227頁】

 

現代の「日本的経営」論(2)

 

手塚 公登・小山 明宏

 

日本の企業経営の特色が最初に指摘され,広く世に知れ渡るきっかけとなったのは,前稿の手塚・小山(2021)で触れたように,アベグレンの『日本の経営』(1958)の出版であった。そこでは,特に雇用制度あるいは雇用慣行について,英米企業とは大きく異なっていることを,わが国の製造企業の工場を中心とした現場観察に基づいて,明らかにされた。端的にいうと,わが国の企業の大きな特徴は,終身雇用1),年功序列,企業内組合のいわゆる3種の神器ともいうべき雇用システムに求められた。

教科書的な市場経済の効率性を達成するためには,生産に必要な生産要素を需給に応じて,効率的な価格体系のもとに組み替えることが必要であり,それはカネ,モノだけでなくヒトについても要求される。市場での価格機構を通じた機動的な資源配分が望ましい。その観点からすれば,日本の雇用の在り方は,外部の労働市場と遮断された形で行われた領域が大きく,効率的であるとは思われなかった。

この意味で経済学の主流からすれば異端とも思われる仕組みが日本的経営の一つの重要な柱をなしていたのであるが,それをどう評価するか,様々な議論が展開されてきた。そうした仕組みを封建的で,遅れたものとみなす立場もあったが,戦後の日本の高度経済成長の実現,日本企業の高パフォーマンスからその優れた面を強調する議論が次第に優勢となってきた。そして,それはいつ頃に形成されたのか,その源流はどこにあるのか,などが話題となった。さらに日本的経営の独自性が雇用面だけではなく,生産や財務,ガバナンスなど多様な側面で見出せることが分かり2),その意義や本質を究明する研究が積み重ねられてきた。

日本的経営がいつ頃形成されたかに関しては,戦時源流説や戦後発展説,あるいはその起源は古く江戸時代に遡ることができるといった諸説あり3),現時点で断定できるものではないが,日本社会の伝統や日本人の集団意識,経営者の経営理念や方針,政府の政策,社会・経済環境や技術の変化など,色々な要因が相まって経時的に形成されてきたといえよう。日本経済の近代化を1600年から1970年までの長いスパンで考察した中林(2013)は,熟練の特殊性の高度化や深化と強くリンクした長期雇用を保障する企業組織と不活発な中途採用市場からなる労働市場の形成・確立を1970年代とし,日本的経営の成立を比較的近年であるとみている。それまでは我が国の労働市場にはかなりの流動性があったとの認識が示されている。

日本的経営の起源をどこまで遡れるかはともかくとして,戦後において,英米とは異なった,新古典派経済学の世界で想定されるのとは,異なる目標や経営方式を採用した企業がわが国の 228頁】 スタンダードであった。そうした事態が生起した理由はどこにあるのか。これを考察することが本稿の課題の一つである。その大きな理由として,筆者らは日本と英米との企業観の相違を挙げることができると考える。企業観とは,企業は誰のものか,誰のために存在するのか,どうあるべきかといった問題にかかわっており,経営目標や企業行動に強い影響を及ぼすのである。

 

1.企業は誰のものか・・・様々な主権論の展開

企業は誰のものか。こうした問いが発生するのは,歴史的な経緯からすると,企業の大規模化に伴い,株式会社制度が広範に採用されたことにあった。所有者・投資家と経営者が分離したことであった。いわゆる所有と経営の分離という現象が発生した。さらに,株式の分散が一層進むにつれて,会社を支配する主体が所有者でなくなるという問題も浮かび上がってきた。本来的には,企業は誰のものかと言えば,所有している人のものだということになろう。法律上の規定によれば,所有権によって,その財産を利用し,そこから得られる収益を獲得し,自由に処分することができる。所有者には他者の介入を受けずに,排他的にそうした権利を行使することができる。その意味で,当該財に対して主権を有している。つまり,所有者が主権者であるということになる。

しかし,バーリー・ミーンズ(1932)がアメリカの巨大企業の実証研究で明らかにしたように,1920年代後半には,株式の分散によって,所有者たる株主が経営に関与することが難しくなっていた。また取締役を選任するという権力を株主が実質的に行使できなくなった企業の割合がかなり多いということから,所有者による支配についても疑問を投げかけたのである。つまり,所有と経営と支配が分離するという現象が起きた。こうした株式会社の構造的変化が,企業の目標や目的は何かという問題を生起させたのである。

この問題を考察するにあたって,多様な利害関係者から構成される株式会社はどのような構造として捉えることができるのか,についてまず検討しておこう。

 

1.1 法人の二階建て構造

所有権理論に基づけば,会社や企業の所有者が主権者であるとの考え方は自然である。確かに個人商店のような会社組織でない企業の場合には,その企業に出資し,設立した人が当該企業の商品・設備をすべて自由に処分できる権限を持ち,まさに主権者である。ところが,法人として組織された株式会社については,そうではない。株主がプリンシパルで,経営者はエージェントであると,所有権理論では想定されるが,この場合には,岩井(2020)が指摘するように,株主は会社を所有するといっても,株式に体現された持分たる権利についてだけであり,会社の設備や商品を勝手に使ったり,処分することはできない。株式会社は法人として設立されるので,会社自体が権利義務の主体となる。法人化の意義は,経済的な取引を円滑に効率的に進めるための制度的工夫であるが,それによって様々な問題も発生することになった。同じ所有者といっても,その権利の内実は個人企業と会社では大きく異なるのである。

株式会社の場合,企業は株主のものであると必ずしも言えない。会社は普通の財産やモノとは異なっていて,所有者のものであると単純に言い切れないのである。岩井によると,個人企業が一階建て構造であるのに対し,株式会社は二階建ての構造をしている(図表1,2,参照)。 229頁】 株式会社は株主に所有されているという意味でモノであるという側面と自ら自律的に(経営者を介して)行動するという意味でヒトであるという側面を有する。これは,法学の分野でかつて論争となった法人擬制説と法人実在説に関係するが,そのいずれが正しいというよりも実は両方の側面をもつことを明らかにしているのである。こうした点を踏まえて,どのような主権論が展開されてきたのか見ていこう。

 

1.2 企業観の分類

企業をどうとらえるかという問いに対して,加護野ら(2010)は,図表3に示されるような,会社観を提示している。新古典派経済学の企業理論では,株主用具観をとっており,企業の目的は利潤最大化,つまり株主価値の最大化にあるとされている。

230頁】 この株主用具観は英米企業で一般的で主流の考え方である。しかし,それは企業の所有者・出資者と経営者が一致している小規模な企業組織には当てはまるが,バーリー・ミーンズの指摘したような株式の分散化が進むと,必ずしも現実を反映しているとは言えなくなる。事実,現在は株主第一主義の権化のごときアメリカにおいても経営者革命がおこり,企業は利潤ではなく,売上高や成長率を目標としているという議論も1960年代には展開された時期もある。

しかしながら,その後,株主反革命と呼ばれる事態が生じ,証券市場でM&A(合併・買収)が活発化する1980年代を経て,本来的に企業,株式会社は株主の利益を第一に実現すべきであるとの見方が主流となって,現在に続いていると思われる。

