広開土王碑拓本

資料情報

廣開土王碑拓本(甲本) / 請求番号221/91/1~4 / 4枚 / (甲一)縦529cm×横127cm / 拓本
廣開土王碑拓本(乙本) / 請求番号221/91a/1~4 / 4枚 / (乙一)縦542cm×横143cm / 拓本

解説

学習院大学東洋文化研究所は甲・乙2本の広開土王碑拓本を所蔵している。両本とも石灰拓本であることは一目瞭然であるが、収蔵の経緯は不明である。武田幸男氏が拓本のなかに着墨しない部分のパターンに着目して、拓本を型式分類した石灰拓本の変遷によれば、乙本は「1895年(明治28)前後~」、甲本は「1903年(明治36)ごろ~」1912年頃の間の拓出に相当する。

この甲・乙本は明治23年(1890)から大正10年(1921)まで、学習院教授であった東洋史学者の白鳥庫吉にかかわる収集かと推測される。また、旧制学習院の歴史地理標本室には「太王陵」の塼が収蔵されており、拓本との関係も注目される。

甲・乙本の特徴

甲本では第1面の中部に左端から右に上がる空白部が5行に及ぶが、乙本ではこれは4行である。乙本の拓出が甲本より数年早く、碑面の石灰がよく固着していたと見えて、墨付きが甲本より濃い。乙本の同類は京都大学人文科学研究所所蔵の内藤湖南旧蔵拓本のほかには国内では知られていない。甲本は国内には8本ほど蔵される。両本とも鼻を近づけると今も墨の臭いが漂う。裏面からは黒く墨を付けた石灰片の付着を見ることができる。

広開土王碑碑文の概要

碑文は3段構成である。第1段では、王家の始祖が天に由来して卵より誕生し、苦難を克服して即位したこと、代を継いで広開土王に至る王統を第1面の半分に銘記する。第2段は3面の半ばまでを占め、広開土王の在位中の対外戦争を8か年条に編年して銘記する。そこでは太王の親征と派兵による戦争とその後に構築された高句麗中心の国際関係を太王の徳化が伸張したとする史観で銘記しているが、そのなかでも百済の背後にあって新羅を襲い、百済とともに高句麗に敵対する倭との戦いを多くの字数で銘記している。第3段は、王が獲得した主に百済地域と旧来の支配地の城村から王陵を守墓する烟戸を徴発せよとの王の遺令とその330戸のリストと、この烟戸に対する不売買の制令を刻記する。

王都を望む地に立って南方に向けた高句麗の国家目標をも表象する巨碑のこの3段構成(聖なる王系の誕生と太王の戦果による恩徳の伸張とその上に構築された王墓の永遠の保護策)は相互に密接している。

(濱田)

甲一

(甲一)