35頁】

 

現代の「日本的経営」論(8)

 

手塚 公登・小山 明宏

 

T 批判的な「日本的経営論」

 

1.「日本的経営論」の「経緯」

21世紀となった今,すでに述べている通り,「日本的経営」と言っても,たとえば日本の学会においても注目される,あるいは人気のあるテーマというわけではない。ただし,すでにかなり前から筆者らが以前の稿で指摘しているように,これをテーマに採り上げた研究・本は相当昔からあれこれと存在していて,もちろんそのすべてをここで顧みるのは筆者らには荷が重すぎることであるが,それを筆者らなりに整理して考えることは,意味はあるだろう。

ここで述べておく必要がある。筆者らが大学生だった頃は,経済経営関係の学部には「マルクス経済学」,「近代経済学」というタイトルで授業が開講されていた。近代経済学は更に価格理論,国民所得理論という2つに分類され,1年次からその入門的な講義を聴くことができた。筆者の一人は「近代経済学」,「マルクス経済学」について,教養課程で前者が経済通論第1,後者が経済通論第2という科目で開講され,特に後者は資本論を材料に1年間講義が行われて,社会批判の考え方を知ることができたという気がしていた。ただ,現時点で振り返ると,筆者らにはここには2つの問題が見えているという気がしている。

一つ目は,現代の大学では,経済経営関係の学部には「マルクス経済学」,「近代経済学」というタイトルの授業はもはや開講されていないことである。おそらく日本でのマルクス経済学の教育・研究の中心的な役割を果たしていた(と思われる)東京大学,中央大学には,現在はこの内容の科目は必修科目からは外れているようで,たとえば中央大学では「マルクス経済学」は選択科目になっていた記憶がある。そして多くの大学で「近代経済学」はミクロ経済学,マクロ経済学という2本柱として入門・応用の2段構えで開講されているようである。マルクス経済学という「科目」はどのようにして開講されているか,あるいはそれを学ぶチャンスはどのように作られているのだろうか 1)

二つ目は,「マルクス経済学」というものの解釈であろう。筆者の一人はドイツに5年ほど滞在し,ドイツのさまざまな経営学者たちと交流する機会を持った。そこでは日本の経済学・経営学教育について幅広く議論する機会を得たが,日本の大学では「近代経済学」,「マルクス経済学」という2つが経済学の基本として開講されていると話したとき,マルクス経済学とは何だ,と皆に聞かれたことである。Marxistische Wirtschaftstheorieという訳語がどの程度適切かということもあるかもしれないが,彼らは皆,マルクスの主張は経済学ではない,社会学,歴史学だ,と共通して答えていたことである。このような指摘を受けたのは生まれて初めて36頁】 だったことと,ドイツ語で彼らの主張を聴くことがとても面白かったことで,日本とドイツのさまざまな違いの存在を意識していたうちの大きな一つとして,これを認識したのであった。

ただ,だからといってマルクス経済学がもはや意味はない,などということにはならないのは誰もが認識することと信じている。

日本では戦前からマルクス経済学はとりわけ東京大学で熱心に採り上げられていたと聞いているし,そこを巣立って大企業に就職し,トップとなった人たちも大学時代に勉強した知識を大切にしていたと思っている。一説では昭和30年代くらいまで,大企業の社長室には本棚を開けると資本論が入っていたものだ,などという話も聞いた記憶がある。

まあ,21世紀,この2023年において,当時のマルクスが目の当たりにしていた社会状況がそのまま存在しているかはわからない。

ただ,マルクスは『資本論』第1巻「資本の蓄積過程分析」で,資本主義のもとでは労働者階級の状態は悪化し,窮乏化(Verelendung)せざるをえないと論じたそうで,これは「窮乏化法則」と呼ばれているそうである。そしてWikipediaによれば,最終的に資本主義はその内在する矛盾によって社会主義革命を誘発し,労働者階級のプロレタリア独裁を経て階級のない共産主義に必然的に至ると考えた,とある2)。労働者の窮乏化というコトバは使用に注意を要するであろうが,現代日本における労働者,とりわけ昨今話題になっている我が国における賃金上昇のストップ傾向などは,ひょっとしたらそれにあてはまるのであろうか。

このような議論は経済学での話であり,経営学の分野でこのような見方があてはまるかは,断言はしづらいであろう。ただ,経営学の分野において「批判経営学」というものがある(あるいは「あった」)ことは知られている。

ブリタニカ国際大百科事典によれば,それはマルクス主義経営学ともいわれる。企業を一つの個別資本と考えて研究対象とし,労働者階級の立場から経営問題を取扱って社会の基本的な矛盾との関係でこれをとらえ研究する経営学の一分野であるとされる。

ここでなぜこのような議論を採り上げたかというと,日本的経営についても,そのような立場から検討が行われたものがないかという興味があるからである。

筆者らはこうして,いくつかの「批判経営学」に属するのではないかと考える著作にあたり,その内容を筆者らなりの考え方から検討することを試みた。

まず目を向けておかなくてはならないと思われるのは,マルクスが採り上げた世界は「労働者」と「資本家」の関係,あるいはそこに発生している問題点が採り上げられる,ということであろう。そうするとおそらくひとりでに,批判経営学の観点から日本的経営について論じる場合には「労働問題研究」というものが中心に据えられることになると思われる。

こうして筆者らは,まず次の2つについて考察してみることにした。

熊沢 誠,日本的経営の明暗,筑摩書房 1989

西山 忠範,日本は資本主義ではない,三笠書房 1981

 

37頁】

2.日本企業の労働問題・・・「日本的経営」の負の側面

熊沢 誠,日本的経営の明暗,筑摩書房 1989,の目次は次の通りである。

 

序にかえて──日本の職場を点描すれば

  1  「豊かさ」を疑う「声」

  2  残業の論理と心情

  3  セールスマン考

  4  退職勧奨のうら・おもて

 

第一部  <日本的経営> の明暗

T  労務管理の惰力──<東芝府中人権裁判>分析

  1  特殊なケース・グローバルな問題

  2  ある職制の「生活指導」

  3  圧迫の日々

  4  つくられる「無能力」

  5  インフォーマルな慣行と差別

 

U  査定される従業員──人事考課の論理と作用

  1  人事考課の枢要性

  2  規程上のシステム

  3  人事考課の日本的特徴

  4  評価要素の諸相

  5  組合規制の可能性

  6  人事考課と賃金格差

  7  「日本的能力主義」下の選別と統合

 

