1) 本稿で扱われる宮廷ユダヤ教徒に関する研究では,例えばKaufmann(1888)やKaufmann & Freudenthal(1907),Grunwald(1913),Strobach(2018; 2022))などが挙げられる。
2) ブランデンブルク=プロイセン(プロイセン王国)の絹織物の研究(Hintze(1892))や貨幣鋳造業の研究(Schrötter(1904; 1908; 1910; 1913))がその例として挙げられる。
3) ただ本稿ではドイツ語版のStern(2001)を参照している。
4) 具体的には,Laux(2006)がハインリッヒ・シュニーについて考察している。
5) 宮廷ユダヤ教徒とは,宮廷の権力中枢に対して継続的に奉仕していたユダヤ教徒であるとするRies(2002, S. 15-16)のような説明もある。
6) ブランデンブルク選帝侯領やその周辺地域の宮廷ユダヤ教徒について重点的に見ていくのは,本稿で考察する回顧録において,そうした地域の宮廷ユダヤ教徒が多く登場してくることが関係している。
7) 呼称と別にグリックル・バス・ユダ・ライプ(Glikl bas Judah Leib)という名がある。
8) この回顧録は,当初,イディッシュ語の原本そのままでKaufmann(1896)として出版された。原典をそのままドイツ語に翻訳したものは,Glückel von Hameln(1910)として出版された。そして伝記としてドイツ語で情報を得やすくするために,表現や文章のつながりを工夫し,理解の助けになるように注で説明を補ったものがFeilchenfeld(1913)として出版された。Feilchenfeld(1913)では,回顧録の中の伝記的な情報が得られない箇所は省略されている(Feilchenfeld, 1913, S. 7-10)。本稿では,イディッシュ文学の研究をするわけではないため,Feilchenfeld(1913)を参照した。
9) Davis(1995)はグリュッケルの回顧録の内容を取り上げ,文学的に考察している。
11) エスリンゲンではユダヤ教徒がキリスト教徒の築いた手工業者の兄弟会に参加する資格を購入し,実際に入会するようなことがあったと考えられている。詳しくは,Haverkamp(2006)を参照。
12) もっともその背景には,13世紀に至ってまでもなおキリスト教社会では,ユダヤ教徒はキリスト教の信仰が真理であることを証明するための存在とする見方,つまりキリスト教社会のユダヤ教徒が果たしているとする救済史上の役割を重視するアウグスティヌスの考えが普及していた。詳しくは,Haverkamp(2013)を参照。
13) 子供の中には詐欺容疑で拘束され,のちにハノーファーに渡った者もいた(Jaeger, 1994, S. 440-441)。
14) ジモン・ギュンツブルクはギュンツブルクと家族名を名乗った最初の人物とされ(Rosenthal & Seligsohn, 1906, p. 113),この一族は18世紀末以降,ロシアを中心にビジネスを展開するようになっていった。詳しくは,De Meaux(2019)を参照。
15) 14世紀にはエアフルトのユダヤ教徒のフロイデル(Freudel)がマイセン辺境伯へ貸し付けていたことが確認されている(Schnee, 1954, S. 167)。
16) 例えば宮廷の葬式に参列した人々の喪服(Rachel & Wallich, 1967, S. 28)。
17) ハンブルクやアムステルダムに取引先があった(Rachel & Wallich, 1967, S. 28)。
18) 1678年の商取引では,アメシスト(175ターラー相当)が選帝侯に,ダイアモンドの指輪(200ターラー相当)が少佐に,肖像画(900ターラー相当)がケルン選帝侯の使節に,デンマーク公使にダイアモンドの装飾がある王冠(1,200ターラー相当)が売られていた。選帝侯側がヨスト・リープマンに負った負債は,選帝侯が代替わりした1688年時点で52,000ターラーに達していて,1696年までにこれに209,000ターラーが付け加わったことがわかっている。ヨスト・リープマンに対する支払いは,当初はユダヤ教徒を保護する見返りにユダヤ教徒から納められる税金が利用されていたが,それでは足りず貨幣の改鋳によって得られた利益が用られるようになった(Rachel & Wallich, 1967, S. 32-34)。
19) この弟は両親が携わっていたジュエリー・ビジネスから手を引き,プファルツ政府相手の貸付け等にビジネスを転換していったと見られている。彼はベルリンのユダヤ共同体では,同じく上級長老となったファイテル・エフライム(Veitel Ephraim)と対立関係にあり,1747年に亡くなった(Rachel & Wallich, 1967, S. 42)。
