1) ユダヤ啓蒙主義運動の中心人物であったモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)が,貨幣鋳造業に従事したグンペルツ家の哲学者アーロン・ゾロモン・グンペルツ(Aaron Salomon Gumpertz)から教育を受けていたことからも(Flumenbaum, 2002, p. 41),貨幣鋳造業に従事したユダヤ教徒の一族が,ユダヤ共同体の改革やユダヤ教徒の解放に貢献していたことを確認できる。ちなみに,このグンペルツという家名は,「ゴンペルツ(Gomperz)」と表記されることもあるなど,必ずしも「グンペルツ(Gumpertz)」と呼ばれてきたわけではない。但し,本稿ではこの一族はすべて「グンペルツ」と表記した。
2) 中世後期から1701年にかけての主にブランデンブルク(辺境伯)選帝侯領の貨幣鋳造業の歴史を,史料を提示しながら説明した。
3) 17世紀の貨幣鋳造業の実態を踏まえたうえで,主に1701年から1806年にかけてのプロイセン王国の貨幣鋳造業に関する歴史を描いた。
4) プロイセン王国のユダヤ教徒の宮廷商人に関しては,シュネーの研究(Schnee, 1953)とシュテルンの研究(Stern, 1950)がある。特にシュネーの研究については,日本でも佐藤(1956)によって取り上げられている。またプロイセン王国で貨幣鋳造業に従事した一族の歴史は,ラヘルとヴァリッヒの研究(Rachelund Wallich, 1967)をはじめ,ミカエリスの研究(Michaelis, 1976; 1979)やコイクの研究(Keuck, 2011)が挙げられる。ユダヤ教徒が貨幣鋳造業を通して豊かになるきっかけとなったのは七年戦争であったが,その七年戦争期の貨幣鋳造業に関しては,ボイティンの研究(Beutin, 1933)とヘンダーソンの研究(Henderson, 1963)がある。
5) 貨幣鋳造業に従事したユダヤ教徒の企業家精神を集中的に分析した研究として,レッドリックの研究(Redlich, 1951)が挙げられるが,彼も国際的な商取引に注目していた。
6) ローマ帝国では,法的に宗教として認められるためには,「皇帝礼拝」が条件とされていたが,一神教のユダヤ教は例外的に帝国内の宗教として認められていた(出村, 2005, 25)。
7) ユスティニアヌス帝は,皇帝は帝国の支配者であると同時に,「教会の頭」であると考えていた(出村,2005, 28)。
8) 古代ゲルマーニアの人々の生活については,タキトゥスが後世に伝えているが,彼が記録を残した当時すでに,ゲルマーニアの集落で血縁関係はあまり重要な役割を果たしていなかった(野崎, 1997, 17-18)。
9) ローマ・カトリックは,フランク王国の統一を維持することにも貢献していた。例えばフランク王国は,ザクセンの政治的な支配者層をローマ・カトリックへ改宗させることによって,ザクセンをフランク王国に統合した(渡部, 1997, 71-72; 三佐川, 2013, 120-121)。
10) 9世紀にも帝国各地で,修道院改革が試みられていた(渡部, 1997, 84-85)。
11) ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされた際に,一度,神殿は破壊されたが,前515年に再建された(市川,2009, 付録26頁(年表))。
12) 中世後期には大学が多く設立され,托鉢修道会の活動が活発化し,キリスト教神学が発展した。そうした時代を背景に,異端な信仰の排除が行われるようになった(市川, 2009, 77)。地域の行政主体は,こうした異端な信仰を排除する担い手と見なされてきた(山田, 1992a, 3)。
13) ベルリンでルター派の都市市民によって暴動が起こされたことが,このような宗教的な寛容政策が打ち出された背景にあった(瀬原, 1998, 719-720)。
14) ルターの著書でも言及されるほど,金持ちのユダヤ教徒としてよく知られていた。ミヒャエルは,1543年から公にブランデンブルク選帝侯領に住むことが許された(Mieck, 2002, S. 14)。
