351頁】

 

日本における電機産業の発展史

⑷高度経済成長期の技術導入と主要メーカーの事業展開

 

石井 晋

 

 

1.はじめに

 

本稿は,「日本における電機産業の発展史 (3)高度経済成長期各メーカーの動向」1)に引き続き,戦後における主な日本の電機・エレクトロニクスメーカー11社(日立製作所,東京芝浦電気,三菱電機,日本電気,富士通信機製造,沖電気工業,日本無線,松下電器産業,早川電機工業(シャープ),三洋電機,東京通信工業(ソニー))を中心に取り上げ,各メーカーの海外からの技術導入の実態をできるだけ包括的に把握し,その事業展開のあり方との関係について検討することが目的である。特に,メーカーごとの技術導入の内容とその特徴,また戦前と異なる戦後の技術導入のあり方の特徴に注目する。

戦後日本の電機・エレクトロニクスメーカーは,各社とも競って海外技術を導入した。重電機メーカーについていえば,戦前以来,東京芝浦電気(以下,東芝)が米GEとの間で,三菱電機が米Westinghouseとの間で,出資を受けるなどの密接な関係を結び,多くの技術供与を受けることで発展してきたことはよく知られている。これらに加え,戦前には「自主技術」を重視してきた日立製作所(以下,日立)が,戦後になると積極的に技術導入を推進し,事業を展開した。また,戦後の東芝,三菱は,それぞれ戦前以来のGE,Westinghouse社との関係を復活させた上で,戦前を上回る規模とペースで,数多くの技術導入を行った。通信機メーカーにおいても,戦前以来,日本電気が米Western Electric(のちInternational Standard Electric)社2)と,富士通信機製造(以下,富士通)が富士電機を通じて独Siemens社と,日本無線が独Telefunken社と技術提携しており,それぞれの関係は戦後,更新されて継続する。これに加えて,重電機メーカー同様,各社とも新たな技術導入を積極化させた。戦前には英GE社から自動交換機の技術供与を受けたものの自主技術へのこだわりが強かった沖電気もまた,戦後には数多くの技術導入を進めた。家電メーカーもまた,戦後においては,重電機・通信機メーカーほどではないが,海外技術導入が,経営上きわめて重要な役割を果たすようになった。

以上のことから,戦後の電機産業の発展においては,戦前以上に海外技術導入の役割が大きかったものと考えられる。戦後に海外からの技術導入が増大した理由の一つは,戦時・戦後復352頁】 興期において,日本の電機メーカーが,海外メーカーに対して大きく遅れをとったことが挙げられる。これに加えて,戦後においてはトランジスタの発明など半導体の本格的な活用に代表されるように電子技術が急速に発達し,同時に海外企業による多数の特許が世界各地で成立した。日本の電機メーカーは,技術水準の遅れを克服した上で新たな事業を展開するために海外技術・ノウハウを吸収することが必須となっただけではなく,営業活動を行うに際して,特許使用の許諾が必須となるケースが増大したのである。

戦後・高度経済成長期における電機メーカーの海外からの技術導入については,個別分野・個別製品に関しては多くの研究において触れられている3)。ただし,電機メーカーの技術導入を包括的に取り扱った研究は必ずしも多くない。比較的まとまった文献としては,通商産業省[1990]が参考となるであろう4)。もっとも,同書第5章第2節においては,海外技術導入全般を行政の立場から取り扱われており,電機産業に関する言及は限られている。また,同書第5章第5節で電機産業が取り上げられているが,電子工業振興臨時措置法に関わる産業政策的な記述が主となっている。このため,本稿で検討しようとしている各電機メーカーの技術導入のあり方の特徴が十分に描かれているわけではない。

本稿では,戦後日本における電機メーカーの技術導入について,戦前・戦時からの歴史的な変化をとらえることを重視し,とりわけ次の二つの問いを念頭に置く。第一に,戦後,高度経済成長開始前の時点において,日本の技術水準や技術をめぐる課題がどのようにとらえられていたかという問いである。第二に,高度経済成長開始後,日本の電機産業は,高度経済成長前の技術課題に対する認識には収まらない新たな事態に直面し,当初想定された以上の量とスピードで技術導入がなされた。このことが,電機メーカーの事業展開や経営戦略に大きな影響を与えたものと考えられるが,その影響はどのようなものであったかという問いである。

以下ではまず,高度経済成長前の技術水準と技術をめぐる課題を取り上げる。続いて,高度経済成長の開始と技術導入の急増,1950-60年代における海外技術導入の数量的把握を行った上で,1950年代から1970年代初めまでの各電機メーカーの技術導入の内容の特徴とその変化について分析する。

 

 

2.高度経済成長前の技術水準と技術をめぐる課題

 

⑴ 外資法

戦後日本における海外技術の導入は,1950年6月に施行された「外資に関する法律」(外資法)によって規制されながら進められた。企業は自由に海外技術を導入できたわけではなく,政府による認可を必要としたのである。1950年代において,技術導入の認可の基準は,「その時々の事情によって幾変遷」したが,基本的には「国際収支的観点より好ましからざるもの」,「導入によって産業秩序を著しく混乱させるおそれのあるもの」,「中小企業を圧迫するおそれのあるもの」が規制され,「技術導入がその企業にとっても,また国民経済的にも好影響をもたら353頁】 すものを優先的に認可し,あるいは導入契約をその方向に改善させるという態度が貫かれた」とされる5)。その後,時代が下るにつれて,技術導入をめぐる規制は緩和され,1960年代初めには大きく緩和された6)

なお,技術導入契約は,甲種・乙種に分かれ,甲種は契約期間または対価の支払期間が1年以上で外貨支払いのもの,乙種はそれ以外とされた。1950年代には重要なものは甲種のものが多いので,本稿では主に甲種の技術導入について取り上げることとする。

以下ではまず,外資法が制定される前の日本の全般的な産業技術の水準及び電機産業の技術状況がどのように認識されていたかについて検討する。そのために,1949年に工業技術庁が発行した『技術白書』を取り上げる7)。同書に示されているのは,当時の商工省(のち通産省)の技術官僚の認識であり,技術政策の必要性(特に,工業技術庁の存在意義に関わるような,基礎研究と工業化をつなげるための政策的支援)をより強調するバイアスがあることは否定できない。しかし,各産業についての調査がなされた結果を基にしていることから,当時の日本企業の科学技術水準への認識を示す資料として,一定の客観性と信頼性を有するものと考えてよいであろう。

 

⑵ 日本の技術水準についての認識

『技術白書』では,まず全般的な産業技術の水準について,いくつかの問題点が指摘されている8)