V  <日本的経営>とヨーロッパ労働者

  1  <日本的経営>の適用と適応

  2  訪れた企業と工場

  3  採用と雇用の管理

  4  生産のハードウェア

  5  生産のソフトウェア──フレキシビリティ

  6  規律のきびしさ

  7  シングル・ステイタス──処遇基準の平等化

  8  賃金査定の導入

  9  労働組合への対応

  10  総括──ヨーロッパの受容と抵抗

 

W  アジア日系企業における労働の状況

38頁】

  1  合弁企業と〈日本的経営〉

  2  A韓国社の労働条件

     @ 韓国の条件

     A 雇用調整

     B 賃金─その形態と水準

     C 労働時間,交替制,休暇

     D 経営権と規律

     E 労使関係の枠組み

  3  タイの日系企業──訪問工場の概要

  4  工 場

  5  労働者たち

  6  賃金決定

  7  労働時間,交替制,休日の状況

  8  規律と懲罰

  9  組合不在のコミュニケーション

  10  日系企業の適応──慈恵と専制

 

X  <日本的経営>の光と陰

  1  生産者倫理と平等

  2  能力主義的選別と統合

  3  労働者思想の四象限

 

第二部  企業社会の現在

 

国鉄「改革」・一九八七年日本

 

「雇用均等法」下の職場──男と女の「共苦」と「共闘」

  1  性差別撤廃への画期性

  2  労務管理の対応

  3  能力主義の鈍化

  4  男と女の職場社会

  5  <機会均等>を超えて

 

<組合ばなれ>の背景

  1  四つの「最低」

  2  労働者構成の変化

  3  雇用形態の多様化

  4  押し出される正社員

  5  選別・査定・競争

  6  強制された主体性

 

39頁】

<組合ばなれ>の<民主主義>

  1  〈組合ばなれ〉の諸要因

  2  戦後日本の価値観をめぐって

  3  労働者の適応──中高年層

  4  労働者の適応──若者たち

  5  逆転の契機

 

あとがき

 

一見しておそらくおやと思うと考えられるのは,そこでの「日本的経営」というコトバの意味であろう。

すなわち,そこで熊沢教授(以下「著者」)が考えておられるのはいわゆる「日本的経営」の負の側面だと思われるからである。

この目次を見て最初に得る印象,あるいはキーワードになると思われるものを挙げるとすれば,何をおいてもまず「残業」,そして「能力主義」に関するものとなるであろう。「セールスマン考」という題名も,セールスマンは残業が多く苛烈だ,ということであるが,私たち筆者らにとっては,よく考えてみると「セールスマン」というコトバはあまり尊称とは考えられない気がしている。たとえば営業担当,などという呼称ならば財務担当,会計担当などと並べて使われ,会社内での役割分担を思わせるものだろうが,筆者らの感触としてセールスマンというコトバは町を廻って売って歩く人,というなにがしか軽く評価している意味合いを感じている。勤勉に働いてもセールスマン(など)は正当には報われない,という発想が背後に感じられるのだが,いかがだろうか。

また,時代の違いもあるだろうが,「労務管理」というコトバも象徴的であろう。現代においては労務「管理」というコトバはもはやあまり使われていないと考えるのが妥当ではないか。せいぜい「人的資源管理」となっていると思われる。

そして著者の基本的な考え方がはっきり現れているのが,V〈日本的経営〉とヨーロッパ労働者,の章であろう。その「1〈日本的経営〉の適用と適応」では,次の叙述がある3)

日本の会社は,従業員の選び方,働かせ方,支払い方,労働関係などにおいて,ある明瞭な独自性を持つ。その〈日本的経営〉は・・・

・・・総じて日本のサラリーマンには受容され,世界の管理者には,パフォーマンスの面でも「平等と参加」という理念の面でも,まずもって高く評価されている。それゆえ日系企業は,その誇りと自信をもって,とりあえず外国人労働者に対しても〈日本的経営〉を適用しようと試みるだろう。

 

本書の公刊は1989年であるから,まだまだバブル経済がこれから絶頂を迎えようとする時期で,日本企業の経営が優れていて,そのおかげで日本企業が発展しているんだ,と(いわば)信じられていた時代である。であるから,その後このバブルが激しく破裂して,「人本主義」が否定され,長い暗黒時代に入った結果,日本的経営があれこれと可視化され,見直しが行わ40頁】 れたことはここでの視界に入っていないことは注意しておく必要がある。

そして本書の一つの中心となる叙述が現れる。p. 177から次の叙述がある。

 

2 能力主義的選別と統合

しかしながら,最近しばしば見受けられるような,〈日本的経営〉を留保なく「人間尊重」のシステム運用とみなす見解には,私はとうてい与することができない。

 

これははっきりと,当時出現・流行していた「人本主義」への反論である。ただ,人本主義というのは,本来は資本主義というコトバに対峙させたものであるから,ここでの叙述は多少理解が十分ではなかったことに起因するものだったかと思われる。もちろん当時のこの用語の主張者には,日本企業は株主よりも従業員を大切にしている,そしてそれはすなわち従業員に優しくしている,という印象・理解を与えかねない説明があったことは否定できないであろうし,それはこの主張者の本位であったかどうかはわからないと筆者らは思っている。

そして本書のこのあとの叙述も,現代の目から見ると多少「おやっ」と思わせるものがあると,筆者らは考えている。すなわち(いわばアメリカ流の)「競争」をこの著者は好ましいと思っていないらしいことである。競争,あるいは「(自然)淘汰」というのはまさにアメリカ流の経済学では出発点的な基本ルールであろう。

著者が「日本的能力主義」と呼ぶモノについては,筆者らにとっては理解しやすいものではない気がする。著者が大きくとりあげる東芝府中でのトラブルについては,筆者らはこれだけでは十分には理解できないのでコメントすることはできないが,ここに書かれた労働組合との関連に関する叙述は,おそらく日本企業においては過去,かなり頻繁に起こってきていることと考えている。ただ,いわゆる人事考課,すなわち従業員としての評価の問題と考えると,このことは当人の「能力」とどのような直接的な関連があるのか,についての叙述は,筆者らは本書にはみつけることはできていない。「能力主義的選別と統合」というタイトル,そしてそれをあまり肯定していないのは,まさにそれこそ「日本的」かもしれないとも思われるのである。

筆者らがもうひとつ,すぐには理解できない叙述は同書の204ページからにある。

 

