく分けて2つある。一つは,経営史研究に直接関わるケーススタディという方法上の問題であり,二つは,これまでの日本経営史研究全体にどのようにして関係させるのか,という問題である。経営学では,経済学とは違って,ミクロ的主体である企業の行動規範・合理的行動仮説,マクロ的な視点である産業や国の問題に関わる分析は十分には扱われてこなかった。そのため,共通な理論的基盤から生み出される相互に関連した研究とは言えず,個々の研究は相互に関係を持つことなく,せいぜい,過去の研究の間隙を縫って,それぞれ共通の分野を対象として,そこでの貢献が中心となってきた。経営史研究においても同様に,基盤となる企業の合理的な行動仮説や個々の研究の基底にあるべき共通の視座,そしてまた個々の研究分野を跨がる視点が欠けていると言わざるを得ない。その結果,個々の研究を統合することが出来ずに,それぞれの分野は独立した存在のような観を呈してきた。
 そこで本稿は,ケーススタディで扱った対象の一般性について考察するとともに,その一般性を支えている日本固有の価値理念,行動規範をも考察していきたい。一般性については,空間的な普遍性や時間的な継続性の他に,諸外国,ことに先進工業国との比較という視点からも考察していきたい。価値理念については,日本経営史を分析するに当たって不可欠な視点であり,これを後発国という特徴に加えて,日本固有の価値観に基づく行動規範の2つの視点から考えていきたい

 

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1.「企業家ネットワーク」の一般性について

 

ケーススタディという研究方法を踏まえて,これを経営史全体に統合する視点から考えなければいけない。また,日本経営史研究においては,研究の数は膨大ではあるものの,取り上げるテーマは狭いままの状況の中で,しかも,日本の研究スタイルの特徴でもある先達の研究批判を回避してきた結果,未開拓な分野を探し研究してきたために,多くの研究は時間が経つにつれて小さなテーマに群がることとなった。それぞれのテーマを超えた共通な視座は,問題にもされないできた。こうした研究状況を念頭に置いて,「企業家ネットワーク」の研究を日本経営史研究の統合を意識して,纏めていきたい。
 ケーススタディという研究スタイルの限界を超えるには,対象とするケースが,日本経営史の全体の中で「一般性」を帯びている必要があろう。「一般性」とは,ある時代で複数のケースが見られるという特徴とともに,時代の変化の中で継続しているという特徴も大事である。それだけではない。このケースを生み出している環境要因にも目を配る必要があろう。「一般性」を担保するのは,環境要因である。従って,世界共通の環境要因ではなく,日本固有の環境,ある時代に固有の環境でなければならない。この環境要因については,個々の経営主体に及ぼした価値理念や行動規範を通して,日本経営史の中に位置づける必要がある。
 そこでまず「企業家ネットワーク」の特徴を通して,その一般的な側面を提示しつつ,先進国と比較してみたい。最初に空間的かつ時間的な一般性を考えていこう。明治31年における企業家ネットワークは,日本全国に1,130あり,北海道から鹿児島まで存在していた。明治40年には日本全国に1,517あり,同様に北海道から鹿児島に至るまで存在していた。更に大正10年には5,148あった。この数字は,樺太,朝鮮,満州などでの企業家ネットワークを除いたものである。これら植民地などでの企業家ネットワークを含めると,大正10年では5,710,昭和11年では4,325あった2)。ここから,明治31年から昭和11年に至るまで,北海道から鹿児島まですべての府県に存在し,更には,樺太,朝鮮,満州にも見られたことが分かる。従って,空間的にも時間的にも普遍的に存在していた企業家ネットワークを取り上げ,その普遍性,一般性を支えていた要因を考えなければいけない。
 次に,企業家ネットワークを考察する際に見られた現象は日本固有のものなのか,それとも先進工業国でも見られたのか,考えていきたい。すべての現象での比較は出来ないので,役員の兼任数を考えていきたい。というのも,企業家ネットワークの分析を行うには,兼任役員数が出発となるため,誰が何社の会社役員であったかが大切な情報であった。そこで,明治31年,明治40年,大正10年,および昭和11年の 『日本全国諸会社役員録』 を用いて,上位の人物と兼任役員数を記しておこう。表1,表2,表3,表4がそれである。

 

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明治31年から昭和戦前期,戦時経済が始まる直前の昭和11年まで,30から60社以上にもわたって会社役員であった者が沢山いたのである。渋沢栄一に代表されるような経営者として有名な人物が複数の会社に役員であった事実は,これまで指摘されてきた。森川英正 『日本経営史』 3)に記されているように,「奉加帳」方式によって,複数の会社に役員となった人物,事実が指摘されてきた。しかし,30社から60社もの会社に役員となっている者は,一体,何をしていたのであろうか。こうした現象は,日本だけのことなのであろうか。それとも,日本以外の

 

