*   本稿は,学習院大学経済経営研究所(GEM)の2021年度の研究プロジェクト「日本の電機産業の盛衰」の成果の一部である。

1   石井晋[2020],[2021]

2   図の注に示したように,有価証券報告書の提出期に数ヶ月程度のズレがある。なお,成長率については,1955年度と1970年度の数値に基づき,この期間に毎年同率で成長したものと仮定して,平均成長率を算出した。この期間における主な分社,子会社新設,合併については,以下の通りである。日立製作所は,1956年4月に日立金属および日立電線を,1962年4月に日立化成を,1969年11月に日立建設機械製造(のち日立建機)を子会社として分社化した。東芝は,1961年10月に石川島芝浦タービンを吸収合併した。日本電気は,1953年6月,ラジオ,受信用真空管などの事業を扱う新日本電気を分社化した。富士通は,1968年8月に神戸工業を吸収合併した。日本無線は,1961年12月に米国レイセオン社と共同出資(日本無線が67%出資)で,半導体製造を中心とする新日本無線を新設した。松下電器には多くの関係会社があるが,本稿との関連で重要なのは,1952年12月,オランダ・フィリップス社と合弁で設立した松下電子工業(松下が70%出資)である。ただし,その製品の多くは松下電器産業を通じて販売された。また,1957年1月には子会社として松下通信工業を設立,松下電器の通信機,ラジオ等の生産を移管した(製品の多くは松下電器を通じて販売されたものと思われる)。シャープは,1956年に独立させた営業部門のシャープ電機を1967年10月に吸収合併した。三洋電機は,1959年7月に主に製品の一部の製造を担当する東京三洋電機を子会社として新設した。これらの中で,企業成長を示す数値に有意な影響を与えていると思われるのは,富士通による神戸工業の合併である。1968年7月末時点における神戸工業の有形固定資産は,1968年3月末時点の富士通の有形固定資産の18.9%,同じく総資産では18.0%に及び,この時期の企業としての成長率を押し上げる要因となった。

3   ただし,前注で指摘したように,富士通は合併による成長率押し上げ効果が一定程度影響していることには留意しておく必要がある。

4   日本銀行「物価指数年報」の戦前基準企業物価指数による。

5   これについては,第3節で述べる。

6   1960年代初めまでの期間の相対規模には,日立の鉄鋼・電線・化学部門の分社化,東芝の水車・タービン部門の吸収合併等が影響しているものと思われる。

7   松下電器は主にフィリップスとの合弁の松下電子工業で半導体を生産しており,その多くが松下電器に供給されたと見られる。したがって,松下電器のデータのみでは,松下グループとしての半導体生産の動向を十分に把握することはできない。また,三洋電機は主に子会社の東京三洋電機で,半導体を生産しており,東京三洋電機の有価証券報告書により生産実績等のデータが得られる。なお,シャープは,早くから太陽電池を中心に半導体事業を展開していたが,情報処理系の半導体に本格的に進出したのは,ロックウェルから購入していたLSIの内製化に乗り出す1970年代である。

8   日立については,原則として,社内消費分の生産額が計上されている。

9   「通信機」3.5%に,「原動機・電気機械」のうち,「計器」以下の部分(電気ホイストを除く)を加えたものが相当する。

10   日立は1955年に販売組織を大きく再編し,日立家庭電気販売鰍設立して家電販売網を整備するとともに,製品機種別から顧客業種別の体制に転換した。日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p139-142。

11   東芝は,1950年代初め,発電機を生産していたが,水車は電業社(1955年に東芝が吸収合併),タービンは石川島芝浦タービン(1961年に東芝が吸収合併),ボイラーは石川島重工に生産を委ねていた。三菱は,水車,タービン,ボイラーとも三菱重工系企業(新三菱重工,三菱造船,三菱日本重工。1964年の三重工合併後は,三菱重工)が生産していた。

12   重電機メーカーの原子力部門については,本稿ではあまり触れる余裕がないため,別の機会に詳細に検討する予定である。

13   石井晋[2020]の新興コンツェルンに関する議論を参照。

14   宇田川勝[2015]を参照。

15   日立グループのあり方は,その後大きく変化したため,別の機会に改めて検討する予定である。

16   ただし,電機産業についていえば,政府の支援のもとに展開した電源開発投資や政府資金による電電公社の発注が,その発展に大きく貢献したことも無視できない。

17   逆にいえば,戦時経済計画を策定する過程において,旧財閥(三井・三菱・住友)や新興コンツェルンのもとで展開した重化学工業各産業の発展水準は跛行的であることが明らかとなった。さらには,国際情勢の悪化により,輸入資源の制約が徐々に強まったこともあり,計画経済の策定レベルでも執行レベルでも,数々のボトルネックが露わとなった。戦争被害と戦後復興期の困難な諸事情は,このようなボトルネックをさらに深刻化した。戦後の各種産業政策は,このようなボトルネックの解消を目ざすものであったものと言えるだろう。そのようなボトルネックが解消されていく過程で,各産業間の連関が円滑化し,それぞれの企業が戦前のような財閥やコンツェルンのネットワークを活用する誘因が低下していったものと考えられる。

