豊臣秀吉が島津義久を攻めた九州の陣の折、千利休や津田宗及らの茶頭は博多に出向き、筥崎八幡宮の海岸、千代の松原のあたりに、青茅や松葉や青竹によって二畳、三畳などの、まさに草の庵を造作し、秀吉はそこで茶を喫することがあったことを、『宗湛日記』が伝えている。その草の庵にこそ、私は「造り物」の要素は介間見られると思う。

天正15(1587)年6月13日朝(筥崎にて)
津田宗及の茶湯の会。茶室は塩屋小屋と見せた数奇屋。秀吉を主賓にして、御相伴は薬院(施薬院全宗)と休夢(黒田如水の叔父、小寺休夢)の二人。押板に定家の色紙を懸け、その前の鏑無に花を活けて、新出来の霰釜、瀬戸の水指、水覆は棒の先、天目台は無し。蓋置は引切。

天正15年 6月14日昼(筥崎、燈籠堂にて)
千利休の茶湯の会。客は神谷宗湛など。茶室は深三畳、萱葺、壁も青萱。上座の柱に懸けた高麗筒に篠の花を活け、益母の花も活ける。今焼の茶碗に、折タメ、巾を仕入れて、釣瓶、面桶、引切。

同日昼
利休の茶湯の会が終わった後、千紹安の茶会。客は神谷宗湛など。茶室は二畳半、青松葉で壁を囲み、萱葺。金の風炉、新釜、新焼の茶碗、棗、釣瓶、面桶、引切。

 このような茶会記の記録から、まことに興味深い空間や状況のなかで茶会が行われていたことがうかがえる。6月14日の茶室は、屋根も壁も青茅や青松で葺いたような、じつに簡素なものであった。これをみると、たとえば夏の盂蘭盆の行事にある「盆小屋」という、いわゆる一過性の「造り物」が想起されるのである。

 「盆小屋」とは、藁や筵でつくられた粗末な小屋を設営して、子供たちがそこで一定期間の共同生活をおくる慣行のことで、行事の終了とともに、その小屋を焼却する「火まつり」をともなうのである。柳田国男の『年中行事図説』によれば、天竜川の川筋にあたる村々では、河原に「盆小屋」をかける習わしがあったという。小屋の材料は、七夕の竹を取り置いたものを使用する。河原は川へ精霊を流す地点で、まさしくあの世とこの世の境界に位置するところであった。
 また、三浦半島の三戸は大型の精霊舟を流すことで知られる村である。この行事に参加する子供たちは、海岸の「浜小屋」(図5)に宿泊して、精霊流しの朝にそなえる。

 「浜小屋」は、「盆小屋」の一形態であって、これが精霊をおくる舟の出る浜辺で営まれているのは、河原と趣旨を同じくするものであった。つまり「盆小屋」という聖なる密室が、盆に去来する祖霊との交渉と係わっていたことを示唆するものであろう。

 このように博多の浜辺で行われた茶会の茶室をみると、「盆小屋」とその立地条件や形態さえも類似しており、おそらくその閉ざされた空間には、日常の生活の場を離れた聖性が宿されていたのではないだろうか。この浜辺の茶会で使用された、木地釣瓶の水指、面桶の建水、青竹の蓋置(引切)などには、いずれも清浄簡素なる一過性の「造り物」的性格が見て取れるのである。同じようにこの茶会に用いられた「今焼」あるいは「新焼」の茶碗、つまり楽茶碗にも、なんらかの聖性がそこに込められていたのではないかと私は考えるのである。

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図5 浜小屋(神奈川県三浦市)