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国でも見られた現象なのであろうか。こうした疑問が次々と浮かんでくる。そこで,日本以外の国でも同様の現象が見られたかどうか,確かめていこう。
 ユルゲン・コッカは,The Rise of the Modern Industrial Enterprise in Germany の中で,日本と同様に,複数の会社役員であった事実を指摘している4)。ドイツでは,1870年以降,会社の統治機構は2重の構造であったという。企業のトップには取締役会があったが,その機能は,監査役会(Supervisory Board, Aufsichtsrat)と執行取締役会(Executive Board, Vorstand)の二重構造であった。監査役会のメンバーは,株主か株主の代表者から選出された。監査役会は,株主の代表に加えて労働組合の代表も含まれている。この場で,会社の重要な意思決定,例えば投資やトップレベルの人事が決定された。監査役会メンバーは,1年で数回しか合うことはなく, 6 頁】 多くのメンバーは他の企業でも同じ職に就いていたのである。一方,執行取締役は日々の決定を行い,実際に会社を運営していたのである。彼らは,フルタイムの重役で事業部門のトップを占めており,かつ会社の取締役でもあった。1914年以前,銀行の取締役員は一大グループを形成し,ドイツの株式会社の20パーセントを占める程であった。ドイチェバンクの役員は全体で186社もの会社で役員を兼任していたし,主要な銀行役員は44社もの会社役員を兼ねていたという5)。そして1930年までに,ある役員は100社もの役員であったという。日本の事例を上回る事態であった。また,フランスの事例では,モーリス・レヴィ=ルボワイエは,キュールマンや公共サービス事業部門では,企業グループを形成し,グループメンバーの役員が同じグループ内の企業の役員に就任していたという。平均して19社,僅かであるが,ある者は50社から60社の役員であったという6)
 少なくともドイツとフランスの事例からも窺われるように,30社から60社の役員を兼任していた日本の事例は決して特殊なものではなく,イギリスには遅れていたものの日本よりは先進国である国々でも見られた現象であった。ユルゲン・コッカが指摘しているように,彼らは株主を代表し,人事や投資案件という主要な意思決定を行っていた。そしてドイツの事例からも分かるように,日常の業務はフルタイムの執行役員が担っていたのである。日本の場合でも,役員ではなく,従って株主の代表者ではない,支配人に代表される人物が日常の業務をこなしていた事は知られている。特に,日本紡績の菊池恭三が代表的である。工部大学校出身の菊池は,工務支配人として平野紡績,尼崎紡績,摂津紡績の技師兼工務支配人として技術を統括していたが,その後株主となって福本社長の後継者として尼崎紡績の社長に就任したことは有名である。ここからも分かるように,株主の代表者としての会社役員と事業の責任者である技師・工務支配人とは,全く別な次元の存在であった。ドイツやフランスそして日本でも,会社役員は株主の代表者として,会社の主要な意思決定を行ってはいたが,日常の業務を行ってはいなかったのである。
 これは,株主が会社を統治していたことを意味する。換言すれば,ドイツ,フランス,日本では,昭和戦前期までは,株主が会社を統治していたと言ってよい。昭和戦前期まで見られた多数の会社に役員を勤めていたという現象は,先進諸外国でも見られたのである。一方,先に発表した研究の最後に記したように7),ここに登場する人物は,日本全国で活躍するタイプの近代的な事業に関わっていた人物であった。ところが,それ以外に,兼任役員数は多くはないものの,郡や市という地域空間で活躍していた企業家が多数存在していた。彼らは,郡や市という空間で,複数の企業家達と企業家ネットワークを形作って,銀行や電灯,倉庫,交通機関などそれぞれの地域のインフラ産業を興し,地域経済に貢献していたのである。しかも,明治31年から昭和11年まで継続して存在していたのである。そこでこうした複数の会社に関わった株主は,一体,どのようなことを行っていたのだろうか。換言すれば,こうした企業家ネットワークの中心にいた大株主は,設立発起人としてどのような事業活動を行っていたのかを明ら 7 頁】 かにしたい。というのも,日本全国を股にかけた大事業家というよりも,これら地方の資産家出身者で,それぞれの地域に根ざした活動を行っていた人物を中心とした企業家ネットワークについては,これまで十分な研究がなされてこなかったからでもある。それゆえ,明治期から昭和戦前期における日本全国での分析を進める上では,地方における企業家ネットワーク分析こそ重要であると考えられる。
 以上から,企業家ネットワークが時間的にも,空間的にも一般的な存在であったことが分かった。また,多数の会社役員に就任していることも,日本だけに見られた訳ではなかった。それでは,こうした一般的な現象を生み出した要因とは,一体,何であろうか。そこで,その要因について考えていきたい。その要因は,企業家ネットワークの分析だけではなく,日本経営史の研究においても不可欠な視点であろう。

 

2.日本経営史の分析に必要な2つの視点

 

