1   例えば日本では野田(1988)の研究がある。

2   具体的には宮本がビーレフェルト大学でユルゲン・コッカ(Jürgen Kocka)が率いたプロジェクトを紹介している(宮本,2006,7-11)。

3   日本国内だけでも宮本(2006)や松本(2020)の研究がある。

4   代表的なものとして,コッカのプロジェクトの研究成果(Kocka (1988))を挙げることができる。

5   サロンの研究については,Beci (2000)やWilhelmy-Dollinger(2000)を参照した。

6   本稿で問題となるインダストリアル・デザイン等は,応用美術からも区別されることがあるが,ここではそれも応用美術に含めて考えていくこととする。

7   企業と芸術の関係については,企業メセナに関する研究でも取り扱われてきた。しかし18世紀末からの歴史の流れの中に現代の企業メセナがどのように位置づけられるかといったような研究は確認可能な限り行われてはいない。

8   デザイン史の研究では「工業」とはせず,「産業」とする場合が多いため,本稿でもそれに従う。

9   AEGにおけるペーター・ベーレンスの活躍について詳しく取り上げた研究成果としては,Buddensieg(1990)や田所(1997),Chodzinski (2007)が挙げられる。もっともAEGにおけるペーター・ベーレンスの活躍は,AEG(1956)やPohl(1988),Strunk (1999)のようにAEGの歴史をまとめた研究や,ハウフェ(2007)のようにデザイン史の教科書的な文献などで扱われてきた。

10   トレント宗教会議の結果,カトリック教会の指揮の下で民衆教化に向けた芸術の制作が進められることになった(高階,1997,71-74)。

11   フランスの場合,17世紀はまだ芸術家のパトロンとして国家が重要な役割を果たしていたが,18世紀に入ると市民もパトロンとしての重要な地位を占めるようになったことが知られている(高階,1997,103)。

12   フランス革命以降,芸術の大衆化も準備された。例えばフランスでは国によってルーブル宮殿が美術館とされたのをはじめ,各地に美術館が設立されていった。19世紀前半のドイツでもベルリンに美術館が設立された。また石版印刷技術が登場すると,木版や銅版の印刷に比べ,容易により細かな表現が可能で安価な石版画が,単なる美術作品としてだけでなく,新聞の挿絵やポスターなどとしても盛んに刷られるようになった。(高階,1997,108-120)

13   18世紀末のドイツでは,美術サロンや文学サロンのような活動は,「サロン」とは呼ばれず,「お茶会(Theegesellschaft)」や「お茶のテーブル(Theetisch)」などと呼ばれていて,「サロン」は専ら17〜18世紀にパリで開かれていたサロンを意味する言葉であった。ただドイツでも19世紀を通して徐々に美術サロンや文学サロンのような活動がサロンという言葉で説明されるようになっていった(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 32-37)。ただ本稿では,当時の人々がどのように呼んでいたのかは問わず,これまでの研究で文学サロンや美術サロン,音楽サロンなどと分類されてきたものをサロンと見なすことにする。多くの研究では,少なくともサロンは,サロニエールと呼ばれる女性によって主催されていて,主に芸術,ときには政治についても批評し合う集まりを指して用いられてきた。

14   例えばヘンリエッテ・ヘルツは,夫亡き後,1806年にプロイセン王国がナポレオン軍との戦いに大敗して寡婦年金の支払いが止まってしまったことで財政的な厳しさから,文学サロンを閉じることになった(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 75-76)。

15   メンデルスゾーン=バルトルディ家の音楽サロンを特徴付けていたものは,この一族の大きな家で毎週日曜日の午前中に開かれていた音楽会であった。この音楽サロンではヴァイオリニストのパガニーニ(Niccolò Paganini)に出会うこともできたという。この一族の中からフェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ(Felix Mendelssohn Bartholdy)が登場することになった(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 151-153)。この音楽サロンは,フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディが音楽家としてキャリアを形成していくうえで役立ちうる音楽家を積極的に迎え入れていた(Beci, 2000, S. 115-117)。もっとも彼の活躍の裏には,彼の姉でサロニエールとなったファニー(Fanny Mendelssohn-Hensel)もいたことを無視することはできない。

16   サロニエールとしてアマーリエ・ベーアは,アレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt)と知り合いになることができたが,彼がいたことでジャコモ・マイアーベーアはベルリン芸術アカデミーの会員になることができた(Beci, 2000, S. 113)。もっともジャコモ・マイアーベーアは,キリスト教徒の助けも得て,著名な音楽家となったが,彼自身がキリスト教徒の音楽家の成長を手助けするようなこともあった。よく知られている例として,まだ無名であったころのヴァーグナーへの支援が挙げられる(鈴木,2011,21)。

17   このことは,國府寺(2016, 27-29)が指摘している。

18   マックス・リーバーマンよりは半世紀ほど早い生まれであるが,ユダヤ教徒の中には,トーラーのストーリーなどの絵を多く描くなど,どちらかと言えばユダヤ教徒が買い手になることを想定したような美術作品の制作を中心に取り組んでいたと指摘されることもあるモーリッツ・オッペンハイム(Moritz Oppenheim)のような画家もいた。もっともモーリッツ・オッペンハイムは,ユダヤ教徒の画家に師事したわけではなく,画家のコンラート・ヴェスターマイヤー(Conrad Westermayr)から指導を受けていて,また1818年からミュンヘンのアカデミーに3年間通って画家になった人物であった(Holland, 1906, S. 706-708; 國府寺,2016, 64-65)。ただ本稿では,より世俗的な画家がどのように誕生してきたのかを見るために,マックス・リーバーマンに注目していくことにする。