これに対して,会社制度観や多元的用具観は,企業は株主だけのものではなく,その存続や成長は多様な利害関係者の貢献から成り立っているのであり,会社はすべての関係者の利害に配慮することにより成り立つ,一つの社会的制度であると認識すべきであると主張する。これは経営学の分野では,企業を株主の利害や権利を中心として考えるシェアホルダー説に対して,広く利害関係者との関係を重視するステークホルダー説として提唱されているものであり,社会環境や自然環境も含めてあらゆる利害関係者への企業の責任を重視し,社会との調和も強調する。戦後の日本企業の多くの経営者の考え方は,この立場に拠るとされており,とりわけ従業員の雇用の確保や福祉を重視してきたといわれる。なぜこのような経営の哲学や理念をもつに至ったかについては,様々な理由が考えられるが,わが国の集団主義的志向,あるいは伝統的なイエ社会の意識を反映しているとの見方もある。

いずれにしろ,日本的経営がアングロサクソン流の経営と異なるのは,基本的に企業観が異なる点に求められる。どちらの企業観が絶対的に正しいとか,あるいは優越しているとは言えないと思われる。というのも,それぞれの国の歴史や文化に適応していなくては,長期にわたっての企業の存続は難しいと思われるからである。もちろん,企業は経済的な組織であり,製品市場をはじめとして多くの市場で競争しているので,効率的でなくてはならない。どんな経営の仕方が効率的であるかは,技術環境や市場環境,社会環境の変化とともに変わることは間違いない。そのため,ある時期に優れたとされる経営方法も時代とともに見直す必要も生じてくる場合もあろう。

日本的経営もまさに今,その時期にさしかかっているのかもしれない。日本的経営の特質とはどんな点にあるのか,以下わが国代表する二人の経営学者の議論を検討していこう。まず,この日本的経営について,具体的な制度にとどまらず,その原理にまで立ち入って考察し,1980年代後半にその普遍性を強く唱導した論者として,伊丹敬之(1987)を挙げることができる。

 

1.3 伊丹の人本主義

人本主義とは,日本企業の特徴あるいは本質を表す概念として伊丹が1980年代後半に打ち出したユニークな概念である。この概念は,1980年代のわが国の経済や企業の高いパフォーマンスを説明するために考案されたともいえる。その背景として,当時,アメリカから我が国の多額の貿易黒字や自動車産業に典型的に見られた系列を通じた排他的な取引慣行などから我が国の市場の閉鎖性を指摘され,外部からみた不公正な取引の在り方,ないしは資本主義経済の主流とは異なる経済運営や企業経営の在り方に疑念が呈せられていたことがある。

こうした疑問に対して,人本主義で主張されたことは,わが国ではアングロサクソン流の資本,カネ,すなわち株主の利害を中心とした企業システムとは異なった経営が行われており, 231頁】 それは英米からみればやや異端であるかもしれないが,日本経済の発展段階や文化や風土,歴史を前提とすれば合理的で,効率的であると論じている。さらに,一歩進んで高度な資本主義には,実は人本主義の考え方こそが先進的であるとする主張も込められていた。企業の生産活動にとって必須な生産要素として,当然,資金が必要であり,カネを拠出してくれる投資家に報いなければならないが,一方においてヒト,従業員(経営者を含む)の貢献がなければ成果を上げることができない。しかも,企業活動の成果は不確実であり,そのリスクを負う経済主体が必要であるが,それを担うのは投資家だけではない。株式会社であれば,株主は有限責任で,かつ証券市場において株式の売買がいつでも可能であれば,そのリスクは極端に高いとも言えない。企業業績が悪ければ,職を失うこともある従業員も投資家と同等の,あるいはそれ以上のリスクを負っている。

そうしてみると,企業と長いかかわりを持つ従業員が主体となり,その人たちに経営を行う権限を与えるのが正当であるとの見方も成り立つのであり,それを実践して来たのが日本企業だというわけであり,それは決して異端であったり,不公正な経営システムではなく,むしろ情報や知識などの無形資産,そしてそれを体現する人的資産の重要性が増しつつある資本主義市場経済における先進的な経営システムと評価できる。人本主義は伊丹の造語であり,「資本主義がカネを経済活動のもっとも本源的かつ希少な資源と考え,その資源の提供者を中心に企業システムが作られるものと考えるのに対し,人本主義はヒトが経済活動のもっとも本源的かつ希少な資源であることを強調し,その資源の提供者たちのネットワークのあり方に企業システムの編成のあり方の基本」4)を求めるのであると定義している。企業の主権者は,株主よりも長期にわたって企業にコミットする従業員の方こそ主権者にふさわしいし,そうすべきであるということになる。

伊丹は,企業システムの原理として,企業は誰のものであるか(企業の概念),誰が何を負担し,どんな分配を受けるか(シェアリングの概念),企業同士がどうつながるか(市場の概念),という3つが基本的に重要な概念であるとしている。具体的に日本企業の経営の仕組みの特徴に,従業員主権,分散シェアリング,組織的市場,を挙げている。そこでは,情報と権限の分散が意識的に図られた,フラットな体制が形成され,それは極めて合理的かつ効率的であると主張している。それらが機能するキーワードとして,参加,協力,長期的視野,情報効率が挙げられ,企業は従業員のものである,あるいはあるべきであるという考え方が鮮明に出ている。日本経済・企業の経営や市場の在り方は,英米流の市場システムや経営と異なるからと言って,決して非合理ではないし,封建的でもないとする。

しかし,この議論は1990年代以降の日本経済の低迷や日本企業の経営不振,不祥事の多発によって厳しく批判されることになる。そもそも日本企業はヒトを大事にしているといえるか。バブル崩壊時における中高年の処遇に見られる終身雇用や年功序列制度の崩壊を鑑みると,とても従業員に主権があるとする人本主義にそぐわない事態が起きているのではないか,というわけである5)

また,伊丹も注意を促してはいるが,人本主義のデメリットである,その閉鎖性,経済主体 232頁】 間のしがらみ,といった問題は深刻である。伊丹は制度=環境×原理という図式を用い,日本的経営の原理は普遍性を持つことを主張し,従って,安易にそれ捨てるべきでないというが,それは現実的にそして将来的にどのような制度を構築することで可能となるのか,多角的な検討が必要であろう。

 

1.4 加護野の長期連帯株主

近年のコーポレートガバナンス改革について極めて批判的な論者の一人として加護野忠男を挙げることできる。加護野(2014)は1990年代後半から始まったいわゆる英米流の株主第一主義を掲げ,それを目標とする統治改革は,伝統的な我が国の企業の経営の良さを否定する間違ったものであると断じている。

日本的経営の良さと何か。彼は,長期的な視点から企業経営を展開し,適度なリスクをとり,安定的な成長の実現と幅広い利害関係者に配慮する点に求められるとしている。部品や原材料の取引であれ,労働の供給であれ,資金の拠出であれ,長期に企業と関わる関係者が大切であり,そこで形成される信頼を重視すべきである。この考え方は長期的な観点からの伝統的な日本的経営の在り方を評価するものであるが,その際,伊丹とは異なって,ヒトの役割に焦点を当てた人本主義よりも,もう少し広く利害関係者全体に視野を広げている。企業に貢献する投資家,従業員,サプライヤー等の幅広い利害関係者の役割を重視するところに特徴がある。長期的な企業の成長と発展に貢献してくれる能力と意欲を有し,利害関係を共有しながら,経営者と協働して企業価値の最大化の実現に有用な働きをする投資家(株主)としてふさわしい利害関係者とは誰か。それを求めて加護野は議論を展開している。