日本経営史研究を進める際に不可欠な視点を考えていきたい。日本経営史全体に影響を及ぼす環境要因として,2つの要因を取り上げ,考察を加えたい。第1の要因は,後発国としての特徴であり,第2の要因は,日本固有の価値理念に関連する問題である。前者は,一般的に,外的な,形態的な特徴として現れるが,後者は,行動規範に影響を与え,内面的かつ動的な面で現れる。そこで,2つの特徴を記しておきたい。第1の視点は,ガーシェンクロンの研究に代表されるように,経済の推進主体の問題を始め,リードする産業の相違や成長率など,外的な問題に集中してきた。ガーシェンクロンの研究については,阿部武司,中村尚史「第1章 日本の産業革命と企業経営」は,4つの特徴を記している8)。また,アレクサンダー・ガーシェンクロン(池田美智子訳) 『経済後進性の史的展望』 では,「訳者はしがき」の中に6つの特徴が記されている9)。それらはいずれも,外的な特徴である。例えば,急成長である,重工業の発展が早い,カルテルなどの独占が進む,特定の金融機関や政府の役割が大きい,国民の消費生活の犠牲の上に成長する,農工部門のアンバランスにより有効需要が不十分であるなど,数量的に実証可能な側面に集中してきた。
 ここから次のような特徴を指摘出来よう。第1は,先発国のモデルの存在(経済全体の制度やシステムの導入,個々の事業や技術の模倣)であり,第2は,経済主体の人為的創出(ブルジョアジーの欠如と官僚の台頭)であり,この他に国内市場の相対的不足と海外市場依存,等々が挙げられる。しかも,工業化の初期に作られた態勢や制度は,その後長く続く事になることになるから,先進国モデルの導入一つとっても,そこには,後発国特有の特徴が見られた。例えば,銀行,重工業,鉄鋼,鉄道,海運などの近代的な諸産業と会社形態の導入が綿紡績から製糸業といった軽工業にまで広く及んだのである。また,株式会社形態などの制度も導入された。個々の産業では海外からの技術を導入する際,アジアで活動している企業や技術者・職人を雇用したり,海外に有能な人物を派遣したり,海外から専門家を招聘したりして,消化につとめた。また経済主体の問題では,国家資本や財閥の存在,輸出産業育成のための産業政策 8 頁】 などが考えられる。これらの問題は,無意識に取り上げられてきた。
 しかしながら,急速な工業化と多様な事業が一斉にスタートする環境の中で,財閥だけではなく,日本全国における企業家ネットワークもビジネスチャンスを前に「多角化」を志向したのである。ここでの多角化は,後に,新興財閥が展開した多角化とは異なり,相互に技術的な関連のある多角化というよりは,急激な成長によるビジネスチャンスの急速な展開に伴う多角化であり,実態としては財閥の多角化と同じ内容であった。この2つの経済主体は,これまでに指摘されてきたものの,両者の関係は,十分には明らかにされてこなかった。例えば,多角化といっても,三井や三菱などの財閥の多角化は,国家を意識した事業であり,国内市場はもとより海外市場までも視野に入れた活動であった。しかし,地域に根ざした企業家のとった多角化は,資金的な制約の中で推進したために,株式会社形態をとり,共同出資という形をとって行われた。また,彼らの目指した活動の範囲は,第一に彼らが活動していた地域に根ざしたものであった。前者の財閥については,これまで多くの研究は蓄積されてきたが,後者の企業家を主体とした研究では,まとまった研究が殆どなかった。しかも,綿紡績,製糸業,地方銀行,電力産業などのように個々の業種というフレームワークの中で取り上げられた結果,彼ら企業家が関わった事業の全体を明らかにすることが出来なかったと言えよう。
 そこで,地域に根ざした商人に代表される企業家が,地域経済の発展を目的として,近代的な事業に関わっていた実態を明らかにしなければならない。これを明らかにするには第2の視点が不可欠である。第1の視点は,後発国に共通に見られるものであるが,第2の視点は,それぞれの後発国で異なるものである。それ故,ガーシェンクロンなどの研究成果だけからでは,必要な問題を探ることができない。日本固有の価値理念,行動規範の問題を考えていこう。もちろん,これまでにも日本固有の価値理念についての研究,それと結びつけた分析が行われてきた。以下,簡単に触れておこう。
 日本経営の,あるいは日本の企業家の価値理念については,ヒルシュマイヤー,由井常彦の研究が思い出されるが,ラフカディオ・ハーン 『神国日本』 10)がまずもって参照されなければならない。というのも,日本企業の活動は,必ずしも個人またはグループの自主的な意思決定によってなされる訳ではないからである。日本人が明治期に新しい事業に着手する,彼らを駆り立てた力は一体何だったのだろうか。収益が認められるとか,成長を期待して関わったというよりも,旧来からの「外圧」,彼らが暮らしている地域,彼らが所属している集団からの圧力によって,「他力的」に関わったように思われる。他力的に関わったとは言え,関わる以上,そこで彼らが受ける無言の「期待」によって,失敗は許されなかった。そこでは,こうした集団を踏まえて,その集団に属する個人にまでも及ぼす力,個人の行動をも拘束する社会的な力を考察する必要があるからである。
 本稿では,その中から,日本人固有の行動規範を生み出す外的な圧力に関わる部分だけを引用することとしたい。というのも,後に記す「役割期待」を生み出す社会的な外圧を分析しているからである。ラフカディオ・ハーンは,個人の行動を昔から規制している内実について具体的に論じている。

