1   石井晋[2020]。

2   平本厚[1994]p23-30。

3   戦前から1960年代にかけての日本の電気機械産業の発展史を国際比較の中で検討した,竹内宏[1966]においても,戦間期までに形成された日本の電機産業について,「東芝,日立,三菱のあとに富士電機もどうにか追従することが可能」であるような,「不完全な独占体制」であったと指摘している。戦後における電機産業の展開までを考えれば,このほかに,日本電気,富士通,松下電器,ソニー,早川電機などに注目する必要があるが,これらについては今後の課題とする。

4   東京芝浦電気株式会社[1977]p38。

5   東京芝浦電気株式会社[1977]p36,下谷政弘[2008]p277-281。

6   東京芝浦電気株式会社[1977]p8。

7   東京芝浦電気株式会社[1977]p334。

8   「東芝 重電の歩み─技術への挑戦─」編集委員会[2007]p18-19。

9   「東芝 重電の歩み─技術への挑戦─」編集委員会[2007]p36-37。

10 詳細は,長谷川信[2006]。

11 竹間茂樹[1960]p97-99。

12 東京芝浦電気株式会社[1977]p334。

13 東京芝浦電気株式会社[1977]p88-89。後述の日立製作所の「中央研究所」とは異なり,事業展開とともに発展した既存の研究所の統合であり,研究開発の事業からの自立性が十分に強調されていたわけではない。

14 東京芝浦電気株式会社[1977]p119。

15 これについては,本稿では,日立製作所の事例に関して,より詳細に分析する。

16 以下,三菱電機については,三菱電機株式会社[1951],三菱電機株式会社社史編纂室[1982],三菱電機株式会社開発本部[1986]による。

17 三菱電機の「中央研究所」についても,東芝と同様,既存の事業とともに発展した研究所の統合という性格が強い。この時期には,多くの企業が「中央研究所」の設立に乗り出し,一種の中央研究所ブームであったが,その内実は,後述の日立の中央研究所とはかなり異なるケースが多い。

18 三菱電機が技術導入コストをどのようにとらえていたかについては,現時点では十分な資料を得られなかったため,今後の課題とする。

19 日立製作所の創業から戦時期までの歴史については,主に,株式会社日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011](以下,日立製作所[2011]と略す)序章・第1章(執筆者は,宇田川勝),日立製作所臨時五十周年事業部社史編纂部編[1960](以下,日立製作所[1960]と略す),宇田川勝[2015]第7章を参照した。

20 この借入資金の用途をめぐって,小平と久原は一時対立し,関係が悪化している。宇田川勝[2015]p213-214。

21 宇田川勝[2015]第2章

22 宇田川勝[2015]p69。

23 理研真空工業は,この地域で産出する天然ガス資源の利用する企業として設立された。名目上,理研グループの一角であり,創立時に理研から一定の指導を受けた。日立製作所茂原工場三十年史編纂委員会[1974]第1篇。

24 株式会社日立製作所日立工場・日立工場50年史編纂委員会[1961](以下,日立工場[1961]と略す)p433。

25 以下,日立工場[1961]p434-436。

26 以下,主に,日立製作所中央研究所[1951],日立製作所中央研究所[1972]による。このうち,日立製作所中央研究所[1951]はあまり知られていない資料であり,興味深い記述が少なくない。

27 日立製作所中央研究所[1951]p31-32

28 日立製作所中央研究所[1972]p15-16。

29 日立製作所中央研究所[1951]p32。

30 馬場粂夫は,発明発見と工業化に至る段階について,1950年に,次のように指摘している。「(1)文献の調査整理及びその誘導推理,(2)基礎研究或いは大きい問題の部分研究,(3)試作綜合的製品或いは中間実験,(4)商品現品での失敗検討及統計推断」の4つがあり,1から4まで順に進むのが正統であるとする。しかし,それには時間がかかるため,日立においては,創業以来約30年の間は,3,4から始め,失敗を重ねることから発見,発明をするという逆の順序で発展してきた,という。しかし,「発明に於ける権道的性急精神は大工業に適せずヤハリ基礎研究,部分研究等確実に窮理闡明を基として正しい順序に改めねばならないとなって或は中央研究所を設置し或は各工場の研究試験部の拡充という方向へ進んだのである」と述べている(馬場粂夫[1950]p35-37)。なお,馬場粂夫自身は,戦後,いったん公職追放となり,1951年に日立製作所顧問として復帰,「落穂拾い」を唱えて,製品事故の失敗経験から徹底して学び,品質向上に役立てる体制の構築の熱心に取り組んだ。