その候補の一つに従業員が挙げられている6)。株式持ち合いやマーケット・シェアの重視,終身雇用,年功序列的な給与体系などの日本的な経営慣行は,いずれも英米流の経営システムとは相いれないないが,それぞれ合理的側面を有する。雇用面でいえば,年功序列的な制度の合理性は,「見えざる投資」という概念で説明できるという7)。若いときは生産性よりも低い報酬であるが,それを後に中年になってから生産性を上回る給与で報いる(図表4)。そうしたシステムによって,企業特殊的な技能の蓄積が可能となるという意味で,長期的な企業の成長を図る観点からは合理的なのである。そうした観点からは決して非効率ではないし,従業員を搾取しているわけではない。長期的な視点で会社の発展と従業員の福祉を両立させてきたのである。この意味で従業員は長期に会社と連帯する資格を有していると考えられる。

株式持ち合いについても,短期的な視点で,配当や利益還元を要求する株主の期待に応えることは,決して長期的な会社の発展や戦略の遂行にとって好ましいものではない。仮に会社は株主のものであったとしても,短期的な視野にとらわれている株主の意向に経営者が強く左右されることは,従業員をはじめとする他の利害関係者にとっては望ましくない。そうした悪影響を避けるための方法が友好関係にある企業同士が株式を相互に持ち合うことであった。当初,相互持合いは1960年代に外国資本の買収から日本企業を防衛する手段として採用されたものであったが,日本企業の長期的な視点からの経営に貢献したものとして評価できるとしてい

233頁】

る。それにも関わらず,昨今のコーポレートガバナンス改革はその良い部分を消し去ることにつながっているという8)

しかし,この主張に対しては,例えば,株式持ち合いは,実質的な資本の増強につながらず,また企業間競争を阻害するする可能性があり,独占禁止法上の問題を抱えている。会社法上は,持合いによって一般株主の権利が,特に少数株主の権利が無視されがちであるという問題がある。

その意味で,健全なあるいは本来的に予定されている自由で公正な市場機能の発揮を阻止する恐れがあるというデメリットを踏まえたうえで,日本的な経営慣行のメリットを慎重に評価しなければならないだろう。そうした点にも留意して,日本的経営の良さを維持するためには,今後は長期に企業に貢献する投資家を経営者が主体的に選別することが必要となると加護野は主張する。そうした投資家を「長期連帯株主」と呼んでいる。彼は長期連帯株主の資格を有するかどうかは,会社が経営危機に陥った時の対応で判断できるとする9)。その際,株主は次のカテゴリーに分けられる。

@ 適当な価格で株を売って,より有利だと思われる他の投資機会に投資する

A 経営の再生ができるまで株式を持ち続ける

B 株式を持ち続けるだけでなく,経営の再生に必要な支援を与える。

このうちAやBの株主を「連帯する株主」と呼ぶことができると述べている。

株主は企業を選ぶが,企業の側も株主を選ぶ権利があるというわけである。この候補には,銀行(メインバンク),持合いグループ企業,長期継続的な取引相手,前述した従業員,親会社,ファミリーを挙げている。長期的に経営に関心をもち,十分な情報をもち,利害を共有する相手がふさわしい。長期連帯株主を意識することによって,実はガバナンスの面でも,他律ではなく,自律的な統治が可能となる。経営者性悪説あるいは機会主義的な行動を前提とした英米流の牽制メカニズム一辺倒に依存しないで済む余地が出てくる。そこから,道徳的にも優れた日本的経営の良さが生まれる。

もちろん長期に株式をもつことが企業同士のなれ合いや甘え,狭隘な仲間意識につながることは許されない。そのためには,株式の所有割合には一定の制限が設けられるべきケースもあり得,公正で円滑な市場機能の発揮を阻害してはならないのであるが,短期的な視野をもつ株 234頁】 主の意向や行動にあまりに大きな影響を受けることは避けなければならないのである。そのための適切なガバナンス体制を構築することがこれからの日本企業,政策当局の課題となろう。

 

1.5 複合主権論

さて,伊丹と加護野の議論を中心に新古典派経済学における企業観と対比しながら,企業の主権者は誰か,そして日本的経営の特徴やそのメリット・デメリットを考察してきた。だが,実は宍戸(1993)が論じたように,企業が誰のものかという問いについての論争は,制度論,実態論,規範論を巡って繰り広げられてきたが,これはやや不毛であり,形式的には,制度論からすれば株主のものであることは間違いない。それは「株主が経営者を選ぶ旨の規定,および,経営者は株主の利益のために会社を経営しなくてはならない旨の規定」に求められるといってよいという。しかしだからといって,その権利は無制限なものではなく,実態論として健全な企業活動の遂行には経営権の安定は必要である。現実的に良き経営を実現するには,企業活動に関わる経営者を中心とした利害関係者間で互いにその活動をどのようにモニターするかに関わる制度が問題である。その意味では,誰が主権者であるかはそれほど重要ではなく,株主の権利は最低限を確保した上で,利害関係者が交渉する場である企業をどう設計するかが問題となる。だから,宍戸が述べているように,実質的には,企業はいわば複合主権ということになるかもしれない。

宍戸(2011)は,企業の目的は,企業価値を最大化することにあり,そのためには物的資本,労働資本を拠出する,企業参加者にいかにインセンティブを与えるかが重要であるという観点から企業をとらえている。それぞれの参加者の動機づけ交渉の場として企業を捉え,交渉ゲームが展開される場として表現している。法制度はこの交渉の場の枠組みを形づけるものであるとし,いくつかのタイプを提示している。これは交渉ゲームの均衡解として企業を捉える,青木(1995)の進化モデルに基づく企業観と類似している。結果的にどのような形の企業となるかは,企業を取り巻く環境や法制度,国によって異なる文化や歴史に依存することになる。日本的経営システムと英米流の経営システムは,いずれもそれらの違いを反映しており,ある種の経路依存性に従っているのが現実であり,それぞれが合理性をもち,慣性に従って動いていると考えられるのであるが,環境の重大な変化によって,企業の統治システムの改善が求められる場合に,法制度を如何に改革し,整備していくか,も大きな課題となる。

 

1.6 小括

以上,日本的経営を巡るいくつかの議論をサーベイしてきた。日本的経営の特質は雇用制度で語られることが多いが,その背後には独特の企業観があると考えられるのである。しかし,近年,3種の神器の一角をなす年功序列制は少子高齢化やグローバル化の進展により,崩壊しつつあるとみられる。アングロサクソン流の経営とのハイブリッド化が進み,市場型と組織型の融合が試みられ,雇用システムに関しては,雇用の安定化と業績連動型賃金の両立が模索されている。また,欧米流のジョブ型雇用と日本流のメンバーシップ型雇用の併存が課題となっている。

一方において,近年のイギリス,アメリカの動きで注目すべき点に,株主資本主義の行き過ぎの見直しの動きがみられることである10)。こうした動きが両者の収斂につながるのかどうか 235頁】 見方が分かれるが,前項の最後で触れたように,制度の経路依存性や補完性を考慮すると簡単に同一の制度に収斂するとは言えないように思われる。それぞれの良さと欠点を修正して,それぞれの合理性を追求することが現実的であろう。

