パキスタン:核のクローゼットのなかで

パルヴェーズ・フッドボーイ

パキスタン大統領パルヴェーズ・ムシャラフ大将は、このところ、自己満悦の気分に浸りつつ、ジョージ・ブッシュ、コリン・パウエル、ジョン・ボルトン米国国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)からこぞって寄せられた賞賛の言葉を味わっている。 最近の二件の暗殺未遂事件を免れ、高次元の議題を扱った印パ首脳会議[訳注1]を主宰し終えて、このパキスタン政治の偉大なる生き残りは、すでに最悪の事態は去ったかのように行動している。 これを祝すべく、彼は 2004 年 3 月に新しい長距離ミサイルの実験を行なうと発表した。

ムシャラフの目下のご満悦の主たる理由は、パキスタンの猛烈に有名な核の英雄、アブドゥル・カディール・カーン[訳注2]をめぐる彼の処置 --- 彼は、カディールに禁制の核取引をしていたことに関して、国営テレビでの謝罪を強制する一方で、その逸脱行為を赦免したのだった --- が、大きな騒乱を引き起こすことなく、ワシントンを喜ばせたことにある。

二十年近くにわたり、パキスタンおよびイスラム世界の原爆の製作者として宣伝されてきたカディールを、少しでも罰しようとすれば、ムシャラフの親米的支配の終焉を要求するすさまじい暴動が起きるだろうと、多くのパキスタンの新聞が警告していた。 ワシントンは(ムシャラフ)大将によるその譴責をはらはらしながら見守っていたが、結局、幻滅して無力化されたパキスタンの大衆は不平をもらしたものの、暴動はおこさなかったのだった。

しかし、ムシャラフの満悦も、アメリカの賞賛も、長続きしそうにはない。 というのも、カディールはテレビでの告白で核売買についての責任を一人でとったのではあるが、パキスタンからの機密の流出規模そのものから、彼個人や彼の幾人かの同僚をはるかにこえる、少なくとも二つの難問が浮かんでくるのだ。

第一に、十二月以来のイランとリビアからの暴露によって、これが、歴史上もっとも広域に行なわれた核の密輸であったことが判明した。 遠心分離器の設計図と部品が非合法に輸出されたのだ(パキスタン政府自ら、輸出の事実を不本意ながら認めている)。 これらは、ウランを濃縮し、原子炉の燃料にするため、あるいは、兵器のための核分裂性の物質にするために、用いられる。 しかし、これに加えて、完全な遠心分離器が輸出され、リビアには 1.5 トンの六フッ化ウランガスが送られているのである。 果たして、カディールと仲間たちは、軍に知られることなく、このような大きな装置を輸送し、またパキスタン国外を広域に旅行することができたのだろうか?  パキスタンの核施設の超厳重な機密体制を考えると、これは信じられないことであり、より深いレベルで共謀があったことを示唆している。

第二に、リビアが国際原子力機関(IAEA)に提出した文書 --- 現在、米国の専門家の手で検証されているのだが --- では、リビアは実働する核爆弾の旧式の中国製の設計図を入手していたことが明かされている。 この設計図は 1970 年代後半にパキスタンにわたったものである。 ここに謎があり、それはパキスタンの既成の権力組織を限りなく困惑させる可能性がある。 というのも、カディールは「パキスタンの原爆の父」として広く宣伝されているものの、事情に精通した人たちは、彼が原爆の設計や製造に何ら関与していないことを知っているからだ。

アブドゥル・カディール・カーンは冶金学者であり、その専門技能は兵器に使いうる六フッ化ウランガスを遠心分離によって精製することに限定されていた。 核兵器製造の残りの作業 --- ウランの金属化、原爆の設計、製造、テストなど --- はすべて仲の悪い競争相手の機関であるパキスタン原子力委員会の責任で行なわれたのだ。

原爆の設計という現場の仕事が実際は別のところで行なわれていたのに、カディールは、いったいどうやって原爆設計についての情報を所有していたのであろう?

