もともと、錦といえば色糸で織る高級織物のことだが、京都から下ってくる高級品(いわゆる下(くだ)り物(もの)の代名詞として、親しまれてきた。その錦のように美麗な色摺りの木版画が、この東(吾妻)の江戸で生まれたのだ、どんなもんでえ、と鼻を高くして言う江戸っ子たちの口吻が伝わってきそうではないか。
 上等なものはすべて上方(かみがた)から下ってくるもの、下らないで地方が作る土産(どさん)の物は粗末なものと相場が決まっていた。歌舞伎役者でさえ、その昔から女形(おやま)の名優は下り役者に限ったものであったが、それもこの時期、二代目瀬川菊之丞が王子から出て、江戸育ちの最初の女形役者として人気を独占していた。「下らない」が「つまらない」にそのまま結びつく時代はもうこれで終ったのだと、「吾妻錦絵」の一語が、雄弁に物語っているようである。
 この流行語大賞も間違いない新語の生みの親は、春信と親しかった平賀源内その人ではなかったかと、源内研究に造詣の深い芳賀徹氏は想像される。なるほどその可能性は高いだろう。

-一枚絵か絵本か-

 浮世絵はもともと木版絵本から始まったわけだが、一枚絵が独立した後も並行して絵入り版本の刊行は続いていた。多くの浮世絵師が、版画と絵本のための下絵を同時に提供していたのである。春信の場合は、十年ほどの短い作画期の間に表(おもて)の(艶本ではない)絵本だけで十三、四点(一点当り三冊が標準)もの多くを発表しており、多くのファンを墨摺(すみず)り(色摺りの絵本は一点のみ)の絵本で慰めていた。
 藤澤紫氏の報告するところによれば、春信は絵本の読者と錦絵の顧客とをはっきりと区別して意識し、表現の質を変えていたという(『鈴木春信絵本の研究』)。たとえば、得意の見立絵でも、錦絵の場合はパロディの種明しをより暗示的な段階にとどめ、金持ちで、より教養の高い人種を想定して、謎解きを楽しむ余地を多く残しているというのである。絵本ではその逆にあらずもがなの描写が加えられて、洗練の気味を低くしているようだ。
 版本よりも錦絵、そして錦絵の購買層よりもさらに上層の顧客として、肉筆画の受容者が存在した。加えてまた、肉筆画にも一般向け商品としての仕込絵(しこみえ)と、特定の客からの注文画との別があった。一口に浮世絵の愛好者といっても、階層ごと、あるいは地域別、性別、年齢別などと、さまざまな分化が起こっており、浮世絵師は多種多様のターゲットにふさわしい内容の作品を、仕分けして送り届ていたのであった。

-貸本屋という移動図書館-

 本といっても黄表紙や洒落本(しやれぼん)は、半紙半裁型の小さな判型で、二つ折にして綴じるから半紙四つ切大の小型本である。これらの絵入り短篇の小説類は、錦絵などと同じく絵草紙屋で比較的安価に買うことができたが、文化初年(十九世紀初め)頃から盛んとなる合巻(ごうかん)(黄表紙が長篇化して数冊で合冊したもの)や読本(よみほん)(複雑な筋書の長篇読み物)など大部な本は、誰しもがおいそれと自分で買うことはできなかった。葛飾北斎の『富嶽百景』(全三冊)とか『北斎漫画』(全十五編十五冊)などの、充実した絵本なども同様であった。
 それら購入はできないが読みたい、見たいと思う本は、どうしたら良いかといえば、安直な貸本屋(文化年間〔一八〇四~一八〕の江戸に六百五十六軒、天保年間〔一八三〇~四四〕には八百軒に及んだという報告もある)を利用すれば良かった。彼らは、新旧の本を仕入れて大きな風呂敷にそれらを包み、一軒一軒御用を聞いて貸し歩いたのである。読者の方は、わずかな損料(借り代)を払って多くの本を楽しむことができたので、重宝されたもののようである。いわば、有料の移動図書館という趣きだったわけである。
 今は亡き北小路健氏の報告によれば、当時の貸本屋は江戸の町中を貸し歩くばかりでなく、街道沿いに移動する輩もいたという。たとえば中山道(なかせんどう)の宿駅を板橋宿から順次たどって、道々の有力な家に貸本を置いて行き、信濃(しなの)(長野県)の馬籠(まごめ)や妻籠(つまご)から江戸へ帰る道すがら回収するというシステムがあったらしい。名主などの地方の有力者は、そうして借りた貸本を預っている間に書き写させて、元の本を返した後もその地域の知識や文芸上の資産を蓄えることがあったという。刊本の写本が街道筋に点在するのを知って、江戸時代の地方における文化のありようを改めて見直したという北小路氏は、また、街道沿いの地方の旧家に伝存する江戸の錦絵の多くが、こうした地方廻りの貸本屋のお土産(みやげ)や副業の商品であった可能性についても言及している(『木曾路・文献の旅──『夜明け前』探求』など)。

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