◉…物語や故事の見立絵

 俳諧を趣味として集まった武士や町人のグループが、絵暦という版画一枚絵のカレンダーを競作する遊びが、明和二年(一七六五)を中心とする時期に大流行した。金にあかせて美しい色摺り版画を作らせようとした彼らお金持の趣味人が、浮世絵版画の彫りと摺りの技術をいっきに向上、洗練させて、錦絵の誕生を実現したわけだが、そうした絵暦交換会の中心人物の一人が、禄高千六百石の高位の旗本大久保巨川だった。巨川のグループに属する巨川連のメンバーばかりでなく、それに対抗する莎雞(さけい)連(禄高千石の阿倍八之丞正寛(まさひろ)、俳号莎雞が率いるグループ)の人々もまた、見立ての趣向を大いに好んだらしく、その年の干支(えと)や大小月をいかに表示するかのアイディアと共に、画題の見立ての巧拙にも絵暦の優劣を計る上で重要なポイントが与えられたように思われる。見立絵は享保年間(一七一六〜三六)の頃から、とくに俳諧を好んだ浮世絵師奥村政信らによっても描かれているが、明和初年の絵暦ブームによって、火の手があおられたといってよいだろう。

 中国画の図様を和風に見立てた「採蓮二美人図」(巨川による明和二年の絵暦)や、源氏物語に取材して当世の少年と少女の恋物語に変奏した「見立夕顔」(莎雞による明和三年の絵暦)、あるいはお伽話(とぎばなし)の主人公を遊女に変えて桃の実の中から立ち現させた「見立桃太郎」(初考という人による明和二年の絵暦)など、和漢の説話や物語、特定の画題や図様になぞらえて、今様にやつした見立絵の傑作が、相ついで生み出されたのであった。

 中でも私の好きな見立絵は、一人の町娘が小川の辺りに坐って菊の枝を手折ろうとしている「見立菊慈童」(挿図13)で、おそらくは誰かの考案によって作られた明和二年の絵暦だったのであろう。現在は年や月のカレンダー・マークが確認できないが、着衣の模様に折り鶴が散らされており、酉年(とりどし)の明和二年にふさわしいからである。元来は、菊の葉の露がしたたり落ちた谷川の水を飲み、不老長寿のシンボルとなった中国の仙童として描かれるべきを、恋を夢見ているような年若く美しい江戸の町娘に変身させられているのである。現在はだいぶ退色が進んでいるが、当初の色を復元するなら、緑色の岸辺、うす藍色の水流、そして紅色(べにいろ)の空と、三色の色面が用意され、紫色の振袖に身を装った少女が、一本の菊の花枝を折ろうとしている。その放心したような、宙に浮いたまなざしが、青春の甘美な想いを告げているようではないか。仙界の貴さ、目出たさを、現世の幸いと一抹の憂いとに転じて見せる巧妙な演出ぶりには、見事とうならされるものがある。


◉…歌意の見立絵

 見立絵は、現実をストレートに伝えるのではなく、古典という器(うつわ)、枠組を借りて、間接的に表現しようとするものである。したがってそこでは、昔と今、雅と俗とが重ね焼きされており、ダブル・イメージ、あるいはトリプル・イメージと、意味や情趣が複層的に表現されているのである。絵を見る者には、古典への教養が前提として要求され、その知識を欠いて絵の真意が読み解けなければ、面白さを充分には味わえないことになる。

 こうした見立絵の変型として、古歌の歌意を見立てて楽しむタイプも生まれた。ここでも春信の錦絵を例にとって鑑賞してみよう。

「風流四季歌仙・二月 水辺梅」と題される版画(カラー図版26)には、画面上部の雲形の中に和歌が一首記されている。「末むすぶ人の手さへや匂ふらん 梅の下行(ゆく)水のながれは」と読め、その歌意に通わせて、小川の流れのかたわらで白梅の枝を折って娘に贈ろうとする前髪立ての若衆(わかしゆ)(少年)が描かれている。

「末むすぶ」には、下流で水をすくって飲むという意味と、将来を約束するという意味とがかけられており、この和歌では恋の成就が願われている。絵を見れば、石灯籠には灯が入っており、それを娘が振袖で隠しているところからして、人目を忍んで神社の境内へデイトに来た二人というのだろう。花の枝を折って渡そうとする行為は、性的交渉の暗喩として使われる常套(じようとう)の絵画作法だから、将来を約束する恋の成就が祝福されていると見て良い。歌意と図様とが親密に相呼応して、恋の情調が共奏、共鳴して、美しい。

 こうした詩意の見立ては、漢詩や俳句、川柳、狂歌にも原典を及ばせて、浮世絵の主題を豊かに広げたものであった。


◉…王朝物の人気

 浮世絵は、武家政権の本拠(幕府)が置かれた都市の町人の美術であり、武家の文化とは異質の自由さ、気軽さが楽しまれたものである。主題面においても発想は柔軟で、古典にその題材を取りながらも思いがけない趣向の変化を競い合ったのである。

 とりわけ、源氏物語や伊勢物語など王朝古典の物語や、平安の昔の歌人や彼らの和歌にちなんだ見立絵は、くり返し描きつがれていることに気付かされる。

 そうした遠い王朝の雅(みやび)を慕い憬れる心情は、どうやら江戸の町人たちの心の奥に深く巣くっていて、浮世絵を商品として提供しようとする版元や絵師にとっては、汲めども尽きない取材源として重宝がられたもののようである。

 もっとも、将軍をはじめとする武家の上流にあっても、和漢の文化伝統をかえりみて和を意識した際には平安・鎌倉両代の宮廷文化が好ましい規範となって仰がれたものだが、そのお膝元の庶民にあってはおのずから慕われていくなつかしい文化的な拠り所であった。それは、実質的に武家の〝都〟、東都と呼ばれた江戸の町に住む力無い人々にとって、はるか遠くに輝いて見えるまぼろしであるが故に、安んじて尊ばれ、楽しまれたのであろう。

 浮世の現実を描き出すばかりでなく、浮世に生きる人々の夢を代わって絵にするのも、浮世絵師の大切なつとめであったのであり、彼らが王朝古典への指向性を強くもっていたことも不思議ではなかった。

 旗本出身の殿様絵師、栄之の代表作には、「風流略六歌仙(やつしろつかせん)」とか、「風流やつし源氏」とか、王朝物の見立絵であることを売りにしたものが目立つが、それも当代の貴種に出た浮世絵師にこそ雅の文化への誘引がことさら期待されたためであったろう。武家と公家との両様の雅を仰ぎもっていた江戸の町人たちの屈折した憧憬の回路が、このようなところにも垣間見られて興味深いものがある。

<< 前のページへ 次のページへ >>
挿図13