・・・。関西経営者協会の豊田伸治のことばを借りれば,「均等法の最も大きな役割は,日本企業に新しく( )競争原理を持ち込んだことにある。・・・・・・・・・・個人の能力で評価することになる結果,男だろうと女だろうと,仕事のできる人間だけが生き残る『適者生存』の原則を,経営側ははっきり打ち出す」(『読売新聞』86年4月1日)というわけである(筆者らが太字化したこの( )マークの部分は,おそらく著者が挿入したものかと思われる)。

 

そして著者は,「コース制」,「専門職」などの新規名称・制度はその施策であるとし,会社側にとってのその目的が,残業に関する女性保護のかせを外すため,だとしている。前述の豊田伸治氏の発言として,

 

・・・コース制のほか,男女ともに適用されるかたちで拡充される施策として・・・・・・人事考課の対象拡大───たとえば女性についても「残業に協力してもらえるかどうか」を問41頁】 題にする・・・をあげている。総じて階層としての女性への差別が後退し,個人としての社員の選別が進むというべきであろう。

 

この著者にとって残業は非常に非難されるべきものなのだと思われ,本書の全般にわたって採り上げられている。もちろんそこには,現実に行われているとされる「際限ない残業」への思いがあるのでは,ということで,理解することはできる。ただ,「階層としての女性」という用語は大変印象的で,筆者らにとっては寡聞にしてあまり耳にしていないものである。

ただしその後の叙述では,現代社会での男性,女性にとっての体制の現状,制度やシステムの問題点,制約にも言及している。206ページには,

 

機会が開かれることと,機会への挑戦が常態になることとは,全く別である。

 

とあり,その後のあちこちで,現代日本社会に存在している「女性のあり方観」との齟齬を指摘しているのは大変理解でき,賛成できるものである。男性・女性同等に機会が提供されても,それに同等に「挑戦」できるかは,現状,すなわち現在の世界で男性・女性が置かれている立場が大きく影響するのは確かだからであり,この意味で著者の見解は全く正論であろう。

 

関西経営者協会の豊田伸治氏の発言とされる「個人の能力で評価することになる結果,男だろうと女だろうと,仕事のできる人間だけが生き残る『適者生存』の原則を,経営側ははっきり打出す」という表現については,著者はそのまま肯定しているかはわからない。特にそこでの『適者生存』という表現に著者は反応しているように思われる。前述の通り,「競争」はその結果として「自然淘汰」をもたらすとすれば,淘汰された者はどうなるのか,という思いを著者は持つかもしれない。ただ,組織内ではそれはずっと生じてきているものではないか。そこには淘汰された者の処遇,そしてその前段階として評価(人事考課)の正当性,客観性,妥当性といういわば永遠の課題も存在しているからである。

本書を筆者らが読む限り,著者は日本企業の人事考課制度について賛成しているようには思えず,それは著者が「日本的経営」と呼ぶものの一部を形成していると著者が捉えているようなので,この意味では著者は,筆者らがすでに述べた通り,いわゆる「日本的経営」の負の側面を問題視することを重視していて,それは最終的には著者の結論となるのではないか。

筆者らは日本的経営について,正の部分と負の部分があることは理解している。そしてその負の部分は当然,改善されることが望ましい。ただし,本書でどうもある程度批判的に展開されていると思われる,企業における女性の進出については,偶然今,現代においてはとりわけ重視され,採り上げられているテーマで,それを推進するためには,いわゆる「現実論」はある程度踏み越えられなくてはならない,と現在は思われていると感じている。もちろん本書で著者はそれが無理だ,不可能だと明言しているわけではないとしても,実態から判断して悲観的な見方が強調されているとすれば,現代とは時代が違うことを考えても,肯定はされない部42頁】分になるであろう4)

 

3.日本は資本主義ではない・・・「資本主義」の意味・意義

西山 忠範,日本は資本主義ではない,三笠書房 1981,の目次は次の通りである。

 

第一章  現代日本は資本主義社会ではない

─アメリカ企業の自己資本比率が五〇〜六〇%,個人株主率が七〇%であるのに対して,日本では各二〇%,三〇%にも達しない。

  1  日本は資本主義か

  2  資本主義と考えると説明できないことが多すぎる

  3  日本人は資本主義が嫌い

  4  資本主義はもう古い

  5  日本資本主義崩壊論の基礎

 

第二章  管理労働者としての日本の経営者

─現代日本企業を支配するのは「資本家」ではない。所有でなく,占有によって経営者=管理労働者が支配している。

  1  資本から労働ヘ

  2  管理労働者による企業支配の確立

  3  血統よりも組織を重視——日本人の忠誠心

  4  現代日本企業の目的は何か

  5  日本では資本家としての没落は直ちに経営者としての没落ではない

  6  日本的な支配構造の多元性について

  7  現代日本企業には「所有と経営の分離」はない

 

第三章  日本企業の疑間を解明する

─経営者に従属している日本の公認会計士は報告書に「不適正」といえないのに,欧米では点の辛い公認会計士ほど繁盛している。

  1  取締役会・公認会計士制度はなぜ機能しないか

  2  「引退の花道」が認められるのはなぜか

  3  「総会屋」がいるのはなぜか

  4  乗取り(T.O.B)がないのはなぜか

  5  日本企業の株式資本はなぜ少いか

  6  交際費よりも配当額が少いのはなぜか

  7  労働者共同体の行動様式

  8  階級の崩壊により生ずる労働者としての同質性

 

43頁】

第四章  資本家の没落

─松下幸之助,高島屋の飯田一族等の日本の資本家は,高度成長期に持株比率を急激に下降させ,今ではたんなる経営者でしかない。

  1  現代日本に資本家は存在するか

  2  日本の資本家はいつ没落したか

  3  松下幸之助の没落

  4  資本家の急速な没落—高度成長期

  5  トヨタ自動車工業—豊田家の没落

  6  株式買占めの対象となった会社──資本家は「労使共同の敵」

  7  日本楽器のケース

 

第五章  日本経済成長の秘

─資本に乏しい日本は,成長のために良質な労働力を必要とした。それを支えたのは「二宮金次郎」的な勤勉を重視する教育だった。

  1  脱資本主義社会の特色

  2  「手本は二宮金次郎」

  3  日本にイデオロギーはないか

  4  フリードマンは半分しか正しくない

 

第六章  現代日本社会の問題点

─外国資本が日本の企業の株式を買占めて乗取りを成功させ,日本が外国に従属する形での資本主義が復活する可能性。

  1  脱資本主義に特有の問題

  2  資本主義復活の危険

  3  構造的腐敗の拡大と人間疎外

  4  脱資本主義社会のイデオロギー

  5  アニマリズムとヒューマニズム

 