「行動をうけさせられる側について言えば,普通人は三種類の外圧をうけている。まず上からの圧迫で,例証すれば上長の意志による場合などである。その周囲からの圧迫で, 9 頁】 これは仲間や同僚に共通する意志からくる場合である。下からの圧迫であって,この目下のものの一般感情によって代表されるのである。そしてこの最後の強制はなかなかもって侮りがたいものなのである。
 第一種の圧迫−権威によって代表されている−は,個人がこれに抵抗するなどということは,とうてい考えられない。つまり上長は氏族,階級すなわちある種の非常に多数の力を代表したものだからである。今日の世情では,ただ一人の個人が一つの結合体に刃向かうなどは,とてもできないことである。不正に対抗するためには,十分な支持を得なければならないし,そうなれば個人の抵抗ももう個人の行動を表してはいないのである。
 第二種の圧迫−地域社会の強制である−に対する抵抗は,その身の破滅,すなわち自身がその社会全体の一員となっている権利の喪失を意味することになる。
 第三種の圧迫は,目下の共通感情に具現されているものであるが,この圧迫への抵抗は,その時の事情次第で,ほとんど一切の結果を惹き起こすことになる。−一時的な苦しみを嘗めることからはじまって,たちまち生命を失うことにさえなるのである。
 第三種の圧迫は,あらゆる形をとっている社会のなかで,ある程度はみな行われているのである。しかし,日本の社会では,代々受けついできた傾向と伝統的な感情のために,これらの圧力の見せる力はものすごいものである。」11)

このような外圧によって,地方の資産家は「役割期待」を背負わされてきたのである。そこで,こうした「役割期待」を背負わされた資産家は,一体,どのような行動を取ったのであろうか。これを見ていきたい。

 

3.企業家ネットワークの株主は何をしたのか

 

銀行や輸送機関,綿紡績産業に代表されるように,日本全国で多くのネットワークが関与した産業発展をどう考えるべきかという問題が残された。それぞれ地域経済の発展を目指して共同で銀行や交通などのインフラ産業,綿紡績や生糸産業などの主要な産業の設立に関わり,事業運営を行ってきたネットワークの活動を,先に述べた2つの視点からどのように考えるかということである。
 具体的に記しておこう。@国家主導,官僚主導で進められた事業は,ネットワークの活動に何らかの影響を与えたのだろうか。A先進国モデルの導入は,ネットワークのレベルでどのような特徴を与えたのだろうか。B一斉に工業化を開始したという後発国特有の特徴はネットワークの活動において,どのような特徴を付与したのだろうか。C海外貿易で主要な働きを行った総合商社(商社)は,ネットワークの活動にどのような影響を与えたのだろうか,という問題を考える必要があろう。
 以上から,@の国家主導という側面からは,国立銀行の創設と地域の関与が挙げられようし,Aの先進国モデルの導入は,製糸業でも紡績業でもそれぞれフランスやイタリア,あるいはイギリスからの機械・技術の導入とともに,技術者の招聘が行われた。株式会社制度の導入もこれに加えるべきであろう。一斉に工業化を開始した結果,ビジネスチャンスが一挙に開花したのである。これを反映して,財閥では多角化が進み,地方の企業家では様々な事業に関与した 10 頁】 実態が明らかになった。近代的な会社設立に伴う資金調達に加えて多くの企業に関与した地方の企業家達は,株式会社制度によって広く外部から資金を調達しただけではなく,共同出資という形態によって多種の事業への参入を実現した。明治期の日本全国の富・資産の賦存状況は,府県間における格差は比較的小さかったものの,業種間での違いは顕著であった。絹織物,太物を扱う呉服太物問屋を筆頭に,醸造業や交易に従事していた商人達は富の蓄積を進めて行った。こうした地方を舞台に,それぞれの地域では,有力な商人達が地域社会からの期待を背負って,近代的な事業や輸送や取引所などのインフラ産業の整備を進めていったのである。
 明治31年から昭和11年に至るまで,日本全国に存在していたネットワークとそこで営まれる企業活動を考えるに当たって,ネットワークに登場する会社役員を突き動かした「価値理念」は,一体,どのようなものだったのだろうか。換言すれば,ガーシェンクロンが指摘したように,後発国では企業者精神の形成が不十分で,官僚をはじめ国がそれを代位していたとすれば,ネットワークを作って活動していた人物の行動をどう理解したら良いのであろうか,という問題である。企業者精神では説明出来ない,日本固有の「理念」が作用していたのであろうか。いずれにしろ,日本全国で,長期に亘って企業活動が生まれた底流にある,日本的な「企業者精神」について,考察しなければいけないであろう。
 我々が分析する上で選んだ資料は 『日本全国諸会社役員録』 と書かれているとおり,会社役員を対象としたために,本研究が役員の分析であるという側面だけが強調されてきた。しかし,これまでに発表した研究の中で記したとおり,明治から昭和戦前期まで,役員=株主であったから,役員のもう一つの顔である株主の側面を指摘しておく必要がある。株主としての機能を考察したい。
 先に記した,ユルゲン・コッカのドイツの事例やモーリス・レヴィ=ルボワイエのフランスの事例では,会社の創立ではなくて,創立後の会社を念頭に置いて,日常業務を営む経営陣の任命を中心に,情報交換や業績の監視などの業務を指摘している。しかし問題は,創立時における大株主として機能である。会社の設立に当たって,法的な手続きである起業目論見書の発行や株式発行,株主総会の準備や取引銀行の決定,更には定款の作成,公告に際しての新聞社選びなど,企業の設立に関わる諸問題は,伊牟田敏充氏の研究にも記されている。しかし,工場の立地を始め,諸機械の発注,原料調達や技術者の採用など,物理的な整備については,十分に言及されてこなかった。大株主としての会社役員,設立発起人としての大株主は,資金調達や法的な問題とは別に,工場建設の際に,どのような役割を果たしたのだろうか。これを明らかにしておきたい。
 愛知県知多半島における企業家ネットワークを取り上げて,地域との関係を見ていこう。明治31年における愛知県知多郡半田町に拠点を置いた企業家ネットワークの中から,小栗三郎が関与したものを抽出すると2つある。一つは,小栗平蔵と中埜半左衛門,田中清八と知多紡績,丸三麦酒,(株)半田米穀商品株式取引所からなるもので,他の一つは,中埜又左衛門と,丸三麦酒,共同合資会社からなる。ここからは,中埜家と深い関係が見られる。また,半田町を拠点としたマトリックスを作成すると,表5のようになる。ここから分かるように,公称資本金から見ると知多紡績の100万円,丸三麦酒の60万円が際立っている。近代的な会社である紡績業とビール産業での資本金が大きく,地域にあっては,在来の産業や取引所などの公称資本金が10万円から30万円であったから,近代的な事業を進めるには,多額の起業資金が必要であった。