第一に,設備の老朽化と資材入手の不円滑などにより戦前に比して生産性が低下しており,この間目覚ましい機械化・自動化の進んだ米国に対して格差が拡大した。

第二に,日本の鉱工業技術の中で,特に立ち遅れているのは,機械の素材,熔接技術,合成樹脂・合成繊維工業などである。

第三に,各産業の技術の間が著しく不均衡であり,たとえば電力技術は早くから世界的水準に達しているが,そのために必要な土木・機械技術,電気機械の絶縁材料などの点で弱点が多い。このほか,造船・自動車製造のための工作機械の精度が低く,繊維工業において機械設備や苛性ソーダ等の関連化学関係技術の後れが目立つ。このため,日本の技術は,米国やドイツと異なり,「一方で世界的水準に達する部門があると同時に他方で不相応に発達の遅れている部分があるのであって,これが日本技術の跛行的性格といわれるものである」と指摘されている。これに関連して,このような技術の「跛行的性格」が,技術各部門のセクショナリズムにより実害がもたらされており,たとえば,「電力部門では,機械,土木建築の技術もきわめて重要であるにかかわらず,主として電気技術者が重用され,鉱業部門では冶金技術者が重視されて,電気,機械関係者は冷遇されていたのである。それが自然に関連部門の連絡協調をさまたげたとともに,化学機械や電気材料のような中間分野の発達を遅らせたのであって,技術が高度化するにつれていよいよその綜合性が必要な今日,特に反省すべき欠陥となっている」と354頁】 強調されている。

第四に,日本の技術は,歴史的に海外先進技術の導入によって発展したがゆえに,「模倣的性格」が強く,この結果,「その国の経済事情を背景とする各国の技術を,無批判に吸収する結果は,原料,部品等を海外に依存することの不利などには,ほとんど考慮がはらわれず,それがひいては国内資源の開発利用度を著しく低め,研究者,技術者の独創的な意欲を減殺した」9)。また,工業の基礎を輸入機械においたことで,機械工業が立ち遅れ,軍需生産によって機械工業が急速な発展をしたものの,工作機械の主要なものを輸入品に依存した結果,「その基礎を脆弱ならしめた」。また,「模倣的性格」は,技術の「跛行性」の原因ともなった。

第五に,海外技術依存が強かったため,国内での技術開発が正当に評価されず,日本人の発明が海外でその価値が認められるまで企業家が採用せず,「コンサルティング・エンジニア−の技術指導に対して,適正な報償をはらう習慣が確立されていない」などの悪弊がある。

第六に,「日本の純正科学部門,あるいは基礎的研究の優秀性」については,「米国科学技術者の等しく認めるところであり,世界的水準の研究も多く実施されている」が,応用的研究の水準が基礎的研究に比して相当見劣りがし,「学界の活動も主として基礎研究を中心として行われ,各社技術者等の工業的応用との間に,十分連絡,交流がなされていない」。研究成果の企業化のためには工業化試験が必要であるが,その促進のためには,特別な国家的支援が求められる。

第七に,海外技術を容易に模倣・吸収することは,日本の技術的消化力の旺盛さを背景としており,これに加えてアンモニア合成工業などでは模倣にとどまらず,日本独自の技術を開発,発展させている。さらには,日本の技術の独創性も過少評価すべきではない。

以上,若干長い引用となったが,戦後復興期において,素材の不良や資源不足の問題,工作機械をはじめとする機械工業の水準の低さ,技術の模倣的性格と技術発展の部門間のアンバランス(跛行性),各分野のセクショナリズムと連繋の不足,基礎研究から応用研究への接続の不円滑,日本で開発された技術への不当な評価といった課題が指摘されていることに留意しておきたい。石井晋[2021]で触れたように,日本の電機メーカーの研究開発のあり方に関しては,1950-60年代についてもいくつかの課題が指摘されており,それらは上記の『技術白書』で指摘された第三から第六の内容とほぼ重なる10)。なお,本稿においては,海外技術の導入に主眼を置くため,電機メーカーの研究開発体制のあり方の詳細には踏み込まないが,そうした関心も念頭に置きながら議論を進めたい。

 

355頁】

⑶ 電機産業の技術に関する認識

次に,同じく『技術白書』から,電機産業に関する記述を確認しておこう11)。発電機や変圧器などの重電機(「強電機械工業」と記されている)については,日本の重工業の中で,「造船工業と共に最も進歩した部門に属する工業」とされ,事例として1940年に10万KW水車発電機を完成したことなどが強調されている。ただし,戦時期の研究の重点が「弱電」(通信・電子機器等)に移ったこと,また戦後の悪条件のため,「前途は楽観を許さない」とも指摘されていた。特に,米国では,モーターの小型軽量化や高温対応の進展,変圧器の耐熱性の向上による高圧対応がなされているのに対し,日本の遅れが示されている。とりわけ,戦後原料の極度の不足により,珪素鋼板や絶縁材料などの主要素材の均一性を欠くことが強調されている。

通信機器に関しても,「原材料の質の粗悪および寸度の不適格」などによる歩留まりの低下,品質の劣化が指摘されている。無線機器に関しては,戦時期に電波兵器の増産に注力されたが,多くの関連メーカーが戦後に主にラジオ工業に転換し,その生産復興ぶりが凄まじい。ただし,主要部品の真空管について,世界の大勢が高品質でコンパクトなGT管に切り替わっているのに対し,日本のラジオ製品が古いタイプのST管を使用していることなど遅れが指摘されている。また,真空管の歩留まりの低迷(終戦後40%から徐々に上昇して70%となっているが,米国は90%強とされる)が強調され,その背景として,劣悪な原材料,設備の老朽化,品質管理の不備などが指摘されている。ただし,かつては日本の一流メーカーにおいても歩留まり92%を実現していたことも示され,米国等に対する遅れは戦時戦後の条件悪化によるものであり,比較的容易に取り戻せると認識されていたように思われる。このほか,無線技術が,超短波など,より高周波領域が求められるようになっていることも指摘されている。これについても,日本の技術者にとって決して新しい問題ではなく,戦時中の電波兵器技術をベースに,より寿命の長い「優秀製品」の量産体制を確立することが必要であると指摘されている。

以上のように,1949年の「技術白書」においては,重電機,通信・電子機器ともに,米国からの遅れが指摘されているものの,それは戦時戦後の困難な環境条件によるものであり,必ずしも大きな技術的遅れがあるとは認識されているわけではない。技術そのものよりも,適切な原材料・素材の調達,設備の更新,品質管理の向上などによる量産体制の確立といった生産面での課題が強調されているといってよいであろう。