日本的経営の良さが依然としてあるとしても,曖昧な形で本来的に法が要請している市場機能を阻害するような方法を駆使することは望ましくない。筆者らはステークホルダー型の企業が,ESG投資が叫ばれる中で今後主流となると考えるが,様々な企業行動は透明性を持った形で展開され,第3者にも十分説明できるような経営の在り方を構想すべきであろう。

会社は法制度的には,第一義的には株主のものであり,主権者であろう。ただし,前述の岩井の法人二階建て構造の議論が説得的に示すように,単純に株主だけのものではなく,2重の性質を帯びているので,その社会的性格からして,利害関係者のバランスを慎重に考慮して経営されるべきである。

その観点からすれば,企業は誰のものでもなく一個の制度としてみなすべきであるというのが筆者らの立場であるが,ただし,その際,中心的立場にあるのは,株式会社である限り,株主であるが,企業価値の最大化のためには,利害関係者に対する適切な(法的,社会的,経済的)関心が寄せられなければならない。経営者がその役割を担うことになるが,そこで要求されるのは,適切なチェック体制と経営者の自律性に基づく道徳的良心であると考えられる11)。経営者性悪説にも性善説にも一方的に傾かない,法律・ルールの制定と運用が模索されなければならない。日本的経営には合理的である側面を有することは間違いないが,グローバルな環境下では,如何に海外の投資家に対してその合理性を説明するかも重要であり,そのためには内部出身者で固められた取締役会などは認められないだろう。客観的な外部の監視のシステム,内部統制の仕組みの構築が欠かせない。加護野(2014)は日本の経営者にとって厳しい内部統制制度はむしろ有害であると主張するが,必ずしもそうは言えないと思われる。経営者をいかにコントロールするか。そして経営者の行動をどう導くかについて,きちんとした手順を構築し,それに従うことは当然であり,それは煩わしいし,余分な費用がかかるとしてもやらなければいけない。客観的なルールや制度の構築は,日本的経営の新しい展開を構想するにあたって不可欠であると思われる。

中島(1990)によると,人本主義の主張の中には,法律やルールに対するひそやかな抵抗を賛美するかのような記述がみられ,それを強く批判している。日本的な,一見するとグローバルな視点から見て異質な慣行や仕組みが合理的で効率的であると主張するなら,それは表立って堂々と提示されるべき性質のものでなくてはならないであろう。

 

2.日本企業は経営目標をどう捉えていたか・・・80年代以降の調査

前節では,企業は誰のものか,誰のものであるべきか,企業の目的は何か,等に関する問題を論じてきたが,実際に企業経営者は企業の主権者や経営目標について,どのように捉えていたのか,いくつかの実態調査を紹介し,どのような変遷が見られたのか検討していこう。

236頁】

2.1 1980年代の調査

1970年代後半から1980年代にかけて,日本経済・企業は最盛期を迎えることになるが,この時期に日米企業の経営に関する本格的な調査が野中郁次郎,加護野忠男,榊原清則,奥村昭博の4人の気鋭の経営学者によって実施された。

 

1980年に行われたこの調査では12),米国企業の目標は投資収益率と株価の上昇にほぼ限定されており,わが国企業では市場占有率が最も優先されている。株価の上昇を重視する比率は極めて低く,米国企業とは対照的である。株主への配慮はほぼ見られないともいえる。市場占有率を重視するのは企業の成長と安定を大事にし,ひいては従業員の雇用を守る意識を反映しているとも考えられる。

 

次に,日本経済新聞社が1987年に出版した書籍『会社は誰のものか』の中に,163社(回答113社)を対象とした社長アンケート調査がある。企業経営をする場合,「何が重要と考えていますか」という問いに対する回答が収載されている。

237頁】

この結果は,予想外に従業員の比率は少ないが,消費者と合わせると50%弱であり,株主以外のステークホルダー重視の姿勢を示している。一方において株主はかなり軽視されているといえよう。

 

続いて,1988年の経済同友会の『企業白書』に掲載されたアンケート調査を取り上げよう。この調査は,日本,アメリカ,ヨーロッパの企業を対象に,重視する経営目標を聞いたものである。図表7にあるように,アメリカ企業では株主還元を強く意識しているのに対し,日本,ヨーロッパではあまり重視されていないことがわかる。どの国でも,従業員への施策はそれほど重視されていない。日本企業でも低い数値であるのは,やや意外であるが,それでもわが国企業は比較的高い比率を示している。また社会的イメージ向上も重視している傾向が見て取れる。

238頁】

2.2 1990年代の調査

次に,1990年代に入ってからの調査を紹介していこう。

日本経済新聞社は,1990年の4月と7月に「会社は誰のものか」に関する調査結果を発表している。4月の調査は,課長100人を対象として行われたもので,7月に発表された調査は社長100人を対象としている。

それぞれの調査で,「会社は誰のものであるべきか」,現実に「誰のものであるか」を聞いている(複数回答,3つまで)。

いずれの調査でも「会社は誰のものであるべきか」については,株主と従業員という回答が拮抗しており,株主ものであるという法制度上の規定も広く受け入れられているようである。しかし,現実に誰のものであるかについては,従業員の比率が高く,課長調査では経営者のものであるという回答が目立つ。経営者自身は意識していなくとも,課長の目から見ると,会社は株主ではなく,経営者のもののようである。

また,会社は社会全体の公器であるべきと捉える,いわゆる企業制度観と合致する回答も多いが,現実には我が国においても実態面では必ずしもそうではないようである。

239頁】

次に,吉森賢(1994)には,アメリカ,ドイツ,フランス,イギリス,日本企業を対象とした調査結果が掲載されている。「企業は誰のために存在するか」という問いについては,日本とアメリカは極めて対照的で,アメリカは圧倒的に株主のためが多く,日本は非常に少なく,「利害関係者のため」とする回答の比率は逆である。ドイツとフランスはどちらかというと日本に近く,「全利害関係者」のためという回答が多く,イギリスはアメリカと似ている。株主一元観は確かにアングロサクソン国に妥当するようである(図表10)。

また,経営状況が悪化した場合,従業員の雇用の維持を優先するか,株主への配当を優先するかに関しては,上述の会社は誰のために存在するかの考え方を反映して,日本,フランス,ドイツは雇用優先の比率高く,日本では圧倒的である。これに対して,アメリカ,イギリスは配当優先の比率が高い(図表11)。

240頁】

続いて,図表12は,榊原(1995)の重要な経営目標に関する日米欧企業のインタビュー調査の結果を示している。各国の企業とも利益の増大と事業の成長を重視しているが,日本では雇用の安定,アメリカでは株主への還元の最大化を挙げた企業が目立つ。

図表13は,重要な利害関係者であるが,日本以外の国では,株主を最も重視しているのに対して,日本は従業員と顧客重視の割合が高いことが特徴的である。ドイツやフランスでは金融機関を重要な利害関係者とする割合が高い。

241頁】

2.3 2000年代以降の調査

バブル崩壊以降,日本経済は1990年代を通じて不況に苦しめられ,わが国企業の業績も低迷を続けた。この間に,大企業の不祥事も多発し,日本型の経済,企業システムの改革が強く迫られた。企業に関しては,ガバナンス体制の見直し,アメリカ流の統治システムの導入が図られることになった。また,証券市場では敵対的買収も散見されるようになった。