巻末付表

 

あとがき

 

ここでまず,一応注意しておくと良いと思われるのは,西山教授(以下「著者」)が使っておられる「資本主義」というコトバの意味である。筆者らの記憶では「日本は資本主義ではない」という言説は1980年代後半にたびたび耳にしたコトバであったと思う。それは当時伊丹教授が「人本主義」というコトバを使い始めた時に耳にした記憶がある。筆者らの理解が大きく間違っていなければ,「資」本主義,すなわち日本の株式会社は資本の出資者である株主のベネフィットを第一に考えて発展してきたと言うよりも,会社の仕事を背負い,その発展に寄与してきた従業員の存在が第一の意味を持ってきたのだ,という考え方から「資」本主義ではな44頁】く「人」本主義なのである,より正確には「従業員人本主義」と呼ぶことが適切である,という考え方であったと思う。

一方,著者のおっしゃる「資本主義」は,どうもその対語は「社会主義」あるいは「共産主義」のようなものであるように思われるのである。同書にもこの用語は出てきていて,経営学研究者がおそらくすぐに思いつく「人本主義〜資本主義」という対応とはかなり異なっているのではないか。

ただし,著者の考え方は「経営者対労働者(従業員)」という対峙関係を重要な視点にしていると考えることができると思う。筆者の一人はかなり以前,日本経営学会での討論で著者が質問されたのを直接聞いたことがある。発表者に対し,「あなたの意見では,それでは経営者が従業員の労働を詐取している,ということになるのですか」と質問された記憶がある。発言内容は原文としてこれが正確ではないかもしれないが,当時は「おやおや」という気がして,結構驚いて聞いていたのであった。ただ。資本家による労働者からの搾取,という考え方を思えば,いわゆる批判経営学としてはありうる議論であるし,「経営者対労働者(従業員)」という構図は,まさに現代経営学における,初期のエージェンシー理論での基本的なセッティングに他ならないことは現代では明らかである。

 

本書での著者の主張については,ある程度誤解を恐れずに述べれば,現代においてはかなり明らかになっているテーマに対して,当時のデータ・情報に基づいて行われた,著者の思いが発露されたものだった,と筆者らは考えている。

 

第一章  現代日本は資本主義社会ではない

─アメリカ企業の自己資本比率が五〇〜六〇%,個人株主率が七〇%であるのに対して,日本では各二〇%,三〇%にも達しない。

  5  日本資本主義崩壊論の基礎

 

における著者の議論は,現代においては全く目にすることはないものである。

 

日本企業の自己資本比率が欧米よりも低いことは歴史的に主張されている。ただ,現代においては,各国の企業の自己資本比率が各国の資金調達事情,投資環境によって形成されていることは研究者以外にも衆知のこととなっている。たとえば,ネットにも次のような,まさに適切な解説がある5)

 

製造業など固定資産を多く使う業種は,20%が目安になります。商社や卸売業など,固定資産が少なく,その代わりに流動資産である売掛金や在庫などが多い業種は15%が目安になります。情報通信業のように,IT企業が多い業界では設備投資があまり必要がないことから,40%を超える企業が多く存在しています。

自己資本比率は,業種によって大きく異なります。以下に,中小企業庁「平成30年中小企業実態基本調査」による業種別の黒字企業の平均を掲載しましたので,参考にしてください。

 

45頁】

 

大学の授業でもこういうサイトは参照され,学ばれている。法人株主が多いのは,貸付先や取引先との関係の維持・強化が目的であることが多いため,個人株主と比べて大口の安定株主となりやすかったということは,今は明白である(いわゆる株式の相互持合い)。また,戦後,財閥や政府が保有する株式を個人が保有することを推奨する「証券民主化運動」が起こり,1970年代には個人株主の持ち株比率が40%近くに達したが,その後,資本自由化もあって,企業は外資から経営権を守るため,銀行などとの株式持ち合いを加速した。そしてバブル経済の破裂とともに日本企業の成長期待も崩れたとされ,2011年度以降,個人株主比率は徐々に低下し,最近は20%を割り込んでいる。ただ,衆知の通りアベノミクスの一環として株式の相互持合いはその後制約されている。その根拠は,アメリカ流の市場理論から,発行された株式があまり自由に売買されないのは完全競争を理想とするアメリカ的な市場経済理論に反するから,ということのようである。また,個人株主が少ないことについても,日本で個人投資家が増えない理由のひとつは,「単元株制度」にあると考えられている。単元株制度では,企業は定款で一定の株数を1単元とすることを定めることができる。2018年10月1日より,全国の取引所において株式の売買単位が100株に統一されたため,現在では,すべての株式が100株単位で取引されており,投資予算の多くない個人投資家には大きな制約になっているとされる。

 

そのあとの内容を目次に従って見ていっても,「占有」という概念の下で,経営者=管理労働者,という主張がある。この概念は,筆者らには勉強不足もあってかよくわからないものである。第三章以下も,たとえば「総会屋」はいなくなっているし,乗取り(T・O・B)は多数起こっているし,日本企業の株式資本は前述の通り少なくはない。「乗取り(正確には乗っ取り)」というコトバは,誠に懐かしいものである。現代で言うM&Aは,昔は「乗っ取り」46頁】と呼ばれたのである。take overには,確かに「乗っ取る」という意味はあるだろうし,これをドイツ語にするとEntführungという単語も出てくるが,これは今でいうハイジャックのような意味である。また,取締役会はなぜ機能しないか,と言う節についても,21世紀初頭の会社法改革まで,日本の株式会社の取締役会は,業務執行とその監督という一人二役を行っていた(いわゆる一層構造ガバナンス)ので,アメリカの教科書で言うようなコントロールはできなかったからであることは,今は知られている。いわゆる「コーポレートガバナンス」概念の進展である。

「資本家」というのも懐かしいコトバである。著者が念頭に置いている「資本家」はマルクス経済学で言及される資本家(Kapitalisten),だと思うが,だとすると現代,21世紀における世界中の資本家は,どのような姿のものであろうか。また,いわゆる創業者が持ち株を減らすことを著者は「没落」と名付けておられるが,それは,そういうことであろうか。