のちの歴史を念頭に置くならば,当時,電源開発は日本の電機メーカーの技術が世界的水準に引け劣らなかった水力中心であり,大容量火力の導入は本格的に始まってはいなかった。また,通信・電子機器関連では,トランジスタが発明されたばかりであり,テレビなどの新製品が急速に普及する以前の段階であった。したがって,日本の技術的遅れは十分に認識されてはいたものの,新たな事業展開のために海外からの技術導入が次々に必要とされるような状況は想定されていなかったものと考えられる。

特に注目しておきたいのは,高度経済成長前の時期においては,原材料,素材等の生産面での技術課題が強調されているということである。このような認識は,戦前以来のものであり,輸入の困難化により資源不足が甚だしくなった戦時期に強まり,敗戦にともなう占領下で貿易が制限された当時に引き継がれたものである。

このことと関連して,戦時期であった1940年の日立製作所社長・小平浪平の次のような記述356頁】 に言及しておきたい12)。「電気機械工業に於ては機械関係技術者と電気関係技術者とのみでは不充分であって,化学方面の技術的協力なしには完璧を期し難いのである。特に材料関係に於いて然りであって,電気機械に於ける絶縁材料は重要な要素であるが,この絶縁材料の改良発達を他企業の成果に依存しているような状態では,単にその必要性に対する切実性を欠くと云うことからだけ見ても到底急速な発達を期待し得ないのである。結局其間空しく電気機械それ自体の改良をもなし得ない訳である。しかるに多角経営に於ては一方の進歩が他方の発達を促すのみならず,一方における改良の要請は全体の切実な課題となるのであるから,其発展のテンポは著しく昂揚されるのである。現に日立製作所に於て製作し得た絶縁材料は我国の最優秀品として自他共に認むる処であって,他企業の方にもお分けしていると云う実情である。又,例えば大きなタービンを製作するに当たって,製鋼場が無い場合にはシャフト類を他に注文しなければならないのであるが,これが注文してから出来上がって来るまでに,注文の錯綜している現在では四十数ヶ月もかかる状態であって,それから加工に半年もかかるのであるから,徒に歳月を空費して事業が遅々として進行しないことになるのである。・・・(中略)多角経営は斯かる意味で産業生産の跛行性を自らの手で修正することが可能であることに於て,多大の利益を受け得るのである」(旧字体,仮名遣いは修正済み)。

すなわち,絶縁材料や原料鋼材が容易に購入できない状況の背景とされる産業間のアンバランスな発展が,日立製作所のような電機メーカーにとっては大きな課題と考えられた。このような認識は,1949年時点における『技術白書』の認識と通ずるものである。戦時期において,小平は,これを克服するための経営戦略として,日立製作所が化学,金属へと産業分野を越えて多角経営を推進して成果を挙げつつあることを強調している。経営的には,日産コンツェルンの傘下にある日立製作所自体が,電気機械を中心としつつ関連分野を包摂した産業コンツェルンを志向していたと見てよいであろう。

敗戦後の技術水準と技術課題への認識が,戦時期と類似していたとすれば,経営的には,産業コンツェルンのような形態の再生へと向かう可能性もあり得た。実際,たとえば,東芝は,以前から絶縁材料の内製を図ってきたが,戦後いち早く,より優れた素材と考えられた塩化ビニル樹脂の進出し,1946年に試作工場を建設し,1948年には乳化重合による市販を開始している13)

しかし,時代を先取りしていえば,東芝はその後,塩化ビニル部門を東洋化学として分離,有力化学メーカーの塩化ビニル生産が急速に立ち上がってきたのを受けて,同社は塩化ビニル樹脂の生産を中止し,のちには加工専業会社へと転換していった。産業分野を超えた多角経営志向は急速に弱まっていったのである。

戦後の日立製作所が選んだ経営戦略もまた,石井晋[2022]で強調したように,原材料・素材にまで至る多角経営を整理し(日立金属,日立電線,日立化成の分社化),電気機械と産業機械に特化し,重電機,通信機,家電等を抱える「総合電機メーカー」への途であった。このような事業展開の志向性の背景となったのは,次に述べるような電機・電子関連の海外技術導入の急増であった。

357頁】

 

 

3.高度経済成長の開始と技術導入の急増

 

前述のように,1950年の外資法制定後,電機産業においては,1952年頃から海外技術導入が急速に増加していった。その具体的な数値については次節に示すが,その前に,特に技術導入が活発に行われた電子工業に関して,1950年代半ば時点における記述資料をもとにその実態を確認しておきたい。主に参照するのは,通商産業省重工業局[1957]である。なお,この資料は,通産省の産業政策である電子工業振興臨時措置法を推進するための調査報告を基にしたものである14)

電子工業における当時の基幹的な部品である真空管のうち受信管において,海外技術導入によるコンパクト化と高周波対応が急速に進んでいった15)。まず,1952年の日本における受信管生産のうち旧来型のST管が88.3%(本数ベース)を占め,GT管は7.0%,MT管は3.9%に過ぎなかった。高度成長開始期となる1956年には,ST管18.2%,GT管11.9%,MT管65.7%となり,よりコンパクトで高性能なMT管中心へと大きく置き換わった。なお,この間,受信管の生産は,2.15倍となった。このような変化は,「欧米各国の生産技術と製造設備との導入により急速になし遂げられた」16)。また,テレビ用ブラウン管に使用されるガラス・バルブは,1955年までその大半を輸入に依存したが,1954年にテレビ用ガラス・バルブ専門メーカーとして新設された旭特殊硝子が米国コーニンググラスと技術援助契約を結んだことにより国産化が進展し,1956年10月には,「月産能力10万本の全自動化式の近代工場」を完成,「需要の大部分を占める90°偏向ブラウン管の14インチと17インチの硝子・バルブの全面的な国産化に成功」した17)

