ところで、画家が代わりの腕を数本しか周囲に用意できないとすれば、量産といってもたかがしれているというものだ。これをいっきに何百、何千とすることができないものか、と考えた時、はじめて印刷という複製手段が浮かんできたものに違いない。
 そもそも日本における版画の歴史は古く、平安・鎌倉時代の印仏(いんぶつ)・摺仏(しゆうぶつ)に始まって、室町時代の大型の仏教版画、あるいは縁起絵巻(例「木版融通念仏縁起絵巻」明徳元年・一三九〇刊)など、宗教上の要請からの木版による版画制作はすでに早くから行われてきた。
 安土桃山時代にはキリスト教の教団内で銅版画の試作も行われているが、惜しくもその技術は以後の厳しい禁教政策によって中断されてしまう。しかし同じ頃、朝鮮半島から伝えられた木活字(もくかつじ)印刷術にも刺戟されて、文字の印刷や版画への関心が高まっていった結果、江戸時代に入ると間もなく、挿絵入りの大衆向け出版物が盛んに刊行されるようになる。伝統的な写本文化に新しい版本文化がとって代わっていく中で、版画表現が美術的な質を高めて行き、ついには本の挿図から独立して単行の版画が江戸に生まれることになる。十七世紀の後半、延宝(一六七三~八一)、天和(一六八一~八四)の頃で、その中心的な役割を果たしたのが房州(安房国、今の千葉県)保田(ほた)村出身の菱川師宣であった。師宣は、木版技法を駆使することによって絵筆を無数に持つ〝千手観音〟に成りおおせたのであった。〝観音〟の加護によって、すなわち版画を主たる表現形式とすることによって、江戸に浮世絵が誕生したのである。

-にわか作りの大都市・江戸-

 浮世絵が木版画を優先することにより大きく発展したことは、今では自明の事実となっている。しかしよく考えてみれば、絵画としては邪道であり、変則的な版画をあえて主要な表現形式として選択したというあたりに、江戸という都市の特異な性格が透かし見えてくるのである。京都や大坂には、版本は発達したが、その挿絵が一枚絵の版画に独立していくことはなかった。たしかに十八世紀末から上方(かみがた)役者絵の展開が始まり、十九世紀に入って以降盛んにはなるが、それも明らかに江戸の錦絵の影響によるもので、自主的な発生、展開というわけでは決してなかった。
 何事も上方の文化を移植して育てる傾向の強い江戸であったが、浮世絵版画のみは早くから自前で作り上げたもので、例外的な現象といってもよい。上方の人たちには抵抗があって一枚刷りの版画の鑑賞に満足しきれないものがあったのに対して、なぜ江戸の人々は早くからこれを歓迎し、むしろ肉筆画以上に愛好したのであろうか。
 江戸の歴史を振り返れば、室町中期に太田道灌の居城も置かれてはいるものの、国内での主要な大都市として発展していく契機は、いうまでもなく天正十八年(一五九〇)の徳川家康の江戸入りにこそある。豊臣秀吉に恐れられて遠い関八州に移封されたのを逆に好機とした家康は、海浜の寒村となっていた江戸を新しい城下町として大改造し、征夷大将軍となってからは幕府をここに置くこととして、諸大名の加勢を頼みいっそうの整備を急いだ。綿密な都市計画に沿って新設されたこの実質的な首都は、今は形式的な都と成り下がった京と比べて、町の性格や雰囲気が対照的に異なっていた。町作りに当たっては、琵琶湖に似せた上野(うえの)の不忍池(しのばずのいけ)の辺りに比叡山延暦寺に似せて東叡山寛永寺を開設するなど、都市としてのおよその姿を京都を手本として作ってはみたが、にわか作りの町、それも武家支配の総本山としての町の様相が、京の町の古く、落ち着いて、伝統文化が重く厚く堆積した深みのあるそれとは、おのずから大きく変わってしまったのも止むを得ない仕儀といえるであろう。
 徳川直参の旗本・御家人のほか、参勤交代の制度により原則として隔年の江戸在府が義務づけられた諸大名と、その江戸詰めの少なからぬ家臣団、さらには大量に発生した浪人が吹きだまるなど、江戸は両刀を腰に差す武家の人口比率が異常に高い町であった。その日常生活を維持するために必要な商工の民、すなわち町人も初めは諸国から強制的に集めなければならなかったから、ほとんどの者が他国からの流れ者で、町作りには協力してももともとこの町に生まれ育った者はきわめて少なかった。
 さらに寺の数が多く、僧侶は原則として独身の男性であったから、江戸詰めの藩士、上方や伊勢を本店とする豪商の使用人、出稼ぎの季節労働者などと合わせて、独り身の男が目立って多い町でもあった。  もともと東夷(あずまえびす)とか坂東者(ばんどうもの)とか、東国の人間は気性の荒い乱暴者と上方の人にさげすまれてきたものが、武士が多く、女性よりも男性が多いというのだから、おそろしく殺風景で、剣吞(けんのん)な町であった。こうした江戸の町の基本的な性格は江戸時代を通して変わらず、あるいは現代の東京にまで受け継がれていると言ってもよいが、浮世絵が誕生しようとする江戸前期の頃は、とくに極端に偏ってしまったのであった。
そして、この新しい町は、過去の地域文化に学ぶこともできなかった代わりに、それにしばられたり抑圧されたりする不自由もなかった。ほぼ全員が他国者の住民によって、自分たちの望む好みの文化を新しく生み出せば良かったのである。

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