機密を堂々と売る

ムシャラフ大将は、カディールが遠心分離技術を輸出していたことは、歴代の政権の知るところではなかったと主張している。 だが、十年以上にわたって、カディールは彼の核の商品を堂々と宣伝してきたのだ。 核拡散をめぐる論争がすでに熱くなっていた2003年も含めて、毎年、「高速回転する装置における振動」や「先端物質」に関する国際ワークショップを宣伝する色とりどりの垂れ幕がイスラマバードを飾ってきた。 A. Q. カーン研究所(カフタ研究所としても知られる)が主催したこれらの会議は、原爆に使いうるウランを製造するために必須の遠心分離技術に、あからさまに、そして即座に、役立つものだった。

初期の何年かの間、カディールと彼の共同研究者たちは、遠心分離器のバランスと磁気ベアリングに関する、いくつかの重要な問題点を詳しく調べた論文を、数多く出版している。 これらの論文は、遠心分離器を分解しないように音速に近い速さで回転させるための技術的な方法を扱っていた。 こういった仕事が兵器に使いうるウランの製造に関連していることは、専門家でない者の目にもすでに明らかだったのだ。

しかし、その大っぴらなやり方を将来の得意先にも絶対確実に伝えるべく、カフタでは「機密に関わる組織」向けの立派な宣伝パンフレットを発行していた。 これらのパンフレットでは、完成品の超遠心分離器、高周波インバーター、腐食性の六フッ化ウランガスを扱うための装置、さらには、手持ち式の地対空ミサイルなどの核関連製品を宣伝していた[訳注3]。

禁じられた核の商品の宣伝が、これほどにしつこく悪辣に行なわれていたことを思うと、一主権国家の歴代の政権が --- ムシャラフ大統領が述べるごとく --- それを本当にずっと知らなかったということがあり得るだろうか?

愛顧の帝国

アブドゥル・カディールが賄賂を受け取っていたことは、その気になって見た者にはわかっていたし、彼の崇拝者もが認めるところだ。 一ヶ月三千ドルに満たない給料しかとっていなかったにもかかわらず、カディールは膨大な最上級の不動産を購入し、レストランや大学を所有し、ティンブクトゥのホテルを買い取って彼の妻の名をつけ、精神病院の所有者でもあった。 彼は、自国の法律や環境規制を超越するほどの歴史的貢献をしたという信念から、ラワルピンディの飲料水の源である澄んだラワル湖の湖畔に、壮麗な大邸宅を違法に建てることさえしたのだった。

しかし、パキスタンにとっての至高のステータスシンボル[=原爆]の生みの父であろうとするカディールの執着は、高くつくものだった。 彼は、ジャーナーリストや、軍人や、科学者たちの忠誠を金で買わなくてはならなかった。 彼の伝記作家や追従者たちは、ふんだんな報酬を受け取った。 もはや彼の親戚に貧しい者は一人もいない。 イスラマバードのカイデアザム大学物理学科の私の同僚の多くも、彼にこびる手紙を書き送り、金を無心するだけで、相当額の小切手を受け取っていたようである。

彼は、私に対しては、それほど気前よくはなかった。 物理学科の同僚アブドゥル・ナイヤーとともに、私は、われわれの大学の土地を盗み取ろうというカディールの 1996 年の企てについて、法廷で異議申し立てを行なった。 最終的にはわれわれが勝ったが、彼は私を出国管理リストに載せさせたのだ。 「反国家的」であるという様々な嫌疑を、ようやく何とか自ら晴らしおおせるまで、私は、パキスタンを出ることを禁じられた。 私への告訴の罪状のひとつは、カナップ発電所の反応炉の機密を合衆国とインドに売り渡したというものだった。 カナップが IAEA の全面的な保障措置下にあることを見れば、これはすさまじく馬鹿げた話である。

危険な風が吹く

ムシャラフ大将は個人的にカディールを嫌悪していると言われており、彼がカディールの闇取引を許可していたとは考えにくい。 それでも、彼が 2000 年の終わりに --- 合衆国の圧力のためと言われているが ---- カディールを濃縮施設の長から解任したとき、ムシャラフは徹底的な調査を命じはしなかったし、また、 より最近には、国際的な犯罪の輪を暴露した二つの国に対して、彼はさしたる感謝の意を示しはしなかった。

実際のところ、カディールの赦免の請願を受け入れると彼が発表した長時間におよぶ記者会見において、ムシャラフは、イランとリビアが IAEA に屈服し、彼らの核計画についての文書を従順に提出した結果、パキスタンを巻き込むことになった(「われらのムスリムの兄弟たちは、断りもなく、われわれの名前を挙げてしまった」)として、これら二つの国を激しく非難したのである。 同国はカディールが不正に獲得した財産を没収するのかと問われたときも、ムシャラフは、その必要はないと答えた --- 長年にわたり、真実かもしれないが裁判では立証されていない汚職の嫌疑で、政敵たちを投獄しつづけてきたにもかかわらず。