電子工業において海外からの技術導入契約が殺到したのは,テレビ受像機に関してであった。主要な特許を米国RCA社,米国Westinghouse Electric(WH)社,英国Electric and Musical Industries(EMI)社,オランダPhilips社に抑えられていたことから,テレビ参入メーカーが競って特許契約を結ぼうとした。これに関して,通商産業省重工業局[1957]は以下のように記述している18)。日本の「メーカーも生産開始とともにPhilipsをのぞいた上記三者(RCA, WH, EMI)と交渉を開始し,RCA2%,WH0.7%,EMI2%と決まって各メーカーはそれぞれ契約を結び,外資審議会としては製造設備の過重投資を避けるため35社に限り認可した」。しかし,生産量の増大とともに特許料が累増(1953年度4,300万円,1955年度3億9,500万円)したことへの対策が試みられ,1956年には特許料引き下げ交渉が行われ,RCA1.75%,EMI1%(WH特許が1956年10月に失効)で妥結した。また,35社以外のテレビ製造希望メーカーに対応するため,1955年末に一括して外国特許の契約を行うテレビ振興協会が設立され,同協会に加盟す358頁】 れば自由にテレビの製造販売ができるようになった。1950年代に電子工業発展の一つの軸となったテレビ事業の拡大には技術導入が必須であったが,技術導入コスト(主として特許料支払いに必要な外貨)の増大という新たな課題が強く認識されるようになったのである。なお,非常に多くのメーカーの技術導入契約が認可され,最終的に一括した契約体制が形成されたことに示されるように,テレビ事業の新規参入に関しては,産業政策としては,ほとんど参入規制を行わないスタンスで臨んだものといえるであろう。ただし,以上の過程で示されたように,後追いで技術導入対策が採用されていったことから,通産省の事前の想定を大きく越えて,数多くのメーカーが技術導入を図ったものと考えられる。1949年の『技術白書』の認識とは異なる新たな技術課題が,急速に重要性を増してきたのである。

次に真空管に変わる新たな基幹部品として期待されたトランジスタについて見てみよう。1947年に点接触型トランジスタが,翌1948年に成長接合型トランジスタが,米国ベル研究所において発明された。工業化にはすぐには結びつかなかったが,その後,1951年に,米国RCA社において,合金接合型(アロイ型)トランジスタが開発されたことにより,量産化が始まった。日本においても,通産省の電気試験所や電気通信省(電電公社)の電気通信研究所のほか,日本電気,東芝,日立,神戸工業等の電機メーカーの技術者が早くからトランジスタに注目していた19)。トランジスタをいち早く製品に結びつけようとしたのが東京通信工業(ソニー)であり,米国Western Electric(WE)社と特許契約を結んで,紆余曲折の上,1954年2月に認可された。その後,神戸工業,日立,東芝なども特許契約のほかノウハウを含む包括的技術援助契約を相次いで締結することとなった。

これについて通商産業省重工業局[1957]は,包括的技術援助契約の対価として支払われるロイヤルティの合計額が「生産金額の最低3%から最高10%の高率となっており,トランジスタ工業の今後の急速な発展に伴って,支払われる外貨も多額に上るものと憂慮」していた20)。トランジスタに関しては,高額特許料が課題として特に強調されており,既に存在しているWE社,RCA社の基本特許については「やむを得ないとしても,今後研究され開発さるべき新しい分野も相当残されている。これらの分野が次々と外国の特許に占められる事があれば,ロイヤルティは更に増加し,わが国のトランジスタ工業の健全な発展は望めなくなるであろう」と指摘されている。なお,トランジスタについては,当時の主要原料のゲルマニウムがほとんど輸入依存であることも課題とされた。これに対して,ゲルマニウムに変わる有望な半導体であるシリコンについては,国内に無限に資源が存在していること,また半導体としての性質も優れていることから期待されており,「シリコン半導体素子の早急な開発はトランジスタ工業の振興と共に国内資源の有効利用の観点からも,今後に残された最も重要な課題」であると記されている21)

以上のように,高度経済成長開始期において,日本の電子工業の海外技術への依存度は大きく高まったものということができる。通商産業省重工業局[1957]は,「技術援助の効果と問題点」をまとめて,次のように述べている22)。「外資法制定以来の一連の外国技術の導入が,立ち遅れた我が国の電子工業技術のレベルアップに尽くした功績は,極めて大きなものがあった359頁】 と断定出来よう」。特に,海外からの技術導入によって初めて可能となったものとして,トランジスタ,レーダーおよびロラン等の航法機器,クロスバー自動交換機,多重通信装置,テレタイプ,テレビ送受信機,防衛用電子機器,各種マイクロ波利用機器などが挙げられている。

一方で,「技術提携に伴う悪影響」として,以下の4点が指摘されている。@技術提携に伴う海外送金額の上昇により,保有外貨に直接影響するほど巨額になると見込まれること。A技術提携には通例輸出地域制限が規定され,日本の自由な貿易を阻害すること。B基本的な重要事項に関する技術提携が一段落し,近年は経営の不振や技術に対する不信を打開する方策として宣伝的な意味合いの提携が多くなってこと。C企業独自の新技術を生むための努力を忘れ,外国技術への依存度と隷属性を強めていること。また,これに加え,電子機器部門特有の問題として,電子管にアメリカ方式とヨーロッパ方式の違いがあるなど,提携先技術に左右されて国内規格の統一が困難となっていること,テレビやトランジスタなど同一機種に複数の特許を必要としたり,包括契約によって生産品目の全部に一定のロイヤルティがかかることで,ロイヤルティが相当の高率となり,製品のコストダウンが阻害されていること等が指摘されている。

このような海外技術導入への高い依存度を脱却するために,通商産業省重工業局[1957]は,国内での研究体制の強化の必要性を唱えた。その際に強調されたのは,官公立の研究所と民間企業の研究所の分担の明確化し,その成果を合理的に分かち合うこと,さらにメーカーの研究の分担を円滑化するために研究が目的とする生産品目の分担を確立するために生産の専門化の促進が必要であるとの主張である。また,官公立の研究に関しては,現状でも適切に行われているが,業界の研究内容と関連して有効な態勢を構築するために,「一層緊密な連絡をとる」必要があると指摘されている。

以上のような通産省の主張の背後には,各電機メーカーが競って,同種の海外技術を導入しており,この結果,生産の専門化が十分に進んでおらず,貴重な外貨の活用のあり方として必ずしも効率的でないとの認識があった。テレビに関する海外技術導入を行ったメーカーがきわめて多数に及んだこと,トランジスタに関する技術導入メーカーは限られていたものの,特許使用やノウハウに関するきわめて多額の支払いがなされ,今後も支払いが継続し,増大する可能性が高いと予想されたことが,そのような認識に影響を与えた。ただし,その後の産業政策においても,海外技術導入が強力に抑制されたり,各メーカーの生産分野の調整による専門化などが推進されたりすることはなかった。実際に行われた海外技術導入に関わる産業政策は,海外メーカーの日本進出の抑制と海外技術導入の際の技術支払料の軽減に向けた交渉への支援であった。

