雅邦の証言によれば、そこでの教育は、もっぱら師の家に伝来する絵の手本を貸してもらい、その通りに写す練習をくり返すことに終始した。十年か、それ以上もの長い年月、粉本(ふんぼん)という絵の手本をひたすら写し、許されて清書したその摸本の集積を我が物として、めでたく卒業ということになる。

 多くは諸藩の御用絵師の家に生まれた狩野派の弟子たちは、師の下で修業した折の絵手本(えでほん)のコピーを国元に持ち帰り、やがて弟子を持った暁にはそのコピーを手本として摸写教育を行うことになる。

 こうして、将軍に抱えられていた奥絵師の蔵の中の手本が、そのコピーを通して全国津々浦々の絵を学ぶ人々に規範として仰ぎ尊ばれたのであった。手本に従って絵を描くことに疑問をもたなかったその時代にあっては、師から許し与えられた粉本(絵手本)こそが頼りであり、それなしには筆を運ばせることのできない者が多かった。実際に、火災に遭って頼りの粉本を焼失してしまったため、画家を廃業するに至ったケースすらあると、狩野派出身ながら異色の歴史画家として成功を収めた幕末の菊池容斎は、大いに嘆いたものであった(『容斎画意』)。


◉…秘伝の無効

 狩野派にもその門下には多く異端児が出ており、そのお蔭で江戸時代の絵画史の多彩な展開が可能になったわけだが、すでに十八世紀の初めに『画筌(がせん)』(正徳二年〔一七一二〕自序、享保六年〔一七二一〕刊)という絵入りの本を出版して狩野派の秘伝を公開してしまった、九州筑前国(ちくぜんのくに)(福岡県)の弟子(でし)狩野(がのう)、林守篤(もりあつ)のような存在も出ている。この本は、秘伝の踏襲によって画壇の全国支配を完結した狩野派にとっては許し難い内部からの暴露本となったが、絵を独学しようとする者には、理論と実技の解説、図様の実例などが懇切に用意された便利なハウ・ツー本として、大いに歓迎され、版を重ねたものであった。

 出版による絵の手本の提供に先鞭をつけたのが掟きびしい狩野派の門人であったのは、意外な事実であった。その後も、文人画の流行を支えたのが中国の木版画譜(『八種画譜』『芥子園画伝』など)の和刻本であったり、写生画への関心を高めたものに長崎帰りの画家宋紫石の画集(『宋紫石画譜』)があったりと、版本による絵手本の提供と、そこに収められた図を鑑賞する楽しみの享受が、全国の絵画愛好者層に受け入れられて行くようになる。

 出版による絵手本の提供とその鑑賞ということであれば、もともと版刻の絵本から出発した浮世絵にとってはお得意の分野とも言えた。また秘伝などといって隠しごとをするような体質とは無縁の世界でもあったから、機が熟せば、絵手本類の版行に火がつくのも当然であった。みずから画狂人と称し、絵筆を走らせることに日々努めた葛飾北斎が、旅先の開放的な気分で新しい企画に乗った時、その機会が到来した。文化年間、十九世紀初頭のことである。


◉…図像百科事典『北斎漫画』

 日本から輸出した陶器のパッキングとして『北斎漫画』の一葉一葉が用いられ、その優れた素描力に驚嘆したことがヨーロッパにおけるジャポニスムの発端であったとする、一種の〝神話〟が伝えられている。『北斎漫画』に学んだ西洋近代の画家たちは数多く、欧米におけるその知名度は今も高い。ポーランドの古都クラクフ(クラコウ)にある国立日本文化・技術センターは「マンガ」という愛称で親しまれているが、その由来は『北斎漫画』にさかのぼること、いうまでもない。

 この世界に冠たる木版絵本の素描集『北斎漫画』は、文化十一年(一八一四)に初編が出版され、最終の第十五編が刊行されたのは北斎没後三十年目の明治十一年(一八七八)のことであった。全十五冊の絵本が完結するまでに六十年以上の歳月を必要とし、収められた総図数は約四千図に及ぶといわれている。

 この世に在って実際に見ることができる事物ばかりでなく、人の心に思われてきた神話や伝説など想像上の物や事にいたるまで、文字通り森羅万象を描き尽くして止まないこの東洋の偉大な〝図像百科事典〟は、いったいどのようにして誕生することになったのだろうか。

 実は、『北斎漫画』を全編出版した版元は、江戸から遠い名古屋の、永楽屋という本屋であった。もちろん、名古屋で印刷、製本された『北斎漫画』は、日本の各地に送り出され、販売されたわけだが、その頃は実質的に政治、経済、文化の中心地となっていた江戸の産物ではなかったのである。明治以前に、江戸、京、大坂のいわゆる三都以外の土地で出版された本が、全国的に流布していくことはきわめて珍しい現象であったが、『北斎漫画』は、江戸の浮世絵師が下絵を描いていたものの、名古屋という一地方都市から発信された、そうした例外的なベストセラーであり、ロングセラーだったのである。

『北斎漫画』がなぜ名古屋の版元永楽屋から出版されることになったのか、その事情ははっきりとはしない。初編の序文で半洲散人という人は、およそ次のようなことを言っている。

 江戸の有名な画家である北斎が、文化九年(一八一二)の秋に名古屋にやってきて、牧墨僊(ぼくせん)(尾張藩士で北斎の弟子)の家に逗留し、約三百図の略画を描いた。それらの図はきっと、絵を描くことを学ぼうとする人々にとって、良い手本になるはずである。書名に付けた「漫画」とは、北斎自身の命名によるものである、と。

 北斎が名付けたこの「漫画」という言葉は、現代の日本語でいうところの「ユーモラスな略画」の意味とは違って、「漫然と描いた略画」、あるいは「筆にまかせて取りとめもなく描いた略画」、というような語感で使われているようである。文章でいう「随筆」の語に近いと思えばよい。

<< 前のページへ 次のページへ >>