31 日立製作所中央研究所[1951]p2。

32 馬淵浩一[2008]p173-174。および,「学位論文(博士)京都大学工学部 電気電子工学科」一覧表による。

33 馬淵浩一[2008]p171-173,山口惠一郎[2003]。

34 日立製作所中央研究所[1951]p75。

35 電子顕微鏡製作にあたっては,当時の日本の製造技術の未熟さも課題であった。たとえば,電子レンズの精密工作に関して,陰極線を通過させる金属片に直径0.05mmの細孔を空けることが必要であり,このための技術開発はきわめて困難であったが,日立製作所の技師が解決したという(馬淵浩一[2008]p176)。また,電子顕微鏡を安定して稼働させるためには,電圧の安定が必須であったが,そのための真空管による脈動電圧補償装置と電圧変動抑圧方法が日立において完成された。日立における電子顕微鏡の試作については,只野文哉・白神毅[1942]。

36 日立製作所[1999]p109。

37 浜田秀則の回想は,日立製作所中央研究所[1972]p1-2。

38 同時期に,大学,企業等において,立て続けに国産電子顕微鏡が試作されている。笠井完の提唱により,日本学術振興会において電子顕微鏡研究が取り上げられたことが契機となり,早期に成果に結びついたものということができる。

39 電子顕微鏡づくりのための超精密加工が,のちのコンピュータや半導体の開発に貢献したことが,中央研究所の研究者によって指摘されている(日立製作所[1999]p109)。

40 只野文哉・島史郎[1971]p174-176。

41 日本学術振興会の電子顕微鏡研究の分科会をさす。

42 日立製作所中央研究所[1951]p6。

43 これについては,宮田親平[2014],斎藤憲[1987]。

44 日立製作所中央研究所[1972]p4,p21。

45 日立製作所中央研究所[1951]p64。

46 日立製作所中央研究所[1972]p22。

47 日立製作所中央研究所[1951]p42-43。

48 日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p116。

49 日立製作所中央研究所[1972]p6-7,日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p137。浜田秀則の回想によれば,中央研究所の解散方針が,トップマネジメントにおいては一度決まっていたという。

50 日立製作所中央研究所[1951]p42-43。

51 日立製作所中央研究所[1972]p23。

52 日立製作所中央研究所[1951]p43,日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p137。

53 時期は定かでないが,「予算の8割近くが,予算審議なしに電子顕微鏡関係にまわされていた」との回想もある。日立製作所中央研究所[1972]p6-7。

54 日立製作所中央研究所[1951]p76,日立製作所中央研究所[1972]p61。

55 1949年には,改良されたHU-5型が,主に水戸工場で製作,製品化されて,学会等で高く評価された。日立製作所中央研究所[1951]p76。中央研究所の研究開発のうち,創設時の中核であった電子顕微鏡は,前述のように早期に事業化され,また,中央研究所における半導体等各種研究のベースとなった。1950年代後半には,万国博覧会で日立製作所の電子顕微鏡がグランプリを受賞,日立製作所が開発した高分解能電子レンズに関する特許が世界各国で利用されるに至るなど,世界でも最先端となった。

56 日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p137。

57 鳥山四男は,東北帝国大学電気工学科出身で,北海道大学の電気工学科の立ち上げに関わった。1944年8月に日立製作所中央研究所に移り,電子顕微鏡や電力ケーブルの開発に取り組んだ。1947年から1951年まで日立中央研究の所長を務め,その後東北大学電気工学科教授となった。堺孝夫[1982]。