こうした中,日本経済新聞社が2005年3月13日に行った国内の主要企業の社長(34社),ファンドマネージャーなどの市場関係者(29社)を対象とした緊急アンケート調査13)によると,「会社は誰のものか」という問いに,経営者も市場関係者も9割が株主のものと回答している。経営者の回答では,従業員,取引先などの利害関係者の比率も高いが,調査対象や手法は異なるが,1990年の調査に比較して株主重視の傾向が進んでいるようにみられる。

最後に,宮本(2014)に掲載された調査に触れておこう。そこには,日本労働政策研究・研修機構が2004年と2008年に実施した2つの企業調査のデータを基に,その間における統治の変化を検討している。図表15に示されているように,わが国企業の経営の問題点とされていた監督機能と執行機能の問題に関わる取締役会改革が着実に進むとともに,上場,非上場を問わず,株式価値を重視する企業の割合が増えていることがわかる。一方において,CSR(社会記責任)を重視する企業の割合がこの期間をつうじて最も多く,比率も増大している。CSRには広くとらえれば,従業員の雇用問題,環境問題,消費者問題などへの責任であると考えれば,わが国企業の経営の根幹は維持されていると解釈できよう。

242頁】

2.4 小括

これらの一連の調査結果の検討を通じて,時系列を辿ると,日本企業の経営目標は従業員重視から株主の利益を重視する方向に移りつつあるといえるだろう。最近の日本能率協会(『日本企業の経営課題』,各年版)や経済同友会(『企業白書』,2013年)の調査をみても,また伊藤研究室による伊藤レポート前後における経営指標の変化を見ても14),収益性の向上,特に自己資本比率を重視する傾向が強まっていることは間違いない。後で取り上げる伊藤レポートはわが国企業の自己資本利益率が低いことが問題であることを指摘し,多くの企業経営者に影響を与えた。

しかし,日本の企業観からすれば,従業員や他の利害関係者を軽視し,全面的に株主の利益第一主義に変化することはないだろうと思われる。グローバルな競争が激しくなり,デジタル化やプラットフォーム競争が急速に進んでいく中で,旧来の日本的経営の仕組みがそのまま通用するとはもちろん考えられないのであり,市場と組織の要請を両立させるハイブリッド型の経営を構想していくことが課題となろう。その際,異質なものを取り入れた制度がうまく機能するかは,どのようにそれを設計し,運用するかにかかってくる。その成否は今後の展開を待たねばならないが,困難であっても,新時代の日本的経営の実現に向けて,経営者も株主も従業員も他の利害関係者,そして政府もお互いに知恵を出し合い,信頼を基盤に長期的な視点を軸に協調,協創していくことが大切であろう。

 

3.グローバリズムとコーポレートガバナンス

 

3.1 「伊藤レポート」について

前号でも触れたように,「グローバリズム」というコトバをあたかも錦の御旗かのようにし,それがすべてに優先するかのように進むのは,本当に常に正論なのであろうか。もちろん,偏狭な,いわば国粋主義まがいの日本礼賛論に対しては常に注意していなくてはならないことは明らかである。

この点,もう時間は経っているが,2014年8月に公表された「伊藤レポート」は,直接本稿でのテーマをとりあげたものではないが,日本的経営に関する重要な考え方をその背後に負っ 243頁】 ており,そこでの示唆を追いながら考察していきたい15)

伊藤レポートの評価については,概要をまとめると次の5点になるであろう。

 

1)企業と投資家の「協創」による持続的価値創造

企業と投資家,企業価値と株主価値を対立的に捉えることなく,「協創(協調)」の成果として持続的な企業価値向上を目指す

そこでは次のように述べられている16)

持続的な企業価値創造は,企業と投資家による「協創」によって実現する。企業価値は企業の独力で生まれるわけではない。企業の不断の努力なくしては価値は生まれないが,投資家の持続的な支援がなければ事業活動の継続も価値創造も難しいことに留意すべきである。

株式会社は様々な権利の表象である「株式」と交換に資金を拠出する株主が,中核的プレイヤーとして不可欠の会社形態である。いってみれば会社は資金を調達するために,「株式」という商品を資本市場に供給する。しかし,株式という「商品」は,企業が事業活動によって生産・販売する製品と少なくともある本質的な違いをもつ。製品には通常,何らかの「保証」(ギャランティー)が付されている。製品に何らかの欠陥や不備があれば,一定の保証期間内であれば無償(一部有償)で修理ないし新品と交換してくれる。ところが,「株式」という商品にはそうした「保証」が基本的に何ら付されていない。にもかかわらず投資家は株式を購入する。なにも「保証」されていないのに,さらに多かれ少なかれ「リスク」を内包しているのに。投資家が株式を購入するインセンティブは何か。それは「期待」である。そうした「期待」を裏切られれば,株主は失望や不満を株主総会等で表明し「ボイス(voice)」,あるいは資本市場で現金化「エグジット(exit)」する。つまり,企業は株主の「期待」と「失望」と背中合わせなのである。そうしたリスクに見合う最低限の「期待」と「失望」の分水嶺が「資本コスト」なのである。

日本企業はこれまでどれだけこの資本コストと向き合ってきただろうか。株主は当然のことながら,資本コストを上回る収益性を期待する。収益性を表す指標は多様であるが,株主は本源的に自らに帰属する資本が,いかに効率的に事業活動で活用され,どれだけの成果を上げているかに強い関心をもつ。そうした関心を表す,グローバルに通用する有力な指標がROE(自己資本利益率)なのである。

また,次の叙述も注目すべきである17)

3)長期的な応援株主としての個人投資家の育成(論点5.1〜5.3)株式市場における長期投資促進のためには,長期視野の個人投資家の育成・促進も重要 である。重点は,これまで預貯金で金融資産を形成してきた個人である。家計金融資産における株式・債券・投信購入比率は8%〜16%である一方,預貯金残高は5割を超えており,その額は800兆円を超える。これは欧米と比べて日本的な「特殊性」であるが,一方で大きな「可能性」を秘めている。これら潜在的な投資家層が,企業価値という判断基準を持って投資を行う長期的かつ本格的な応援株主として株式市場に移動すれば,日本企業の価値 創造を支える豊かな基盤が形成される。そ 244頁】 のための個人投資家作りを進めるべきである。このような応援株主を得ることは企業にとっても大きなインセンティブであり,個人投資家が応援し,投資したくなるようなインセンティブを高めるためにも,企業が自社の哲学や「見えない価値」等を説明することが求められる。企業への長期的な資金供給源であり,個人の投資に対する意識・理解の醸成や資本市場の厚みを向上させるものとして,年金制度,特に確定拠出型年金制度やNISA(少額投資非課税制度)も重要な役割を果たしうる。現行制度の改善や金融リテラシー向上への取り組みが重要である。

 

ここでいう「企業と投資家による『協創』」が非常に重要な概念である。本稿の「1.企業は誰のものか」で詳述している通り,日本的経営のメリットを生かすために大きな役割を果たすと思われる加護野忠男・神戸大学名誉教授が提唱する「長期連帯株主」の概念は,伊藤レポートのいう「協創(協調)」株主,また「長期視野の個人投資家」にあてはまるものではないか。

