大同大街@






 大同大街は首都建設計画の中核となる大通り。新京駅から南に延びる中央通りをさらに南に延伸して作られた。延長約7.5キロメートル。最大幅員は54mにも達する(sinkyo_geore_023参照)。*新京で最も広い道路は順天大街で60m。






sinkyo_geore_010:大同大街の麗観


 新京駅から中央通りを南に進み新発路と交差するあたりを南に向かって写した写真。左手手前に見える4階建ての建物は大興ビル。大興株式会社と満洲興業銀行株式会社が入ったオフィスビル。(1935年6月27日に建設開始、1936年10月31日竣工。)左手奥の白い建物は海上ビル(東京海上火災保険の新京支店)。1938年11月30日竣工。大同大街をはさんで康徳会館と向かいあう。現在は長春市中心医院として使われる。右手に見えるのは手前から開発会社・日本毛織・康徳会館(sinkyo_geore_014参照)。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)


sinkyo_geore_014:大同大街の偉観


 新京では美観と防災のため4階建てを上限とする建築規制が設けられた。通り沿いの建物の高さが揃っているのはそのためである。道路の左側に並ぶのは手前から三中井ビル・康徳会館・ニッケビルである。  三中井ビルの屋上には三中井のシンボルマークでもある井桁菱の旗がたなびく。三中井は近江商人中江勝次郎(1872-1944)が創設。三中井呉服店を経営していた中江は、1905年に朝鮮に渡り、兄弟とともに三中井商店を設立。朝鮮・満洲・中国大陸で最大規模の百貨店チェーンを展開した。新京に支店を設けたのは満洲国建国翌年のことであった。
 康徳会館は三菱が建設した貸しビル。高さ制限内最高の20mの高さ。屋上に三層の望楼。全市街を俯瞰できたという。エレベーター二台のほか、衛生その他最新設備を備える。食事・宿・郵便電信のサービスを提供するなどビジネスセンターとしての機能を有していた。満洲に進出してきた工場や企業の事務所も置かれた。地下には飲食店も入居。
 最後方はニッケビル。日本毛織株式会社のビルで、満映が設立当初このビルの2階に事務所を置いたという。
 右手の黄色いボンネット型の車は市内バス。新京の交通は公共バスが活躍したが、日中戦争開始よりガソリンの供給が規制され燃料が木炭や無水アルコールに切り替えられる。その結果、1940年当時、市内にあった約250台のバスのうち、運行されたのはわずか50台という有様になり、人口増と市街地の拡大で運行路線が伸びていたため、市民の足の確保が深刻な問題となった。もともと地下鉄が建設される予定であったが、セメントの供給が足りず取りやめとなり、最終的に満鉄の中古レールを用いて路面電車を作ることになる(1941年1月)。路面電車は大同大街・順天大街・興仁大路・至聖大路というメインストリートは都市美の観点から設置しないようルートが設定された。バスの補助機関であった乗用馬車は1941年当時で2700台、人力車は1300台であった。

古絵はがき(表)

古絵はがき(裏)