 

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それだけではない。近代的な事業を進めるに当たっては,技術や管理,販売や労務,立地や原料入手など,様々な問題を解決しなければならなかったのである。単に株主として新事業に出資するだけではなく,株主と同時に役員として会社の設立から事業の開始に至るまで,どのような活動を行ったかを見ていこう。そこで,絹川太一 『本邦綿絲紡績史』 12),中西聡・井奥成彦編著 『近代日本の地方事業家−萬三商店小栗家と地域の工業化−』 13)を手がかりに,株主であり役員でもあった小栗冨治郎,小栗三郎の行動を追ってみよう。
 知多紡績は,1886(明治29)年8月16日,知多郡半田町に創立された。取締役社長は小栗冨治郎で,取締役には小栗三郎,小栗平蔵,田中清八,小栗七左衛門,中埜半助が,また監査役には竹内源助,小栗政治郎,中埜半左衛門が,それぞれ就任した。愛知県の知多半島における企業家を分析した,中西聡・井奥成彦編著では,小栗三郎家を取り上げ,亀崎郡での亀崎銀行への関わり,知多郡での知多紡績の設立から操業に至るまで詳細な分析がなされているので,これを参考にして大株主,企業発起人の果たした役割を見ておこう。小栗三郎は,亀崎銀行の設立に関しては,株主ではあったものの役員にはなっていない。また亀崎銀行が設立した後は,事業資金の調達として亀崎銀行を積極的に利用していた。この意味で,亀崎銀行の設立に積極的な役割を果たした小栗冨治郎とは距離をおいて,地域への貢献という側面よりも自らの事業資金の調達として,利用者として関わっていたのである。一方,知多紡績は違う。
 「小栗三郎は発起人となり,特に知多紡績に対しては,連日事務所に通うとともに,主要株主として設立時に取締役となった。」14) 工場の立地に関しては「工学博士の谷口氏を招いて意見を聞」15)き,「最終的に,知多紡績会社重役のなかで小栗冨治郎・小栗平蔵・小栗三郎が年末に上京して,重要案件を決めてきた」16)という。また,紡績会社が開業した後は,「事務所の移転や取引銀行の件など,重要な案件が生じた際には紡績事務所へ出頭していた」17)という。また 12 頁】 知多紡績が三重紡績に合併される際にも,少なからず円滑に進めるための努力を尽くしたのである。
 ここから発起人として,小栗三郎が行った活動が理解できた。そこで次に実際の経営管理,実務の問題を考えていこう。企業全体を掌握していた専門経営者とは違って,紡績機械の知識や近代的な労務管理を身につけていたとは言えない大株主は,自ら実務を担うことはなく,専門の人物を招いて委ねていたのである。これを見ておこう。知多紡績の実務を担っていたのは,端山忠左衛門であった。社長の小栗冨治郎は,「才気煥発の新人発展家で」あり,「名古屋に小栗銀行を設立し各地に支店を設け,台湾に東洋塩業会社を設け名古屋で開いた小栗商店をして一手販売せしめた。銀行ある為め兎角金融自在の趣あり,航海業を営み日露戦争の時には御用船を提供して大いに利益する所もあった。それが為め事業を拡張せしに今度は失敗に終わ」18) り,小栗銀行は破産することとなった。しかも,知多紡績でも,小栗冨治郎は,「重役会の時ですら娘婿小栗福蔵氏を代理」19)に出席させていた。一方,専務の端山忠左衛門は,社長の小栗冨治郎とは対照的な人物であった。「社長は百萬長者専務は清貧洗うが如く,社長は虚栄の新人専務は枯木寒厳,社長は利を追ひ専務は施与を好む」20)と言われる程であった。
 取締役の小栗三郎については,絹川太一の本では詳細が分からないので,後に中西・井奥著によって,明らかにしておきたい。その前に,知多紡績の経営を担った人物とその特徴を記しておく必要がある。知多紡績の工場建設に当たっては,設計と据付の監督には,「尾勢方面の他の諸紡績同様矢張尾張紡績服部俊一氏が顧問として之に当たった」21)が,直接の監督者は小鹿鶴彦と高木修一であった。小鹿鶴彦氏の実家は,三千石の尾州藩士桜井家で,養家小鹿家は同藩の御殿医という家柄であった。小鹿鶴彦自身は蔵前工業高校を出てから小名木川綿布会社に勤務していたところ,知多紡績に請われて入社したのである。尾張出身者であった。また,高木修一氏は三重紡績所から愛知紡績所に見習いに行き,後に名古屋紡績会社に勤務した後,知多紡績に移った,実地で学んだ人である。小鹿,高木両氏は昼夜交替で監督に当たった。しかし,両者の仲は良くなかった。「高木氏は全然実地家で小鹿氏は教育ある若者に過ぎなかった。此の昼夜交替の両監督者間には常に意見の相違が起こり易かった。併し其上に監督者なかりし為め,摩擦は自然絶えなかった」22)という。
 一方,販売においても半田出身の人物を招いて進めていた。「販売は支配人穂積寅太郎氏指揮の下に主任白木彦太郎氏之れに当たった」23)。白木氏は高商出の半田人であり,穂積氏は慶應義塾を卒業した半田人であった。
 ここから次の事がわかる。知多郡半田町に設立された知多紡績には,地元出身の技術者,しかも蔵前高工出身という学歴を有した人物を招いていることである。また,実際に紡績工場で経験を積んだ人物を監督者として招いていたことも重要である。しかも,販売に当たっても慶應義塾,高商出の半田出身の人を採用していたのである。しかし,昼夜二交代制で生産していた関係で,監督者は2人必要であったが,この二人の背景は全く異なっていたために,軋轢が 13 頁】 生じていた。その上,組織の上で大きな問題は,これらの監督者を管理すべき人物がいなかったことである。これは後に論じる点と重なるが,近代的な管理組織の必要性,重要性を十分に理解していなかった結果であろう。
 このような事態は,日本だけで見られた訳ではない。グレゴリー・クラークは,アメリカ,イギリス,日本,インドの労働生産性の比較を示し,労働生産性の相違は,労働規律の問題から生まれたと結論づけている24)。例えば,インドでは,綿紡績工場の中で,食事をとったり,散髪や赤ん坊を連れて来る者さえいた。更にひどい例として,「典型的な労働者は,多くの親戚に囲まれて働き,顔や体,更には衣服を洗ったり,煙草を吸ったり,ひげを剃ったり,寝たり食事をしていた」25)という。これに対して,イギリスでは労働者への管理は厳しく,遅刻には厳罰が処されていた。橋本毅彦は, 『遅刻の誕生』 の中で,朝起こすための「戸叩き」という職業があったことを紹介している26)
 総じて,労務管理,品質管理,生産管理,原価管理,人事管理など,近代的な工場の運営に不可欠な管理体制が不十分であった。これが,品質,生産,原価に影響を与え,少なからず企業収益の差を生み出していったと思われる。そこで,経営管理の問題に触れておきたい。