 

2)資本コストを上回るROE(自己資本利益率)による資本効率革を

ROEを現場の経営指標に落とし込むことで高いモチベーションを引き出し,中長期的にROE向上を目指す「日本型ROE経営」が必要である。「資本コスト」を上回る企業が価値創造企業であり,その水準は個々に異なるが,グローバルな投資家との対話では,8%を上回るROEを最低ラインとする

資本コストに関しては,現代ではモディリアーニ&ミラーによる主張が是認されているとしても,詳細は1950年代のいわゆる伝統派による議論までさかのぼる必要があって,簡単ではないし,また現代資本市場理論の「華」のひとつであるCapital Asset Pricing Modelによる方法も現実にはやさしくないこと,そしてなによりも本論のテーマである現代の「日本的経営」論とはすぐには結びつく議論ではないと思われるので,ここではとりあげることはしない。

 

3)全体最適に立ったインベストメント・チェーン変革

インベストメント・チェーン(資金の拠出者から,資金を最終的に事業活動に使う企業までの経路)の弱さや短期化等の問題を克服し,全体最適に向けて変革する

そこでは次のように述べられている18)

日本企業の長期にわたる低収益性もあって,インベストメント・チェーン(資金の拠出者から,資金を最終的に事業活動に使う企業に至るまでの経路及び各機能のつながり)の各所でいろいろな問題が露呈している。国富の形成や資本市場の豊かさ,そして企業の持続的な企業価値創造は,インベストメント・チェーンを構成する各プレイヤーが成熟しており,価値創造に向けて効率的に行動することの集積として実現する。チェーンのどこかに問題が存在すれば,それが「律速」となり,全体の価値を棄損してしまう。長期にわたる日本企業の低収益性は企業価値創造を阻み,その結果,日本の株式市場は長らく低迷した。そうした市場のもとでの一つの「効率的な」行動は,短期売買によるキャピタルゲインの最大化であったことは想像に難くない。またもう一つの典型的な売買行動はインデックス運用にみられるパッシブ運用であった。こうした行動は幾つかの副産物をもたらした。一つは,いうまでもなく市場の短期志向化である。いま一つは,銘柄選択の際のリサーチの地位低下である。資産運用者による個別企業 245頁】 の深い分析に対する需要を減退させ,その結果,アナリストの個別企業に対する深い分析に対するインセンティブを減退させた。本報告書で提案する変革を実践することによって,資本市場の短期志向化が抑制され,中長期的な運用が促進されることが期待される。ただ,それと並行してアセット・マネージャーや証券アナリストのインセンティブ構造の変革も必要である。過度に短期(たとえば四半期)の成果に連動するアセット・マネージャーの報酬制度は再検討する余地がある。また,証券アナリストの分析能力の滋養は豊かな資本市場を形成するのに不可欠である。今後は,アナリストのインセンティブ制度を再検討し,新たな報酬の仕組みを導入することも検討されてよい。21世紀の中長期資金の提供者として個人投資家の存在に注目したい。世界に例のない800兆円を超える個人の預貯金が中長期のエクイティ資金として直接・間接に企業に向かえば,インベストメント・チェーン自体がはるかに豊かになる。機関投資家に運用を委託した個人が,企業に直接投資した個人が,分析能力とモニタリング意識を高めることによってインベストメント・チェーンのレベルははるかに向上する。その意味で個人投資家は中長期的な企業価値創造の巨大な「応援団」となりうる潜在力を秘めている。全体最適志向のインベストメント・チェーン変革は,21世紀の日本の国富を豊かにすることにつながる。勇気と不断の努力をもって変革を実行する時期に来ている。

 

ここで「全体最適」という用語が使われていて,ただ,その定義ははっきりとはなされていない。そしてここに出てくるインベストメント・チェーン(資金の拠出者から,資金を最終的に事業活動に使う企業に至るまでの経路及び各機能のつながり)というのは大変興味深い概念で,資金の出し手,使い手を結ぶ有意義な概念であろう。ということはここでいう「全体最適」とは,このインベストメント・チェーンに関与するすべての利害関係者,ステークホルダーということになるのだろう。

また,次の叙述が重要であろう19)

 

機関投資家に求められる姿勢と実力

36「日本版スチュワードシップ・コード」の趣旨に従えば,機関投資家は

(1)投資対象企業やその事業環境等に関する深い理解を持ち,

(2)「企業価値」を評価し,そのうえで

(3)持続的成長を期待できる企業に投資し

(4)顧客・受益者(最終受益者 を含む)の長期的なリターンを確保することを職務とすることが求められよう。そしてこれらの一連のプロセスの中で企業側と

(5)目的をもった対話を行うことが期待されている。

これに関連してもうひとつ重要なのが次の一文である20)

21世紀の中長期資金の提供者として個人投資家の存在に注目したい。世界に例のない800兆円を超える個人の預貯金が中長期のエクイティ資金として直接・間接に企業に向かえば,インベストメント・チェーン自体がはるかに豊かになる。機関投資家に運用を委託した個人が,企業に直接投資した個人が,分析能力とモニタリング意識を高めることによってインベストメン 246頁】 ト・チェーンのレベルははるかに向上する。その意味で個人投資家は中 長期的な企業価値創造の巨大な「応援団」となりうる潜在力を秘めている。全体最適志向のインベストメント・チェーン変革は,21世紀の日本の国富を豊かにすることにつながる。勇気と不断の努力をもって変革を実行する時期に来ている。

 

また,そこでは投資家の背後には,一人一人の投資家がいる,という考えが強調されている。投資家からマネーが企業に入り,企業は投資家にリターンを返すことが,「インベストメント・チェーン」だが,伊藤レポートでは,その背後に個人がいることが強調される。

また,「経営は長期的視点でイノベーション重視でもいいが,インベストメント・チェーンの効率化とも両立しなくては」と主張される。

「日本的経営は長期志向であるという大義名分の下,成果を出す規律付けが弱くなっている」ことを改善するとともに,短期投資家の増配や自社株買いの圧力には屈せず,長期的視点の投資家との対話を持ち,将来の期待ROEの成長に至る道を共に探そう,という主張である。

ただ,たしかに「投資家の背後には,一人ひとりの個人がいる」かもしれないが,そこでいう「投資家」は背後にいるという「個人」の完全なエージェントか?,そうではないと思う。そしてここが重要なのだが,そこではいわゆる「アクティビスト」,あるいはあえて言えば「職業的アクティビスト」の存在は視界に入っていただろうか。

これをさきの議論と結びつけるならば,「全体最適」のための参加株主の「特性」の把握・検討は十分だっただろうか?,それが十分でなかったことがこのたびの東芝騒動の一つの大きな原因ではないか。

日本的経営と,ここで言う「東芝騒動」の関連については,なにがしかの追加的な叙述を要するであろう。そこで意識すべきは,2017年11月19日開示の東芝による「第三者割当による新株式の発行に関するお知らせ」に続いた数々の出来事である。結論を先に述べればそこで「第三者」として資金を提供してもらったアクティビストたちは,「株主価値」の増加を望んでいたであろうが,はたして東芝という会社に関わる全ての人たちにとっての「企業価値」も視界に入っていたか,ということである21)。伊藤レポートでいう「ステークホルダーにとっての価値であり,株主価値,顧客価値,従業員価値,取引先価値,社会コミュニティ価値などから構成される,その総和が企業価値」ということである。