20) リープマン・マイアー・ビュルフは18世紀後半にベルリンのユダヤ共同体を代表する大金持ちになった人物である(Rachel & Wallich, 1967, S. 393-396)。
21) Gumpertz,Gompers,Gompertzなどと綴られることもある。
22) ゴンペルツ家の定住は,クサンテン条約(1614年)によって地域の支配者となったブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントからも認められることになった(Kaufmann & Freudenthal, 1907, S. 10)。
23) エリアス・グンペルツと兄弟であるライマン・ゴンペルツ(Leiman Gomperz)も宮廷ユダヤ教徒として選帝侯の軍需物資の供給を担った(Rachel & Wallich, 1967, S. 43)。
24) エリアス・グンペルツの長男はエメリッヒで生活し,モーゼ・コスマン・ゴンペルツ(Mose Kosman Gomperz)はアムステルダムに移住した(Rachel & Wallich, 1967, S. 41)。
25) エリアス・ゴンペルツの息子ヤーコプ(Jacob)と義理の息子で甥のレーブ(Löb)はクレーフェで事業を続け,プロイセン王国に軍需物資を供給する宮廷ユダヤ教徒として活動した(Rachel & Wallich, 1967, S. 43)。
26) ザムゾン・ヴェルトハイマーは,ヴォルムス出身で主にウィーンで活躍した宮廷ユダヤ教徒である。当初,ザムエル・オッペンハイマー(注28参照)がウィーンにいない場合,彼の代理として神聖ローマ皇帝の宮廷とビジネスの取引を行うようになったことがきっかけで皇帝からの寵愛されるようになった。ザムゾン・ヴェルトハイマーは,他にもハンガリーの主席ラビ(Landesrabbiner)になったことで知られている。ザムゾン・ヴェルトハイマーの息子ヴォルフ・ヴェルトハイマー(Wolf Wertheimer)はザムエル・オッペンハイマーの孫娘と結婚し,宮廷ユダヤ教徒としてバイエルン選帝侯に仕えた(Kaufmann, 1898, S. 487–490; Singer & Mannheimer, 1902, pp. 503-505)。
27) 3代に渡って宮廷ユダヤ教徒として活躍したが,初代と同じく宮廷ユダヤ教徒として活動した息子たちは初代が亡くなる前に亡くなってしまった(Schnee, 1908, S. 13)
28) ザムエル・オッペンハイマーは,ハイデルベルク出身の宮廷ユダヤ教徒である。当初,プファルツ選帝侯の宮廷ユダヤ教徒として軍需物資の供給を行っていて,のちに神聖ローマ皇帝の資金調達や軍需物資の供給等で重要な役割を果たすようになった。ユダヤ社会への貢献としては,1670年にユダヤ教徒の追放が行われたウィーンに,ユダヤ共同体を復活させ,そこにユダヤ教徒のための養老院(Versorgungshaus)と墓地を建設したことが挙げられる(Mentschl, 1999, S. 569-570)。
29) ヨーゼフ・ダヴィッド・オッペンハイマーはザムゾン・ヴェルトハイマーの娘と結婚した(Schnee, 1954, S. 59)。
30) べーレンスの一族とオッペンハイマー(オッペンハイム)家の姻戚関係は,オッペンハイマー(オッペンハイム)家がハノーファー選帝侯領でビジネスを始めるきっかけになった。ザムエル・オッペンハイマーの息子ジモン・ヴォルフ・オッペンハイム(Simon Wolf Oppenheim)が,レフマン・べーレンスの孫娘と結婚し,ハノーファーで金融業を始めた。ジモン・ヴォルフの孫ヴォルフ・ヤコブ・オッペンハイム(Wolf Jakob Oppenheim)は,ドレスデンの宮廷ユダヤ教徒ベーレント・レーマンの孫娘と結婚した。ヴォルフ・ヤコブ・オッペンハイムは,彼の下でマイアー・アムシェル・ロートシルト(Meyer Amschel Rothschild)が職業教育を受けていたことが知られている。なおヴォルフ・ヤコブ・オッペンハイムの息子はドレスデンの宮廷ユダヤ教徒として活躍することになった(Schnee, 1954, S. 58-61)。
31) ザクセン選帝侯は帝国議会でプロテスタント団体(Corpus Evangelicorum)の団長を務めてきたが,このフリードリヒ・アウグスト1世はポーランド国王になるためにカトリックに改宗した(Stern, 2001, S. 72-73)。
32) シナゴーグや墓地は重要なユダヤ教の施設とされていた。特にメシアによって復活させられるまで死者が置かれることになる墓地は非常に重要な施設とされ,墓地を持つ場所がユダヤ教徒の生活の拠点となっていた。詳しくは,Haverkamp(1996)およびHaverkamp(2013)を参照。
