中世の時代、京都の貴族たちによる儀式や饗宴の席では、土器は白木の折敷にのせられ、白木の箸(つまり現在の割り箸)が使われた(図4)。そして宴会が終わると、すべて一回きりで捨てられたのであった。この土器はひとつひとつは安価であったが、一度しか用いられず大量に消費されるので、結局は高い出費となり、庶民には使われなかったのである。土器を大量に使う饗宴は、清らかさを求めた京都独特の風習であった。

 とくに注目すべきは、京都の土器はロクロを使わず、あくまでも手づくね成形にこだわった点である。京都の土器と同じような素焼きの皿は、当時地方でもさかんにつくられていた。しかしそのほとんどがロクロ成形であったのである。

 平安時代中期の清少納言による随筆『枕草子』によると、土器は「清しとみゆるもの」(清らかで美しいもの)の筆頭として描かれていた。平安時代の王朝貴族にとって、土器は「清浄」の象徴としてまことに好ましいうつわであったのである。

 現在でも神社の神饌には、土器、一般にかわらけとよばれる皿が使われている。その無防備といってもよい土の肌合いは、古代人の心根を宿すかのようである。清浄を重んじる神事では、かわらけは一度使うと土へ還されるのである。

 つまり、京都で桃山時代に生まれた楽茶碗こそは、土器という素材のもつ無垢の麁相(そそう)たる味わいを新たに活かした、革新的な茶の湯のうつわと判断することができよう。この手づくねのもろく柔らかな造形のうつわの系譜は、千利休の理想美を具現化した初代長次郎にはじまる楽家代々、そして光悦・光甫という本阿弥家、さらには尾形乾山へと連なっている。

 長次郎の楽茶碗は、つくられた当初は「今焼茶碗」あるいは「宗易(千利休)形の茶碗」というほかに、「聚楽焼」(じゅらくやき)とよばれていたという。それは、豊臣秀吉が建てた聚楽第付近の土(聚楽土)を使ってつくられた茶碗から、このようによばれたといわれている。おそらく二代常慶の父、田中宗慶が秀吉より「樂」の金印を拝受したのが直接の理由であろう。楽茶碗は、聚楽第という秀吉の創造したこの世の楽園、言わばパラダイスという存在を象徴するもの、すなわちそこの土地で採取された聚楽土でつくられているところに、大きな意味を有したと思われる。また、長次郎の黒楽茶碗の黒釉は、加茂川の河原で採取された加茂石を原料にしていたという。これもまさに京都盆地を形成してきた加茂川がもたらしたものなのである。

 しかしながら、どうして利休は土器と同じようなもろさや柔らかさという属性をもった土を、あえて茶碗の素材として選んだのであろうか。

楽茶碗にみる聖性

 さて、じつは利休をはじめとする茶人たちが催した桃山時代の茶会の室礼やその道具に、古来以来の神に捧げるいわゆる「造り物」の要素が垣間見られるのである。

 「造り物」とは古来祝祭や祭礼の場を飾り、神霊としての表象や供物の意味を込めた聖性を有する造形物である。たとえば正月の注連縄や門松、お盆の精霊棚、夏祭りの山鉾や山車や花笠などで、ある期間が終われば取り壊されて、あるいは焼却されたり流去されたりしてしまうものである。

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図4 貴族の宴(源氏物語)
(出光美術館蔵)