15) 第3回ラテラノ公会議でキリスト教徒が宗教上,貸金業に従事することは許されなくなったが(市川,2009, 75),ユダヤ教徒は貸金業に従事できた。ブランデンブルク選帝侯領では,貸金業や質屋がユダヤ教徒の主要な職業となっていた(Helbig, 1973, S. 37)。
17) 金貨の貨幣鋳造権は,諸侯の政治的な権力が強化されていく中で,金印勅書によって皇帝から選帝侯に移されることになった(池谷, 1997, 311-312; 名城, 2000, 171)。
18) ただアスカニア家最後のブランデンブルク辺境伯が亡くなった際に,ベルリンが貨幣鋳造権をその亡くなった辺境伯の妻から認められていたという瀬原(1998, 717)の指摘もある。
19) ちなみに,この14世紀から15世紀にかけて,それまで西欧に銀を供給してきた銀鉱山が閉鎖され,銀の流通量が減った。そして銀貨は生産量が低下し,銀貨の質の低下も見られるようになっていた(名城, 2000, 178-182)。こうした銀の不足は,当時のベルリンで貨幣が造られなかったことと関係していると思われる。
20) 中世の時点ですでに,貨幣を造る権利を認められていた者は自分で貨幣を造るのではなく,貴金属業者や貨幣取扱業者が貨幣を造るのを監督するようになっていた(名城, 2000, 160)。この指令は,ベルリンとシュテンダールの貨幣鋳造業の親方に対して出された(Bahrfeldt, 1895, S. 173)。
21) ホーエンツォーレルン家の支配の下で,すでに15世紀半ばに都市は政治的な自立性を失っていた(瀬原,1998, 718-719)。
22) ちなみに領邦の財政は,ヨアヒム1世の時代から国家財政と宮廷費が形式的に区別されるようになり,17世紀に軍事税が徴収されるようになる中で,国家財政が宮廷費に用いられるようなことはなくなっていった(上山, 1964, 171-173)。
23) 宮廷では1612〜17年の6年間の収入が1,392,600ターラーであったのに対し,1645〜50年の6年間の収入は284,533ターラーしかなかった(上山, 1964, 163, 注5)。
24) さらにこうした傭兵以外にも,他国と比較しても非常に多くの農民が軍隊に動員されるようになった(上山, 1964, 128-129)。
25) 消費税は,オランダに倣って,1667年から本格的に導入されることになった(上山, 1964, 160)。三十年戦争の終結後,ブランデンブルク選帝侯領では,負債に苦しめられていた等族が,軍隊を維持するための税負担に反対していた。ただ消費税の導入に際して,ラント議会を開催する必要はなかった(上山, 1964, 121, 160)。
26) 当時の貨幣鋳造業者は,貨幣の改鋳によって利益を得るようになっていた(Mieck, 2002, S. 19)。
27) 1マルクの重さの銀から10½ターラー分の貨幣を鋳造(Trapp, 1999, S. 88)。
28) 1マルクの重さの銀から12ターラー分の貨幣を鋳造(Trapp, 1999, S. 88)。
29) 1マルクの重さの銀から14ターラー分の貨幣を鋳造(Henderson, 1963, S. 40)。
30) プロイセン王国。1618年にブランデンブルク選帝侯が,血縁関係によって,プロイセン公国も支配下に入れ,同君連合のブランデンブルク=プロイセンとして成立。1701年にプロイセン王国となった(林, 1977,175, 178-179)。
31) シュレッター(Schrötter, 1904)や彼の研究を参照したレッドリック(Redlich, 1951)は1664年から親方としてベルリンの貨幣鋳造業に従事していたヨハン・リープマン(JohannLiebmann)を,本文で扱っているユダヤ教徒のヨスト・リープマン(Jost Liebmann)と同一人物として扱っている。しかしヨスト・リープマンが初めてベルリンの地に足を踏み入れたのは,1677年のことである(Schnee, 1953, S. 59)。また両者の名前が異なることを考えると,2人は別人であると思われる。本文中の「リープマン」は,すべてヨスト・リープマン(Jost Liebmann)を指す。ブランデンブルク・プロイセンでヨスト・リープマンは,宮廷商人として貴金属取引に従事していた(Menges, 1985, S. 508-509)。