東芝が2017年12月5日払い込みで行った約6000億円の第三者割当増資,それは新規に発行する株数は発行済み株数の53.8%(希薄化率,dilution rate)も占め,まず既存の株主の権利は大幅(半分以下)に低下した(このこと自体がファイナンス的には本来もっと注目され,問題とされるべきであったのだが,まさに「後の祭り」である)。

東芝は2015年の不適切会計,16年には米原子力事業での巨額減損損失が発覚し,一気に経営危機に陥った。米国の原発子会社ウエスチングハウスと同グループの再生手続きによる損失など1兆2428億円を計上し,2017年3月期に5529億円の債務超過に陥った。このまま2018年3月期末までに債務超過を解消しないと上場廃止になる。回避策で半導体子会社の東芝メモリの売却があったのだが,なかなか思うように進まず,危急の増資が浮上したのであった。ところが,債務超過や,2017年3月期の連結財務諸表に「継続企業の前提に関する注記」が付いてしまっ 247頁】 たことから,東芝自体の継続性に対する疑義が起こり,公募増資は無理ということになってしまったのである。こうして,残されたのは前述の第三者割当増資だったわけで,そこでの割当先に名乗りをあげたのが旧村上ファンド系をはじめとする「アクティビスト」たちだったのである。その後,ウエスチングハウスの資産譲渡などで債務超過解消,上場廃止の回避を手中にする。しかしこの時からすでに,アクティビストたちが経営に横ヤリを入れてくることも考えられるので,前途は多難では?,と言われていた。これを「自業自得」と呼ぶのは容易いかもしれないが,コトは既存の株主たちを引き摺り込むオオゴトとなる。この時の60社に上る出資者リストには増資後に議決権の11.34%を握る旧村上ファンド出身者設立のエフィッシモ・キャピタル・マネジメントやサードポイント,サーベラス,グリーンライトなどアクティビストの名前があった22)

そして,はたして,これが2021年6月25日開催の株主総会の大波乱を呼び起こすことになる。すなわち,当初取締役会が提示していた役員人事案は大幅に修正を余儀なくされ,さらに,それでもその修正案は株主総会で部分的に否決されたのであった。この結果,会社の肝煎りで任用されていた取締役会議長ら二人が株主総会での人事案の否決から,退任せざるを得なくなった。そこで大きな役割を果たしたのはアクティビストファンドで,その意に従った結果だったとされる。

そもそも東芝は外資の投資ファンドからの買収提案を受けていたが,前社長がかつてこのファンドの日本法人のトップを務めていたことなどから経営陣の間でこの提案の背景が不透明だという批判も出ていたし,前社長の背景に不透明なものが多すぎる,と言われたこともある。ちなみにこの人物は提案直後の4月14日に突然辞任している。そしてこの買収提案というのが,2021年4月6日の英国系投資ファンドのCVCキャピタル・パートナーズによるもので,株式の公開買い付け(TOB)による東芝の非上場化を目指すというものであった。これは誠に驚くべき提案と言わざるを得ないと筆者らは思っている。ただ,東芝の経営陣が非上場化を受け入れることを期待したものとみられる,とされていて,話としてはまあわかるが,東芝を非上場化する?,という疑問はおそらく幅広く起こるものではないだろうか。

ただし,その後また,注目すべき議論が起こった(2021年9月9日朝日新聞による)。それは次の通りである。

「東芝は8日,同社の非上場化が実現可能かどうかを見極めるため,取締役会に設けた戦略委員会が投資家と対話していることを明らかにした。取締役会での議論の進み具合を知らせる声明の中で,非上場化について「戦略的な選択肢の一つ」とする一方で,「今後の方向性は決定しておらず,検討を続けている」としている。

東芝の非上場化をめぐっては,英国系投資ファンドCVCキャピタル・パートナーズが4月に株式の公開買い付け(TOB)による非上場化を提案。しかし,当時の取締役会は提案を受け付けず,CVC側が撤回した。

その後も大株主である投資ファンドから「非上場化も検討すべきだ」との主張が出ているが,東芝社内では,1月に東証1部に復帰して間もないことから慎重論が根強い。綱川智社長は8月の記者会見で,信用力やブランド価値などの観点から非上場化は「より一層慎重な検討が必要だ」と話していた。」

248頁】

この議論は,少なくとも日本的な感覚からすると,疑問を伴うものになるかと思われる。とりあえず「東証1部上場企業」というのはわが国では重要な「誇り」に結びついているからである。もちろんわが国では「有名企業」であっても非上場の場合もある。しかしそれはいわば固有の事情による結果であることで,前述の状況を勘案すると,それで東芝を非上場にすることはすべての理解を得られるものになるであろうか?

綱川智社長が8月の記者会見で,信用力やブランド価値などの観点から非上場化は「より一層慎重な検討が必要だ」と話していた,というのはまさにこのことであろうし,結論が大いに注目されるところである。

 

4)企業と投資家による「高質の対話」を追求する「対話先進国」となる

「スチュワードシップ・コード」等で求められる対話・エンゲージメント方策をとりまとめ,企業と投資家の信頼関係を構築する上で,企業価値創造プロセスを伝える開示と建設的で質の高い「対話・エンゲージメント」が車の両輪である。

 

伊藤氏は別の記事で,「企業も投資家を選ぶ時代へ」と述べている23)。それによると,

・海外投資家を十把一絡げに括ってはいけない,数字より経営者の意見を求める人もいる

・マーケットには短期志向の投資家もいないと,株価が効率的に値付けされない

とし,短期的成果偏重の投資家の存在を認めつつ,そんな投資家とは対話は不要としている。

そして,「投資家は企業を選ぶことができるが,企業は投資家を選ぶことはできない」とは,20世紀もしくは21世紀初頭の考えで,パラダイムシフトが起こり,「企業も投資家を選べる」時代になったとする。

現在は,「スチュワードシップ・コード」「コーポレートガバナンス・コード」によって,投資家から企業に対話のオファーが多数寄せられ,必然的に投資家を層別し,CEOが対応する投資家,CFOが対応する投資家,以下,IR部長やIR担当など,企業からも投資家への対応を複層的にし,投資家を選ぶ時代らしく振る舞うことが重要で,「対話」から投資家の投資哲学を評価し,投資家を選別せよ,とする。インベストメント・チェーン強化に務めること,というのが主張の中心とも解釈できるであろう。

 

このように「企業も投資家を選ぶ時代へ」というが,「選ぶ基準」が非常に重要ではないか!

また,そこでの「対話」の「ペース」及び「ベース」はいかなるもので,お互いにフェアなものになりうるか?

 

5)「経営者・投資家フォーラム(仮)」を創設

産業界と投資家,市場関係者,関係機関等から成る「経営者・投資家フォーラム(Management-Investor Forum :MIF)(仮)」を創設する(2015.6)

そこでは,中長期的な情報開示や統合報告のあり方,建設的な対話促進の方策等を継続的に協議し,実現に向けた制度上・実務上の方策が検討される

249頁】

このように,一般的な道しるべとして伊藤レポートは非常に有用かつ重要である。しかし,今度の東芝の一件に鑑みるに,やはり伊藤レポートとは想定外の事態が起きていると思われる。

東芝の件を今一度見直し,ここでの観点からの再検討を行うと,そこでの「新しい株主たち」は伊藤レポートで想定していた人たちだったか?

