星ヶ浦






 星ヶ浦は大連の中心市街から8kmほど西南に位置した海水浴場/行楽地である。北には「大連富士」の異名で知られる標高100mの台子山があり、南は変化に富む緩傾斜地で、海岸線は黄海に面している。星ヶ浦という地名は、天から降ってきた星が暗礁となったという地元の伝説に由来する。命名者は満鉄の技術者・木戸忠太郎(1871〜1959,木戸孝允の養子)であり、木戸は「同胞が御互いに呼び易い名でありたい、何かよい地名はないかと、満鉄重役から相談」されて命名したと語っている。1909年に満鉄により整備が開始された。この時の整備では様々な植物が植えられ、海水浴場の他、ゴルフ場やテニスコートなどが設置された。貸別荘も43棟が建てられ、ヤマトホテルの分館も設けられた。全体の設計に当たったのは満鉄工務課建築係の小野木孝治と太田毅(1876〜1911)である。二人は満鉄首脳部他、英国及び米国領事館にも意見を聞き、まったく欧米風の海浜リゾートを作り上げることを目指した。1911年に路面電車星ヶ浦線が開通すると、中心市街から30分程度でのアクセスが可能になり、多くの大連市民が訪れるようになった。また1924年、大連と旅順を結ぶ旅大道路が完成すると、市街から自動車で10分程度で到着が可能となり、旅順からの交通の便も格段によくなった。星ヶ浦は内外に名高い行楽地であり、たくさんの著名人が立ち寄って散策や釣りを楽しんだ。徳富蘇峰(1863〜1957)も1917年6月にここを訪れ、磯釣りを楽しんだ際に「満湾の秋水 藍よりも碧く、帆外 斜陽 島影る。吾も亦た江湖の一竿客、却って星浦より湘南を憶う」と詠んでいる。満鉄は大連において海浜リゾートとして星ヶ浦とともに老虎灘 ろうこたんも開発した。この背景には、明治10年代に西洋から「海水浴」の概念が導入されたことがある。後に満鉄総裁となった後藤新平(1857〜1929)は1882年に日本で初めての海水浴啓蒙書である『海水功用論 附海浜療法』を著し、医療目的の海水浴を奨励している。これらの啓蒙書の発刊と相まって全国的に海水浴に対する関心が高まり、日本において多くの海水浴場が開発された。明治末期になると医療的色彩が薄れ、娯楽や行楽が目的となっていった。大連における熱心な海水浴場の整備も日本国内のこうしたムーブメントと連動したものである。現在は星海公園の名で、「総合性公園」として中国東北部の各地から多くの旅行客が訪れている。星ヶ浦の海浜は霞半島(現在の星海湾景区)を境に、東西両部に分かれる。西側の浜が日の入りを眺めることができることから「黄昏の浜」と呼ばれ、東側の浜が日の出を見ることができることから「曙の浜」と呼ばれた。写真は西側、黄昏の浜の風景であり、後方に横たわる半島は霞半島である。





dairen_geore_003:大連星か浦の海水浴塲


 星ヶ浦の海浜は霞半島(現在の星海湾景区)を境に、東西両部に分かれる。西側の浜が日の入りを眺めることができることから「黄昏の浜」と呼ばれ、東側の浜が日の出を見ることができることから「曙の浜」と呼ばれた。写真は西側、黄昏の浜の風景であり、後方に横たわる半島は霞半島である。

古絵はがき(表) 裏面

現在の写真


dairen_geore_013:大連郊外星ヶ浦地引網


 写真は星ヶ浦の西側、黄昏の浜の風景であり、後方に横たわる半島は霞半島である。地引き網漁のイベントか。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


dairen_geore_015:
大連新聞公選 満洲八景之内 星ヶ浦(大連)


写真は黄昏の浜の風景である。

古絵はがき(表) 裏面

現在の写真


dairen_geore_028:巨人の面影


 星ヶ浦に霞半島と呼ばれた半島があったが、その内陸部にある霞ヶ丘にフロックコート姿の後藤新平(1857〜1929)の立像があった。後藤新平は満鉄の初代総裁であり、1906年11月から1908年7月、満洲各地の都市建設に力を尽くした。銅像建築に際しては、1928年、山本条太郎(1867〜1936)満鉄社長が代表となって発起人の会が組織され、寄付が集められ、1930年10月に除幕式が行われた。高さ一丈六尺。制作は、「大隈重信像」などの作品で知られる東京美術学校教授の朝倉文夫(1883〜1964)である。銅像周辺に建築物は設けられず、丘の麓部分に日本から移植された桜がまばらに植えられるのみで、空間の開放性が確保され、銅像が星ヶ浦の象徴であることを示していた。この場所は春になると絶好の花見ポイントになった。終戦後銅像はただちに撤去され、その行方は不明となっていたが、2000年6月、沙河口液化ガスセンターの拡張工事の際に、沙河口駅付近から台座の部分のみが出土した。台座は縦4.2m、上部の横幅1.15m、下部の横幅1.38m、厚さ0.3から0.5m、重さ4トンであったという。なお、後藤の出身地である岩手県奥州市の水沢公園には、同じ金型による銅像がいまなお建っている。銅像跡地には、現在、大きなドーム状の金網が建っており、鳩が飼われている。

古絵はがき(表) 裏面

現在の写真


dairen_geore_030:眺望儘きざる大連近郊星ヶ浦の絶景


 撮影ポイントは未詳。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


dairen_geore_083:大連星ケ浦星の家階上より眺たる景


写真は黄昏の浜の風景で、奥に見えるのは霞半島。「星の家」とは黄昏の浜にあった旗亭である。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


dairen_geore_109:星か浦公園より海水浴塲及旅舘を望む


 霞半島から眺めた黄昏の浜。

古絵はがき(表) 裏面

現在の写真


dairen_geore_131:大連ノ星ヶ浦後藤新平閣下ノ銅像


解説は、dairen_geore_028を参照。

古絵はがき(表) 裏面

現在の写真