 

4.近代的工場の設立と経営管理の問題

 

当時の工場現場に触れながら,労務管理の実態を確認しておこう。 『富士紡績五十年史』 によると,創業当初の工場は次のようなものであった。富士紡績は,明治31年の秋に操業を開始したものの,開業当初から業績は不振であった。それは,「創立当初における富士紡績会社の重役の顔触は,いづれも財界の錚々たる名士揃ひであったがしかし富田取締会長をはじめ,会社の当局には,紡績事業の経営に,実地の経験を有する専門家は殆んどなかママった」27)からである。そのため,滋賀県勧農課に勤めた後に金巾製織会社で取締役兼商務支配人であった田村正寛を招いて改革に乗り出した。「田村氏は,工場の内外にわだかまる惰気を一掃するには,先づ従業員の陣営を整備しなければならぬと考へた,さうして数十名の冗員の淘汰を断行するとともに,大阪方面から技手,事務員,職工係,寄宿係など,十五六名ばかりも呼び寄せた」28)上に,厳格な規律の励行を行ったのである。ところが,これは逆効果を生み,労働者の人心に動揺をもたらし,不平や不満を募らす事になった。
 一方,明治19年に創立された小名木川綿布会社は,「士族の商法で,社業はすこしも挙がらず,工場の紊乱は言語道断,資金の流通は滞って」29),40万円もの負債を生じるに至った。そのため,森村市左衛門は東京瓦斯紡績会社の経営に全身全霊を捧げていた日比谷平左衛門に小名木川綿布会社の整理を懇請したのである。これを引き受けた「日比谷翁の眼に映じた同社の病弊は,第一に工場内にわだかまる満々の惰気であった。男工は火鉢を工場内に持ち込んで煙草 14 頁】 を吸ひ,女工は勝手に機械を止め,工場内に筵を敷いて食事をしていた。通路には落綿や木篦が散乱して,足の踏むところもない。夜業の人人は,戸棚のなかに布団を敷いて寝こみ,倉庫係は倉庫のなかで賭博に耽ってい」30)るような所であった。
 その結果,富士紡績では,一錘当たりの生産高は,金巾製織に比べて20%も少なく,小名木川綿布では,生産の能率が上がらず,紡出された糸の質も悪く,在庫は天井にまで達する程であった。ここからも分かるように,イギリス製の機械を導入しても,工場内の生産管理,品質管理,労務管理といった側面では,近代的な工場の体をなしてはいなかったのである。間宏 『日本労務管理史研究』 でも, 『富士紡績五十年史』 等を利用しながら,同様の問題を指摘している31)。近代的な工場管理の問題がクローズアップされるべき所以である。
 管理の問題は,生産量や品質の差ばかりではなく原価にも影響を与え,利益の格差を生み出すことになった。この点も見ておこう。明治20年6月に愛知県熱田町で創立された尾張紡績の社長は奥田正香であった。瀧兵右衛門や森本善七が取締役に就任するなど,尾張紡績はまさに奥田正香をリーダーとする企業家ネットワークの代表格であった。更に,官営紡績所であった愛知紡績の所長であった岡田令高を招いて商務支配人とし,工務支配人には服部俊一が就任した。しかし,奥田正香自身の経営方針は,企業収益の向上には反するものであった。その一例を指摘しておこう。「米穀取引所理事長後藤安太郎氏が,曾て奥田正香氏に忠告した事がある。尾張紡績が三四十万円の積立金を有しながら安い原綿を買持ち安い綿糸を売怺らへる丈けの商略を用いぬのは愚かでないかと,三重紡績の儲かる実例を列べて之を見倣ふべく勧めた。然るに奥田氏は工業家の性質として危険を踏むものでない,着実に営業し只だ工業の進歩に依て利益すべきである,投機で儲けるなど怪しからんと称し右忠告を斥けた」32)のである。そのため利益にとって大きな要因であるコスト削減が不十分で,収益にも表れた。
 これまで論じてきたことから分かる事は,日本全国に生まれた紡績会社は,それぞれの地域の資産家が中心となって株主となって会社設立に貢献して出来たことである。その上,東京や各地から技術者や経験者,特にその地域出身者の技術者や高学歴の者を招いて,事業を始めたのである。ところが,上で指摘したように,全国的な競争にさらされるに従って,品質や生産高の差が生じて,それが販売価格に反映していった。そしてまた,労務管理の不徹底やコスト削減の努力が不十分なために,収益の低下を招くことになった。工場管理の問題の重要性を再確認する必要があろう。その結果,綿製品の市場が全国的に拡大するにつれて,競争は激化して,株主の突き上げもあって合併への道が選択されたといえよう。
