ところで、今まで見てきた祭壇画の中央図のような大作から、その他の絵画作品、とりわけ、一人ないし二人の人物のみを描いた作品へ眼を移してみると、そこに忽然と、画家としても真に偉大であったデューラーの姿が浮かび上がってくる。この作品群においてこそ彼は、イタリアの画家たちも、ネーデルラントの画家たちも、また版画家としての彼自身も及ばない偉業を成し遂げているのである。その作品群とは、すなわち、《パウムガルトナー祭壇画》翼画、《アダムとイヴ》、《四人の使徒》など、一人ないし二人の人物の全体像を縦長の画面に描いたもの、肖像画の大部分、聖母子像を中心とする小型の礼拝像の大部分である。

 それらの作品と、これまで見てきた作品との違いが、単なる描写の対象の違いではなく、基本的な画面の性格の違いであるということは、例えば1508年の《アダムとイヴ》(図17)を見ればよくわかるであろう。まず一見して明らかなように、この作品の画面は一つの情景の描写としてあるのではなく、主要な対象の形態とそれをのせる地の部分とにはっきりわかれている。ここでは、黒い地が、何らかの対象を表すのではなく――それは決して「闇」を表しているのではない――、主要な対象物であるアダムとイヴや樹の枝にいる蛇の姿を強調し、引き立てるものとして、いわば、主要な形態を切り取った負の部分として残されているのである。空間の存在は、アダムとイヴの立つ地面と、二人の身体自体がもつ量塊としての厚みによって示されているが、それも背後への奥行きを黒い地でふさがれている。ここではただ、アダムとイヴの身体が必要とするだけの空間、それが量塊として占有するだけの空間があればよいのであり、したがって画面は、特に左右の広がりにおいて、アダムとイヴをぎりぎり収めるだけの大きさしか有していない。この作品の描写の重点は、対象の環境を含んだ情景にあるのではなく、あくまで対象そのもののみにあるといえる。しかし、描写の主体が対象物にあり、その他の部分が単なる地になっているからといって、この作品をゴシック絵画の伝統の直系にあるものと見るわけにもゆかない。というのは、この作品におけるアダムとイヴの姿は、決して平面的形態として地の上に配されているのではなく、黒い地の前に、自らの現実性、量塊としての自らの存在感を示しているからである。ここでは画面は決して平面的なものと考えられているのではなく、現実的な存在としての量塊性をもった対象物を提示する場と考えられているのである。ただ、この量塊性は、現実的な空間性を伴ってはいない。対象物は現実的な空間の中に位置づけられているのではなく、ただそれ自体の量塊性によって存在しているのである。そして、そのような、現実的な空間の欠如ということは、そもそも、この作品が二枚のパネルに分かれていて、しかもその二枚の画面がぴったりとつながってはいないということにも、はっきりと示されている。一つの全体であるべき「アダムとイヴ」が、ここでは一つの連続した情景、一つの連続した空間としてではなく、それぞれ四角い枠で切り取られた二つの画面として示されているのである。しかしまた、これは、独立した二点の作品でもない。このアダムとイヴは、たとえある程度距離をおいて並べられるとしても、たとえ両画面がそのままは連続しないとしても、画面の枠を超えて互いに呼応し合う。この二枚のパネルにとって、空間としての情景の連続性などということはまったく問題ではない。アダムとイヴという二つの対象が、対象自体として互いに直接結びついているのである。このアダムとイヴは、一定の空間の中に規定されているのではなく、それ自体の力によって自らの存在する位置を定め、それ自体の力によって互いに働きかけ合い、また見る者に働きかけてくる。アダムとイヴは、黒い地の前で、強い光――その一部は彼らの内から発しているかのようである――に照らされて輝き、浮き上がってくる。彼らは、情景の投影としての画面空間の中にあるのではなく、彼ら自身として、直接、われわれの目の前に、むき出しで提示されている。そして、まさにこの、それ自身として、むき出しで提示された人間像というものこそ、デューラーの達成した最も偉大な創造なのである。

 《アダムとイヴ》における縦長の対幅という画面形式は祭壇画の翼画を想起させるが、この作品には実際に、《パウムガルトナー祭壇画》の両翼画「聖ゲオルギウス」、「聖エウスタキウス」という先行例がある(図18)。その画面を見ると、黒い地を背景として明るく浮かび上がる人間像の扱いといい、画面上でのその配置といい、地面の描写といい、これが《アダムとイヴ》の直接の先行例であることは疑いない。その際、特に注目されるのは、祭壇画全体として見たとき(図19)、この翼画が中央図とまったく異なる様式を示していて、中央図とは関係なく、その存在を主張しているように思われることである。そのような理由からであろう、この翼画は、17世紀には、中央の様式に対応させるべく、現実的な情景として描き直され、拡張されたのであるが(図20)、ここに掲げた小さな図版からでも、われわれに直接迫ってくるような人物像の力が、そのような情景としての描写によってどれほど損なわれるかは、まったく明らかであろう。背景を黒地とし、画面いっぱいに提示されることによって、この人物像は、最も力強い、まざまざとした存在感を発揮するのである。さらにこの作品に関しては、その色彩効果のみごとさにも触れておく必要があろう。黒、白、赤、灰色、黄土色といった色彩の華やかな対比は、デューラーの絵画から決して完全には消え去ることのない、ゴシック絵画的色彩感覚を示しているのであるが、それがここでは、人物の現実的存在感を少しも損なってはおらず、むしろその存在感を強める働きをもっている。そのような色彩の効果があってこそはじめて、デューラーの絵画は、彼の版画が決して示し得ない力強さを獲得するのである。

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図17《アダムとイヴ》1507年
図18
「パウムガルトナー祭壇画」両翼画
《聖ゲオルギウス》《聖エウスタキウス》
1498年頃
図19「パウムガルトナー祭壇画」全体
図20
「パウムガルトナー祭壇画」
17世紀の手の入った状態
(1902-03年の修復以前の写真)