「企業も投資家を選ぶ時代へ」と言うが,「選ばれる」投資家の詳しい中身を「再吟味」する必要があるのではないか?,近江商人の「三方よし」が非常に特徴的かつ日本的経営の良さの好表現では!

すなわち,日本的経営という見方から見直すと,伊藤レポートで想定していた状況は,2021年の目で見ると相当変わってきているのではないか?

つまり,伊藤レポートでは,実は暗黙のうちに「良き日本的経営」を前提にしつつ,改革を目指していたのは良いとしても,そこで目指している「グローバル化に対応しうる日本企業の設計」というのはまさにぎりぎり一種の矛盾に陥る可能性を秘めてはいなかったか。特に,前述の『36「日本版スチュワードシップ・コード」の趣旨に従えば』での(1)〜(5)を考えると,東芝の「新株主」たちはそれを満たす株主であったか24)

 

3.2 東証コーポレートガバナンス・コードの問題点

1.基本的な発想

2021年6月11日,(東証)コーポレートガバナンス・コードの改訂版が公表された。この改訂の主なポイントは,大きく3つのコーポレートガバナンス改革をめぐる課題,すなわち,@取締役会の機能発揮,A企業の中核人材における多様性(ダイバーシティ)の確保,Bサステイナビリティ(ESG要素を含む中長期的な持続可能性)をめぐる課題への取り組みに対応したものとなっている,とされる。

我が国でのコーポレートガバナンス・コードの制定については,海外のそれらの存在がやはりそのきっかけであろう。現在世界で最も知られていると思われるのはドイツ・コーポレートガバナンス・コードではないか。そしてアメリカにはそれがないのが大変興味深い。

これはまさに根本的な議論であるが,日本企業には戦後の復興,欧米企業に追いつくための不断の努力・活動とその成果,バブル経済時の必ずしも適切ではなかった活動,その破裂によるなかなか癒しがたい損失,そしてその後,今に至る調整活動という,知る人ぞ知る深い歴史があり,その時ごとに問題解決のための努力と,それにしたがってできてきた制度や習慣がある。

過度な強調は禁物であるが,このようなプロセスの中で,まさに我が国,日本での,日本企業の考え方の背後,あるいは根本にあると考えるべき日本の文化,歴史,発想というものは,少なくともなにがしか考慮の対象に入れておくことは,必要なのではないかと考えている。

たとえばドイツでは1990年代後半にドイツ・コーポレートガバナンス・コードの設定の機運が高まったとき,その主たる視点は,フランクフルト証券取引所のオープンにあたりアメリカの(機関)投資家による証券取引への参加をより多くすることが重視されたことが挙げられる。共同決定制度など,ドイツ独自のマネジメント・システムの下で,アメリカの機関投資家たちの目から見てドイツの企業の,まずディスクロージャー制度,そして株主への姿勢がどのよう 250頁】 なものであるか,各ステークホルダーへのドイツの株式会社の対応がどうなっているかを(主としてアメリカの)投資家にアピールするため,という目的は大きなものがあった。それまでドイツには実質的に証券取引所はなかったに等しいが,EUの誕生に鑑み,ドイツ政府の肝いりでできたのがフランクフルト証券取引所(Frankfurter Borse)だった。それ以前はドイツでは有限会社が大半だったが,そこへの前述のアメリカ資本を念頭に置いた展開だったのであり,周知の通りこの後,ドイツでは株式会社の数が飛躍的に増大した。

ただしそこで少し注意すべき点がある。たしかにアメリカの機関投資家の資金は大きなものがあるが,それだけのためにその投資家に合わせて制度を設定するものか?,ということである。グローバル化をアメリカ化,と言い換えても完全な間違いではないかもしれないが,敢えて卑俗な表現を避けずに行えば,「ワガママをすべてきく」ことは常に正義,あるいは正当か?

 

2.東証コーポレートガバナンス・コードにおける「株主」の概念は?

東証コーポレートガバナンス・コードでは第1章で株主の権利・平等性の確保というタイトルで株主を論じている。ただしそこでは「少数株主」「外国人株主」という言及があり,それ以外が一般の株主,という概念になるのであろう。ここでは「平等性の確保」が考察の第一の対象であることから,その中身についての検討はなされていない。もちろん,そこで「あるべき株主」などというような議論が行われるのはタブーであろう。

ここで考えておくべきは「アクティビスト」と呼ばれる株主である25)。アクティビスト(ファンド)とはいわゆる「もの言う株主」である。ターゲット企業の株を買い集め,一定の議決権を握ったうえで株主提案を行う。その内容は,配当の増額,自社株買い要求,不採算事業や投資案件の差し止めなどである。また,アクティビスト側の人間をその企業の取締役に選任することを求め経営権の一端を握りにいくこともある。基本は現金を多く保有しており,株価低迷が続いている企業が彼らのターゲットとなりやすいとされる。アクティビストファンドが台頭する以前は,こういった企業にも危機感はなかったのであろうが,緊張感を持って経営,株価対策にあたるようになったのはある意味いいことであろう,とする意見もある。しかし,日本企業の今までの繁栄を支えてくる「屋台骨」となっていた日本的経営に対し,その意義を彼らはどの程度,あるいは「正しく」理解していたか。

東芝の件で話題になった株主たちは,たとえば,さきに若干触れた,非常に特徴的かつ日本的経営の良さの好表現であると思える近江商人の「三方よし」の概念を知っているか?

伊藤忠商事の創業者・初代伊藤忠兵衛がその一人だったとされる近江商人の経営哲学のひとつとして「三方よし」は広く知られている。「商売において売り手と買い手が満足するのは当然のこと,社会に貢献できてこそよい商売といえる」という考え方である。自らの利益のみを追求することをよしとせず,社会の幸せを願う「三方よし」の精神は,現代のCSRにつながるものとして,伊藤忠をはじめ,多くの企業の経営理念の根幹となっているとされる。

結論を述べれば,そこで「第三者」として資金を提供してもらったアクティビストたちは,前述の通り,「株主価値」の増加を望んでいたであろうが,はたして東芝という会社に関わる全ての人たちにとっての「企業価値」も視界に入っていたか?,ということである。

 

251頁】

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Management Analytics & Strategy,「『企業も投資家を選ぶ時代 伊藤レポートの真意とは』を読んでみ252頁】た」Management Analytics & Strategy 2016.2.12 2019.8.12

宮本又郎(1998),「総有システムと所有主権の制限<三井の大元方>」,(伊丹敬之・宮本光晴(2014),『日本の企業統治と雇用制度のゆくえーハイブリッド組織の可能性―』,ナカニシヤ出版

宮本又郎(1998),「総有システムと所有主権の制限<三井の大元方>」,(伊丹敬之・宮本光晴(2014),『日本の企業統治と雇用制度のゆくえーハイブリッド組織の可能性―』,ナカニシヤ出版

吉森賢(1994),「ドイツにおける会社統治制度―その現状と展望―」,『横浜経営研究』,15巻3号,pp.1-27