歩兵連隊






 1931年に発行された奉天市街地図によると、歩兵隊と守備隊の駐屯地は北五条通りの北側に位置する。





houten_geore_082:(奉天名所)奉天駐剳歩兵連隊


 写真は駐屯歩兵連隊の入口を撮影したもの。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


houten_geore_163:奉天だより(其一)靖安軍歩兵第一隊――


 「靖安軍は日満人協調して満洲国軍の基幹たらんとし、治安維持国防の任に当ることを期して満洲国の大勢に順応し、東洋の和平に倚与せんとする軍隊である。此隊は満洲国中央直轄の部隊で其編成は司令部の下に歩兵第一隊同第二隊騎兵隊砲兵隊候補生隊があり、其総兵力約五千を算する。歩兵第一隊は靖安軍の前身たる靖安遊撃隊が大同元年一月十日奉天に狐々の声を上げたる所で、当時司令部と第一軍を置き其の後大同二年三月十五日改編せられて歩兵第一隊となったもので、これは実に靖安軍発生の兵営である。尚お歩兵第二隊は東陵附近の元東大営にある。」

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


houten_geore_183:奉天だより(其一)靖安軍歩兵第一隊


 houten_geore_163と同じ写真。宛名面は違う。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


houten_geore_178:奉天五十四聯隊全景/奉天守備隊



古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


houten_geore_194:奉天だより(其五)張作霖銅像と靖安軍――身を緑林に起した一世の風雲児、張作霖は 旅長、師長、奉天督軍より東三省巡閲使と、トントン拍子の鰻登り。何処までも保境安民で推し通せばよいものを、調子に乗って関内まで乗込んだのが運の尽き、元帥の称呼は贏ち得たが、果敢なくも三日天下に終り、哀れ故山に帰る途中、乗用列車を爆破され非業の横死を遂けた。帝王のそれに擬したその元帥陵は今は淋しくも草茅茂る廃墟となっている。旧東大営は近代式煉瓦造の広大なる建物で、張家の盛なりし時その模範軍隊と云われた精鋭の兵舎であった。今は王道国家の重鎮として日満人協調して満洲国軍の基幹軍隊靖安軍第二隊、騎兵隊、中央陸軍訓練処等の兵舎となっている。


靖安軍についてはhouten_geore_163に参照。張作霖銅像は奉海駅の駅前広場にあった。奉海駅は、1927年、当時満洲一帯を支配していた張作霖が満鉄併行線敷設禁止協定を破り、満鉄の営業妨害をするために米英からの援助を受けて奉海鉄道の始発駅だった。1929年に路線名が瀋海鉄道へと変更されたことに伴い瀋海駅へと改称。やがて、1932年に満洲国が成立した後に瀋陽駅へと再改称され、満洲国鉄に編入された。現在は瀋陽東へとさらに改称された。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)