19   ベルリンの美術品収集の歴史に関して,ベルリンがドイツ帝国の首都となってから,ベルリンでは経済市民層の人々の別荘(Villa)に置かれる豪華な家具や芸術品の消費がパリやロンドンといったヨーロッパの大都市と同様の水準に達し,建築される家が壮麗な豪華さをまとうようになるなど,経済的な富が芸術に向けられるようになったと言われている。残された多くの写真からそうした中で建てられた19世紀末の邸宅の実態について唯一把握することができるのが,ユダヤ教徒の家庭に生まれ,繊維産業で活躍したエドゥアルト・ジモンの別荘であった。この別荘は外装も内部のインテリアも芸術的な表現が駆使されていた建築で,別荘の中の調度品には18世紀フランスの様式のものをはじめ,芸術的なものが多く採用されていた(Kuhrau, 2005, S. 9-19)。

20   少なくとも1880年代以降,美術品の展覧会は,企業家や銀行家など経済市民層の人々をはじめとする裕福な人々によって構成されていた協会組織が主催していることが多かった。特に1894年に設立されたカイザー・ヴィルヘルム美術館協会(Kaiser Friedrich Museumsverein)のように19世紀末に登場してきた美術館協会は,年会費が非常に高額で裕福でなければ参加できないようになっていた(Kuhrau, 2005, S. 27-31)。このように美術館でさえも美術品の収集は,高額な年会費を支払って協会に参加できるような裕福な人々によって推し進められていた。

21   この時期,美術品の収集を行っている者の過半数が,銀行家と製造業者,商人で占められていた(Kuhrau, 2005, S. 47)。

22   社会的な名声を得るための美術への投資活動として見られた事例として,繊維産業で事業を行っていて,貴族の称号を得ることになったアドルフ・リーバーマンの事例が挙げられる。彼は当時のドイツとフランスの絵画をコレクションとしてまとめ,古い美術工芸品のコレクションも所有していて,大きな絵画ギャラリーを備えた別荘も持っていた。彼の壮大な外観の別荘の2階は,家族の個人的な利用を目的として設計されていたのではなく,当初から貸し出すことを目的に作られたものであった。アドルフ・リーバーマンは,1872年にオーストリアで鉄冠勲章を授与され,アドルフ・リーバーマン・フォン・ヴァーレンドルフと名乗るようになり,翌年プロセイン政府からそのように名乗ることを許可されることになった。ちなみに1872年に初めてプロイセン王国でユダヤ教徒でありながら貴族の称号を名乗れるようになったのが,ゲルゾン・ブライヒレーダー(Gerson Bleichröder)であった。このアドルフ・リーバーマンは美術品の購入や壮大な別荘の建築だけで社会的な名声を上げようと努めていたわけではなかった。彼は自宅で大規模な舞踏会を開いて,貴族や外交官,士官などを招くなどしていた(Schnee, 1955, S. 299; Kuhrau, 2005, S. 58-60)。

23   マックス・リーバーマンの従兄のカール・リーバーマンが,この分野の学者として活躍した(Sandig, 2005, S. 189)。

24   ペーター・ベーレンスは,1886年から1889年にかけてカールスルーエの美術学校で学び,デュッセルドルフにいたフェルディナント・ブリュット(Ferdinand Brütt)に師事して,その後,ミュンヘンで画家として活動していた(Ehmcke, 1955, S. 13)。

25   ただペーター・ベーレンスがAEGの芸術顧問に採用されることになった際に,AEGの中でどのような議論がされていたのかについてわかる史料は,戦争中に失われてしまったため,戦後にAEGで保管されてきた史料だけでは明らかにできない状況にある(Buddensieg, 1990, S. 12)。

26   商標ではないが,そうした絵はAEGの子会社であったベルリン電力会社(Berliner Elektrizitätswerke)の1897年の記念出版物でも制作されていた。この子会社の記念出版物に絵を描いたのは,ルートヴィヒ・ジュッターリン(Ludwig Sütterlin)という芸術家であった(Buddensieg, 1990, S. 20-21)。

27   これら2つの展覧会で建てられたパビリオンはいずれもペーター・ベーレンスが設計を任されることになったことから(田所,1997,119),そのように考えられる。

28   AEGでペーター・ベーレンスは,アーク灯以外に電気ポットや電気扇風機などのプロダクトデザインも行った(田所,1997,139)。

29   ヴァルター・ラーテナウがペーター・ベーレンスをインダストリアル・デザイナーというよりも,純粋美術の制作に取り組む画家などと同じような芸術家の1人として見なしていた可能性があったことは,ヴァルター・ラーテナウとペーター・ベーレンスの関係について考察した田所(1997)の研究からも確認できる。ヴァルター・ラーテナウが彫刻家や画家など他の芸術家と食事をする際に,ペーター・ベーレンスもそれに参加していたことがわかっている(田所,1997, 121-122)。

30   ドレスデンの工芸展覧会では社会階層ごとにそれぞれの階層に合わせた展示がなされていた(Maciuika, 2005, p. 143)。