奉天満洲医科大学






 南満医学堂は、1911年に富士町にある満鉄大連医院奉天分院内に専門学校として開校した。1922年に医科大学に昇格した。富士町の21万坪の敷地に校舎、寄宿舎、付属病院等が新築され、日満人医師養成のほか、中国医術、漢薬、風土病、開拓地保健等の研究や奥地巡回施療などを展開していた。





houten_geore_044,129:(奉天)完備せる満洲医科大学附属病院


 現在は中国医科大学附属第一医院。後背部に病棟を擁する高層の新館が増築されている。

古絵はがき(表) 裏面

現在の写真


houten_geore_113:奉天満洲医科大学の全景



古絵はがき(表) 裏面

現在の写真


houten_geore_191:奉天だより(其二)満洲医科大学と三十七八年戦役記念碑――


 「満洲に於ける医学の最高学府満洲医科大学は、満鉄会社が明治四十四年四月工費三十七万六千余圓を投じて南満学堂と称する日本の医学専門学校程度の学校を奉天に設置したのに始っている。以来十余年、日満両国人に医術の蘊奥を伝えていたが、漸次内容の充実と共に、大正十一年三月大学に昇格し、本科、予科、専門部及び附属予備科に分ち、専門部は満洲国人の為め特に実地医術に必要なる学術を課し、予備科は予科又は専門部に入らんとする満洲国人に日本語の予備教育を施し、以て満洲の衛生施設に根本的改善進歩の原動力を与えている。学生は逐年増加して大正十三年には本校の隣接地に予科校舎を新築するの止むなきに至るなど益々拡大発展しつつあるが、昭和七年五月一日現在学生数は次の如くである。尚ほその専任教授は一八三名、兼任は一二八名である。 ▲大学 二七五名 ▲予科及び予備科 二一四名 ▲専門部 一一一名 ▲計 六〇〇名 三十七八年戦役記念碑は奉天新市街大広場にあり、碑銘は山県元帥の筆、大正七年九月の竣工、高さ六十尺、奉天新市街の一偉観である。」

古絵はがき(表) 裏面

現在の写真


houten_geore_212:(奉天)完備せる満洲医科大学



古絵はがき(表) 裏面

現在の写真