イスラムとの戦争か?

パルヴェーズ・フッドボーイ

パキスタンでの、そしておそらくほとんどのムスリム諸国での街角の見解によれば、イスラムこそがアメリカの新たな戦争の唯一のターゲットだという。 穏健なムスリムたちさえもが恐れている。 INS(米国移民帰化局)によるムスリムの扱い[訳注1]、アメリカ版ならずもの国家リストに挙げられたムスリム諸国、パレスチナ近郊を地ならししていくイスラエルのブルドーザーへの全面的な容認 --- これらは確かに宗教戦争の危険な兆候のようにみえる。 しかし、ムスリムたちは、不相応にも自らに特別な位置づけを与えているのであり、真実ではないことを空想しているのだ。 アメリカの目標は、ちっぽけなムスリム国家をいくつか征服することなどより遙かに大きい。 アメリカは、そんなことではなく、自国の要求、好み、便宜に適したように世界を再編成することをねらっているのだ。 対イラクの戦争は第一歩に過ぎない。

アメリカにおける企業と政府の権力者たちは、攻撃的な軍国主義を公然と支持してきた。 今、合衆国の新聞の主流の解説者たちは、その畏るべき軍事力を考えたとき、アメリカの野心は不十分であったと論じている。 ウォールストリートジャーナルの編集長マックス・ブートは、「今や、アフガニスタンなど問題を抱えた国々は、かつて乗馬用半長靴と日よけ帽を身につけ自信に満ちた英国人がもたらしたような、文明の進んだ外国による統治を声を限りに求めている」と書く。 ワシントンポストは、「帝国主義の再生」を求め、アメリカが「混乱した国家に自らの制度を押しつける」必要を論じる。 アトランティック・マンスリーは、アメリカの政策決定者は外交政策を如何に進めるかの秘訣をギリシャ帝国、ローマ帝国、大英帝国から学ぶべきだと述べている。

未だに多くのアメリカ人が、彼らの国家の新たな単独主義が「傷つけられた無垢の者」の対応に過ぎず、テロの被害者が誰しも示す自然な反応だという信念にしがみついている。 しかし、体制はそのような素朴さとは無縁だ。 長きにわたって、帝国主義はアメリカ流のやり方の一部分だったのである。 911 以降に生じた違い --- これは重要な違いだが --- は、アメリカはもはや支配しようとする相手の心や気持ちを勝ち取る必要を認めないことだ。 弱者が助けを求めることのできる他の超大国は存在しないのである。 合衆国在勤のある外交官が最近わたしにうち明けてくれたのだが、今日のワシントンでは国連という言葉は禁句になったという。 国際法は、合衆国の目標を助けるのでないかぎりは、無用のものとなりつつある。

それでも、このどこをとっても、イスラムへの戦争というべきものではない。 これに反論する人もいるだろう。 パキスタンのムスリム神学校からあふれでた狂信者の大群は、獅子心王リチャードが自分たちの上に襲いかかってくるのを見ていると空想している。 剣を手に、彼らはアラーに祈る。 戦争を許可してくれと、そして、現代のサラディン --- 巡航ミサイルを奇跡的にかわし発射してきた方に投げ返すことのできる者 --- を送ってくれと。 一方で、ジェリー・ファルウェルやパット・ロバートソンの同類からイスラエルのリクード(右翼連合政党)の指導者に至るユダヤ系キリスト教過激派は、さらなる十字軍を切望している。 彼らも、また、文明間の宗教戦争は不可避であるばかりか望ましいものだと確信している。 信仰にあつい者たちは、むろん、最終的な勝利を疑うことはないのだ。

