一方、版画を通じて情報を送り出す側からいえば、版画は芸術家の創造活動の本質的部分をなす「構想」を広く世に知らしめる重要な手段であった。そこで、自らの完成作ないし素描に基づく版画を自らの監督下に制作させようとした画家が出ても不思議はない。イタリア・ルネサンスにおいてはラファエロやティツィアーノの例がある。そして、種々の点でこの偉大な先人たちに学ぶところ大であったルーベンスは、版画の制作に関しても、彼らに倣うことにしたのだった。しかし、ルーベンスの監督の徹底ぶりは他に類例を見ないほどである。彼自身は、ごく稀にエッチングのニードルを手にしたのを別とすれば、版画制作の実際には携わらなかった。しかし、ルーベンスにとって彼の意のままになる版画家がすなわち彼の「手」だったと考えれば、ルーベンスは「ビュラン(彫刻刀)を持たない版画家」だったと見ることもできるのである。

 ルーベンスの原画に基づく版画の総数は、フォールヘルム・スネーフォークト編のカタログ(1873年)によれば約2200点、そのうち17世紀のものは約800点だが、ルーベンスの直接の関与のもとに作られたことが明らかな版画は100点足らずである(註3)。100点弱のほとんどがエングレーヴィング(彫刻銅版画)で、他にエッチング(腐食銅版画)若干と9点の木版画がある。大半が既存の油彩画の複製で、版画のためのルーベンスのオリジナル・デザインは、書物の扉絵・挿絵(図910)を別とすれば僅かしか存在しない。「ルーベンスの版画展」(1988年)の出品作では、グリザイユ(単色油彩画)の下絵スケッチに基づく《オリバレス公爵の肖像》(No.56)(註4)、《十字架を担うキリスト》(No.50)、素描に基づく木版画《シレノスの泥酔》(No.5)などがこの例外的なケースである。

 ルーベンスはごく早い時期から、自作の版画化を考えていたようだ。コルネリス・ハレ版刻の《ホロフェルネスの首を斬るユーディット》(1610年代)の銘文に「ヴェローナでの約束に従い、友人のヨハネス・ヴォフェリウスに自作に基づく最初の版画を捧げる」とある。修業の仕上げとしてイタリアに赴いたルーベンスが、同郷の古典学者ヴォフェリウスとヴェローナで落ち合ったのは1602年のことだった。しかし、ルーベンス工房の版画制作が本格的に開始されたのは、1610年代末と考えられる。

 というのは、1619年、20年に、ルーベンスは自作に基づく版画を独占的に刊行する特権の承認を、自国スペイン領ネーデルラント(フランドル)、オランダ、フランスの各当局に申請して許可されているからである。以後ルーベンスは自分が直接刊行に携わった版画には、これらの国々から特権を得ている旨をラテン語で明記した。ルーベンスが自作の複製版画の版権を取得したことは、経済的動機よりも、むしろ構想を可能な限り正確に伝達しようとする意図に発していた。写真複製と違って、版画による複製では版画家の「解釈」や技術の巧拙が関わってくるから、原画のイメージとは似て非なるものが生まれる危険性がある。これを避けるため、ルーベンスは版画制作を自分の厳重な管理のもとに置いたのだった。オランダにおける版権取得の斡旋を依頼した知人宛の手紙で、ルーベンスは次のように述べている。「原画の摸写に関して、もっと熟練した版画家を用いるべきであったかもしれません。しかし、自らの気の向くままに仕事をする大家に任せるよりも、心掛けのよい若者に私の監督下で仕事をさせるほうが、危険が少ないように思われたのです」(ピーテル・ファン・フェーン宛、1619年1月23日)(註5

 ルーベンスの監督が成功を収めたことは、この若者、すなわちリュカス・フォルステルマンによる版画が、形態や明暗のコントラストばかりでなく、対象の材質感や色彩感まで含めた原画の見事な再現になっていることから、充分に立証される。もっとも、版画家に対するルーベンスの要求があまりに厳しいものであったためか、1618年頃始まった両者の協力関係は、早くも1623年に、フォルステルマンによるルーベンス暗殺未遂事件(詳細は不明だが、ルーベンスの身辺警護を友人たちがネーデルラント総督に願い出たり、ルーベンス死亡の誤報がパリまで流れたりしたことが記録されている)というドラマティックなフィナーレをもって終結した。しかし、短期間とはいえ、フォルステルマンの貢献は量的にもめざましいものだった。先に引用した知人宛の手紙に、ルーベンスは当座の刊行予定作品のリスト(註6)を添えているが、全18点のうち13点がフォルステルマンにより版画化されている。ルーベンスはこの人材を得て版画制作に組織的に取り組める見通しがついた時点で、各国に独占刊行権を申請したものであろう。

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註3:
Konrad Renger et al., Rubens in der Grafik, Göttingen, 1977, p.4.


註4:
本稿の№付き番号は、展覧会カタログ『ルーベンスの版画展――ルーベンス工房の版画家たち』(町田市立国際版画美術館・北九州市立美術館、1988年)の作品番号。これらの作例については同書を参照していただきたい。


註5:
Ruth Saunders Magurn (trans. & ed.), The Letters of Peter Paul Rubens, Cambridge, Mass., 1971(first published 1955), p.69.


註6:
同書、p.69-70。列挙された主題は以下の通り。番号は高橋による。「キリストの降誕」が2回出てくるが、別な作品をさす。1, 7, 18以外はすべて聖書ないしキリスト教関係の主題である。 1「ギリシャ人とアマゾン族の戦い」、2「ソドムを逃れるロトとその家族」、3「聖痕を受ける聖フランチェスコ」、4「キリストの降誕」、5「聖母子と幼い聖ヨハネ、聖ヨセフ」、6「聖母子と聖ヨセフのエジプトからの帰還」、7「諸分野の高名な人々の肖像画」、8「マギの礼拝」、9「キリストの降誕」、10「キリスト降架」、11「キリスト昇架」、12「聖ラウレンティウスの殉教」、13「ルシフェルの堕落」、14「イグナティオ・デ・ロヨラの功績を描いた作品」、15「ザビエルの功績を描いた作品」、16「スザンナ[と長老たち]」、17「魚からコインを取り出す聖ペトロ」、18「レアンドロスの物語」。

図9
ルーベンス、アグィロニウス著
『光学』扉絵の下絵素描、
1613年、ペンとインクと淡彩、
30.5×19.1㎝、
ロンドン、大英博物館
図10 テオドール・ハレ版刻、
アグィロニウス著『光学』扉絵、
1613年、銅版画、31×19.4㎝