徳寿宮






 徳寿宮トクスグンは朝鮮時代の王宮である。朝鮮王朝末期から大韓帝国、そして日本の植民地支配に至る歴史現場であり、伝統的木造建築と西洋式建築が共存する王宮として、朝鮮王朝の王宮の中でも独特の位置にある。
 徳寿宮の起源は豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄の役/壬辰倭乱)に遡る。壬辰倭乱の戦火を避けて義州へ逃れた第14代の宣祖(1552~1608、在位1567年~1608年)は、1593年に漢城に還都したが景福宮は焼失していたため、兄の月山大君の邸宅を行宮として使用した。宣祖の後に王位についた光海君(1575~1641、在位1608~1623)は、1611年にこの宮を慶運宮と呼ぶよう定めたが、自身は1615年、昌徳宮に移御した。1623年、仁祖(1595~1649、在位1623~1649)が光海君を追放すると、宮殿以外の殿閣は持ち主に返還されたという。朝鮮開港以降、慶運宮周囲の貞洞はアメリカ・イギリス・フランス・ロシア等の外国公使館がおかれ、西洋式の教会・病院・学校が立ちならぶ地域となっていた。そして日清戦争における日本軍の王宮占拠や王妃虐殺により、当代の王であった高宗(1853~1919、在位1863~1897)がロシア公使館に居を移して朝鮮王朝の執政をとる事件(俄館播遷)が起きた。そしてこれ以降、ロシア公使館近隣の慶運宮が高宗の居所となるが、1897年には高宗が大韓帝国皇帝に即位したため皇宮となり、宮殿の増築が進められた。しかし、1907年のハーグ密使事件で高宗が廃位され、新しく即位した純宗(1874~1926、在位1907-1910)が昌徳宮に移御すると、慶運宮は皇宮から太皇宮になり、「高宗の長寿を願う」との意味で徳寿宮と改称された。徳寿宮は1919年の高宗没後に廃宮となり、王宮の敷地は道路の敷設や学校・放送局の土地等に払下げられたという。





seoul_geore_002:京城徳壽宮石造殿


写真の石造殿は高宗の接見と執務の場として英国人ハーディングにより設計され、1909年に竣工した。1911年から1922年には高宗の七男である英親王の宿所となり、高宗没後の1933年から1945年には徳寿宮美術館として利用された。1937年にはこの横に別館が新築され、昌慶宮にあった李王家博物館が開館した。石造殿は解放直後の1946から1947年には朝鮮半島の独立方式を決める米ソ共同委員会の現場となり、1955年から2004年には国立博物館・宮中遺物展示館として利用された。そして2009年から復元工事が開始され、2014年には大韓帝国博物館となっている。

古絵はがき(表) 裏面

現在の写真


seoul_geore_062:(朝鮮名所)京城德壽宮大漢門(京95)


徳寿宮の正門。もともと徳寿宮の正門は、王宮の正殿である中和殿から中和門を通った先にある仁化門であった。しかし、20世紀に入り周辺の道路が整備されるとより交通の便が良いこの門が事実上の正門として使われるようになった。

古絵はがき(表) 裏面

現在の写真