アルルへ向けての出発点

 本論文は、現在のゴッホ研究の中で ----------- そしておそらくはゴッホ受容全般の中でも ----------- 、一般的になっている「ゴッホ=種播く人」というイメージに対して、さほど重要視されていない「耕す人としてのゴッホ」というゴッホ像を提示し、その作品のあり方に即して論じようとするものである。

 ゴッホは生涯にわたって繰り返し「種播く人」の姿を描いたのだが、その頂点に位置するのは、アルル時代に制作された2点の作品、すなわちで1888年6月の《種播く人》と、同年11月の《種播く人》である(図12)。筆者はまず、ゴッホが「種播く人」にどのような意味を与えていたのか、あるいは、「種播く人」がゴッホにとってどのような意味を持つものとして解釈されてきたのか、ということを、その2点のアルル時代の《種播く人》を中心に考えてみたいのであるが、そのための出発点として、ゴッホがどのような状況の下にアルルへ向かったのか、その目的は何だったのかということについての、ひとつの重要な発言を聞くことから、この論文を始めることとしたい。

 1970年代後半に登場してきた「新しい美術史」の旗手の一人であり、フェミニズム美術史、美術史のジェンダー論の代表的な担い手であるグリゼルダ・ポロックは、その博士論文であるゴッホ論の中心的な論点を、自ら次のように要約している。

近代化の社会的プロセスを基盤とした現代的な歴史画を作り出そうという[オランダにおける]ゴッホの計画は失敗に終わった。そこで彼は、何とかして先へ進む道を見出そうと、1886年、パリへやってきたが、そこで彼が見出したのは、パリがなんら確実なものを与えてはくれないということ、互いに競い合う混乱の万華鏡であった。パリを離れ、アルルの風景をコーニンクやロイスダールの風景と取り違えたゴッホは、彼の「空想の美術館」と17世紀オランダ美術に関しての著述を広く探索した結果、彼が「慰めのための絵画 la peinture consolante」と呼ぶもののプログラムを作り出した。近代社会の耐え難い複雑さの中にある人々の慰めとしての絵画というプログラムである。それは、実際の図像、象徴、物語という点では宗教画ではないものの、それまで宗教画と結び付けられていた役割を担うものであった。すなわち、現実社会のうつろいやすく理解しがたい複雑さから遠く隔たったどこかに、永遠の価値を持つ不朽の世界を提起することによって、慰めを与えようというのである。このような意味における宗教美術は、その根本から反現代的であり、歴史的な時間と社会変化とに関わる現代性(モダニティー)の、まさに対極にあるものである(註1)。

 オランダからパリを経てアルルに至るゴッホの道筋に関しての歴史的把握に関しては、おそらく大半の研究者がポロックの認識に同意することであろう。「現代的な歴史画」を作り出そうという、オランダで実現することのできなかったゴッホの夢は、印象派から後期印象派への大きな転換期に差し掛かった1880年代半ばすぎのパリで、大きく揺り動かされる。彼が「グラン・ブールヴァールの画家たち」と呼んだモネやルノワールらは、印象派という団塊の中での自らの様式の差異化へ向かって重要な転機を迎え、新たな模索を開始していたし、他方で、登場したばかりの「プティ・ブールヴァールの画家たち」は、次の時代を担うべく、大胆な活動を展開し始めていた。

 そうした動きの中で特にゴッホが注目したのは、新世代の中でも既に印象派展に参加していたゴーギャンとスーラであったが、とりわけ世間の大きな注目を集めたスーラの《アニエールの水浴》と《グランド・ジャット島の日曜の午後》という大作は、ゴッホの目指す「現代的な歴史画」の見事な実現に他ならず、それがゴッホに大きな感銘とともに大きなショックを与えたであろうことは容易に想像がつく。そのようなパリの「互いに競い合う混乱の万華鏡」から逃げ出すことを決意したゴッホが、アルルへの出発の当日、南駅へ向う前に最後に訪れたのはスーラのアトリエであったし、アルルからパリにいる弟テオに宛てた手紙の中でも彼は、ゴーギャンの様子と共に、しきりにスーラの動向を尋ねている。パリのスーラ、ポンタヴェンのゴーギャン、そしてもう一人、エクスの巨匠セザンヌ、そうした、後に彼自身と共に「後期印象派」として括られることになる画家たちの動きを意識しながら、ゴッホはアルルで自らの道を探すことになる(註2)。

 ゴッホが南仏で見出した自らの道を、ポロックは、17世紀オランダ美術やミレーといった伝統、すなわちゴッホの「空想の美術館」を基にした、「慰めのための絵画」、「近代社会の耐え難い複雑さの中にある人々の慰めとしての絵画」であるとする。それは、「永遠の価値を持った不朽の世界を提起する」、「それまで宗教画と結び付けられていた役割を担う」、擬似宗教画であり、そのような絵画プログラムにおいてゴッホは「反現代的」であった、というのがポロックのゴッホ把握である。

 そのような議論を展開する際、ポロックが具体的な実例として挙げているのは、たとえば、アルル近郊のラ・クローの野を描いた一連の作品や、サン=レミでの《星月夜》であるが、本論文では、ゴッホがアルルで作り出した擬似宗教画の典型的な例として、《種播く人》を取り上げ、詳しく検討することとしたい