最後の章,

第六章  現代日本社会の問題点

では,

─外国資本が日本の企業の株式を買占めて乗取りを成功させ,日本が外国に従属する形での資本主義が復活する可能性。

という副題が特徴的だが,これはまさに21世紀の現代日本に起こっていることである。そしてそこでは政府が主として陰に動いて,外国資本が我が国の重要企業を「所有」することにならないように調整していることも,我々は知っている。

また,

第五章  日本経済成長の秘

─資本に乏しい日本は,成長のために良質な労働力を必要とした。それを支えたのは「二宮金次郎」的な勤勉を重視する教育だった。

  2  「手本は二宮金次郎」

においても,著者が「アニマリズム」と呼ぶのは,どうも二宮金次郎のような勤勉さのことのようである。その源は1960年代に取り沙汰された「エコノミック・アニマル,日本人」という用語らしくて,これも大変懐かしいコトバではあるが,それは現代において肯定されるものであるか。

とりわけ179ページ,

 

このアニマルの思想は「繁栄」を主目的とするものであるから,その「働きすぎ」的傾向(アリのように働く)が問題とされるにしても・・・・・・「自由」と「平等」という他の価値については弱体であるという重大な欠陥を持っている。もともと二宮尊徳の思考には繁栄と平和はあったとしても,自由や平等はなかったからであり,松下幸之助の思想もそれと大差はないといえよう。

 

という叙述になると,もうあらゆる概念が,いわば渾然一体となって進んできていて,現代の我々がそれを解きほぐすのは極度に難しいのではないかと思われてくる。

 

47頁】

4.小括

ここでは1980年代発刊の2つの「日本的経営」に関する本について,現代の目で見直すことを試みてきた。注意しなくてはならないのは,昔の研究を,今は時代遅れだ,などと称して無差別に批判することの愚かさである。そうではなく,そこでの研究ベース,あるいは見方を現代の目で見直すことが重要である。この意味で,「日本的経営」がいわば誤解されてもてはやされていた時代の書である,この2冊は,今から言えば「被害を受ける」ことになるのは一種気の毒なところもあろう。

とは言っても,やはり「批判経営学」の書であろうから,その批判対象であった当時の「繁栄する日本企業」への批判は,批判経営学の刃で切り明かされていると思う。そしてその「繁栄する日本企業」がバブル経済の破裂で吹っ飛び,その後,いわば暗黒時代を経て現在に至って,筆者らはその目でこれらの書を再検討してきた。批判経営学に関する筆者らの勉強不足で不十分な考察になっていると思うし,結論を一言で表すことは無理だが,価値観の進展,あるいは変遷というものの影響は存在していると思う。「熊沢 誠,日本的経営の明暗」での残業に関する批判は,未だに日本のあちこちで厳しく採り上げられているし,女性の進出についてはまさにこの数年で推奨されてきているからである。ただし女性観については,やはり昔の人たちと現代では違いがあるようである。また,「西山 忠範,日本は資本主義ではない」においては,著者がおそらく中心的に考えていた一つであると思われるコーポレートガバナンスについては,2000年代からの新会社法の成立でかなり解明・解決されているし,経営者と従業員・株主の関係についても変化が見られていると考えている。重要なのは,どちらの本でも問題視されていたトピックが,現代でははっきりと議論の俎上にのりつつある,ということであろう。

 

 

U 『セオリーZ』を読む

 

前述の通り,日本的経営に関する研究の積み重ねは,すでに60年以上の年月が経過し,夥しい量の文献がある。これまで我々の論考では,そうした先人の貢献に依拠しながら,さまざまな観点から日本的経営とは何か,その特質や問題点,海外への移転可能性,などについて論じてきた。今回は若干視点を変えて,日本的経営論の代表的著作を取り上げて,その内容を改めて検討し,現代的な意義について考察する。日本的経営論は日本人研究者による著作も外国人研究者による著作も数多く刊行されており,どれを“代表的”とするかは難しいが,この節では,世界的なベストセラーとなった『セオリーZ』を取り上げることにしたい。

 

1 位置づけ

ウィリアム・オオウチの『セオリーZ』は,1981年に出版され,世界中で大きな注目を浴びた。外国人による日本的経営論としては,当時すでにアベグレン(1958)やドーア(1973)らの研究がつとに有名であったが,この書物は,日本企業の経営をほぼ全面的に賛美し,なぜ優れた成果を出しているのかを解明し,アメリカ企業に日本的な経営手法の導入を勧めたもので,世界中で注目を浴びた。この本で展開された議論は,いわゆる日本的経営賛美論の系統に位置づけられる。

48頁】

日本的経営の3本柱が終身雇用,年功序列,企業別組合であることは,否定する論者もいたが,概ね多くの研究者の認めるところであった。ただし,それをどう評価するかについては研究者間で割れていた。そうした慣行は日本企業,あるいは日本経済の後進性の表れであり,そこに潜む封建的・抑圧的な要素を指摘する研究者もいた。前節で詳細に論じたマルクス経済学の流れを汲む研究者にとっては,それらは克服しなければならないものであった。労働者が一つの企業に縛り付けられ,資本家から搾取される弱い立場にあり,戦前の家父長的性格の色濃い労使関係を継承する日本的な経営の後進性が批判された。他方において,新古典派流の経済学の観点からの批判として,理想的な市場経済の働きを阻害する制度ないし慣行が労働市場で成立していることが問題視された。労働市場において,価格メカニズムによる需給の効率的な調整がなされておらず,改善すべき余地が大きいとみなされた。欧米の正統的な経済学者からすれば,当然の見方であったであろう。

しかしながら,そうした批判的な見方にもかかわらず,日本企業の経営成果が当時,群を抜いて優れていたのは皮肉なことであった。日本企業の躍進に注目し,日本企業の経営の特徴を初めて体系的に指摘したのはアベグレンであったが,彼は日本の工業化は西欧方式でもなくソビエト方式でもなく,独自の方式に基づいている,と論じた。そして,イギリスの工場と日本の工場における労使関係の違いを解明したドーアの研究が続き,日本企業の成功の要因がどこにあるのかを実証的調査を基に探った。その後,彼らが提出した日本企業の経営に関する仮説を巡って幾多の論戦が繰り広げられたが,オオウチの『セオリーZ』もその流れの中で一石を投じたのである。

 

2 内容の紹介

本書は2つのパートからなり,いくつかの参考資料(Z企業の経営理念ほか)が添付されている。まず以下に目次を記しておく。

 