しかし、これは文明間戦争ではないという証拠の方がはるかに強力である。 1945 年から 2000 年の間、合衆国は二十八の大規模な、そして、数え切れぬ小規模の戦争を闘った。 朝鮮半島、グアテマラ、コンゴ、ラオス、ペルー、ベトナム、カンボジア、エルサルバドル、ニカラグア、ユーゴスラビア、そして、イラク。 これらは、合衆国が爆撃あるいは占領した国々のごく一部である。 ベトナム戦争ひとつだけでも百万の命が奪われた。 これに対し、ムスリム諸国家に対するアメリカの戦争で流された血ははるかに少ない。 湾岸戦争におけるイラクでの死者、およびアフガニスタン空爆での最近の犠牲者は、七万人を越えるものではない。 1967 年と 1971 年のイスラエル・アラブ戦争の死者をも合衆国によるものとして数えることにしても、ムスリムの死亡者はベトナム戦争全体のそれの数パーセントに過ぎないのである。

合衆国の外交政策の背後で駆動力となってきたのは、イスラムへの反感ではなく、物質的な自己利益だ。 アメリカにとって敵であるムスリムと友であるムスリムのリストをみれば、このことは明白である。 1950 年代と 1960 年代におけるアメリカの敵は、非宗教的なナショナリストの指導者たちだった。 スタンダードオイルによるイランの石油資源の略奪に反対したイランのモハメッド・モサデクは、CIA による政変によって失脚させられた。 インドネシアのアハメド・スカルノは、共産主義者であるとの非難を受け、合衆国の介入により失脚させられた。 それにつづく血の粛清では、約八十万の命が犠牲になった。 サイイド・クトゥブのようなイスラム原理主義者を公開処刑したエジプトのガマル・アブドゥル・ナセルは、スエズ危機の後、合衆国や英国と衝突した。 他方で、 ごく最近までアメリカの友人だったのは、サウジ・アラビアや湾岸諸国の王族たちである。 彼らは、そろって極めて保守的なイスラム教を実践したものの、西側の石油会社のお気に入りだったのだ。

にもかかわらず、ワシントンは時おり何がアメリカの自己利益かを --- 場合によっては致命的に --- 取り違えてきた。 今や CIA も弱々しく認めるように、「近視眼的な計画」が 1980 年代初頭に地球規模のジハードのネットワークを作り出してしまった。 「国家安全保障決定指示 166」にレーガンが署名したことを受け、 CIA 長官ウィリアム・ケイシーのもと史上最大の秘密工作が開始され、アメリカは「可能なあらゆる手段を用いて」ソヴィエトの兵力をアフガニスタンから駆逐すべく努力するよう求められた。 合衆国の対ゲリラ作戦専門家はパキスタンの統合情報局 (ISI)と密接に協力し、アラブ世界とさらに遠方から人と物資を集めるために働いたのである。 これらすべては、よく知られたことだ。 あまり知られていないのは、大学を含めた合衆国の諸機関が提供したイデオロギー的な支援のことである。

ラワルピンジやペシャワルの書籍バザールを歩き回れば、今日でも、1980 年代にネブラスカ大学に与えられた米国国際開発庁(USAID)からの五千万ドルの助成金によって書かれたシリーズの教科書をみつけることができる。 これらの教科書は、イスラムの闘争性への情熱を創り出すことでマルクス主義と拮抗させることをねらっていた。 そこには、アフガンの子供たちが「敵のソヴィエト人の目玉をえぐりだし、足を切り落とす」よう説かれていたのだ。 これらの本は、最初に印刷されてから何年もたった後、タリバンによって神学校での使用のために認可された --- 彼らのイデオロギーの正しさの証明として。

アメリカによる近視眼的な計画の代償は恐るべきものとなってしまった。 主としてアフガニスタンにおいてソヴィエト兵と闘う必要から創られたイスラム戦闘組織のネットワークは、直接の目標が達成されたあとも消滅せず、すべての優れた軍事・産業複合体がそうなるように、ますます強力に成長していった。 それにもかかわらず、9 月 11 日までは、合衆国の政策決定者たちは、彼らの勝利至上の戦略について反省することなく、むしろ誇りさえもっていたのだ。 彼らを現実に引き戻すためには大激変が必要だったのである。