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註:
本論文では、ゴッホの作品は、J.-B. De la Faille による作品カタログ(L'Oeuvre de Vincent van Gogh: Catalogue raisonné, Paris / Bruxelles, 1928; The Works of Vincent van Gogh: His Paintings and Drawings, Amsterdam, 1970; Vincent van Gogh: The Complete Works on Paper, San Francisco, 1992)のカタログ番号(F番号)、および Jan Hulsker による作品カタログ(The Complete Van Gogh: Paintings, Drawings, Sketches, New York, 1980; The New Complete Van Gogh: Paintings, Drawings, Sketches, revised and enlarged edition, Amsterdam / Philadelphia, 1996)のカタログ番号(JH番号)で示し、それらに収録されていないスケッチブック中の素描に関しては、Johannes van der Wolk, The Seven Sketchbooks of Vincent van Gogh: A Facsimile Edition, New York, 1987 のカタログ番号(SB番号)で示した。ゴッホの手紙に関しては、Verzamelde brieven van Vincent van Gogh, aangevuld en uitgebreid door Ir.Dr.V.W. van Gogh, 4 delen, Amsterdam/Antwerpen, 1953 (new edition in 2 vols., 1974) を基本として、その書簡番号で表わし、適宜、De brieven van Vincent van Gogh, onder redactie van Han van Crimpen en Monique Berends-Albert, 4 vols., 'S-Gravenhage, 1990 などで補った。手紙の日本語訳は筆者によるものであるが、その際、『ファン・ゴッホ書簡全集』(小林秀雄他監修)、6巻、みすず書房、1969-70年;The Complete Letters of Vincent van Gogh, 3 vols., London, 1958 などを参照した。
なお、画家の名前は、正しくは「ファン・ゴッホ」ないし「ファン・ホッホ」とすべきであるが、「ゴッホ」という表記が専門書においても一般的であるので、本論ではその表記を踏襲する。

註1:
Griselda Pollock, Avant-Garde Gambits, London, 1992, p.52。ポロックの博士論文は、Griselda Pollock, Van Gogh and Dutch Art: A Study of Van Gogh's Concept of the Modern, Ph.D.dissertation, London University, 1980 である。ポロックのゴッホ関係の論文としては他に、Griselda Pollock, "Stark encounters: modern life and urban work in Van Gogh's drawing of The Hague 1881-3", in: Art History, 6:3, 1983, pp.330-358; Griselda Pollock, "On not seeing Provence: Van Gogh and the landscape of consolation, 1888-9", in: Richard Thomson(ed.), Framing France: The representation of landscape in France, 1870-1914, Manchester/London, 1998, pp.81-118 がある。なお、ゴッホの「空想の美術館」については、Chris Stolwijk(et al.ed.), Vincent's Choice: The Musée imaginaire of Van Gogh, exhib.cat., Van Gogh Museum, Amsterdam, 2003 を参照のこと。

註2:
ゴッホとゴーギャンの関係については多くの研究があるので、以下に最近の重要な文献を挙げるだけにとどめておく ----------- Debora Silverman, Van Gogh and Gauguin: The Search for Sacred Art, New York, 2000; Douglas W.Druick, Peter Kort Zegers, Van Gogh ang Gauguin: The Studio of the South, exhib.cat., The Art Institute of Chicago/ Van Gogh Museum, Amsterdam, 2001-02。
ゴッホとスーラの関係については、これまでの文献ではほとんど触れられていないので、以下に基本的な事実をやや詳しく記しておく。ゴッホがパリに到着したのは1886年3月であり、スーラの第2の大作、《グランド・ジャット島の日曜の午後》はその年の5~6月に「第8回印象派展」で、8~9月に「第2回アンデパンダン展」で公開されている。ゴッホとスーラが最初に出会ったのは、1887年11月にゴッホがベルナール、アンクタンらと共に Grand Bouillon, Restaurant du Chalet で開催した展覧会にスーラが訪れた際である(ゴッホとゴーギャンとの出会いもこの展覧会がきっかけである)。ゴッホが、スーラの第1の大作、《アニエールの水浴》(1884年のアンデパンダン展に出品)を知っていたかどうかは確かではない。アルルからの手紙の中で、《グランド・ジャット》と《ポーズする女たち》を大作として言及しながら、《アニエールの水浴》は触れられていない(書簡551)。1888年3~5月の「第4回アンデパンダン展」で初めて公開された《ポーズする女たち》が言及されているのは、ゴッホが、2月19日、南駅(リヨン駅)からアルルへ発つ前の数時間を弟テオと共にスーラのアトリエで過ごしたからである。ゴッホは、そのスーラのアトリエ訪問のことをゴーギャンに語っているし(書簡544a)、また、サン=レミからパリへ戻る直前、パリを発った日のことを回想して、「あの日、僕達はスーラの絵から強烈な印象を与えられた」とも述べている(書簡633)。また、「君と南駅で別れたとき、僕は、興奮していて、ほとんど病人かアルコール中毒のようだったけれど、いつも、漠然と感じていたのだ。あの冬、僕達は、多くの注目すべき人々や芸術家たちとの議論に心を注いだが、しかしそれでも、まだ充分な希望を持つわけにはゆかないと」(書簡544)という発言も、わざわざ「君と南駅で別れたとき」と言っているのを考えれば、スーラのことを前提に理解すべきであろう。スーラに関しては、「プティ・ブールヴァールの第一人者は疑いなくスーラだ」という発言も注目される(書簡500)。
ゴッホとセザンヌとの間には直接の交流はない。「南仏の開拓者」たらんとするゴッホの自負がエクス=アン=プロヴァンスを根拠とするセザンヌを強く意識させたのである(書簡497参照)。

図1
《種播く人》(F422/JH1470)
1888年6月
図2《種播く人》(F450/JH1627)
1888年11月