しかし、この恥ずべき事件に関して、何らかの説明をしなくてはならないのは、パルヴェーズ・ムシャラフ一人ではない。 合衆国政府にも、説明する責任がある。 過去と現在のパキスタンに対する政策について、そして、核拡散一般に関して同国が果たした役割について。

パキスタンとイスラエルの両国に対する、アメリカの核拡散に関する方針は、歴史的にみても、ご都合主義に振り回されてきた。 これら二つの国が、異なった理由から、何十年か前に核兵器を開発し始めたとき、合衆国は見ないふりをすることを選んだ。 1980 年代にパキスタンがアフガニスタンでのソ連に対するアメリカの代理戦争を闘っているあいだ、合衆国大統領は毎年のようにパキスタンは核兵器をつくろうとはしていないと保証し、その結果、パキスタンに原爆を開発しつづけることを許したのだった。 しかし、1989 年にソ連がアフガニスタンから撤退した後、合衆国はパキスタンに制裁を加え、原爆を作ったことを非難したのである。

こうしたご都合主義--- もっとも穏健な言い方だが --- が、今日も、合衆国の行動を導いている。 CIA 長官のジョージ・J・テネットは、彼の機関は、近年、核技術の密輸の輪の奥深くまで潜入していたと述べている。 カディールが自分の商品を恥知らずに宣伝していたことを思えば、これは困難なことではなかったろう。 しかし、それなら、何故アメリカ人たちは彼を止めなかったのか?

もしテネットの言っていることが本当なら、遠心分離器や原爆の設計図が次々に複写され、さらに、遠心分離器の部品が製造され、求める者たちにばらまかれていたことを、合衆国は知っていた --- しかし、それを止めようとしなかった --- ことになる。 結果として、これは、核兵器の拡散を抑えるという困難な仕事を、より難しくしてしまった。 こういった役割自身も、核拡散における共犯の一つの形なのである。 なぜ CIA が、これほどゆっくりと、あからさまに優柔不断に動くことを選んだのかは、明らかではない。

より最近、合衆国がムシャラフ大将に寛大なことは、明快に説明できる。 アメリカ人たちは、アル・カイダとタリバンの脅威を一掃するのを、パキスタンに手助けしてほしいのだ。 パキスタンは「(核の密輸)ネットワークを追いつめるため、かなりよくやってくれた」というコリン・パウエルの声明は、このような緊急の最優先事項のことを踏まえて読まねばならない。 しかし、パキスタンは、いずれかの期待にでもそうことができるのか?

他の国と同様に、パキスタンでは、核関連組織は必然的に何重もの秘密のベールに覆われている。 これは、パウエルの楽観主義に、疑問を投げかける。 さらに、パキスタン政府の保証によって、たとえ彼らが誠実だとしても、この国の核施設のすべての人々がカディールと同じ道を歩むことを防ぎうるのかは未解決の問いである。 わずか二年前、よく知られているように、パキスタン原子力委員会の上級委員たちは、アメリカに対する聖戦にまさに参戦しようとしていたのだ。 イスラムの連帯感に奮い立ち、彼らはアフガニスタンを訪れオサマ・ビン・ラディンやタリバン指導者と会見したのである。 そういう気持ちに駆られていたのが、彼らだけだったとは信じがたい。

3/3/2004 (www.opendemocracy.net で発表)


訳注 1: 2004 年 1 月にイスラマバードで開かれた南アジア地域協力連合首脳会議(SAARC Summit)を指す。 (本文へ

訳注 2: カーン氏の略歴等を解説したページが原水禁のサイトにある。 (本文へ

訳注 3: これが宣伝パンフレットの現物。 (本文へ


これは、PAKISTAN: INSIDE THE NUCLEAR CLOSET (by Pervez Hoodbhoy) の全訳である。 翻訳は、田崎晴明による。 (英語版 3/3/2004、邦訳暫定版 3/20/2004、最終更新日 3/24/2004) 翻訳について様々なご教示をいただいた首藤もと子、コメントをくださった舘博之、drake、田崎眞理子の各氏に感謝する。

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