33) 確かに16世紀以前の宮廷ユダヤ教徒のジモン・ギュンツブルクもユダヤ共同体の発展に努めていて,名字も名乗り始めていたが,後世に一族が経済的に活躍するようになったことを踏まえれば,ギュンツブルク家の事例は先駆的であったと言えるかもしれない。ただのちにジモン・ギュンツブルクが活躍した地域からユダヤ教徒は追放されているため(Alicke, 2008, S. 1634-1635),彼の名声が,後世のギュンツブルク家の活躍と結びつけてよいかはさらなる検討が必要である。
34) 宮廷ユダヤ教徒の一族がキリスト教へ改宗することを選択したのは,宮廷との関わりの中で得られる富と名声に満足し,ユダヤ社会の名声では満足できなくなった場合であったと考えられる。
35) 他にもゴルトシュミット家は,フランクフルト・アム・マインのロートシルト家の娘と結婚し,ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から爵位を与えられたマクシミリアン・ゴルトシュミット=ロートシルト(Maximilian von Goldschmidt-Rothschild)を輩出した(Schnee, 1954, S. 14)。
36) 回顧録を確認する限り,ハイム・ハーメルンは金やオンス真珠(個数ではなく重さで取引される小さい真珠)の転売などに従事していた。例えば真珠は商業船が港にあるときにはよく売れるが,戦争が起こると売れなくなるなど,価格が大きく変動する商品であった。またハイム・ハーメルンは,シュテッティンの貨幣鋳造所に沢山の銀を送り,それをシュテッティンの貨幣にして送り返してもらい,それを両替して儲けるようなこともしていた(Feilchenfeld, 1913, S. 48, 54-55, 73-76, 132-133)。
37) 回顧録からはユダヤ教徒の商人にとって大市がいかに商売上,重要であったかがわかる。ハイム・ハーメルンはライプツィヒの大市への訪問に加え,フランクフルト・アム・マインの大市もその開催時期に毎回訪問していて(Feilchenfeld, 1913, S. 84, 96, 141, 150),グリュッケルやその子供は,ブラウンシュヴァイクの大市やフランクフルト・アン・デア・オーデルの大市にも参加していた。そうした大市では商品の取引と決済の両方が行われていた(Feilchenfeld, 1913, S. 191, 197, 205, 247)。回顧録からは,他にも,ユダヤ教徒の商人が同じユダヤ教徒で商人として生きていこうとするものを自分の下で働かせて商業経験を積ませるようなことがあった。例えばハイム・ハーメルンは,まだベルリンに行く前のまだ裕福ではなかったヨスト・リープマンを受け入れて商人として育てた。ダンツィヒで商売に従事したヨスト・リープマンに信用状を与えたり,為替手形を送ったりし,ヨスト・リープマンが資金に困らないように支援した(Feilchenfeld, 1913, S. 58-60)。ハイム・ハーメルンはヨスト・リープマンに商売方法を教えるのと引き換えに,ヨスト・リープマンがハイム・ハーメルンのジュエリーをはじめとする商品をできるだけよい条件で売却することを約束し,一緒にアムステルダムへ旅をしたこともあった(Feilchenfeld, 1913, S. 88-91)。
38) ちなみに回顧録では,エリアス・ゴンペルツは,10万ターラーかそれ以上は持っている人物(Feilchenfeld, 1913, S. 117)とされている。
39) ちなみにグリュッケルの娘とグリュッケルの義兄の息子の結婚については,回顧録に結婚持参金の記述はない(Feilchenfeld, 1913, S. 150)。
40) 回顧録とは関係がないが,例えばリープマン・マイアー・ビュルフの結婚についても,後世まで結婚持参金の記録が残っている。リープマン・マイア―・ビュルフが3,000ターラーであるのに対して,彼の妻は4,800ターラーであった(Rachel & Wallich, 1967, S. 394)。
41) ちなみにイェンテはザロモン・ガンスが亡くなった後,レフマン・べーレンスと結婚した(Feilchenfeld, 1913, S. 44-45)。
42) グリュッケルの一家は2人の使用人を雇えるような裕福な家庭であり,子供が多かったこと(Davis, 1995, p. 12)も考慮しておく必要はあるが,当時,グリュッケルの一家の生活には年間1,000ターラー以上必要であったという(Feilchenfeld, 1913, S. 87)。それを踏まえると,例えばハイム・ハーメルンが子供たちのために負担した結婚持参金の総額を考えただけでも,その額はかなり大きなものであったことがわかる。
43) ダビット・シュプリットゲルバーはポンメルン出身で,ザクセン出身のゴットフリット・アドルフ・ダウムと一緒にビジネスを始めた。どちらもベルリンへの移住者で,貧しく市民権も持っていなかった。シュプリットゲルバーは商業ギルドに所属していない商人から商人になるための職業教育を受け,商業ギルドに所属せずに経済活動をしていくことになった(Escher, 2010, S. 731-732)。