第1部 日本から学ぶ

序章 なぜ学ばなければならないのか

第1章 何を学ぶことができるのか

第2章 日本の会社のメカニズム

第3章 日米の会社比較

第4章 Zタイプの組織

第2部 セオリーZの実践

第5章 AからZへ─そのステップ

第6章 AからZへ─経営理念の青写真

第7章 だれが成功したのかーあるZタイプ企業の場合

第8章 Z型社風

終章  アメリカのビジネスは生き残れるのか

参考資料

 

49頁】

2.1 日本から学ぶべきこと

この書物が出版された背景には,先にも記したように,日本企業の生産性の伸びが著しく,日本経済が繁栄を極めていたのとは対照的に,アメリカ企業は低生産性に苦しみ,アメリカ経済は沈滞に喘いでいたという事情がある。失われた30年に苦しむ日本,成長を謳歌するアメリカ企業という明暗がくっきりと浮かび上がっているバブル崩壊以降の情勢とは全く異なっていた。1960年代から1970年代にかけて,アメリカ企業・経済が不振だった理由には様々あろうが,オオウチはアメリカ企業の経営の在り方や仕組み,運営方法に問題があると考えた。そして,学ぶべきヒントは日本企業にあるとみて,日本企業とアメリカ企業の経営を比較するための調査を実施した6)。その調査の過程で,苦戦しているアメリカ企業の中でも優良な成果を生み出している企業もあり,そうした企業の経営のやり方には日本企業と類似した側面があることに気づいたことが大きな発見であった。

オオウチは,調査結果を踏まえて,次のような分類を提示した。典型的なアメリカ企業をセオリーAに基づき,典型的な日本企業をセオリーJに基づくと考え,優良なアメリカ企業をセオリーZに基づく経営を展開しているとした。ここでセオリーZとは,修正されたセオリーAと表現できる(それぞれがどのような特徴をもつ組織であるかは,後掲の表(17頁)を参照のこと)。日本企業がどれほど高い業績をあげているとしても,経営の仕組みや運用の仕方に関して,すべてそのままアメリカ企業に導入することは難しい。だが当時の普通のアメリカ企業の経営のあり方を見直さなくてよいわけではない。セオリーAにセオリーJの良質な部分をとりいれる形が望ましいと考えたのである。

それでは,日本企業の基本的な特徴はどこにあるのか。第1章において,終身雇用,評価と昇進の仕組み,キャリアコースの3つを挙げている。

まず,最も重要な特徴として終身雇用を挙げている。彼は,終身雇用は単なる制度以上のものであり,この慣行の下で,日本人の生活と仕事が混然一体のものとなっているという。この制度は日本においても普遍的なものではなく,大会社や官公庁に限られている。終身雇用が成立し,持続するためには,いくつかの社会的な緩衝装置に守られているのが現実である。会社の業績にリンクするボーナス制度,女性を中心とする臨時雇い,子会社の存在がそれである。こうした緩衝装置はアメリカではとても受け入れがたく,取りいれる必要はないとし,学ぶべきは,終身雇用を通じて形成される,ほとんど一生にわたる<信頼>,<会社への忠誠>,<仕事に対する献身>であるという。

次に,評価と昇進のプロセスが非常にゆっくりしており,従業員は短期的な競争を行うインセンティブをもたない。ほんとうに仕事をしている人は結局は正当に認められる可能性が高いので,協力や業績・評価に対する非常にオープンな態度が促進される。しかし,こうしたシステムでは,能力のある人が重要な仕事につくのが遅れるという欠点も有している。そこで,日本企業では正式の肩書や高い報酬と実際の権限を分離するというやり方がとられている。若くて仕事ができる人が不満を持たないとすれば,いずれ順番がくることがわかっているからである。若い社員をいろいろなグループに所属させ,その中での承認を得るという体験を積むことで成長を実感させるのである。

3番目に,専門的でない昇進コースの適用である。日本企業では,採用にあたって職務を明50頁】確にすることは少なく,就職ではなく,就社と言われることがあるように,専門分野が一つであることはあまりない。専門分野を渡り歩いてキャリアを形成していくのが一般的である。生涯にわたってジョブ・ローテーションを行い,雇い主は従業員の技能の向上ややる気を啓発し,長期的観点から正当な評価を試みようとしている。それが適切に機能すれば,簡単に他社へ移動をしようと思わず,一つの組織に留まろうとするであろう。その場合,従業員をどのように評価するかが重要であり,全社的な観点からなされる必要があるので,本社の人事部の役割が非常に大事になる。アメリカ企業と異なって,直接の上司に昇進や昇格に対する権限を与えず,全体最適を目指すのである。こうしたやり方が常に効率的であるとは限らないが,アメリカ企業でも先端的な組織7)でキャリアを会社のニーズに合わせて手作りするというケースは見られたという。

 

2.2 日本の会社のメカニズム

続いて第2章では,日本の会社の経営管理メカニズムのより深層部分に分析を加えている。その第一は,企業経営において基本理念の果たす役割である。基本理念は,会社の目的およびその目的を達成するための手続きを述べており,目的達成へのすじみちは,どんな解決方法をとれば会社をよくしていけるかという一連の<信念>によって決められているという。この価値観と信念の共有が大事であり,それは社風を形成するものであり,組織内の文化ともいえる。これは会社の中で本質的に同じ共通の経験を長年にわたって積み重ねたことによって共有できるものであり,それによって経営者・管理者・従業員間の迅速なコミュニケーションが可能となるのである。

次に,意思決定への参加的アプローチを挙げている。日本企業では重要な意思決定を行う場合,その影響を受ける人すべてがその決定にたずさわる8)。このコンセンサス・アプローチは,意思決定に大変時間がかかるが,一旦決定が下されるとすべての人が支持していることになり,速やかに実行される。この点は,アメリカ企業は決定は速いが,実行が遅いのとは対照的である。

また,日本企業の意思決定の特徴は,どの決定にだれが責任を負うのか意識的に曖昧にしている点にあるという。特定の領域や問題について個人が責任を負うということがなく,共同責任を負っている。「日本の他のすべての経営システムの特徴と同様に,意思決定は<親密さ>を通じて形成された<信頼>と<ゆきとどいた気くばり>に基づいて結びつけられた全体の中に深くねざしている」(オオウチ(1981),76頁)のである。

さらに,オオウチは欧米人にとって最も理解しがたい点として,日本人の集団的価値観を挙げている。そこには個人の努力では何事も達成されず,重要なことはすべてチームワークとか集団的努力の結果であるとする考え方が反映されている。

