20方々が立ち上がったんです。 1991年の1回目は3月30、31日に沼津游泳場で、2回目は3月27〜29日に八王子のセミナーハウスで開催しました。当時は7月1日就職活動解禁で10月1日内定ぐらいのスケジュールでしたから、3月末でもよかったんです。3回目からは場所を大学に移して、2月末に開催。参加学生数は1回目の45人から197人に増えました。講師の数も6人から19人に増加しましたが、すべて口コミで募集し、組織化されていませんでした。以来、開催時期などは時々の就活事情により変遷を遂げてきましたが、理念は誕生時から変わっていませんよね。淡野 企業に入ってからどう活躍したいのかを考えさせるのが根本にあるのは変わっていません。当時から、講師の生き様を見せて、型だけでなく、どのように生きていくかを教えていました。また、面接に力を注ぐというのも変わっていません。その証拠に、1回目から面接対策セミナーという名前はそのままで、班を持って、OB・OG講師が担当学生を預かるという仕組みを貫いています。奥田 3回目からは参加学生も増えて大学の施設を使うようになりましたが規模が大きくなった分、準備から実施まで綿密に打ち合わせを重ねるようになりました。5回目ぐらいまではメンタイ組織化の時代でしたね。 1997年の時点で参加学生数は426人。この年の秋、その後の流れを変える重大な転機に直面します。山一證券の破綻です。その後、採用の厳しさを反映し、毎年参加学生が増えて、2009年には1000人を超えました。それに伴い、講師の数も43人から184人にまで増えました。ここまで多くなってしまうと、講師に共通認識を持たせるのが大変でしたよね。どうしても全部決めるということは難しくて、講師のパーソナリティーや自主性に任せていた部分は大きかったと思います。淡野 1000人規模になって運営はガラリと変わりましたよね。それまで講師の打ち合わせは年2回ぐらいだったのが、倍に増え、時期を問わず5、6回は講師同士で打ち合わせをするようになりました。川瀬 一つの班を二つのグループに分けて模擬面接をしたり、複数の班の講師と学生を交ぜた集団面接の交流戦など、常に学生に何かをさせている状態にしたのも人数が増えてからですね。淡野 重内さんは学生の時から数えて9回目ですが、自分の中でのメンタイへの思いは変化していますか。重内 講師になりたての頃は、自分の仕事だけでいっぱいいっぱいで参加しているだけでしたが、一つでも二つでも成長できるようにと、リ※3ーダー講師の方の一挙手一投足を見逃さないようにしていました。そのうちに、注目していた視点が憧れに変わり、リーダー講師になりたいという気持ちが芽生えたんです。それでも、どうすればリーダーになれるのかわからなかったので、まずは事前の打ち合わせに出るようにしたんです。そうしていると、リーダー講師をやらないかという声がかかりました。いまだにどうして選ばれたかわからないんですよね。早川 そうなんですよね。いつ選ばれるかも、どう選ばれるのかもわからないので、毎年ドキドキしているんですよ。講師にとっても、リーダー講師になりたいというのはモチベーション淡野 若手が感じているメンタイ講師のやりがいは何ですか。早川 内定が出ない学生に、諦めるなとメールで励まし続けていたら、12月に内定が出たという連絡がきました。それだけでもうれしかったのですが、続けて、サポーターをやりたいと言われたんです。その言葉を聞いた時は感激しましたね。自分がしてきたことが間違ってなかったと思いました。今年のメンタイで彼と一緒に学生の指導をした時には、喜びもひとしおでしたね。淡野 森本さんは実行委員会のメンバーでもありますが、そのあたりはいかがですか。森本 実行委員会は全員で30人ぐらいで、私は、講師の配置や班編成を考えています。メンタイに何回参加しているか、出身学部はどこか、どのような会社で働いているかなどに気を使っにつながっていると思いますから、教えていただきたいんですが、どうすればなれるんですか。淡野 講師からの推薦も多く、それが徐々に広がっていくんです。重内さんの場合、名古屋からという悪条件にも関わらず、それを苦にせず参加している姿を見てリーダーに抜ばっ擢てきしたというところですね。重内飛鳥さん森本冴子さん川瀬裕吾さん若手が語るメンタイの今、そして未来学生の熱い思いが励みに※3 リーダー講師:班運営の主担当講師、近年は副担当講師やサポーターの教育育成も担う
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