海外技術導入に関わる政策とは別に,通商産業省重工業局[1957]に示された通産省の認識をもとに,広い範囲で電子工業に関わる産業政策が実施された。具体的には,大学における電子工学科の増設と拡充などを含む技術者の確保と養成,電子工業関係の試験研究補助金の大幅な増額などによる研究の促進と技術向上策,1957年5月成立の電子工業振興臨時措置法,1958年7月の電子工業振興5か年計画などがある23)。これらの産業政策については,数々の効果が指摘されており,決して小さなものではなかったものと思われる24)。このような産業政策は,360頁】 各電機メーカーの海外技術依存を抑制し,自社ないし国内での研究開発体制の拡充に経営資源を振り向ける効果をもたらした可能性が考えられる。もっとも,石井晋[2021]に触れたように,各メーカーにおいても,1950年代にはすでに海外技術導入のコストの高さが課題となっていたから,産業政策のあるなしに関わらず,自社での研究開発への取り組みはより強化されたであろう。ただし,このような自社研究開発への各社の取り組みの詳細の検討は別の機会に委ね,本稿においては,1960年代以降も引き続き増加傾向にあった,各メーカーにおける海外技術導入そのものの実態に迫っていきたい。

重要なことは,電機産業においては,1949年の『技術白書』で指摘された日本の技術水準や技術課題についての認識は急速に時代遅れのものとなり,電機メーカーは海外で続々と開発される新たな技術を求め,かなりのコストをかけて技術導入に踏み切ったことである。それは,単に戦時・戦後の技術的遅れを取り戻すためだけではなく,将来の事業展開のための先行投資であったものといえる。同時に,戦前以来の主要電機メーカーである日立,東芝は,戦間期から戦時・戦後初期にかけて見られたような化学・金属など関連分野を包摂するような産業コンツェルンへの志向性を弱める一方,先端的な電機・電子技術の導入を軸とした事業展開への志向性を強め,「総合電機メーカー」へと発展していったのである。

以下では,1950-60年代における電機メーカーの海外技術導入に関して数量的把握を試みた上で,本稿の冒頭に挙げた11社がどのような海外技術を導入したのかについて検討を進めていく。

 

 

4.1950-60年代における海外技術導入の数量的把握

 

⑴ 日本の海外技術導入

1950-60年代における日本の海外技術導入の動向を確認しておこう。図1-⑴には1950年代の動向を示した。1950年の外資法制定後,全般に急速に技術導入が増加しており,特に1952-54年にかけて電気機械(含原動機・ボイラー)が大きな盛り上がりを見せた。その後,1950年代半ばにはいったん落ち着き,1960年代末に再び増加傾向が生じる。電気機械の技術導入のうち,1953年と1957年の大きな増加は,それぞれ米国RCA社,西独Philips社との間のテレビ受像機技術に関する契約によるものである。技術導入契約の全体の動きは,好不況の波および外貨準備高の影響も受けたものと見られる(1954-55年度,1958年度に顕著に減少している)。ただし,産業ごとに異なる動きを示しており,基本的には,各産業固有の事情に応じて海外技術導入が求められ,その時々の外貨事情等の状況に応じて認可されたといってよいであろう。

 

361頁】

 

次に,図1-⑵で1960年代の動向を見ると,おおむね右肩上がりで増大している。外貨制約が次第に弱まり,また認可方針が全般的に緩和されたことの影響は少なくないであろう。産業別の動向を見ると,1950年代から1960年代初めにかけて電気機械は技術導入が最も多い産業の一つであったが,1960年代半ば以降は,化学・プラスチック製品,一般機械よりは少なくなる。とはいえ,1967-70年度にかけて,電気機械の技術導入も大幅に増加している。電機産業における海外技術依存は,高度経済成長期を通じて継続したものといってよいであろう。

 

362頁】

 

次に,図2により,1960年代の技術貿易収支の動向を確認しておこう。日本の技術貿易収支は常に赤字であり,技術導入が技術供与を大幅に上回った。この間,アメリカの技術貿易収支黒字が大幅に拡大しているのと対照的に,日本の赤字は拡大し続けた。西ドイツも日本と同様の傾向があるが,日本の赤字幅はそれよりもはるかに大きい。この点からも,高度形成成長期における海外技術依存度の高さが確認できるであろう。

 

363頁】

 

もっとも,このことは必ずしも,日本企業の技術水準がきわめて低かったことを意味するわけではない。技術援助契約のすべてが,生産や開発のために必須の技術導入というわけではなかった。日本企業が,すでに十分な技術を有しているものの,特許実施契約に抵触するケースや,外国企業の特許が成立している特定地域への輸出のために,営業上,特許実施契約が必要となったケースも少なくない。たとえば,1969年のRCA社からの電子管,Burroughs社からのガス入り表示管,Philips社からの防爆型ブラウン管は,「いずれも特許にふれるのでやむなく導入したもの」であった25)。また,電子レンジのアドバンス・トランスフォーマー社からの特許実施契約は,アメリカ,カナダ等に輸出するために締結されたものである26)。このほか,ソニーとIBMによるコンピュータ用磁気テープに関する共同開発など,相互に技術を供与しあったケースもある27)

これに関して,1950年代における導入技術契約の内容が産業別に判明している(表1-⑴)。これによると,電気機械においては,技術導入の多かった化学,鉄鋼,機械,輸送用機械などの他の産業と比較すれば,ノウハウ契約や包括契約の割合が低く,特許権実施契約が突出して多くなっている。すなわち,電機産業においては,各メーカーとも,一定水準の技術基盤を確立した上で,営業上,海外企業からの特許許諾契約を必要としたケースが比較的多かったのである。逆にいえば,海外からの導入技術なしでも生産可能であった製品が少なくない。

また,表1-⑵には,企業の技術導入のきっかけに関するアンケート結果を示した。このうち,「国内に同種技術なし」,「研究段階のものはあったが実用不能」,「国内に同種技術はあっ364頁】 たがコスト面でより有利」,「国内に同種技術はあったが品質性能でより優れる」の順に,海外技術導入への依存度が高いとみてよいであろう。電気機械に関しては,このアンケートにおいても,「特許権に抵触」が多く,他産業に比すれば海外技術導入への依存度がとりわけ高かったわけではない。このことは,同時期に,技術導入の多かった化学工業において,「国内に同種技術なし」が多くを占めるなど,技術導入なしには生産困難なケースが大半であったことと対照的である。第一次世界大戦前後から,電気化学,石炭化学を中心に発展し,戦後になって石油化学に大きく転換することを余儀なくされた化学工業に比すれば,電機産業については戦後の技術導入の影響が決定的に作用したとは言いがたい28)

もっとも,半導体やコンピュータ等先端的な技術に関しては,ノウハウ契約への依存が大きかったから,以上の数値をもって海外技術導入の重要性を過少評価することは必ずしも適切ではないであろう。さしあたりは,日本の電機産業の技術水準は比較的高く,他産業に比して欧米先進国からの遅れは大きなものではなかったが,とりわけ先端技術に関わる海外技術への依存度は高く,また営業上,特許許諾契約を必須とし,このことが経営戦略を強く規定したものといえるであろう。技術導入コストの効率的な回収が,重要な経営課題となったのである。

