80年代、当時は珍しい女性の為替ディーラーとなり、以降20年あまり世界の銀行を渡り歩いてきた清水順子教授。歴史的なできごとである1985年のプラザ合意も、1992年のポンド危機も、市場の真っ只中で体験した。そんな清水教授が40歳で大学院に入学したとき、彼女の胸に「研究者になろう」という思いはまだ芽生えていなかった。
「それまで昼夜問わず働いていたのですが、2人目の子どもが生まれて日本に戻ってきたら、日本では女性が子どもを預けて夜中まで働くというシステムがほとんど整っていなかった。そこで仕事を辞めたのですが、せっかくだからこの子育て期間に自分がこれまで経験した市場の動きを研究してみよう、という軽い気持ちで大学院に進んだんです」
大学院で改めて読み直したアダム・スミスの『諸国民の富』。経済学の代名詞といえるこの本が、清水教授の人生を動かした一冊となった。彼女の心を揺らしたのは市場における需要と供給の調整機能を表したかの有名な「神の見えざる手」というフレーズではない。「『諸国民の富』はイギリスでベストセラーとなり、まもなくアダム・スミスは議会に招聘され、出版の数年後には彼の説いた政策のいくつかが実行された」という内容の注記。この一文に、経済学は決して理論を追うだけの学問ではなく、実社会に直接的に役立たせることができるのだと改めて認識した。それは彼女を経済学者の道へと進ませることとなる。
清水教授が現在進めている研究に、アジア共通通貨単位(AMU)に関するものがある。東南アジア諸国連合(ASEAN)に日本、中国、韓国を加えたASEAN+3で最適な為替制度を探るなかで、共通の通貨単位を設定し域内金融協力を進めようとする取り組みだ。
「アジアでは現在、ドル基軸で経済が動いています。ということは、アメリカ経済の影響をアジアが大きく受け、その影響に差があれば、アジアの国同士の関係も変わってしまうということ。これだけアジア経済が統合し、成長している今ならば、自分たちの基軸を作るべきだという試みです。でも、円や元といった一国の通貨を基軸とするにはそれぞれ一長一短があるので、新たにアジアの共通通貨を造り、新たなアジアの経済体制を築いていこうというのが基本の考え方です」
その考え方のもと、実際に円がアジア各国の通貨に対してどう動いているのかを表すAMUのデータベースを構築。2005年から独立行政法人経済産業研究所(RIETI)のHP上でAMU為替レートの日次グラフ、およびAMU乖離指標を公開している。
「アジアでの共通通貨導入は絶対に無理だ、という人もいます。確かに現時点ではかなり難しい。でも、将来的にそれが実現する可能性はゼロではない」
そう言えるのも、彼女自身がユーロ導入の是非が問われる条約否決によって招かれたポンド危機の場にいたから。
「当時、私たちロンドン市場にいた人間は欧州通貨が統一されるなんて想像もしていなかったし、できるわけないと思っていた。でもその10年後にユーロは実現したんです。だから、まさかないだろうと思っていることも、十分に起こりうるんです」
それはAMUに関することだけではない。
「経済は目まぐるしく動くもの。昔の常識なんてすぐ通用しなくなります。つねに柔軟な考え方で経済に対応していくことが重要です」
現在、清水教授は横浜国大佐藤教授らと共に産業別実質実効為替レートの研究に取り組んでいる。円の実効為替レートについては、日本銀行や国際決済銀行(BIS)によってすでに公開されている。しかし、それらは月次のもの。数日間の変動はすぐに把握できない。また、国全体の計算のため、産業別の状況はわからないのだ。
「たとえば自動車産業、電機産業というように細かく見ていくと、同じ円高でも産業ごとの差がかなりある。ということは、産業全体に画一的に政策を講じるよりも、各産業の状況に対応して政策を行うほうが効率的ですよね。さらに日次でデータを出すことによって、急激な相場変動がどう各産業に影響を与えるかを直ぐに見ることができるんです」
このデータも経済産業研究所に公表しており、毎日相当数のアクセスがあるのだという。
「私たちがこのデータを公表している目的は、より効率的な政策対応に使ってもらうこと。もうひとつは、世界中の研究者にこれらのデータを用いて日本やアジアを分析してほしいということ」
また、日本企業の貿易建値通貨に関する大規模なアンケート調査も行っている。いずれの研究も、ASEAN+3のリサーチグループなどアジア域内での金融協力を目指す研究や報告書に引用されている。かつて清水教授がこの道に進むことを決意した、「経済学が直接社会の役に立つ」という状況。まさに彼女自身がその経済学者となっているのだ。
「日本経済の厳しい状況が続く中、私たちの研究も政策に直結することが非常に重要だと思っているんです。理論はもちろんだけれど、やはり市場や企業そのものを研究することが必要。私たちの研究成果が、よりよい政策につながればと思います」