スタッフ紹介

神田 龍身(KANDA, Tatsumi) 教授(12歳の自画像)
神田 龍身(KANDA, Tatsumi) 教授
■専門分野
日本中古・中世文学
[担当授業(2022年度)]
日本文学史概説T:平安時代仮名文学の成立―『竹取物語』を中心に
日本文学講義U:平安朝〈鏡像〉文学論―『更級日記』と『浜松中納言物語』
日本文学演習:光源氏晩年の物語を読む
日本文学演習(院):『源氏物語』「竹河」「橋姫」「椎本」「総角」の巻々を読む
基礎演習UC:変体仮名を学ぶ―『徒然草』を読む
[研究活動]   中古・中世文学専攻。著書は@『物語文学、その解体』、A『偽装の言説』、B『源氏物語=性の迷宮へ』、C『紀貫之』、D『平安朝物語文学とは何か』、があります。
 @は、『源氏物語』から鎌倉時代物語までの王朝物語総体を扱い、「仮装」「男装・女装」「形代」「転生」「分身」「双子」「逃亡」「男色」等のモチーフ論的観点から、物語文学史のポスト・モダン的状況について論じたもの。『源氏』中心の物語史観を相対化する試み。
 Aは、音声それ自体でもなく、単純に書かれたテクストとも評し得ない、<音声>を<偽装>する<エクリチュール>なるものの論理を考え、平安時代の言語状況の一端をとらえたもの。「物語」「仮名日記」「漢文日記」「説話」「口伝書」……等の諸ジャンルの生成過程と相関関係を分析している。「音声現前主義」的な国文学研究への批判の書。CDは同様の意識のもとに、文学や物語文学の言葉を分析したもの。
 Bは「性の多形倒錯」という観点から、ヘテロ・セクシュアルに限定しない『源氏物語』第三部世界(続編)の再評価を試みたもの。
[主要著書] 著書
『平安朝物語文学とは何か―『竹取』『源氏』『狭衣』とエクリチュール』(ミネルヴァ書房、2020)
『紀貫之―あるかなきかの世にこそありけれ』(ミネルヴァ書房、2009)
『源氏物語=性の迷宮へ』(講談社、2001)
『偽装の言説―平安期のエクリチュール』(森話社、1999)
『物語文学、その解体―源氏物語宇治十帖以降』(有精堂出版、1992)
[所属学会] 中古文学会
■研究分野
  専門は何ですか、と問われるのが苦手です。「『源氏物語』を研究しています」等と私には答えることができません。研究対象を固定することにどうも抵抗感があります。
  私の最初の著書『物語文学、その解体』は、平安時代末期・鎌倉時代の物語文学にみられる「仮装」「分身」「転生」「逃亡」「変身」「偽死」等のモチーフに着目し、『源氏』以降の物語文学史におけるポスト・モダン的状況を概観したものです。次の『偽装の言説』は、「エクリチュール(書くこと・書かれた物)」という観点から、仮名文字テクストとは何かを問うたもので、物語文学のみならず、漢文日記や説話集、中世歌謡をも俎上にのせています。『源氏物語=性の迷宮へ』は、セクシュアリティの問題を『源氏』はどこまで突き詰めたかを徹底検証したもの。『紀貫之』は、歌人貫之ではなく、平安自時代の仮名文の創生者としての貫之像の構築を試みたものです。また、新著『平安朝物語文学とは何か』は、口承物語であるはずの物語が、なぜ書かれたテクストとして存在するのかというパラドックスの意味を『竹取物語』『源氏物語』『狭衣物語』という物語文学史の流れの中で論じたものです。
 となると、一応平安時代文学が専門なのでしょうが、対象は多岐にわたり、方法論も一様ではありません。しかも今とりかかっている仕事は、『幕末の文学=南総里見八犬伝』であり、これから書いてみたい本も、源実朝や『太平記』、さらに中世稚児物語論であったりします。
  自分の感性と激しく共振するものを発見し、なぜそうなるのかを徹底して明らかにしたいというのが私の姿勢であります。そうすることで、その対象に孕まれている問題点を摘出するのみならず、自身の抱えている問題点を明るみにだし、自身の枯渇した想像力を活性化させたいと思っています。研究対象との衝突のドラマこそが重要であり、そのスリリングな体験を求めて彷徨した結果、専門が定まらぬようなことになってしまいました。
 【星座・血液型】牡羊座・B型
■私の授業
  私は三十年にわたり教鞭を執ってきましたが、教える立場は未だにしっくりきません。研究し勉強し、自説を授業で披露するという絶対原則がまずあります。オリジナル授業でなければ意味はない。何かの本に書いてあることなら、それを読めばすむことで、わざわざ講義するまでもない。教育か研究か、という議論がよくされますが、私からすると研究せずして教育はないことになります。
 が、私が今回ここでいおうとしているのは、そのことではありません。問題としたいのは、そもそも、学生さんたちに一方的に物を教えるという教員のあり方は、人間としてまともではないという点についてであります。教師は単に自分好みの自身の似姿をつくっているだけではないのか、教師は教育の美名のもとに自己の強権を発動したいのではないか、教師は常に教える側にあるため、人との対等なコミュニケーションの出来ない怪物ではないのか…、以上のような疑問が次々とわいてきますし、教育なるものがグロテスクな相貌のもとにみえてきます。
  思うに、研究対象を前にして、教師と学生も対等であるべきであって、教える・教わるという弁別そのものが、学問の世界では無意味ではないでしょうか。それでも私が仮に教師であるとするならば、学生さんたちよりも長く生きていて、かつ専門領域については若干物を多く知っているから、という程度のことでしかありません。したがって、私は学生さんたちに、私なりのアドバイスをすることもありますが、それは教育とはあくまで別物だということを強調しておきたい。人に教育を施すなどという、そんな立場に私はいま教育研究に職を得ていて、こんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、研究すること、物を考えることに対して、学校という制度は実に高圧的にしか機能していないのです。

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