 その結果,経営管理の問題が重要な課題となり,学卒者の専門経営者が求められるようになった。森川英正氏の説く,専門経営者の制覇は,こうした経営管理の問題を踏まえて論じることが必要であろう。

 

15 頁】

5.地方の企業家ネットワークにおける中心人物の行動規範

 

日本全国で生じた企業家ネットワーク,特に,渋沢栄一や安田善次郎,浅野総一郎のように日本全国で活躍した企業家ネットワークなどとは違って,それぞれの地域で活躍していた人物の動機について考えていきたい。彼らは,銀行や交通,エネルギー,更には近代的な紡績事業など,それぞれの地域のインフラ産業ともいえる企業の設立に関与していった。こうした活動に対する彼らの動機は,一体,何であったのだろうか,という問題である。日本全国で生じた企業勃興ブームに対して,積極的に企業者精神を発揮し,関連する事業の設立を主導したとは思えない。
 この点に関しては,先に記したラフカディオ・ハーンとは別に,由井常彦・ヒルシュマイヤーの研究が明らかにしている。両氏が 『経営史学』 に発表した論文を手がかりにして考えていきたい。「江戸時代の価値体系とビジネス−明治期の工業化との関連において−」33)は,日本人の価値を,垂直的・水平的・時間的という3つの側面から考察し,機能的な「役割期待」の倫理ともいうべき,日本人を支配した倫理規範を説明しようとしたものである。
 これによると,江戸時代には,「階級や集団の機能の差異を超えて,統合化された価値と規範とが,個人や集団の意識に内面化されていた」という。社会全体が,上から様々な小役人や小集団という仕組みを通して,同じ価値理念を強制的に浸透させていった時代である。それゆえ,「外的な平和と内的な調和の維持が最高の社会目標とされ」たのである。こうした社会では,反対意見はもとより,修正意見であっても,波風が立たないように,全員がそれと気づくようにさりげなく表現しなければならなかった。こうした社会で働く力の源である価値体系は,4つの種類があったという。第1の価値は,「垂直的な序列の価値」である。これには,士農工商による階級によって,すべての人は平等である考えを否定し,上下の階級を道徳によって基礎づけていただけでなく,天下→幕府→藩(お上)→一族一門(あるいは商人の場合は株仲間)→家→個人というように個人を末端に位置づける価値体系であった。第2の価値は,「水平的な集団的組織の価値」である。江戸時代,五人組を始め様々な集団を通じた支配が行われ,個人の行動規範にも大きな影響を与えた。例えば,「集団的規律への服従は高く評価され,個人の義務は集団の規律に服従するとともに,集団に栄誉をもたらすことであった」という。独立した個人の立身出世は,「集団志向的な価値体系」に足を引っ張られていた。第3の価値は,「時間の連続性の価値」であり,一族一門も祖先を崇拝し,家産の維持を目指すことである。そこでは,経営的活動体としての家に見られるように,家産の維持・拡大を目指すもので,そのため厳しい努力と服従が要求された。ここから,血縁よりも機能的な「家」が重視されたのである。第4の価値は,「機能的役割期待の倫理」である。江戸時代,「個人の規範は,自分の心の内部よりも,外部からの評価に依存」しており,個人の評価に当たっては,個人の動機や意図が問題になることはなく,「もっぱらその役割と外部からみた結果のみ」から評価された。この役割期待に背いた場合,当人は「恥」を感じるのである。恥とは,外部から与えられた役割期待に応えられなかった場合に生じる感情であり,人の行動を縛る倫理規範であっ 16 頁】34)
 その結果,こうした三次元の価値観からもたらされた倫理は,両氏によれば,「日本人の三次元のhuman nexusに基づく倫理は, 『恥の倫理』 とも称され得るが,むしろ, 『役割期待の倫理』 とよぶほうがふさわしいように思える」と結論する。即ち,日本人の行動の根底にあった3次元の価値観は,「役割期待の倫理」として規制するようになったと言う。従って,「役割期待の倫理」は,日本人を規定していた規律すべてを含んでいたことに注意しなければいけない。
 この行動規範が地域社会にまで及び,また,地域内での序列,家格や所得などに応じた序列,個人や家業よりも地域経済を優先することを求められる圧力などを考える時,地域の資産家,時には名望家と言われた人物は,こうした「役割期待」を背負いながら,近代的な事業に着手したのではなかろうか。