32) エステルは,フリードリヒ3世の死後,与えられた特権の濫用を理由に逮捕され,罰金を支払わされた。彼女は釈放後,間もなく亡くなってしまった(Redlich, 1951, p. 164)。
33) ちなみにルーベン・エリアス・グンペルツは,この委員会での活動が非難の的となり,国家官職の地位をわずか15ヶ月で失った(Mieck, 2002, S. 27)。
34) グラウマンは,貴金属の調達方法を変更し,金と銀をそれまでのように少しずつ購入するのではなく,一度に大量に購入する契約を結ぶようにした(Redlich, 1951, p. 165)。
35) もっとも当初,プロイセン政府はクレーヴの貨幣鋳造所の経営を,フレンケル家の2人と義理の兄弟に当たるエフライム(Nathan Veitel Heine Ephraim)に担わせ,ケーニヒスベルクとブレスラウ,アウリッヒ(Aurich)の貨幣鋳造所の経営をモーゼス・フレンケルに任せることにしていた。しかしその後,この契約は破棄されることになった(Redlich, 1951, pp. 167-168)。
36) その後,1759年にオーストリアがドレスデンを占領したため,ドレスデンの貨幣鋳造所の経営はできなくなった(Redlich, 1951, p. 171)。
37) ただフリースは,1760年にこの協力関係を解消した(Keuck, 2011, S. 136)。
38) 当初はライプツィヒで鋳造されたものだけだったが,その後,こうした悪貨は総じて「エフライミット(Ephraimit)」と呼ばれるようになった(Mieck, 2002, S. 36, Anm. 135)。七年戦争後の1764年に再び貨幣鋳造業は,国家によって経営されることになった(Redlich, 1951, p. 173)。そして金属の価値に基づいて両替が行われ,こうした悪貨は回収された(Trapp, 1999, S. 90)。
39) ちなみに戦時中,軍隊における穀物需要の高まりや穀物輸送の問題もあり,ベルリンの穀物価格が,平時の5倍まで上昇することになった(Beutin, 1933, S. 215-216)。
40) 1750年代前半のプロイセン王国の貨幣鋳造所に銀を納入していた外国の商人には,キリスト教徒もいた。例えばクレーヴの貨幣鋳造所に銀を納入していた者には,ラインラントのケルンの商人もいた(Redlich,1951, p. 166)。
41) スファラディは,1492年に追放されるまでスペインやポルトガルで生活していたユダヤ教徒とその子孫を指す(市川, 2009, 付録5頁(用語解説))。
42) アシュケナジは,ドイツや東欧からやってきたユダヤ教徒とその子孫を指す(市川, 2009, 付録2頁(用語解説))。
43) スファラディに比べてアシュケナジは貧しかった(Bloom, 1937, p. 210)。そうした中で貧しいアシュケナジがダイヤモンド商のスファラディに雇ってもらうようなこともあった(Bloom, 1937, p. 41)。
44) ただアムステルダムで税金の対象となったグンペルツ家(Ruben Gumpertz)の資産は3,000ギルダーで(Bloom, 1937, p. 210, note 28),スファラディで最も裕福な者の資産が231,000ギルダーであったのと比べると(Bloom, 1937, p. 204, note 7),その資産規模は非常に小さかった。
45) 上級長老の定員は2人であったが,1人しか置かれない場合もあった(Meisl, 1962, S. XXIV)。
46) 上級長老に関する情報を引用した研究(Meisl, 1962)では,上級長老には彼の父モーゼス・レヴィン・グンペルツがなったと記されている。しかし彼は1725年に亡くなっていた(Redlich, 1951, p. 165)。グンペルツ家で上級長老に就いた者は,1749年にその地位を獲得していたことから(Flumenbaum, 2002, p. 38),上級長老になったのは彼の息子のヘルツ・モーゼス・グンペルツであると判断した。
47) 1775〜92年の間,彼はイツィッヒと一緒に上級長老を担っていた(Meisl, 1962, S. XXIV)。