しかし、イスラム戦闘組織は、それが闘う相手よりも、むしろ、それを創り出したと称しているムスリムに対してはるかに大きな害を及ぼした。 旅行者たちを殺し教会を爆破することは、道徳的疾患に蝕まれた者たちの行為であり、 単に卑劣で非人道的であるばかりか、戦略的にも完全な失敗である。 実際、狂信的な諸行為によって、巨人アメリカを針でつついて苦しめることはできるが、真に痛めつけることは決してできない。 911 の作戦は、完璧に計画された上で実行されたものだったが、戦略的にはとてつもない大失策であった。 それによって、アメリカの軍国主義は圧倒的に強められ、アリエル・シャロンはパレスチナでの民族浄化を行なう許可証を授けられ、州政府に支援されたグジャラート州でのムスリムの大虐殺もかすかな国際的な非難を受けただけでやり過ごされてしまったのである。

近代的な政治文化が欠如しており、ムスリムの市民社会が弱体であるため、ムスリム諸国家は長年にわたって世界という舞台で取るに足らない役回りを演じ続けてきた。 取り巻きに囲まれ弱体化した独裁者が保身のために奮闘しても、ほとんど周辺国家への脅威にはならない。 悲しいかな、 恐れと欲にかられたムスリムの指導者たちは、公には苦悩するものの、合衆国と共謀し、合衆国がイラクを制圧しようとする今、彼らの領土を基地として提供している。 さらに重要なことに、原油の輸出停止やアメリカの企業の真剣なボイコットを提唱したムスリム国家は一つもないのである。

それでは、公正な世界を信じ、弱者に対するアメリカの戦争に怖気を覚える者たちは、いかなる戦略を採ればよいのか?  私の考えでは、ベトナムが唯一の現実的なレジスタンスのモデルになってくれる。 道徳を厳格に尊重することこそが弱者にとって最良の防御であるとベトナムの戦略家たちは説いた。 B-52 が彼の国を絨毯爆撃していても、ホーチミンは航空機の乗っ取りやバスの爆破を呼びかけはしなかった。 それとは正反対に、ベトナム人たちは、アメリカ国民とアメリカ政府をはっきりと区別しつつ、アメリカの人々へと手をのばした。 ジェーン・フォンダやジョーン・バエズといったメディアの名士を招待したことで、ベトナムは多大な好感を呼び集めたのである。 これに対して、ベトナムの指導者がホーチミンではなくオサマ・ビン・ラディンだったらどうなっていたか想像できるだろうか?  かの国は、帝国主義に対する唯一無比の勝者ではなく、放射能を帯びた荒れ野となっていたことは確実だ。

非戦闘員に対するテロを明確に糾弾する世界規模の平和運動だけが、ジョージ・ブッシュが狂ったように戦いの車を加速していくのを抑え、うまくすれば、押しとどめることができる。 ワシントン、ニューヨーク、ロンドン、フローレンスや他の西洋の都市での大規模な反戦デモには一度に何十万もの人々が集結した。 恐怖や狂信でなく人としての原理と平和にこそ依るべきだという見識が、これら参加者を動かしているのである。 それにしても、イスラマバード、カイロ、リヤード、ダマスカス、ジャカルタの通りが空っぽなのは何故なのだろう?  われわれの都市では、狂信者たちだけがデモをするのは何故なのだろう?  われわれは恥じて頭をたれようではないか。


著者は、パキスタン、イスラマバードのカイデ・アザム大学の教員である。

訳注 1: 新たに設けられた特別規則により、四つのグループ(計二十五カ国、北朝鮮を除けばすべてムスリム国家)の国民(男性のみ)は、合衆国に入国後、指紋をとられ徹底的な面接を受けることになった。 第一、第二グループ(計十八カ国)の登録期間は 2003 年 1 月 27 日から 2 月 7 日までとされ、この期間に登録しなかった者は国外退去処分とされた。 (本文へ
これは、IS IT A WAR ON ISLAM? (by Pervez Hoodbhoy) の全訳である。 翻訳は田崎晴明による。 (英語版 1/16/2003、邦訳暫定版 1/18/2003、最終更新日 2/13/2003) 翻訳について有益なコメントをくださった首藤もと子、佐藤大、akubi の各氏に感謝する。

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