 

おわりに

 

以上の分析を踏まえて,冒頭に掲げた問題提起を日本経営史研究の中に位置づけて,まとめておきたい。ケーススタディという研究方法をとる経営史においては,対象とする事例が特殊なものなのか,それとも広範に見られるものなのかを考える必要がある。また,その事例が日本固有のものか否かという点も同様である。そのためには,先進諸外国での事例,研究成果のみならずアジアや中南米など経済発展の後発国での事例も考慮に入れなければならない。しかしながら,これまで日本経営史の研究では,こうした世界的な視野から論じる姿勢にやや欠けていたと言わざるをえない。こうした視点から研究を進めることによって,これまでとは違った国際比較が可能となろう。いずれにしろ,一般化への道筋を求めることが不可欠である。
 本稿では,企業家ネットワークの存在と特徴を,日本全国で見られたという空間的な普遍性,明治31年から昭和11年まで見られたという時間的継続性,更には,多数の会社役員を勤めているという特徴はドイツやフランスでも見られたという共通性について,明らかにした。今後,ドイツ,フランス,日本で見られた兼任役員という実態の分析が求められよう。今後の課題としたい。
 日本経営史研究には,いかなる時期であれ,どのような対象であれ,日本が置かれた特徴を起点として分析する必要があろう。そうでないと,即自的(アンジッヒ)に,現象をただ記述するだけのもので終わってしまう。企業や経営者,更には登場する主体の合理性を,彼らが内面に持っている価値理念から説明出来なければ,一国の経営史研究とは言えないであろう。これまで,「日本的経営」に代表されるように,日本経営史の研究では,「日本的」と冠して日本固有の価値観,行動様式,企業形態などの研究が進められてきた。こうした研究成果に基づいて,これまでの財閥史研究から個別の産業,企業分析に至るまで,再考する必要があろう。その際,「日本的」という特質を客観的に明らかにしてきたのは,外国の研究者であったことに注意すべきである。本稿で記した,ラフカディオ・ハーン,ライシャワー,ルース・ベネディ 17 頁】 クト,最近では,ドーア,アベグレンなどである。これは偶然ではない。彼らには,日本の研究を始める前に既に自国の研究を通して,日本を理解する基準が出来ているからであろう。それゆえ,どこが日本的なのか,どこが特異な分野なのかを明らかにし得たと思われる。例えば,ギリシャ生まれの母親を持ち,自らもギリシャで生まれたラフカディオ・ハーンは, 『神国日本』 の中で,日本の神話をギリシャ神話と比較している。「神道の場合,古いギリシアの信仰と同様で,死ぬことは超人的力をもつことになってくる−つまり超自然的方法で幸福を授けたり,不幸を与えたりする力をもつようになるのである」35)とし,死者の支配を論じる。そうして,日本社会の前近代的な特徴を記している。「実はこの国の社会状態はいまだに,キリスト以前幾世紀前のギリシアやラテンの社会の状態に似通った段階にいるのである。なるほど鉄道,電信,精巧な近代的武器,またあらゆる種類の近代的科学は導入されてはいるけれども,実はいまだに事物の根本的秩序の変革というところまでには及んでいない。表面的崩壊は,急速に進んでいる。新しい機構はどしどし造られている。しかしその社会的事情,南ヨーロッパでキリスト教が導入されるはるか以前の状態にひどく類似しているままである」36)と断言している。そうであれば,表面的な成果,経済的な達成だけではなく,その根底にある日本的価値理念,行動規範を明らかにする必要があろう。そして,それに関わらせて,「日本的」と名付けられる分野へ進む必要があろう。
 本稿では,上から,横から,下からのという3つの圧力を通して発揮する「役割期待」を主要な行動規範であるとし,この「役割期待」による地域への経済活動を「企業家ネットワーク」を理解する上での指針としてきた。今後,こうした,日本的価値理念,行動規範を踏まえた日本経営史研究が深化することを密かに願っている。