58 日立製作所中央研究所[1951]の「序」。

59 菊田多利男は,金属学を専門とし,東北帝国大学金属材料研究所から日本製鋼所を経て,1923年に戸畑鋳物(のち国産工業)に入社し,国産工業が日立製作所と合併した後,安来工場長に就任し,1951年11月に中央研究所長となった。のちに,日立製作所武蔵工場長,日立化工社長などを務めるとともに,日本金属学会会長にもなっている。中央研究所ではその後,1959年4月には,第4代所長として東京大学の星合正治が招かれた。星合は,1935年に電気工学の教授となり,早くから電子工学の重要性を唱え,その発展に尽くしてきた。日立中央研究所就任後の1961年,研究所内の発表会で「お手本のある研究は採り上げまい。プロジェクト中心に協力しよう。タイミングよく成果をあげよう」との3点を強調し,のちに「三原則」と呼ばれ,日立中央研究所研究員の座右の銘とされた。日立製作所中央研究所[1972]p32-33,藤岡周平[1959]。

60 日立製作所中央研究所[1972]p24-25。

61 日立製作所中央研究所[1972]p29。

62 この間,中央研究所では原子力関連の研究も進められた。1960年代になると,川崎市王禅寺に東京原子力産業研究所に日立教育訓練用原子炉が建設され,原子力研究の中心は王禅寺に移った。日立製作所中央研究所[1972]p26。

63 1950年代から1960年代における半導体の研究開発については,本稿では若干触れるにとどめ,別の機会に研究を進める予定である。

64 日立製作所中央研究所[1972]p51。

65 日立製作所中央研究所[1972]p51,二木久夫[1954]。

66 日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p160。中央研究所の初期の半導体研究を担った伴野正実によれば,「昭和27年頃,中研でトランジスタの研究という題目を掲げようとしたところ,一部の幹部から重電機会社でそんな小さな部品の研究をしてもしょうがないとの意見が出て,それではというので特殊半導体の研究という題目で,トランジスタの調査,研究に着手した・・・(中略)・・・トランジスタの研究として正式に題目を掲げたのは昭和28年であった」という。西澤潤一・大内淳義[1993]p234。なお,本稿の第2表によれば,「特殊半導体」の研究は1950年に重要研究の一つとなっている。

67 日立製作所中央研究所[1972]p51-52。

68 WE社との契約は,特許の実施権のみ。

69 1957年に日立中央研究所に入り半導体開発に携わった大野稔は,当時のトランジスタ生産は「すべてRCAその他の米国の先進メーカーの導入技術によるものであり,私が最初に担当した仕事も,RCAから送られてくるSN(スタンダード・ノティス)といわれていた製造仕様書の翻訳とか,インチをセンチに換算して図面を書き直すような仕事ばかりだった。日立の中研といえば日本でも屈指の研究所であり,ここですらこんな状況とは一体どうしたことだろうと,日米の技術の差に大変に驚いたというのが正直なところであった」と述べている。西澤潤一・大内淳義[1993]p216。

70 1960年代には,単体トランジスタの研究開発主体は武蔵工場に移り,中央研究所においては,材料プロセスの研究,超高周波デバイス,IC構造,素子特性の研究に移行した。日立製作所中央研究所[1972]p53。

71 大野稔・鈴木茂・桃井敏光・大橋伸一・久保征治[1965],西澤潤一・大内淳義[1993]p213-228,相田洋[1995]p22-33。

72 ビジネス・ジャーナリストの中川靖造は,この遅れについて,「MOS技術そのものに若干問題があったこともあるが,関連部門の協力が得られなかったことである」と述べており,当時の研究開発体制の課題を示唆している。中川靖造[1985]11。

73 のちの時代におけるIC開発に関して,金容度[2006]において,「企業間のICの共同開発では,基礎技術及び先端技術の開発が後回しにされる可能性が高く,これが一部の基礎技術や先端技術における日本企業の弱みに繋がった可能性が高い」と指摘されている(p233)。これに関連して,筆者は,現時点では,日本の電機メーカーの研究開発体制に関して,1950年代までの形成過程において,すでに基礎技術及び先端技術の開発が後回しにされる傾向が強かったことから,その弱点を補完するために共同開発が選好されたのではないかと考えている。また,共同開発が中心となったことで,この傾向はますます強化されたのではないかと思われる。

