錦絵が出来上がり客の手に渡るまでの工程を、二組の三枚続、合計六図によって順序良く図解した歌麿の版画連作がある。「江戸名物錦画(にしきえ)耕作」(挿図17、18)と題するこの作品は、稲を育て米を作るまでを描く耕作図になぞらえたもので、以下のような順に描き出されている。


㈠「画師板下を認(したため)種おろしの図」

 絵筆を手にして文机(ふづくえ)による絵師の前では、版元とおぼしき人が墨描きのみの版下絵を広げて検分している。版元の許可が無ければ、どれほど絵師が望んでも出版がかなわなかったこと、いうまでもない。


㈡「板木師彫刻して苗代より本田(ほんでん)へうつしう(移し植)ゆる図」

 間鋤(あいすき)(線や面の間をすき取るもの)らしい彫刻刀を砥石で研ぐ人、小刀(こがたな)で輪郭線を彫り始めようとする人、そして、木槌(きづち)でのみを打ち余分な地の部分を削り取る人の三人が描かれている。板木師すなわち彫師の主要な仕事を単純明解に伝えてくれる。


㈢「礬水引(どうさびき) 田ならしの図」

 摺る前の紙に礬水というにじみ止めの液(膠(にかわ)に明礬(みようばん)を加えた液)を刷毛(はけ)で引き、その濡れた紙を紐にかけて干す作業は、摺師の仕事である。版木と紙が整えば、あとは摺るばかりである。


㈣「摺工田植の図」

 大きな硯と各種の絵具皿を傍らに置き、摺り道具の馬連をこしらえている人と、その馬連で版画を摺っている人の、摺師二人を登場させる。版木と紙の束を持って後方に立つ女性(絵師あるいは彫師からの使いか)、それに通い帳を持ってやってきた絵具屋(?)の小僧とが脇役として参加している。


㈤㈥「新板くばり出来秋の図」

「出来秋」とは稲の実った秋の頃をさし、版元鶴屋喜右衛門の店先で摺り上がったばかりの錦絵や版本が客の手に渡って行くという、目出たい場面で終わっている。

 彫師や摺師がすべて女性に擬せられているのは、美人画家歌麿ならではの虚構であり、もちろん現実には男だけの職場であった。欧米では、この歌麿の六枚の版画を見て、色美しい浮世絵版画は日本女性の繊細な手技(てわざ)によって仕上げられたものと、それこそ美しい誤解をする人も時々いるらしい。

 ともあれ錦絵は、右に見たようないくつもの工程を経、多くの人の技術を結集してはじめて成った、美術的な印刷物であった。


◉…彫師と摺師の修業

 浮世絵関係の古典的な名著の一つに、石井研堂の著した『錦絵の彫と摺』(昭和四年・一九二九刊)がある。まだ江戸の余風が残っていた昭和の初年に、それまでに集めた資料や見聞を取りまとめ、錦絵の彫りと摺りの実際の在り方を報告してくれている貴重な書物である。浮世絵をその技術面から理解しようとする時、本書を参照しないわけにはいかない。

 とくに興味深いのは、彫師や摺師の修業法について語っているところである。たとえば彫師の場合は以下のようであったという。

 錦絵の彫師には、頭(かしら)彫りと胴彫りとの区別があった。頭彫りとは、人物の顔や髪の毛などを彫ることのできる技術の優れた彫師であり、胴彫りの方は着物や櫛(くし)などを彫らされる未熟者であった。

 彫師になるには、然るべき親方について十年の年季を勤め上げることが必要であった。少年で徒弟となった初めの内は、使い走りの合間(あいま)を見つけて屑の板切れに「一、二、三」など画数の少ない文字を彫って練習する。版下もなくぶっつけに彫る内に、彫刻刀の使い方が分かってくる。その次に、大きな文字の義太夫(ぎだゆう)本を彫る。それが出来てからようやく錦絵の色板(いろいた)を彫り習うことになる。その次に墨板(すみいた)、それも比較的やさしい着物の模様から微妙なニュアンスを要する衣文線、そして特別に貴重視された紅板(紅色の色板)へと進んでいった。

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挿図17,18