 

 

365頁】

 

⑵ 技術導入の経営への影響

次に,技術導入が電機メーカーの経営に与えた影響について見ていこう。これに関しては,1961年に行われた通産省により海外技術導入に関する調査資料である通商産業省企業局[1962]を利用する。同調査は,1961年3月末時点の状況に関して行われたものであり,1950年から1961年3月末までの技術導入企業610社全社を対象とした悉皆調査である。そのうち信頼ある回答が得られた460社(全対象の77%,技術導入件数では90%,技術料支払額では97%))を集計した,かなり質の高い調査である。1950年代については,この調査資料をもとにかなり詳細な分析が可能であるので,以下,これを見ていこう29)

表2-⑴は,「技術支払額」が「導入技術による製品の売上高」に占める割合(すなわち,契約上,売上高の一定割合で支払いを求められたロイヤルティ料率の平均に近い。以下では「技術支払率」と呼ぶ)の産業別推移を示した30)。全体の傾向として,1953年まで技術支払率は上昇傾向にあったが,その後比較的安定し1960年頃には2%前後となった。このうち,電気機械については,1950年代前半に非常に高い数値となっている。技術導入契約が続々と締結される一方,製品販売がいまだ十分に増加しない状況であり,導入の際の一括支払いなどイニシャル・コストの負担がかなり大きかったことが示唆される。その後,1950年代後半になると,技術支払率はかなり抑制されたが,製品によって異なり,交通信号保安装置,半導体素子,電子応用装置(コンピュータも含む),電子計測器は比較的高い割合が維持されている。なお,1950年代後半の売上高成長率が最も高かったのが半導体素子であり,テレビ,電子応用装置がそれに次ぐ。半導体,コンピュータなどの先端分野は,高い成長を実現したが,技術導入コストもかなり高いものであったことが確認できる。

366頁】

 

 

表2-⑵には,導入技術による売上高が導入企業の全売上高に占める割合を示した。産業別では機械の数値が最初から高いのに対して,電気機械は当初低水準であったのが,趨勢的に上昇し,1950年代末には40%超にまで達する。売上高のかなりの部分が導入技術に何らかの形で依存せざる得なくなっていったのである。

 

 

次に,海外技術導入と設備投資の関係を検討しよう(表3)。電気機械産業の技術導入にともなう設備投資が導入企業および全企業の設備投資に占める割合は,製造業全般とほぼ同じ傾向にあり,1952年頃から上昇し始めた。1950年代後半には,導入企業の設備投資の20-30%を占め,全企業の設備投資の10%前後を占めた。高度経済成長前半期には,設備投資においても,367頁】 海外技術への依存度を高める傾向にあったことが示唆される。

 

 

また,図3によれば,1950年代の電気機械において,海外技術導入の認可件数と設備投資額はおよそ連動した動きを示している。設備投資のために技術導入を必要としたケース,導入技術を事業化するために設備投資の拡大を必須とするケースが多かったことが示唆される。

 

 

以上のように,高度経済成長の開始とともに,電機メーカーは,海外技術の導入を急速に積極化させ,技術導入は同時に多大な設備投資をともなった。先端的な電機・電子技術の導入を軸として,技術の高度化,新製品の開発・生産によって,戦後日本の電機メーカーの事業は発展を遂げていったのである。

368頁】

 

 

5.各電機メーカーの技術導入の内容

 

⑴ 1950年代における電機メーカーの技術導入

以下では,石井晋[2022]と同様,電機メーカー11社(日立製作所,東京芝浦電気,三菱電機,日本電気,富士通信機製造31),沖電気工業,日本無線,松下電器産業,早川電機工業(シャープ),三洋電機,東京通信工業(ソニー))を取り上げ,海外技術導入の内容の分野別特徴について検討を行う。技術導入の数が多く,煩雑な作業となるが,可能な限り整理し,各メーカーの特徴を抽出することが目的である。技術を分野ごとに整理するため,「包括契約」,「電子・通信関連機器」(半導体・コンピュータとそれ以外),「重電機・電動機・産業機械関連機器」,「武器・航空機・航行関連機器」,「その他」の分類し,さらにそれぞれの分野において,類似した分野の技術をできるだけまとめた(表4の⑴から⑸まで)。また,それぞれの分野において,より早い年代からなされている契約の順に並べ,日本の各電機メーカーの列に契約年の下二桁を記した。

 

 

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まず,表4の⑴には,包括的な契約および電子・通信関連機器のうち半導体・コンピュータに関わる契約を掲げた。包括契約に関しては,三菱電機とWH社,日本電気とISE社・WE社,富士電機とSiemens社,日本無線とTelefunken社という戦前以来の関係が復活していることが確認できる。なお,重電機に関して(表4の⑶)は,東芝とGEとの間の密接な関係が復活し,新たに日立とGEとの間で技術提携が続々と結ばれていることが注目される。

戦前においては,日本の各メーカーと海外メーカーとの間の関係は包括的な契約に基づき,固定的な性格が強かったが,戦後になると双方の関係はより流動的なものとなり,さまざまな技術に応じて,複数のメーカーが同じ技術導入を行ったり,類似した技術に関して同一のメーカーが複数のメーカーと契約したりするケースが増加していった。表4⑴で注目すべきは,ほとんどのメーカーがWE社およびRCA社とトランジスタの技術導入契約を結んでおり32),1960年時点で結んでいないのは,ここで取り上げた12社のうちではシャープ(早川電機)のみである。また,IBMのデータプロセッシング装置に関しても,重電機3社,通信機メーカー3社,さらに家電の松下電器が技術導入を行っており,各メーカーとも高い関心を有していた。

表4⑵に目を転じよう。電子管に関しては,重電機メーカー・通信機メーカー・松下電器が技術導入を行っている33)。真空管市場においてはこれらのメーカーによって激しい競争が展開していたが,トランジスタに比すればメーカーは限定されていた。その下に示されている通信機器に関しては,技術導入メーカーは限定されており,産業組織のあり方は比較的安定していたものと見られる。これに対して,テレビに関する技術は,富士通と沖電気を除くすべてのメーカーが導入しており,後述するように他の多数のメーカーも参入していたから,きわめて激しい競争となった。

これ以外の分野に関しては,技術導入メーカーはほぼ限定されている。発電・変電関連機器などの重電機および⑸その他の電球・蛍光灯に関しては,一部例外が見られるものの,GE−372頁】 日立・東芝,WH−三菱電機の固定的な関係が比較的強固に維持されている。重電機関連では,大容量火力発電に関する技術導入がきわめて重要であった34)。なお,電球・蛍光灯に関しては,日本電気,松下電器も技術導入によって参入しており,この分野の競争も激しかった。このほか,三菱電機,日本電気は,レーダーなど航行関連機器に注力し,中でも三菱電機は戦闘機関連の技術を採り入れ,日立,東芝は,鉄道車両関連機器の技術導入を熱心に行っていた。