最後に,欧米の組織体は<部分的参入>の態度をとっている。つまり従業員と雇い主は,特定の仕事の完成に直接関わる活動の中でのみ関係を取り結ぶのに対して,日本の組織は包括的な人間関係を作りあげ,全面的に従業員と雇い主は関わりを持っている。それは家父長主義的51頁】な力による封建的な残滓かもしれないが,日本企業の全体志向の勤労関係を支えてきたと考えられ,<親密さ>,<信頼>,<理解>を生んできた。

 

2.3 日米の会社比較

以上の議論を踏まえて,オウウチは以下のように,日本とアメリカの組織の相違を整理し,モデル化している。

 

<日本の組織>          <アメリカの組織>

 終身雇用               短期雇用

 遅い人事考課と昇進        早い人事考課と昇進

 非専門的な昇進コース       専門化された昇進コース

 非明示的な管理機構        明示的な管理機構

 集団による意思決定         個人による意思決定

 集団責任                個人責任

 人に対する全面的な関わり     人に対する部分的な関わり

 

アメリカの組織をAタイプの様式,日本の組織をJタイプの様式と呼び,前者は異質性,可動性そして個人主義の条件に対する適応であり,後者は同質性,安定性そして集団主義の条件に対する適応であるとする。アメリカの組織は,ひとびとの結びつきが薄く,親密さに欠ける。

それに対して,日本の組織は個人個人の行動が親密に結び合わされている様式である。それぞれのタイプは,欧米社会と日本社会に適合的に発展してきたと考えられるが,実はアメリカ企業の中でも,その当時,優良なパフォーマンスを示した会社を調べると,前述したようにJタイプの様式に類似した特徴を発見できた。それは典型的なアメリカ企業であるAタイプの様式とは異なり,また純粋な日本企業であるJタイプとも異なる。これを彼は,<Zタイプ>の組織と呼んでいる。Zタイプの特徴9)は以下のとおりであり,Aタイプのような官僚機構と異なり,また全面的に日本企業と同じでもなく,アメリカ人の個人主義や責任意識を踏まえた修正が施されている。

 

<Zタイプ>

 長期雇用

 集団による意思決定

 個人責任

 遅い評価と昇進

 明示的,公式の評価を具備した,非明示的,非公式の管理

 適度な専門的キャリア・パス

 家族も含めた,全体的関与

 

52頁】

オウウチは1978年の論文で,取引コスト理論の枠組みに基づいて,市場とヒエラルキーの間に位置する組織としてクラン(仲間組織)を挙げて,信頼を基盤とした親密な調整,水平的な情報共有による組織の効率性を論じているが,日本企業やZタイプの組織はそれに類似した特徴を有する。非人格的な権限に基づくコントロールや距離を置いた価格メカニズムとは異なったインセンティブや調整の仕方が優れた成果をもたらす場合があるということであろう。オオウチは,こうしたZタイプの組織の例として,GMやインテル,ヒューレッドパッカード社などを挙げている。

 

2.4 セオリーZの実践

第2部においては,セオリーZを実践するための方策を示している。その詳細はここでは省略するが,組織を変革することは簡単なことではなく,順番を踏んで行われることが大事だと論じている。具体的に以下のようなステップに従って,時間をかけて行うことを提唱している。

 

 ステップ1 Zタイプの組織と自らの役割を理解する

 ステップ2 会社の経営理念を監査する

 ステップ3 望ましい経営理念の明確化と会社幹部のかかわりあい

 ステップ4 機構と刺激策を創りだして経営理念を実施する

 ステップ5 対人関係について技能を開発する

 ステップ6 みずからとシステムをテストする

 ステップ7 組合を引き込む

 ステップ8 雇用を安定させる

 ステップ9 遅い評価と昇進のためのシステムを定める

 ステップ10 昇進コースを広げる

 ステップ11 最前線の実施に備える

 ステップ12 参加を実施する場を見つけだす

 ステップ13 全体志向(ホーリスティック)の関係の展開を図る

 

このステップを実践する中で,経営理念―何が重要で,何が重要でないかを明確に示すことーの大切さを繰り返し論じている。会社の目的は利潤(株主価値)の最大化ではなく,利益は結果としてついてくるものである。経営理念を経営者・管理者・従業員みんなが共有し,それぞれが果たすべき役割を認識し,円滑なコミュニケーションを図りながら,会社の存続と成長のために長期的観点からの協力の必要性を強調している。

最終的には,<信頼><ゆきとどいた気配り><親密さ>をアメリカ企業が日本企業に学ぶべきことであると結論している。

 

3 比較制度分析論的視点

欧米流の経済制度や運営の仕組みを唯一絶対で,効率的であるとするのではなく,それと異なる制度や文化があり,それぞれが効率的であり得るとの視点は,経済学の世界で青木(1993,2010)が精力的に論じた比較制度論と通底する点があると思われる。青木は日本企業の運営上の慣行を取り上げ,技能の専門化よりも知識の共有に基づく業務単位間の水平的調整が日本企53頁】業の重要な内部的特徴であるということを示している。この水平的調整が非ヒエラルキー的に管理されているにもかかわらず,日本企業の従業員はランク・ヒエラルキー(職位階層)に位置づけられ,それがインセンティブ装置として作用し,競争が行われており,その両者が相まって,水平的調整をランク・ヒエラルキーが補完する形で,組織の効率性と統合性を維持しているという。この調整の仕方は,ヒエラルキー的な調整を主とする英米流の企業とは対極をなすメカニズムであるという。

「典型的な日本企業と典型的な欧米企業との間にはインセンティブと調整の形の相互関係の在り方に面白い非対称性があるようである」(青木(1993),259頁)。日本企業はランク・ヒエラルキーが第一義的なインセンティブ装置として使われ,調整の仕方はあまりヒエラルキー的でない。それに対して,欧米企業においては調整に対するヒエラルキー的アプローチと,インセンティブに対するより分散的な市場的アプローチが組みあわされている。そして組織が効率的であるためには,調整方式とインセンティブ方式のどちらかがヒエラルキー的である必要があるが,両方ともヒエラルキー的である必要でないことを論証している。

青木は日本企業を念頭に置いた企業のモデルをJモデルと名付け,欧米企業のモデルをHモデルと呼んでいる。Hモデルは,エージェンシー理論を基に構築されており,経営者は株主のエージェントとして行動する。Hモデルは,@株主に源を発したコントロールが階層的に分解されていること,A市場に条件づけられたインセンティブ契約,B価値最大化に基づく経営意思決定,を基本要素としている。Hモデルは,弱い意思決定ヒエラルキーとインセンティブのランク・ヒエラルキー,所有者の利害の一方的なコントロールに従うというよりは金融(所有)的な利害と従業員の利害との二重のコントロールに従う,Jモデルとは明確な相違がある。

