紫禁城




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 明清時代に用いられた皇帝の宮殿。南北約1キロ、東西約700メートル、72万平方メートル。外朝と内廷の二区画に分かれており、即位式や皇后の冊立等の公的な行事や執務が行われる場を外朝といい、皇帝や皇后らのパーソナルな生活空間を内廷と呼ぶ。屋根は皇帝のみに許される黄色い瑠璃瓦を用いて葺かれている。黄色である理由は、五行思想によると黄色は中央(土)を表し、また「黄」という字は「皇」と同じ発音だからである。紫禁城は現在、故宮博物院となっている。





pekin_geore_021:壯大雄渾なる紫禁城内角樓の偉觀


 紫禁城の表玄関である天安門から入り、端門をくぐると、そこに聳えるのは午門である。午門前の広場では、元代には八つ裂きの刑や、少しずつ肉を切り取って死に至らしめる陵遅処死などの処刑が行われ、明代には杖刑などの刑罰が行われた場所であった。清代では死刑宣告の場として利用され、実際の処刑は、盛り場であった宣武門南の菜市口で、衆人環視のもとに実施された。絵はがきは午門を正面から撮影したものである。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_001:北京紫禁城午門


 絵はがきは午門をくぐった後、南向きの景色を描いたもの。門手前に描かれるのは、宮城内を緩やかに流れる金水河にかかる五つの橋・内金水橋である。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_022:壯麗雄大なる紫禁城大和門の全景


 午門をくぐると、そこには石畳が敷きつめられた巨大な空間がある。絵はがきはその景色を写したもの。正面に見える太和門は、皇帝の即位や皇后の冊立といった国家的儀式の行われる太和殿の前に聳える格式高い門である。1888年12月に一度焼け落ちている。現存のものはその後に再建されたもの。この火災の翌年1月26日は光緒帝の婚礼の日であったが、太和門の再建が間に合わず、装飾の施された仮設の門を設けて執り行った。この際の仮設の門の見事さは語り草となった。章乃煒編『清宮述聞』巻2に「光緒14(1888)年12月、太和門で火事があった。翌年の正月26日は皇帝の婚礼の日であったが、再建が間に合わなかったので、彩り鮮やかな絹の飾りによってこれを作った。その高さや面積たるや本物と少しも違わず、垂木の模様や鴟吻(伝説上の神獣)の彫刻、雨どいの幅に至るまで、そっくりであった。」(光緒十四年十二月太和門火明年正月二十六日大婚、不及修建、乃以紮綵為之。高卑広狭无少差、至榱桷之花紋、鴟吻之雕鏤、瓦溝之広狭、无不克肖。)とある。手前に見えるのは内金水橋の五つの橋のうち、皇帝専用の御路橋である。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_024:九龍昇天せんとする九龍壁の偉觀


 九匹の龍が宝珠で戯れる様を瑠璃板で表現している。北京北海公園、山西省大同の九龍壁と合わせて、三大九龍壁と呼ばれる。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


pekin_geore_013:北平宮城全景


 絵はがきは紫禁城北に築かれた人口の山、景山(高さ43メートル)の頂上にある万春亭から紫禁城を望むものである。中軸線上に主要な建物が配されていることが一望のもとに領解される。いちばん手前に見える楼が景山の麓に建てられた綺望楼、そのさきにみえるのが景山公園入口(南門)、さらにそのさきにあるのが神武門(現故宮博物院北門)である。順貞門や坤寧門の黄色い屋根も順に続いている。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)