以上の整理をもとに,1950年代の電機メーカーの技術導入についてまとめておこう。

第一に,1950年代においては,重電機メーカーでは,日立・東芝が非常に多様な分野で技術導入を行い,しかも両社の技術導入のあり方はかなり類似していた。石井晋[2022]で示したように,1950年代初めにおいて両社の事業分野の構成はかなり異なっていたが,その後の技術導入を通じて,両社の事業構成が近づく傾向にあったものと考えられる。

第二に,重電機メーカーのうち,三菱電機は,日立・東芝に比すれば,技術導入の分野は限定されていたが,武器・航空機・航行関連機器に注力している点で特徴的であった。

第三に,家電メーカーのうち,松下電器のみは,重電機・通信機メーカーに伍して,かなり多様な分野において技術導入を進めており,電子管,コンピュータにも関連を示しており,のちの総合電機メーカーにより近い存在となっていった。

第四に,重電機・通信機・家電メーカーともに,ほぼすべてのメーカーがトランジスタ(半導体)技術を導入しており,テレビに関してもほとんどのメーカーが技術導入を行った。また,家電メーカーのうち規模の小さいシャープ(早川電機),三洋電機,ソニー(東京通信工業)の技術導入は,ほぼ半導体とテレビに限られていた。このうちシャープのテレビ技術,ソニーの半導体技術の導入は,重電機・通信機および他の大手家電メーカーに先駆けた動きであった。

 

⑵ 1960−70年代初めにおける電機メーカーの技術導入

次に,高度経済成長末期となる1971年3−5月時点における,電機メーカー11社の技術導入契約について検討しよう。これには,1960年代から継続している契約が多く含まれており,高度経済成長後半期における技術導入契約と見ることができる。表5においては,表4とほぼ同一の分類を行ったが,技術分野が大きく拡大したため,一部を分類し直した。⑴半導体・コンピュータ関連機器,⑵ ⑴以外の電子・通信関連機器,⑶重電機・電動機・産業機械関連機器,⑷自動車関連機器,⑸武器・航空機・航行関連機器,⑹その他,として整理し,さらにそれぞれの分野において,類似した分野の技術をできるだけまとめた。なお,各分野での順番は提携先企業のローマ字順とし,契約している日本の電機メーカーの列に○を記した。

 

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表5⑴のうち,半導体技術に関しては,シャープがこの分野に参入したことにより,対象とする全11メーカー35)が技術導入を行った。また,新たに登場した集積回路(IC)についても全メーカーが技術導入を行っていた。特に,半導体への進出が遅かったシャープ(早川電機)が,North American Rockwell社から,当時最先端のMOS型大規模集積回路(LSI)の技術導入を行ったことが注目される。シャープが力を入れていた電卓の小型化・省電力化の推進のために,Rockwell社によって設計されたLSIの安定供給を目ざして社内生産に乗り出したものである。よく知られた出来事であるが,シャープのRockwell社との提携は,それまでシャープにICを供給してきた日本の半導体メーカーにとって衝撃的な出来事であった36)。このほか,重電機(総合電機)3社と富士通が大電力用トランジスタについて,松下電器が太陽電池について,技術導入を行っている。各メーカーは競って半導体技術を導入するなど類似した戦略を展開していたが,その活用に関して特色を出そうと努めていたことには留意しておくべきであろう37)

表5⑴のうち,下段にまとめたコンピュータ関連機器に関しては,総合電機メーカーと通信機メーカーが主な技術導入メーカーであり,松下電器以外の家電メーカーの本格的な参入は見381頁】 られない。また,総合電機メーカーの中では,日立,東芝が,三菱電機に比してこの分野の技術導入に積極的であったように見える。なお,富士通の技術導入契約はIBMとの一つのみであるが,富士通は,この時期,コンピュータの自社開発を重視していたことに留意する必要がある。

次に表5⑵ ⑴以外の電子・通信関連機器であるが,この分野の技術導入は,1950年代に比して,大幅に増加した。また,応用範囲が限られた専門性の高い技術が少なくない38)。1960年代おいて主要な技術導入であったのは,カラーブラウン管,カラーテレビ,ビデオテープレコーダーなどである。カラーブラウン管に関しては日立,東芝,三菱電機,日本電気,松下電器39),ソニーの6社が,カラーテレビに関しては日立,東芝,三菱電機,日本電気,松下電器,シャープ,三洋電機,ソニーの8社が,ビデオテープレコーダーに関しては日立,東芝,日本電気,松下電器,シャープ,三洋電機,ソニーの7社が技術導入を行っていた。

表5⑶重電機・電動機・産業機械関連機器のうち,重電機に関わる技術導入は,依然として,GE-日立・東芝,WH−三菱電機の関係が強固に継続している。このほか,1960年代の新たな動きとして,松下電器の家電に関連するモーターの技術導入が比較的多いこと,東芝の重電関連機器の技術導入が日立に比して多いこと,一方,日立に関しては,産業機械関連の技術導入が数も多く,多岐にわたっていることが指摘できる。このほか,富士通と沖電気が,数値制御装置の技術導入を行っていることが注目される。電子技術により工場生産のオートメーション化をより効率化する動きであり,通商産業省重工業局[1957]において注目され,期待されていたものである40)

表5⑷自動車関連機器の技術導入は,日立,三菱電機に限られている。1950年代にはほとんど見られなかったものであり,1960年代以降の日本の自動車産業の発展と並行して生じた動きである。

表5⑸武器・航空機・航行関連機器についても,技術導入の件数は大幅に増加している。1950年代から引き続いて,三菱電機の技術導入件数がトップであるが,日本電気もかなり積極的な導入を行っており,東芝,富士通がそれに次ぐ。

表5⑹その他については,ほぼ日立,東芝に限られるが,日立は車両関係の技術導入が多く,東芝が素材関連の技術導入が多い点が目立つ。

以上の整理をもとに,1960年代から1970年代初めの電機メーカーの技術導入についてまとめておこう。

第一に,電機メーカーの技術導入は,短期間での急増が見られた1950年代に比しても,大幅382頁】 に増加した。そのなかでも,半導体・コンピュータ関連機器およびそれ以外の電子通信機器に関する技術導入が目立つ。また,汎用的な技術だけでなく,細分化した各分野における専門性の高い技術導入が増加した。1950年代に比すれば,より高度な電子技術の導入を経営の軸とする傾向がより強まり,各メーカーとも競争優位に立てる分野をより深く探りながら,激しくひしめき合っていたと見ることができるであろう。