74 日本生産性本部[1958]。

75 只野文哉・島史朗[1971]p52-56。

76 只野文哉・島史朗[1971]p63-65。

77 只野文哉・島史朗[1971]p169-174。

78 これについては,西野肇[2006]が参考になる。

79 通商産業省公益事業局公益事業調査課[1961]p117。

80 『日立評論』1953年別冊4号(火力発電機器特集号)には,通産省官僚(三田村正二郎)によって,「電力需要の増加に対応して,火力発電所の演じている役割は年々重きを加えてきている。そのため火力増強の傾向も,従来の比較的短期即効的な供給力増強方策から,漸次高能率大容量のものの新増設へと移行しつつある」と記されている。三田村正二郎[1953]。

81 日立製作所[1956]p1。

82 日立製作所[1957]緒言。

83 柴田万寿太郎[1956]。

84 大容量火力発電をめぐる電機メーカーの技術導入については,長谷川信[2006]が参考になる。

85 以下,戦時期までのボイラー・タービンについては,日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p60-61,日立製作所日立工場・日立工場50年史編纂委員会[1961]p160-174。

86 石川島造船所のタービンは,1936年に芝浦製作所と共同出資で新設された石川島芝浦タービンに移管され,東芝の火力発電部門を担うこととなる。

87 日立製作所日立工場・日立工場50年史編纂委員会[1961]p169。

88 通商産業省公益事業局公益事業調査課[1961]p123。

89 東京電力社史編集委員会[1983]p326-334。

90 通商産業省公益事業局公益事業調査課[1961]p126。

91 日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p136。原資料は,日立製作所「取締役会資料」による。

92 日立製作所「有価証券報告書」(1952年度下期)による。

93 GEは,戦前以来,東芝と契約していたが,IGEの独占禁止法違反が問題となっていたことから,戦後,包括的な技術提携契約を結ぶのが困難となり,個別製品ごとに技術提携契約を結んでいた。独占禁止法を背景に,GEは日立との技術提携に応ずることとなった。

94 日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p136。原資料は,日立製作所「取締役会資料」による。

95 日立製作所茂原工場三十年史編纂委員会[1974]p33-34,日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p120。

96 日立製作所茂原工場三十年史編纂委員会[1974]p91-92,原資料は,日立製作所「日立社報」(1949年10月1日)。

97 日立製作所茂原工場三十年史編纂委員会[1974]p87-99。

98 日立製作所「有価証券報告書」(1952年度下期)による。

99 日立製作所「予算会議資料」(1958年下期)による。

100 1952年度の茂原工場製品の売上高に対しては,10%以上であったと試算されている。日立製作所茂原工場三十年史編纂委員会[1974]p91。

101 日立製作所日立工場・日立工場50年史編纂委員会[1961]p164-176。

102 以下,日立製作所茂原工場三十年史編纂委員会[1974]p103-111,日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p159-160。

103 内訳は,14型300個270万円,17型200個300万円。当時の日本におけるテレビセット生産は月産2000台程度であったから,かなりの大型受注といえる。日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p159。

104 日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p146-147,日立水力75周年記念行事実行委員会[1987]。

105 日立製作所茂原工場三十年史編纂委員会[1974]p103-104,「独算制」については,日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p132-133。

106 日立製作所「予算会議資料」(1958年度下期)。

107 日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p164-165等。

108 石井晋[2011]p395-396。日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p141-142。

109 竹内宏[1966]p231-232。

110 こうした事業展開は,東芝も行っている。

111 この時期,東芝や三菱電機も本格的に家電への進出を進めている。東芝は日立よりも若干規模が小さく,三菱電機はかなり小規模になるが,日立と同様に,総合電機メーカーと呼ばれるようになった。本稿では,日立についてしか詳細な検討を行っていないが,おそらく以下の議論は,東芝や三菱電機ついてもあてはまるのではないかと推測している。

112 日立製作所茂原工場三十年史編纂委員会[1974]p95-99。