この両方のモデルが収斂するかどうかは予断を許さない,と青木は述べる。それぞれが一定の条件の下で効率性を満たしており,どちらのモデルにも絶対的な優越性がないからである。純粋の理念型に従う企業組織はなく,現実には折衷型が大部分であるが,恐らくそれは国ごとの社会的,文化的,歴史的な差異を反映しており,単純に収斂することはないであろう。状況の変化に合わせて組織設計がなされ,インセンティブ構造が作られ,調整が進められることになるものと思われる。

しかしながら,グローバルな技術や社会の環境変化,人的交流の活発化,さまざまな規制や税制等の統一への動きによって,閉じた環境の下で効率的であった制度や仕組みが非効率化することもありうる。そうした状況では,国ごとに分立していた特徴のある組織や制度が収斂する可能性もあるかもしれない。それはおそらくお互いにそれぞれの制度の良さを学ぶあうことによって実現するものであろう。従って,単純にあるモデルに収束するとは思われない。それぞれのモデルが進化経路に依存しながら,収斂していく。これを青木は「多様性への収斂」と表現している。

オオウチのモデルは,青木の経済学的モデルのように厳密な形式で比較検討されているわけではないが,権限の在り方や企業内の調整の仕組みなどの叙述からして,オオウチのAタイプ,Jタイプは,それぞれ青木のHモデル,Jモデルに対応するものと考えられる。日米両国においてどのような特徴を持つ企業が高いパフォーマンスを上げているかを観察し,その特徴を列挙して,それぞれの経営システムや制度を比較したうえで,新たなZタイプの組織を提示した経営学上の古典的な研究の一つとして評価してよいと思われる。

 

54頁】

4 評価と現代的意義

アベグレンらの先行研究が労使関係に注目した現場レベルの慣行を主に取り上げていたのに対して,経営全体に関わる理念や社風の大切さを説き,アメリカ人の国民性の下でも取り入れられる部分を吸収しようとするオオウチの議論は,筆者らにはオリジナリティに満ちていると感じられる。

表層的な制度や慣行をなぞった日本的な経営手法の理解に留まるのではなく,それを支える日本人の意識や日本の文化を踏まえてその良さと限界を含めてトータルに考えて,アメリカ企業が日本企業から何を学ぶことができ,どのような組織を採用すべきかを論じ,AタイプからZタイプへ変革する段階的なステップを提示している点は高く評価されよう。特に利潤追求を目標とするのではなく,利益は結果であるとする見方は,正統的な英米流の株主第一主義とは一線を画している。

組織において大切にされるべきは,設備や工場への投資の大きさでなく,従業員である。会社が生産性を向上させられるかどうかは,人をどのように処遇し,どう評価するかが決定的に重要であり,人事制度をいかに設計し,それをどう運用するかが大事である。その点に関して当時の日本企業の経営の仕方は大いに参照すべき対象であった。当時はオオウチに限らず,日本的経営礼賛論が隆盛を極めていたが,体系的なモデルに整理して示した点が高く評価できよう。

もちろん,日本企業のモデルであるJタイプやその修正版であるZタイプにも欠点があることは言を俟たない。日本的経営はかつて岩田(1977)が指摘したように,「義務の無限定性」と集団志向性を基本的な編成原理としているが,それは,高度成長期にはよく適合するが,低成長期には従業員に働き過ぎを強いるといった矛盾が露呈する恐れがある。オオウチは,日本的経営は環境の大きな変動にうまく適応できない,あるいは企業構成員内部の信頼や調和に重点をおくので,ややもすると,ジェンダー差別や人種差別の傾向を有することも認めている。その意味では,日本的経営のデメリットも正しく指摘している。しかしながら,この本には,ガバナンス問題が取り扱われていないという問題点があるように思われる。株主第一主義を否定する日本的な経営は,経営者に対する牽制をどうするかという問題がある。バブル期における企業不祥事や現在でも指摘される資本効率の低さは日本企業に付きまとう課題であった。これはガバナンスに関わる制度設計が不十分であることを意味するが,そうした点が議論されていないところにやや不満が残るのである。

日本的経営に関する評価は,1980年代の礼賛期といえる時期を過ぎて,否定論や肯定論,修正論などが経済学,社会学,経営学等さまざまな分野にまたがって,多彩な観点から論じられてきたが,この書物は資本主義の多様な発展を認め,ステイクホルダー主権論・志向論につながる先見性を有していたと思われる。これは,近年,宮本(2014)やオルコット(2009)らの提唱するハイブリッド型組織の存在と存続につながる議論であるとも言えよう。また,日本語版の読者へ向けて,「二十年後には経済社会的な成功と経営方法においてリードする国は別の国であるか知れない」と述べている。日本的経営の隆盛が一時的である可能性に触れ,中国が熱心に日本とアメリカに学ぼうとしていることに着目していた。この節の初めで本書を日本的経営礼賛論に位置づけたが,オオウチは日本的経営に対して手放しの楽観論・礼賛論を展開したのではなく,常に他国の経済や企業に学ぶことの大切さを説いていたのである。

最後に,我々は今の日本企業に何が不足しているのか,真剣に考えねばならない難しい時期55頁】 にある。『セオリーZ』は謙虚に学ぶ姿勢が現在の日本企業には必要であることを改めて思い起こしてくれる良書である。デジタル化による技術環境の急激な変化や消費者の嗜好の変化に伴う需要の変動,労働市場の構造的変化など,今日,企業環境は急速に不確実性を増している。その激流の中にあって,どんな組織が効率的でありうるか,そして成長をもたらすか,確かな答えは容易には見つけられないであろう。日本経済は停滞し,日本企業は困難に直面しているが,極度に卑屈になることもないと思われる10)。過去の慣習や伝統を再検討し,変えるべきではない基本理念や日本人のよき精神を尊重しつつ,異質な人材や手法を取り入れていくことを考えねばならないであろう。欧米型と日本型を接合したハイブリッド組織の可能性を探りながら,新たな日本的経営の姿を追い求めることが大切である。本書は文化や伝統を異にする国や企業がお互いに学び合う姿勢の重要性を指摘した貴重な示唆に満ちた文献であると,筆者らは思料するものである。

 

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