頤和園




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 頤和園は北京城から15キロほど北西に位置する、皇帝の別荘兼保養地であった。金代の「金山行宮」、明代の「好山園」を前身とし、乾隆帝が15年の歳月をかけて完成させ、「清漪園」と名づけた。第二次アヘン戦争に際して円明園とともに破壊されたが、1888年、西太后が余生を送る場として改築が始められ、10年近くの歳月を費やし、1897年に完成、その際に「頤和園」と改名されて、皇族の避暑地兼西太后の住居となった。しかし、1900年には再び八か国連合軍による破壊にさらされる。2年後には再び修築が開始された。1911年に辛亥革命がおこると頤和園は宣統帝溥儀の政府によって管理されることになり、1914年には溥儀の私有財産として、入園料を取って一般に開放されるようになった。全面積の四分の三を占める巨大な人工湖「昆明湖」を中心に様々な建物が並び、北側には掘った土をもって作った人口の山「万寿山」がそびえている。





pekin_geore_004:北京 万壽山石舫


 石舫は、頤和園の昆明湖に建てられた石の船である。清晏舫ともいい、全長36メートルある。上の建物は当初中国風のものであったが、英仏連合軍に焼き払われて後、改修に際して現在に見られる西洋風のものに代えられた。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_007:萬壽山風景 長廊


 昆明湖に沿って作られた長い廊下。全長728メートルあり、橋や欄干には絵画などの装飾が施されている。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_010:萬壽山風景 八方閣及十七孔橋(上銅牛)


 八方閣(八方亭)は、昆明湖の東寄りにある島・南湖島と湖の東岸との間にかかる橋・十七孔橋のたもとに建つあずまや。廓如亭とも呼ばれる。右上に別枠で掲げられているのは、八方亭の北方に安置されている銅牛。乾隆年間に製造され、水害の克服と庭園の安寧の願いが込められている。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_011:萬壽山風景 樂壽山前靑芝岫


 青芝岫は、西太后(1835~1908)が居住していた楽寿堂の前に据えられた巨石。幅約2メートル、長さ約8メートル。当初、明代末期の官僚・米万鍾が北京西郊の房山で発見したが、自身が所有する庭園・勺園に移動する途上で金銭が尽きてしまい、野に放置したという。これを乾隆帝が現在の位置に移動した。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_012:萬壽山風景 畫中遊


 万寿山の西側にある。言い伝えによると乾隆帝が自ら設計したという。命名は楼上からの眺望の見事さから。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_014:北平 萬壽山の石船/萬壽山の銅牛


 石舫(右上)と銅牛(左下)の画像がそれぞれ配されている。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_027:北京萬壽山仁壽殿


 頤和園の東門側に建つ建築物。「仁寿殿」の名は、1890年の改修の際、西太后の長寿を願い、『論語』の「仁者は寿(いのちなが)し」から取られた。仁寿殿の北は劇場建築が連なっており、徳和殿、頤和殿があり、両者は廊下でつながっていた。言い伝えによると、西太后はこの戯楼の建築に非常に興味があり、自ら設計にかかわった。西太后は熱狂的な京劇のファンで、頤和園に来るたびに観劇したという。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_028:北京萬壽山排雲門


 頤和園の重要な建築物群として、昆明湖の北岸と万寿山南麓にある建物がある。すなわち、湖岸に沿って東西全長728メートルにわたって連なる長廊、山麓に建つ仏香閣、徳輝殿、排雲殿、排雲門などである。排雲門は長廊の中央部付近にあり、排雲殿の正門にあたる。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_029:北京萬壽山


 北京万寿山の長廊。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)