第二に,1960年代においても,半導体の技術導入は,全メーカーにとって必須であり,新たに集積回路が登場したこと,さまざまな機能を持つ半導体が開発されたことにより,関連する導入技術が増加した。特に,総合電機メーカー3社および日本電気,富士通は,数多くの技術導入を行い,半導体製品の幅を広げていった。また,家電メーカーの中でも,シャープが電卓などを通じて半導体事業に本格参入し,三洋電機も家電向けのリニアIC開発を進める一方,発光ダイオードなど半導体の多様な可能性を追求41)するなど,規模に劣るメーカーであっても半導体事業への注力が目立った。

第三に,1950年代に引き続いて,総合電機(重電機)メーカーが,最も多岐にわたる分野での技術導入を行い,多角的展開のための技術基盤の拡充が重視され続けた。ただし,3社それぞれの技術導入分野の特徴がより強く表れるようになった。半導体および電子機器に関わる技術導入を重視したことは共通しているが,日立はコンピュータ,産業機械,自動車関連機器,鉄道車両を,東芝はコンピュータ,重電機器,素材を,三菱電機は自動車関連機器,武器・航空機・航行関連機器を,それぞれより重視した。

第四に,通信機メーカーについては,企業基盤となる通信機器の技術基盤の拡充は引き続き進められたが,これに加え,半導体および電子機器に関する技術導入が重視された。その中でも,日本電気は半導体,家電,武器・航空機・航行関連機器を重視し,富士通はコンピュータ,数値制御装置を重視するという特徴が見られた。沖電気,日本無線の技術導入は,日本電気,富士通に比すれば限定的であったが,通信機器から半導体,電子機器へと多角展開する傾向は共通に見られた。

第五に,家電メーカーにおいては,1950年代に引き続き,松下電器は多様な分野の技術導入を進めており,事業分野を拡大する志向性が継続していた。これに対して,シャープ,三洋電機,ソニーの技術導入は限定的であったが,家電の種類の多様化とともに,電子レンジ,ビデオテープレコーダーなど,技術導入分野の若干の拡大が見られた。

 

 

6.おわりに

 

本稿においては,戦後における主な日本の電機・エレクトロニクスメーカー11社を中心に,海外技術導入の実態を数量的に確認し,各メーカーの技術導入の内容的特徴について明らかに383頁】 した上で,海外技術導入が各電機メーカーの経営に与えた影響についての整理と分析を行った。新たに確認された事項および重要と考えられる事項については行論で述べているが,以下では本稿全体として強調すべき点と,今後の研究につながる課題について言及しておきたい。

第一に,戦後日本の電機メーカーは,電子技術の応用分野の拡大と技術の高度化を軸に事業を展開した。高度経済成長末期まで,そのような事業展開のためには,海外から導入された先端的な技術に依存することが必須であった。このことは,高度経済成長期の電機メーカーが,戦前から戦時期および戦後初期にかけての主要な技術的課題であった部門間のアンバランスな発展の克服とは異なる新たな課題に直面したことを意味する。戦前以来の技術部門間のアンバランスな発展に対する一つの克服策は,日立製作所の小平浪平[1940]が主張したような電機産業を越えた多角経営であった。しかし,戦後の日立や東芝が選んだのは,そうした戦前以来の経営戦略ではなく,電機産業を越えた多角経営を整理し,より電機に特化した「総合電機メーカー」への途であった。戦前以来の事業展開の歴史を踏まえるならば,「総合電機メーカー」とは,重電機だけでなく家電,電子・通信機器など電気・電子関連機器を手がける志向性によって成立した,というような一般的な見方よりは,電気・電子の導入技術に軸を置き,関連性の高い事業分野に志向性に基づく事業展開であった,と考えた方がよいように思われる。高度経済成長期末までの日本の条件のもとにおいて,このような事業展開を推進するためには,海外からの技術導入に依存することが必須であり,技術導入コストが膨らんだ。このような技術導入コストを効率的に回収するために,できるだけ早急に,かつ多様な製品の開発につなげる経営展開が強く求められるようになった42)

第二に,終戦直後において,日本の技術の「模倣的性格」,技術部門間のアンバランスな発展,各分野のセクショナリズムと連繋の不足,基礎研究から応用研究への接続の不円滑,日本で開発された技術への不当な評価などの課題が指摘されていた。戦後の電機産業において,戦前をはるかに上回る技術導入がなされたため,「模倣的性格」は根強く継続したものと見られる。しかし一方で,導入技術の徹底した活用を通じて,主に家電製品市場において,世界的にも評価される新たな大衆製品を続々と生み出した。ラジオ・テレビにおいては,高度経済成長の進展とともに高品質・高性能な製品が日本メーカーによって開発されるようになり,1970年代以降はVTR,民生用ビデオカメラなど日本発の製品も開発され,世界に普及していった。そうした意味では,技術の「模倣的性格」そのものは次第に克服されていったものと見ることができるだろう。

ただし,技術の「模倣的性格」と密接に関連していた,技術部門間のアンバランスな発展,各分野のセクショナリズムと連繋の不足,基礎研究から応用研究への接続の不円滑,日本で開発された技術への不当な評価などについては,時代とともにその課題のあり方は変化したものの,軽視しえない問題であり続けたように思われる43)

第三に,石井晋[2022]および本稿によって,各メーカーの事業分野別構成の特徴の多様性,および各メーカーが競合してきわめて激しい競争が展開された分野を明らかにした。重電機(総合電機),通信機,家電のそれぞれのグループごとに類似した事業・技術導入戦略が見られ384頁】 たが,各メーカーそれぞれの事業や技術導入の分野構成はかなり多様であり,重視した導入技術にもメーカーごとに異なる特色が見られた。各メーカーはそれぞれの優位性を活かしながら,企業全体としては,それぞれの差別化された事業構成の特徴を有効に活用しながら競争を展開していたものといえる。電機産業においては,製品の範囲が限られた自動車産業などと異なり,「何を作るか」という事業分野のポートフォリオをめぐる経営戦略がきわめて重要であり,少なくとも高度経済成長期においては,その適切な解のセットとしての,電機メーカーの事業展開構成のあり方にはかなりの多様性があったことを強調しておきたい44)。各メーカーは,高い技術導入コストをできるだけ早急に,多様な製品の開発によって回収することを動機づけられ,適切な解のセットを探りながら激しく競争した。この結果,それぞれのメーカーの特徴が形成され,高度経済成長末期に至るまで比較的高いパフォーマンスを実現したのである45)

 

385頁】

参考文献

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