仲秋の明月といえば、よく雨が降ったり曇ったりして、月影にすらお目にかかれないのが相場と決まっている。それなのに、折良くも列を作って雁が渡っていくのさえ見える。まさに「絵にかいたような」秋の風物詩がここに実現されているのである。

 広重はこうした、大方の人が共感する詩的な情感を、花や鳥の姿に題材を借りて親しみやすく表して、好評を博した。私の好きな広重花鳥画のもう一図に、「三日月の夜の松にみみずく」(中短冊判)がある。左上から右下に斜めに下がる松の枝に一羽のみみずくがとまり、目を閉じて眠っている。ちょうどその下に三日月が白抜きで表されていて、まるでみみずくを乗せた一艘の小舟のように見える。右上方の余白には和歌が一首、「三日月の船遊山(ふなゆさん)してみみづくの 耳に入(いれ)たき松風の琴」とある。三日月の船で船遊びをしているみみずくは、松を吹き渡る風の音を琴の音のように聞きながら安らいで寝入っている。なんと平和で、清らかなファンタジーを楽しませてくれることか。

 以前、花鳥版画ばかりを集めた特別展をアメリカのコレクション(ロードアイランド・デザイン学校附属美術館所蔵のロックフェラー一世夫人コレクション)を借りて催した時、その展覧会カタログに鳥類の専門家の方の参加を要請した。彼らの観察によれば、北斎の描いた鳥は動物学的に特徴が良くとらえられていて写生的であるが、広重の鳥は概念的であり、写実という点では不正確なのだそうである。演出過多と思われる北斎画の方が本物らしい花鳥の姿をしており、いかにもそれらしく見る人を納得させる広重の絵の方が実際の形からは遠いという。やはり北斎は理科系のドライな画家であり、広重は文科系のウェットな絵師と、類を異にしているようなのである。


好色への偏り

◉…日本のシュンガ

 浮世絵の主要な主題分野の中に、男女あるいは同性同士による性愛の楽しみを描いた春画がある。そもそも浮世絵という言葉の、現在確認されているもっとも早い用例が、そうした内容の絵に対するものであった。すなわち、延宝九年(天和元年・一六八一)刊行の俳書『それぞれ草』に「浮世絵や下にはえたる思ひ草」の一句が見出され、「浮世絵」が〝下〟の方の毛を露(あら)わにした春画であったことは明らかなのである。浮世絵の開祖として知られる菱川師宣が、版本や版画の揃物にこの種の名作を数多く残していることは周知の事実であり、その後の浮世絵師の巨匠たちも春画に一度も手を染めなかったという例は、例の写楽以外ほとんどいないと言ってよい。冒頭にも記したように、今は亡き楢崎宗重氏は、研究誌『浮世絵芸術』に春画作品を図版や挿図で掲載することに反対され続けた。それは、春画のイメージを余りにも過大に浮世絵にかぶせてきた世論一般の根強い通念が迷惑に思われてきたからであり、それとの苦闘に血のにじむような努力を尽くしてきた世代の、しごくもっともな姿勢であろうかと理解される。今でも浮世絵を春画と同義語のように取って、はじめから拒否反応を起こす人も少なくないのである。

 浮世絵イコール春画という、誤まった偏見を打ち破ろうと、これまで多くの研究者が努力を重ねてきた。かつて昭和戦中期には雑誌の統廃合が強制されたが、当時の浮世絵研究誌、『浮世絵界』と『丹緑』の二誌も、昭和十七年に統一して、『大和絵研究』と改題した。時局柄、「浮世絵」の語を捨ててそれにまとわりついた好色の印象を軽減しようと努めたものに違いない。  しかしながら、だからといって浮世絵の底辺をしっかりと支え続けてきた春画という主要なジャンルを、あたかも無かったもののように目をふさいだり、その公開をさまたげ続けるのもいかがなものであろうか。私はもう少し柔軟に、性愛に対するかつての日本の大人たちのファンタジーの所産に、目を開き、向き合っていきたいと思っている。この日(ひ)の本(もと)は、太古の昔からセックスには大らかで、その楽しさ、おかしさを絵画化した日本の春画、とりわけ浮世絵春画は、誇るべき豊かな質と多彩な展開を見せているのである。

 最近は画集での刊行こそかなりの自由度で可能になったが、展覧会場での公開は、国内ではなおはばかられる状況にある。私はこの点に関して保守的で、後述するように一般向けの展示には反対なのだが、ヨーロッパでは一九八九年にベルギーのイクセル美術館で大規模な日本春画の特別展「シュンガ 春のイメージ──日本版画のエロティズム」が開催されたのを皮切りに、一九九五年にはロンドンの大英博物館で開かれた喜多川歌麿展、また一九九九年にミラノで実現した北斎展において、彼らの優れた春画作品も会場の一隅に堂々と展示されたものであった。アメリカでも、一九九五年にインディアナ大学で、「セクシュアリティと江戸文化」という春画を対象とした国際シンポジウムが開かれている。今や欧米では春画が正当に評価されており、「シュンガ」は美術の専門語(テクニカル・ターム)として国際的に通用するまでになっている。

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