18   東芝については,1962年3月の「有価証券報告書」には,「生産高は完成営業製品生産高であり,原則として社内間振替製品の生産高を含んでいない。但し,電灯,電子管,半導体には,ラジオ受信機,テレビ受像機,照明器具等の部品として他事業場に振替えられる管球類の生産高が計上されている」と記されており,真空管,半導体等の社内消費も生産額として計上されている。一方,1971年3月の「有価証券報告書」では,「生産高は完成営業製品生産高であり,原則として社内間振替製品の生産高を含んでいない。」とのみ記されており定かではないが,生産額割合を販売額割合の乖離が大きいことから,おそらく,1962年3月期の計上方法が踏襲されているものと思われる。

19   日立製作所創業100周年プロジェクト推進本部社史・記念誌編纂委員会[2011]p176。

20   三菱電機については,1962年3月期のデータは,社内消費分が生産額に含まれているが,1971年3月期のデータでは含まれていない。

21   ただし,三菱電機の場合,半導体の社内消費は生産額に計上されていないため,これを計上すれば,さらに数%上昇するものと思われる。

22   日本電気については,1962年3月期のデータでは,電子管と半導体については,社内消費向け生産額を含んで計上している。しかし,1971年3月期のデータでは,社内向け生産額を含んでいない。

23   大半が電気通信省(のちの電電公社)であり,警察,国鉄なども大口需要者であった。日本電気「有価証券報告書」(1951年9月)p10。

24   1971年3月期においては,全販売額に占める輸出の割合は,23.3%であり,品目は不明だが,その大半が通信機だったと見られる。日本電気「有価証券報告書」(1971年3月)p19。

25   1951年9月期において,真空管需要は民需が78.0%,電気通信省が16.2%であった。日本電気「有価証券報告書」(1951年9月)p17。

26   日本電気「有価証券報告書」(1951年9月)p11。

27   富士通については,社内向け電子部品についての記述はない。しかし,生産額割合と販売額割合の乖離が小さいことから,おそらく半導体等の社内消費については生産額に計上されていないものと思われる。

28   日本電気と同様に官公需への依存が大きく,1951年9月期の受注高の61.4%が電気通信省,警察,国鉄などの公的機関からの受注であった。

29   「電電ファミリー」の中には,この3社に加え,日立が含められることもある。

30   沖電気については,電子部品の社内消費が生産額に計上されているかどうか明記されていないが,おそらく計上されていないものと思われる。

31   沖電気「有価証券報告書」(1951年9月)p19。

32   他社に比べて若干遅いが,1956年7月に米RCA社とテレビ,真空管,ブラウン管について特許実施権許与契約を結び,1957年3月にドイツ・テレフンケン社と無線関係の製品について技術契約を締結した。さらに,1959年3月にはRCAおよび米国ウェスタン・エレクトリック社とトランジスタ等半導体の特許実施権契約を結んだ。日本無線「有価証券報告書」(1960年3月)p8。

33   ただし,半導体事業の合弁子会社である新日本無線を含めれば,若干成長率が高まるであろう。

34   ここでは,物理学的な意味での仕事を指している。

35   ただし,この場合でも,エネルギー機器の主たる機能は,運動エネルギーないし熱エネルギーの活用であり,半導体は情報機器として制御機能を果たしている。

36   管球の生産額割合7.6%のうち,各種電子管を39.9%として算出した。この39.9%は,1952年11月期における管球部門の真空管の生産比率である。

37   無線機器の一部は,1957年に設立された松下通信工業に移管されたが,製品の販売は多くが松下電器を通じて行われたものと思われるので,松下通信工業分離の影響は,本稿の議論にあまり大きな影響を与えていないものと考えられる。

38   ただし,松下電器においては,経営史的には,1964年の「熱海会談」を契機として,1960年代後半に販売システムの立て直しに注力したことが重視される。

39   1960年代後半には,多くのメーカーが電卓事業に参入したことには留意しておく必要があろう。ただし,後述のソニーは電卓事業に力を入れたものの,比較的早期に撤退している。

40   同時に,電卓の小型化実現のため,太陽電池や液晶も重要性を増していった。

41   大朏博善[2006]p168-169。

42   もっとも,ソニーの中で半導体技術が途絶えたわけではなく,のちに副社長となる岩間和夫が強くサポートする形で,CCDによるイメージセンサ開発などが推進されることとなるが,そのための技術的素地は十分に残されていた。越智成之[2008]。

43   石井晋[2002]。

44   技術の中でも,テレビ受像機製造など,戦後の急成長が期待されたものに関しては,1950年代から多くの企業が導入し,激しい競争が生じた。

45   関連文献として,金容度[2006]。